2008年 中国友好親善の旅  

私は今年、狭山市杭州西湖ウオーキング親善訪問団に加わり、夫とともに中国に行ってきた。
2006年には杭州国際マラソン大会があり、私は応援に参加した事がある。
その時は北京オリンピック前の活気ある中国に目を見張ったものである。
さて、今回は?日記風にまとめてみよう。

10月29日
(水)
この日、市役所に4時に集合し、成田空港に出かけた。何しろ、前日まで夫も私も忙しすぎる日々を過ごしていて、徹夜で持っていく荷物を作った。5泊6日とかなり長い旅行なので、下着も含めて荷物が多くなった。其の上、一応は公式行事もあることで、夫はスーツ、私はドレスを何着かもって行かなければならなかった。だから、大きなスーツケースをそれぞれが持っていくことにした。どうせ、お土産を買えば、一杯になるのだから、出発時に少しゆとりがあったほうがよいのだ。それにしても、二人で6リットルの水をスーツケースに入れたが、外国に行く時は水が一番の心配事なのである。

この旅は公式訪問であるので、狭山市の職員が付き添った。男性7人女性3人の10人の旅である。

9時40分発の全日空で上海浦東空港へ。珍しく飛行機内で食事をいただいた。最近の国内線ではお茶しか出ない。男は朝からもうお酒だ。全日空は珍しくお酒が飲み放題なのである。高度で飲むと回りが速いのか、上海に12時過ぎに着いた時にはもうかなり出来上がった人もいて、大きな声で絡むので恥ずかしい。

上海から中国人のリーさんが通訳兼添乗員としてバスをチャーターして待っていてくれた。上海は雨だった。まず、豫園、新天地などを見て回った。お買い物どころなのに、買うチャンスもない。新天地でコーヒーを飲んだが中国で乳製品が怖くて、コーヒーにミルクも入れたくなかった。その後、夕食、黄裏江遊覧し上海夜景を鑑賞した。上海は大きな町だった。北京と違いやはり商業都市の柔らかさを感じた。私は中国は2度目なので驚かなかったが、夫は街の真ん中で物乞いをしたり、まがい物を売ろうとしている人たちにショックを受けていたようだった。この前の時は物売りの人を商魂たくましい人たちだとかなりポジティブに見たのだが、今回は中国での貧富の拡大が大きくなったせいで物乞いのような人が目についた。

なんとホテル着は10時半だった。疲れきった一日であった。
10月30日
(木)
2日目は、ホテルを9時に出て元ロシア領事館に入った。ただ買い物のために行ったような感じ。結局買い物をした。その後、私達日本人の強いリクエストで上海の森ビルに上った。世界一高いビルで地上500メーター。周囲のビルがすべて目の下に見えるのは壮観である。ただ、高所恐怖症の私達としては、床がガラス張りで下が見えるのが怖かった。雨で曇っていて何も見えないとリーさんは上るのを嫌がっていたのだが、250元という高いお金を出しても上る価値があったと私達は言い合った。上った時には、日ごろの行いがよい成果、雲がはれて眼下のものがすべて見えたのだ。

午後は昼食は製糸工場の上にあるレストランでだった。生まれて初めて製糸工場を見た。蚕の繭からどうやって糸を作り出すかを始めてみた。ここは、展示場で結局ここでは真綿の布団を買わされた。もう何べんも来ている人がいるようで買ったのは私達数人だった。だって、高いのだから。初めて、何万円もする布団を来て寝る事になる。初めは父母に上げようかと思ったが、彼らたちは自分で好きなものを選んできているので、これは私達の結婚25周年を記念して自分達用に使うことにした。実際は、一日1回は旅行会社の利潤になるようなところに連れて行かれるという事である。でも、私は初めて養蚕工場なんかを見たのだから、よいとしよう。石川製糸工場も狭山市にあった事だし、石川さんとは仲良しなのだから良い意味で見聞を広めたと思おう。

午後は西塘に行った。水郷地帯にある昔の宿場町。揚子江の支流の運河に作られた宿場町。古い汚い家並みが続いていた。7,800年ほど前の町。まだ整備されていなかったから、人も素朴でよかった。

その後、烏鎮へ行った。烏鎮は西側が国によって観光地用に整備された町で、最高のホテルが作られていたりした。外側は昔ながらだが、内部は綺麗に改装されているという事である。私達は夕食をした後夜遅くに土砂降りの雨の中にホテルに着いた。ホテルは対岸からはしけに乗って入る。烏鎮の西側地区に入るのに入場料が必要で、はしけに乗るにも入場料を払わない事には無理である。ここは私達日本人にとっても国際級に整備されていて安心した。

食事の時に花火が上がった。「何々私達を歓迎してくれているの」なんて能天気の事を言っていたら、お葬式だそうであの世への旅立ちを祝福するのだそうだ。

この日も遅かったから疲れてしまったから、お風呂に入ってすぐに寝ようとした。ところが夜中になってすぐ隣から怒鳴り声がしてきた。なんだろうとしばらくの間じっとしていた。勿論隣は私達の旅行団の男性の部屋。嫌だなあと思っていたら、次は廊下で大声を出し始めた。職員が注意に行くだろうとここでもしばらく待ったが、大声は止まない。仕方がないので私が廊下の戸を開けて一応注意した。次の日に、彼らたちは「旅の恥は掻き捨て」と言っていたが、その考えこそ恥ずかしいと思った。何しろ、狭山市の公式訪問団なわけで・・・・
10月31日
(金)
3日目は烏鎮をゆっくり見物した。通訳はさっさと見終わって杭州に帰りたかったのだろうが、私達観光客はすべてが博物館のような烏鎮の魅力に取り付かれて、ゆっくり見て回りたかったのだ。初めて豆板醤の作られる様子を見た。醤油になる豆を食べた。私はてんめん醤を買った。鋳物が作られるところも見た。鋳物も買った。絹の刺繍をしているところではスカーフを買った。刺繍入りのをなぜ買わなかったんだろう。藍染め工場では藍染のバックをお母さんのために買った。藍染めも結局中国から来たのだった。は〜〜〜。水牛の櫛も売っていた。日本では買えないのに結局買わなかった。

見るものはほとんど日本にあるものだったが、値段の高低はさておいても、中国は文化の宝庫で、日本の師匠で、日本独自の文化なんて何だろうと、またしても考え込んでしまった。上海で豫園で中国庭園を見たが正に日本庭園とどこが違うのかと思う。あれもこれも実際は中国からの輸入でしかないのだ。

午後は中国人が行くレストランで中華料理を食べた。これで中華料理だけ3日目。朝はどのホテルもバイキングだからよいのだけれど、昼と夜とこうも中華料理が続くと日本の白いご飯が食べたくなる。どうしてだろう。パンも似て非なるもので、夫は朝食のパンに目を白黒させていた。これが文化ショックのよい所なのである。どこに行ってもおいしいクロワッサンが食べられると思うほうが間違いだ。

午後は烏鎮の東側の町を見たが、こっちは整備されていなくてプリミティブ。人も住んでいる。きっとこっちの方が民俗学者には興味深いのだろうけれど、私達観光客にはなんだか人のうちをのぞいているかのような居心地の悪さがあった。人工的だろうけれど、観光客用に整備されたところの方が私には良いなあ。

夕方杭州に着いた。そうしたらあるホテルの支配人が団長さんの知り合いで全員をホテルで夕食にご招待してくれるという事だった。衣服をちょっと改めて伺ったが、素晴らしい食事で感動した。時期だという上海蟹も出てきたし、ロブスターも出てきた。勿論、私はアレルギーで食べられないけれど、隣で私のも食べた夫は満足そうだった。上品な中華料理は脂ぎっていないし、素材が良いせいか食べやすい。この日は、お昼に中国人が行くレストランで食事をしたので、違いが如実に現れた。リーさんに言ったら、「仕方がないですよね」とのことだった。上品な中国料理が好きだなあ。

夜に、ホテルの近くの夜店に行った。2年前も行った。其の時に買ったほしいものがあったから、買いたくて出かけたのだけれど見つからなかった。2年でお店が様変わりしてしまっていた。結局何も買わずに帰ってきた。金曜日の夜だもの人で一杯。それも杭州も何処も繁華街は若者で一杯だ。中国では若くて引退するし、年金も良くないから年よりは若者に経済的に依存しなければならない。お金を持っているのは、働き盛りの若い人だけという事になる。でも、夜店では人はよく働く。働けば働くほど自分の金になるからである。
11月1日
(土)
この日はあさから西渓湿原国家公園に観光に出かけた。10平方キロメーターもある公園。ちなみに狭山市は50平方キロメーターだから、狭山市の5分の1ほどの広さの後援である。ここも、再開発の最中らしく、湿原に住んでいた人たちを立ち退かせながら、昔の湿原生活の公園を作ろうというものだった。まだ其のうちの3分の1ほどしか開園していなかった。遊覧船のようなボートで島に行き、歩いてまた次のボートに乗りつけと3遍ほどボートを乗り換え、カートにものったりして、2時間たっぷり過ごした。中国人も生活に余裕が出来て、観光(特に杭州は昔からの観光地ではある)が盛んになってきたのだろう。

午後は昼食後、有名な9階建ての塔に登り、お茶の博物館に行った。この前、私は行ったところだが、初めての人もいることで出かけた。夫と友達で塔に登ったが、急な階段で息が切れた。其の上、窓には何もないから、高所恐怖症の私には窓に近寄るのが怖くてくらくらした。勿論眺めは最高。雨の西湖はけぶっていて美しい。信じられないが、中国に来て以来一日として青空を見ることがない。

ホテルに戻った後、私達夫婦はホテルの周りに散歩に行き、お土産やさんでお酒を買ったり、デパートに入ったりした。お土産やさんはどうも国営企業らしく、店員はにこりともせず、品物を渡すだけである。これには驚いた。勿論、一切まけもしなかったが、価格も高くなかったからきっと誠実な値段なのだろう。デパートは人が多いのには驚いたが、いつものごとく若い人たちだけだ。なんだか圧倒されて、3階までしか上らなかった。本当はティーポットを買いたかったのだが、良い焼き物を見ることもなく、結局買えなかった。

夜、ホテルで食事はバイキングだった。日本食が少しあって、嬉しくておかわりしながら食べた。もう中国料理に飽きてきた。

その後に、「印象西湖」というパーフォーマンスを見た。もう、素晴らしいとしかいえない。特に雨に打たれながら戸外で見た。西湖の上のパーフォーマンスは、まるで湖の中から人が出てきているかのよう。5百人もの大パーフォーマンスであった。ひかりと音楽も素晴らしかった。北京オリンピックの演出者が演出したのだそうだが、ここにも芸術の素晴らしさを感じた。たとえ言葉はわからなくても人の心を打つ。日本では見ることの出来ないほどのスケール。本当に素晴らしいと思った。
11月2日
(日)
9時ごろから西湖ウオーキング開会式が土砂降りの中あった。中国も日本と同じように挨拶が延々と続いた。どういうわけか、今年は各国別に開会式があったのか、日中西湖ウオーキングという感じだった。とにかく、「不戦日中再戦争」という碑の元で開会式。私も切実に二度と日中が戦争するなどという事のないことを願った。

私達は2グループに別れ、土砂降りのウオーキングをあるく班とそれを避ける班に分かれた。勿論私は夫や団長、職員などと歩いた。この日のためにサピオで訓練をして途中でギブアップなどしないように頑張ってきていた。途中では中国の学生さんで日本語を練習している人たちとおしゃべりをしながらあるいた。とても良い経験をしたと思う。ただ、緊張のためか学生さんの顔が単調に見えたのは残念である。日本人の学生はきっとあんなところではもっと調子に乗るだろうと思った。

この前、中国人のためにホストファミリーをした人たちには其の時の中国人さんが会いに来て、感激の対面をしていた。可愛いよね。

何しろ、土砂降りのなかの行事だから、頭からつま先までびしょびしょだった。着替えてから食事に出かけた。鉄板焼き。私達夫婦はアメリカでいろいろなところで鉄板焼きに挑んだ。そして、あるところでは海老の煙で私は喘息を起して息ができなくなった事があり、少し怖かった。しかし、ここではそんなことも起きず、運動後なのでたくさん食べたくさん飲んだ。おいしかった。

午後は例のごとく旅行会社がショッピングに私達を連れまわした。今度は買うものもなく、早々にホテルに戻った。少し休んだ後に、正装で杭州市主催の歓迎レセプションに出かけた。この前のマラソンの時のような仰々しさは一切なかった。歓迎レセプションの前に、VIPルームでご挨拶があり、現職の議員なので団長とともに御相伴した。考えすぎかもしれないが市議会議員をしていると、どこか市議会を代表している感じがする。例え自分のお金で(政務調査費などは一切使わず、夫からこの費用を出してもらった)出かける旅でも、このように狭山市が杭州市にお招きされているという場合には立場が着いて回る。それは仕方がないと私は思っている。

最後の日なのだが、食事の時に気分が悪くなった人がいた。中国式の料理で胃が疲れきったのだろうと言っていた。本当に残念だったが、酷くならず帰りには回復していて良かったと思う。
11月3日
(月)
午前中、珍しくフリータイムだった。いつもならば、早くに起きてショッピングにつれて行かれるか、自分達でショッピングするのだが、今回は体調不良者がいたり、飲みすぎ者(?!)もいたりで、出発を遅くしたのは良かったようである。私達夫婦は買ったものの荷造りをさっさと終え、町を散策に出かけた。デパートに行ったりしたので、今回は反対側を歩いた。杭州市は再開発の真っ最中で、道路整備をしていた。道路は広く、車片側2車線に加え、自転車バイク道がそれぞれ1車線、それに歩道がついている。歩道に関しては、アスファルトでなく、レンガやインターブロッキングなのだが、施工が下手でがたがたしていてあるづらい。私は建設委員なのでそんなところばかり気になって仕方がなかった。

道路のあちこちで市場風の建物があり、そこは個人商店の寄せ集めという感じ。値段も安いのだろうけれど、私には値引きの駆け引きが出来ないので見るだけで終わった。人が多く、また軍服なのか警察の制服なのかわからないけれど多くの制服の人がいることも事実。でも、中国の共産主義は終わったというかんじで、雰囲気は資本主義の国々と代わりがないような気がする。

お昼に杭州空港から日本へ。13時45分発、成田には17時半に着いた。時差は1時間。3時間ぐらいで日本に帰る。バスを乗り継ぎ、狭山市役所に9時ぐらいに着いた。疲れ果てたが、家に戻ると6日間も親がいなかったので、大歓迎を受けた。たまに親がいないと親のありがたみがわかって良かったかもしれない。子ども一人ひとりには特にお土産を買ってこなかった。森ビルでキーホルダーを買ったのだが、子どもに上げようとしたら「いらない」とひとこと言われておしまい。

この旅は私達の銀婚式(結婚25周年)記念として出かけた。夫にも中国を見てほしかったのだ。あまり話をしない夫であるが、中国の活力には目を覚ましたようだった。ただ、中国料理には参ったようだ。中国料理で最終日から下痢になったのは、日ごろ脂っこい料理を私がしないせいで、彼のおなかが日本人のようになっていたからだろう。私は、おなかの調子は全然悪くならなかった。量をたくさん食べないし、海鮮料理がほとんど手を出せないのが幸いだったのかもしれない。夫は生牡蠣を食べたのもいけなかったのだろう。結局、帰国後1週間おなかの調子が悪かったようである。

これで私の中国旅行記は終わる。書けないことも多かったことを付け加える。たくさん楽しかった事もあったが、腹が立って仕方がなかったこともあった。それは、中国人に対してではなく、訪問団のなかでのこと。夫には嫌な思いをさせて申し訳なかったなあと思ったが、これも市議会議員をしていればそれに付属してくる事なのかもしれないので、夫には我慢してもらうしかなかった。それにしても疲れた旅だった。もう一度行くかと言われると、悩むなあ。