私の読書日記 (1)
人の本棚を覗くって、プライバシーの侵害だと思っても、よその家に行って本棚があるとどうしても目が行ってしまう。うちの本棚を覗いたら、余りにもくだらない本ばかり。(この頃は図書館から借りて来る本が多い。)ベッド周りにはいつも本が積んである。寝酒ではなく寝本です。くだらない本ばかり読んでいますが、ご容赦を。感想は書き次第載せます。

2005年 本の題名 著者 感想
氷川清話 江藤淳、松浦玲 氷川清話にある文を一々原点にまでさかのぼり、勝の真意に沿う文に直している。いかに明治の勝が明治の政治に関わったかが知れて興味深い。勝の頭脳明晰な点が良く分かる。人というのはその人の能力にあって理解されるものだと思う。学者の視点でできる限り勝の本質に迫ろうとする姿勢には敬意を感じる。
氷川清話 勝部真長 同じ氷川清話であるが、勝部さんのも読んでみたくて買った。勝海舟伝もあり、年譜も丁寧である。私は勝部さんの勝への傾倒がすきなのだ。きっと勝の理解の仕方も好きだ。学者と言う事もあり、松浦玲さんと似た様な勝観を持っている。勝部さんの書いた伝記の最後に「日清戦争」以後の日本人の中国認識の誤りについて叙述している。そして、彼は言うのだが「この誤謬を正すには、さし当たって勝海舟に帰るべきでないか」。本当に小泉首相に聞かせてやりたい言葉である。
海舟座談 巌本善治編、勝部真長校注 付録が面白くて読んでしまう。勝海舟のものの見方のすごさは感心するだけである。今まで、教科書で知っていた歴史をあのように読み、自分の手本として歴史に学ぶのは唯脱帽である。とにかく秀吉が戦争ばかりしていたのに国が豊かだった話。そんな風に歴史を見た事がなかった。斜めにしか読んでいないが、きっと一生私の教科書であろう。
海舟語録 江藤淳、松浦玲 海舟座談と海舟余波を編集し、語録としたもの。海舟はすごい人だとまたまた感心してしまう。もしかして、話を聞いた巌本善治さんだったこの方のすごさを本当に分かっていたのだろうかと思う。特に、昭和の時代になって彼は変節してしまい、天皇と軍との悪口を書かなくなったそうである。この語録にか「人民のことを忘れて“尊王”などというのは片腹いたい」という勝の言葉が載っていた。あまり読みすぎていて、この語録か座談か清話か良く分からなくなってしまったが。それでも、これこそ、戦争を終えて60年目。この言葉を聞かせてやりたい人たちが増えてきたように思う。
勝海舟と幕末明治 松浦玲 とにかく、明治における勝海舟の力を正当に評価した本ではないかと思う。やはり勝海舟の路線で行けば、第2次世界大戦には突入しなかったのではないかと思う。人民を忘れ、中国の広大さを忘れ、奥の深さを知らず、戦争に駆り立て、そして天皇を楯に戦う為政者は許しがたき政治家である。そんなことを思った。
私のジョン万次郎 中浜博 万次郎のひ孫が書いた曾おじいさんのこと。勝海舟のことを知りたくて読んだ。
11月19日 勝海舟(上下) 勝部真長 勝部さんは勝海舟に心酔し、尊敬してこの本を書いている。これは伝記というのではなく、勝部さんの勝海舟の研究総記というべきものだと思う。きちんと調べてあり、山本周五郎さんを書いた木村さんの作品と同じようである。

勝海舟に関して言えば、理解を超えた人物で表現のしようが難しいのだろうが、一言で言えば自由な人といえるかもしれない。実際、彼は士族と言う身分も由緒も超え、名誉も金も本質的には関係なく、自分の後の事すら絶えるようにしていたらしい。貧乏御家人の生まれだけれど、父親(勝家の養子に入った人で、能天気で道楽ばかりしていた。)の里は大金持ちで有能な幕臣の伯父や大奥で使えていた伯母がいたりして、海舟自身は16歳まで大奥で殿様のご学友として育ったどこか育ちのよさがあった。どんなに貧乏していても、学ぶことを生涯やめることなく、優雅に生活をし、虚勢を張らなかったのも、結局本当の意味で当代の一流の生活を知っている人の余裕なのかもしれない。

その点、福沢諭吉のような俗人は、海舟の砕けた品のよさが分からないのかもしれない。人品と言うのは、ぼろを着ていても、威張らなくても見える人には見えるのだろうが、俗人には見分けがつかないのだろうね。私は金がなくとも、バザーで買った安物を着ていても、卑しい人間にならないように努めたいと思う。
11月12日 憲法に男女平等起草秘話 土井たか子
シロタ・ゴードン

岩波ブックレット
憲法改正の議論が明確化しつつある。小泉政権で行うのか次の政権で行うのか憲法改正がスケジュールに上がるのを恐れている。護憲というとまるで社民党。また、憲法9条を守ろうというとまるで共産党。こんな風潮があるが、前の帝国憲法を持っていたときと、現在の日本国憲法を持っているときと大方の人が幸せでいられるのは、今の憲法下である。なぜ、これを替えなければならにのだろう。もっと幸せになれる憲法って自民党のいうような憲法かしら。そうとは、思えない。自衛隊は軍隊でないという前提で現憲法下でも存在できるのであれば何も変える必要はない。集団的自衛権なんか持たず、どことも戦争せず、国連の政治に力を尽くしていけばよいのではないか。以前は自衛隊は軍隊なんだから憲法に明示しても良いと思ったこともあったが、最近はそんな風に思うようになっている。平和こそ人類が希求しているものではないか。それを実践していこう。
憲法9条、いまこそ
憲法を変えて戦争へ行こうという世の中にしないための18人の発言
9月24日 性ぬきに老後は語れない 続老年期の性 大工原秀子 「人生50年時代の女性の性行動は、結婚で始まり、月経が終わることで終了していたが、その後を20年も30年も生きているわけで、生殖のための性を閉じた後の、性の係わり合いの見直しをしなければならない。」と著者はいう。それは男性にも同じである。性欲は死ぬまであるらしい。著者は保健婦として多くの老人の性のカウンセリングに関わった。妻が応じてくれないという夫や、冷感症的な女性の老人も多いという。老人に失感情症の人がいるが、性的刺激を、頭で絶つ事によって、次第に感情を失う症状であり、性欲があってはいけない、感じる事はいけないと教えられてきたお年寄りに、多く見られるそうである。

目から鱗。そんな思いがした。70、80歳になっても性行為をすることは大切なのだと知った。老人の性はコミュニケーションの性なのだそうだ。お年寄りが愛し合うのは素晴らしい。当たり前だ。
8月20日 いま動物園がおもしろい 市民zooネットワーク 現在の動物園の流れを開設してある。どうしても、狭山市のこども動物園は流れから遠くにあり、コンセプトもなく古くなっているだけのような気がしてならない。狭山市のリニューアルが必要である。
8月19日 旭山動物園の奇跡 週刊SPA!編集部 旭山動物園が行動展示を行い、新しい動物園を作るきっかけや、その理念をよく知る事ができた。やはり、現場の人の熱意が必要なのだと思った。動物園は人が動物を見て何ぼだと思う。絵本では知ることのない動物の生態を目の前で見られることによって、入場者が喜び、子供を連れてくる。感動のある動物園が必要なのだ。何をどうすればよいのか、考えてみる。
8月9日 深川澪通り、他 北原亞以子 最近時代小説に凝っており、平岩弓枝、池波正太郎ときて、古本屋にある読みたい本のほとんどを読み、北原亞以子さんの時代小説にたどり着いた。まあ、それにしても、作者によって味がぜんぜん違うのにおどろいてしまう。でも、女性作家のものの方がなんとなく後味がよいように思う。この北原ものはどれを読んでも、本質的な解決には程遠く終わるのだが、それでもほのぼのとした気持ちが残る。末広がりで、あとがみえないけれど、きっとよくなっていくのさという思いが残る。救いが残る。だから、安心して読めるというよさがある。肩が凝らない小説で、ただただ娯楽なのかもしれないが、人間って捨てたものではないという暖かい思いがする。これってとても貴重ではないかと思う。

そうそう北原さんも山本周五郎のように本にはよい本と悪い本しかないという信条があるそうで、だから純文学とも大衆文学ともいえないあのような物語になるのだと納得した。
7月24日 バッテリー1.2.3.4.5.6. あさのあつこ バッテリーの文庫本を買った。まさに、はまってしまい、文庫本3巻の上、単行本3巻を求め、一気に読み終わった。何が楽しいのか、何がおもしろいのか、何が知りたいのか。他の野球小説のように、試合の克明な説明があるわけでない。ある、天才投手原田巧とキャッチャー永倉豪を中心としたある面心理小説かもしれない。主人公は中学1年生。だから、これは児童文学なんだろうけど、こどもにこびてもいないし、子供を見下してもいないし、子供の心理が大人のそれとどこも違わず悩み苦しむ。それでいて、子供たちは大人達に翻弄される。

解説を三浦しをんという人が書いている。この解説は素晴らしく本質をついている。ここではそれを述べないが、私はこの解説を小学6年生の読み聞かせの中で読んであげた。「誰でも努力すれば報われる」という努力神話に振り回されず、自分のできることや自分自身の目標に向かっていく姿勢が大切だというのだ。天才はいる。誰も彼も努力したって天才にはなれない。しかし、だからといって馴れ合い、甘えあって生きていってよいというのではない。

最近、私が思うのは、“自分を楽なところに置かないように”ということである。安易に流されてはいけないと思うことである。そこそこの人生、満ち足りた生活なんてクソ食らえだと思っている。勿論、食べ物をこども達に運んでやるのは親の務めだとは思うが、でも、私の人生をとんがって生きていたい。アンテナを高くして、自分を神様に皆様に捧げるように生きていたい。バッテリーを読んでそう思った。

私は自分が巧に近い性格だと思った。どんなグループの中にいても私は一人だし、どんなところにいても私は私でしかない。私はカメレオンのように自分の色を変える事ができない。そんな私が腐り始め、色をなくしたらどうだろう。そうならないように、しっかりしていようと思う。
6月3日 ダビンチコード ダンブラウン 私はクリスチャンなのでこの手の小説にはとても興味を持つ。イエス様が人間であっても私は困らない。キリスト教が権力と手を握ったことによって失われたことも多い。また、権力と結びつき、他を抹殺し続けた事で、ある面、カトリックは生き延ビルことが出来たのであろう。私が教会組織から身を離したのは教会そのものが権威、権力となり、信仰そのものでなく人を支配しているのが嫌になったせいである。組織を持つという事は、組織そのものが一人歩きしていくことを理解しなければならない。

イエス様の子孫がいてもちっとも不思議ではない。でも、それでイエス様の権威が下がると思う人がいることも理解できる。異端というか正統とは違う宗教を権力を使って抹殺しようとする宗教はキリスト教といえども私は嫌いだ。信仰が目的化するのは怖い。信仰を使って権力を振るおうとするのはもっと怖い。キリスト教だって同じ穴に陥る危険が一杯だ。もしかして、ブッシュは危険なキリスト教信者かもしれない。

とにかく、私はすべての信仰に勝るものは愛であるというイエスの教えに私は着いていこうと思っている。
鬼平 岩波正太郎 剣客はとても読む気がしなくなってやめたが、鬼平は古本屋で買い求め、図書館で借りて読んでいる。勧善懲悪である。だから、スカッとする面もあり、嫌な面もある。鬼平が裁判もせず、気って捨てるところが私には嫌なところで、逆に男の読者はスカッとするところなのだろう。嫌なのに、はまったというのはなぜだろうか。知らない世界をのぞける楽しさだろうか。鬼平その他のレギュラーの個性たちの面白さが家族のように感じてしまうせいか。とにかく、山本周五郎の世界との違いを確立させたかった岩波正太郎の意気込みは理解できる。それに、彼の活躍が山周以後なのも納得してしまう。
4月 鬼平、剣客商売 池波正太郎 平岩弓枝さんの「恩宿かわせみ」にはまり込んだついでに時代小説に食指が動いている。実は私は山本周五郎さんのファンで、刀で人をばっさばっさと切る時代小説は下品だと思っている。それでも「恩宿、かわせみ」にはまったのは、一応捕り物らしい設定で恩宿は書かれていてもあまり人を切る場面は少ない。なぜこういう事件がおきたかというところが小説の中心になっている。

けれど、池波正太郎さんの時代小説を読み始めるとやはりばっさばっさと人は切られるのだ。それも事実の羅列が多く、情感を感じない。男は気持ちのつながりが女と違うのだね。いや、池波正太郎さんは山本周五郎的世界を否定し、もっとドライな世界を時代劇の中に入れたかったらしい。でも、これは全く昔の勧善懲悪の時代小説ではなくとも、底に人間についての洞察が非常に希薄で、どうも上っ面しか人生を見ていないような気がしてならない。人生の機微をとらえず、制度や権力争いの視点から事象を見すぎるような気がする。まあ、男は権力争いが好きだからこういう小説も面白いのかも。

読後感が「御宿かわせみの」ほんのりした感じと違い、どこか殺伐としてしまうのは嫌だなあ。
2月 御宿かわせみ 平岩弓枝 あまり沢山の本を一度に読んでしまい、何がなんだか分からなくなった。でも、東吾さんが大好き、るいさんも大好き。甘〜〜い東吾さんが多少女にだらしなくたって、まあ、家の夫でもないので許しま〜〜す。私のイメージはなんたって、真野響子と小野寺昭のるいと東吾。来月からまたNHKで始まるようだけど、楽しみです。
2004年 本の名前 著者 感想
11月28日 不良少年の夢 善家弘介 「夢は逃げていかない。自分が夢から逃げているのだ」という帯の言葉に引かれてこの本を買った。12月議会に不良少年や引きこもりの青年のことを取り上げたいと思っているので、勉強の一環だ。読んで、涙が止まらないところがあった。親に阻害されてぐれてしまった善家さんの寂しい心情を思うとかわいそうだ。そして、彼が交通事故を起こして渋滞の時、北海道から駆けつけてきて、涙で看病してくれる足立先生の素晴らしさはもう感動を通り越して、キリストの姿を見ているように感じた。

心の寂しさをぐれて晴らしていたが、結局居場所がなくなり、北海道の北星学園余市高校に行かざるを得ない男の子。殴られても、いじめられても行き場のないはぐれもの。そんな彼が、本当に必死で教員として自分の母校に帰っていく努力は涙ぐましい。でも、わたしも知っているが、本当の努力とは寝食を忘れ、疲れもいたわず、振り向く余裕もなく進んでいくことなのだ。ためらったり、弱音を吐くなんてとんでもないことだ。

彼のひたむきさ。はぐれものの寂しさ。だからこそ、生徒を思いやる心。尊いと思う。

それと同時に、親の心情を考えた。不良息子を児童相談所に入れてしまう事情は、分かる気がするけれど、また、自立させることでこの息子は立ち直ったわけだけど、ほかにもっと傷つけない方法がなかったのだろうか。親は悩みに悩んだことだと思う。それにしても、きっとこういう親はたくさんいるだろうと想像する。きっと途方にくれているに違いないと思う。さてこれをどうしよう。
11月27日 セックスボランティア         河合香織 色々考えさせられた本だった。「障害者だってやっぱり、恋愛もしたい。性欲もある」「せいの介助」の現実とは。という触れ込みの本である。

まず、性欲を満足させるために介助が必要だという点。初めて、マスターベーションをするのに介助が必要だということがあるという事実を知った。セックスそのものを知らない障害者夫婦もいることも知った。障害を持っていたことゆえに、恋愛に臆病になっている障害者がいることを知ってはいたが、心からかわいそうにと思った。

今、私の中で、気持ちの整理が付かない。介助。売春。どこが違うのか。マスターベーションは良くて、行為そのものは売春か。気持ちの伴わない性行為を介助といいながらもしても良いことなのか。私の心の半分は介助している人を尊敬の思いもあるのだけれど、オランダの事例を呼んでみるととてもドライで介助という名の売春とどこが違うんだろうかと思ってしまった。

オランダの15分5,6千円で売春する売春婦。女性としてどうしてそういう人とセックスできるのかよくわからない。出張売春婦を買う障害者がいるそうだが、性欲を満足できてもやはり愛情がない分味気ないようだ。障害者が性も含めて、恋愛をし、結婚できる社会にすることが大切だと思った。性の介助が夫婦で行われるようになればよいのに。健常者だって、買春なんてきっと味気ない行為なのだろう。心が通い合って初めて素敵な性交ができると思うのだが。
11月10日 よみがえれ、白いライオン マイケル・モーパーゴ とても切ない本です。実はこれは何年か前の推薦図書で、息子に買ってやった本です。薄い本だから、30分で読み返したのですが、切なくて胸が一杯になってしまいました。

男の子、女の子、白いライオンの物語なのだけれど、2人の子供達が二人とも非常に孤独な子供でまず切なくなります。お母さんが病気がちの一人っ子の男の子、アフリカで育てられて遊び友達もいない。いるのは白いライオンだけ。それも、フランスに売られていきます。そのうち、その男の子も唯一愛しているお母さんから離されてイギリスの寄宿舎に入れられます。そこの近くの森で、お母さんがいないお金持ちの広い屋敷に家庭教師と乳母と暮らしている孤独な娘と出会います。この2人は一生愛し合います。第1次世界大戦が2人を引き離すのだけれど、神様の御手で引き合わされ、サーカスに売られたやせ細ったライオンとも出会い、最後まで一緒に暮らしたというのが、大筋です。

でも、私が切ないのことには、一つ一つのエピソードがよくよく理解できるのです。男の子のお母さんがなくなるのですけど、その死んだ理由。「でも、ほんとうは、胸がつぶれるほど寂しくて、生きていられなかったんだと思う。」とその男の子が女の子に打ち明ける。寂しい2人がひっそりと会う。本当に二人を愛しているのは、お互い2人しかいなかったのです。大学や修道院の学校にそれぞれが行かなければならなくなった時「せっかく顔を合わせても、悲しさのあまり二人とも黙りこくる始末だった。」

寂しく孤独な2つの魂が結びつき、ライオンも戻ってくる。幸せな物語なのに、ただただ悲しい。それは、今も尚、孤独な魂が、寄り添える魂を求めていることをこの物語は暗示しているからだと思う。これは、昔の物語ではなく、寂しく辛い思いの子供が世界中にたくさんいることを思い出させる。戦争が続く中で孤児になっている子供達。貧困の中で物乞いをしている子供達。それだけではなく、この物語の子供のようにお金があっても愛が与えられていない孤独な子供達。その延長上の寂しい大人たち。そんな人たちに愛する人が与えられることを祈るような思いにさせる本だと思う。
10月27日 均等法を作る 赤松良子 いつも評論、小説や詩しか読んでいないと思うわれる人もあるかもしれませんが、私も仕事に必要な文献は読んでいるのです。その多くは法律であったり、行動計画であったりとこの読書日記に載せることもなく、終わります。この「均等法を作る」は法律がどのようにして作られたかを赤松さんの少しユーモアを交えた文体で書かれたものです。

赤松さんは私をご存知とは思いませんが、昨年の坂東さんの選挙の時にや、国立女性会館のジェンダー学会や、はたまた、女性の政治スクールなどでたびたびご一緒する機会があった。多くは彼女のレクチャーを聞いたり、演説を聴いたりする機会なのだが、この本を読むまではどのような方か肩書きだけしか知らなかった。この本を読んで、どのような志を持ち、どのような役人として、また、どのように均等法を制定するのに努力したかが良く分かった。

1つの歴史的な法律を作るとはあれほどまで骨身を惜しまず努力しなければならないのか。大事をやり通すと言う事は何年も掛けて、地道に歩を前に進めるということだと思う。いつか、狭山市の男女共同参画室長に言ったのだが、2歩前進、一歩後退でも良いから仕事を進めようと言う気持ちで女性差別に立ち向かわなければならない。女性差別は今も厳然とある。

彼女の仕事振りを見ていると、仕事に男も女もないということが実感される。勤労女性福祉法を事実上廃案にし、妊娠時の母体保護を除き、女性保護を廃止し、男女平等に望んだと書いてあったが、それでこそ、公平と言うものだ。18歳以下の少年と同じように女性に保護が必要なものか。肉体的にも精神的にも変な保護は差別の温床だ。

1つ赤松さんと私の共通項を言えば、1980年彼女がアメリカにいたとき、私もアメリカにいて学生をしていたことである。あの頃、私がアメリカで感じた女性に対してのことを、かなり近い理解で感じていたのだと言うことが分かった。私は、アメリカの女性に比べ、日本女性は甘やかされていると感じたし、責任も持たなくておいしいところばかり取っていてずるいと思った。きっと彼女もそんな思いで、女子差別撤廃条約の批准に取り組んだのだろうと思った。
8月12日 山本周五郎からの手紙
59年7月
土岐雄三 土岐雄三さんの書いた山本周五郎さんに関する本は昔々読んだ事がある。このたび、この本を臼田図書館で見つけ借り出した。木村さんは編集者。土岐さんは銀行員。どちらも文を書き売った人だ。それにしても、土岐さんの山本さんに対する思いのなさはなんだろう。迷惑としか感じられないのだ。確かに、こんな風に手紙や葉書が毎日来たら迷惑なのだろうね。

土岐さんは山本さんに愛されたらしいが、愛されたほうの土岐さんには「ともあれ、不思議な人だった」ということばしかあとがきにしか人物評として出てこない。木村久邇典さんがあまりにも、緻密に山本周五郎について調べ、好意的に文をまとめているので、そっけなく書いたのかもしれないし、山本のような小説を結局土岐さんが書けなかったので、悔しい思いでいたのかもしれないと思うが、さてどうだろう。実際2足のわらじを履いていた土岐さんは、自分が山本さんが思ったほどの才能を発揮しなかったのを知っているだけに辛かったのかもしれない。

それにしても、山本さんに愛された自分も不思議な野郎だといっている土岐さん。わざと感傷をこめずに散文しているのかもしれないが、なぜこんな人に山本周五郎が入れあげた時期が10年もあったのか理解不能だ。山本さんはエリートを観察してたのしんでいたのかな。それが分かるからこそ土岐さんは不快に感じたのかな。その点は、何かいつか本を読んで分かる事にしよう。
山本周五郎ー馬込時代
58年12月
木村久邇典 このご本もほぼ徹夜して読んだ。山本周五郎さんが誰が嫌いかなぜその人が嫌いかを木村さんは丹念に書いていく。勿論、うがった見方をすれば、長谷川伸を嫌いなのは自分のある面をみているようでいやなのだろうけれど、本質のところで山本はキリスト教があるのかもしれない。と言うのも、長谷川伸が金持ちになってから、豪邸に住んだ。何とか会を作り人をこき下ろしたなどと言うのを山本さんが怒って嫌ったなどというのは、理解できるし、義理人情の世界や、やくざの世界をよく言わないことも、よくよく分かる。貧しく、でもまっとうでなければならないというのが痛いほど分かる。

だから、尾崎士郎や山岡荘八のように、大言壮語を並べ立て、軍に利用され利用し、なあなあの人生を送り、下々が貧しい思いをしているのに、自分の良い思いだけによっているような人間を山本周五郎は嫌いだ。私も嫌いだ。「木村さんは山本周五郎を理想化して書いている」と言う人もいるだろう。長谷川伸、尾崎士郎や山岡荘八のように赤裸々にきらわれ、戦後は無視された人たちには山本周五郎はいやなやつであろう。

きん夫人(山本の2番目の妻)が「うちは非人情なところがあって」といったらしいが、もう付き合いたくない人をぱっと切る、付き合いを切るというところがあったようである。人間50歳を過ぎると嫌な人、どうしたって理解できない人達と付き合うのがばかばかしく時間の無駄に思えるのは、私にはよくわかる。私も、その思いがあって、人付き合いが少し変わって来ている。
山本周五郎ー青春編
昭和57年
木村久邇典 素晴らしい評伝である。取材を重ね、山本周五郎を死んだ直後から比べれば冷静に捉えようとしている。しかし、冷静にとはいえ、木村さん本人が不決断という点がよくわかるような気がする。
生まれた時の話の中で「晩年特に顕著に示した山本周五郎のキリスト教への傾斜を思う時、わたくしが表現しがたい感動に捉えられたのは事実だった」と周五郎がキリストと比したように物置小屋で生まれたことを発見した時に木村さんはかいている。田舎の物置で生まれた人も多かった時代だろうが、最後になってイエスに傾倒していった山本さんの心情を思うと悲しい。

傲慢で意思が強い人が山本さんであろうが、貧困と不遇の中から自分を鍛え上げていった、いや行かざるを得なかったゆえに、人に優しい小説がかけたのだと思う。
素顔の山本周五郎
昭和45年
木村久邇典 戦後、木村さんが山本周五郎さんに会って以来の彼の様子が伝わってくる。山梨にまで出かけ周五郎の徒爾にまで触れている。どうして、本籍地を出生地のように言ったかについての考察もしていて、とても暖かくその周五郎の“脚色”して出生地についての解説もしている。山本周五郎は勿論見えも意地も俗人なみの劣等感もあったにしても、本籍地が彼のルーツであった事には間違いがないと木村さんは書いていて、私のような山本周五郎ファンは納得する。

涙を持ってかいたこの本は昭和45年に出されている。私の好きな周五郎についての本の1冊である。詳しくは“私の独り言ー8月12日”をお読みください。
8月7日 人は負けながら勝つのがよい 山本周五郎 ただ昨日まで山本周五郎がどれほどキリストにとらわれていたか知らなかったのだが、この本の中の「あおべか日記」で、彼が「御心のままに」とか「すべてのものに神の恵みがあるように」と記しているのを見て驚いた。彼はその頃25,6歳だった。山本周五郎は小さいときに撒かれた信仰の種を腐らさず、枯らすことなく、貧乏にもめげず、飢えにもめげず、屈辱に耐え、自分の賜物を磨くのが生きる意味だと信じ、豊かに育て上げ、小節の中にその信仰を結実させたのだと思う。

また、信仰が彼を強め、信なく望なく金なく友なく愛人なく飢えし時神に問い、自分の尊き玉を磨けとし、困難かんくはそのために必要なのだと自らに言い聞かせている。又、自分を侮辱するものがいても起こるべきでなく、自分が自分を貶めた時にこそ、怒れとも言っている。神に祈り、神とともに彼の生涯の一番厳しい貧困の中をすごしている。信仰が彼を生かしたのだ。神の恵みによって彼は選ばれていた。

遠藤周作はかなりバタ臭く信仰を告白した。周五郎は全く日本的な情景の中に神の目を入れている。同じクリスチャンなのに、一方は芸術院会員、文化勲章受賞、一方は一切の受賞を拒否し何にもなし。この違いはなんだろう。一方はお金持ちのぼんぼん、一方は貧乏人の子で、学歴は小学校卒。この違いが結局、世間の評価の違いなんだろうね。ファッショナブルなクリスチャン作家。一方、クリスチャンのクの字も言わなかった、大衆小説作家。世の中はこんなもんさ。
たゆまざるものの如く
山本周五郎の生涯
水谷昭夫 佐久の図書館から借りてきた。作者は関西学院大学文学部教授。関西学院はクリスチャンカレッジ。この本を読んで私の疑問の一端は解けた。山本周五郎は晩年聖書をよく読み、賛美歌を4番まで酒席だろうがどこであろうが歌い、やはり「おごそかな渇き」でイエスを書こうとしたのだそうである。朝日の記者、門馬義久さんはキリスト教牧師であり、最晩年いや死ぬ前日まで一緒にいた人であった。彼は周五郎さんの聖書解説を黙って聞いていたそうである。牧師である門馬さんが周五郎に洗礼を授けなかったのは、周五郎が小さいときに洗礼を受けていたからかもしれない。(そういえば、門馬さんは三浦綾子を見出した人でもある。)

水谷さんは書く。
 周五郎が全小節正確に歌う賛美歌の中には、彼が生涯流し続けてきた血と涙がこめられて  いた。決してくじけぬ強靭な祈りがあった。
周五郎は彼の「赤ひげ」が映画化されるときに黒澤明監督に、「主人公が、罪の意識を持っている事を忘れないでいただきたい」といったという。

私が1970年ごろ、空しく惨めな学生時代から山本周五郎さんによって蘇ったと思った。後年、遠藤周作さんの本で私はクリスチャンになった。水谷さんは小学校時代に接した聖書に山本周五郎さんは終生捉えられたと書いた。私は、いつ聖書に捉えられたか分からないが、人生の節目節目でキリストの愛によって、守られ導かれクリスチャンになったのだと思う。知らずして、私はクリスチャンの書いた本によって、人の愛、神の愛に触れていたのだった。
8月2日 わが師山本周五郎 早乙女貢 大学生のころ、だから1970年安保が終わり、学生運動(私は信州大学にいて参加などはしなかった。)が終わった頃、いわゆる“しらけ”きっている頃、山本周五郎の小説にであった。空しく、寂しく、自分の能力も信じられず、ぜんぜん勉強もしないので大学の授業にやっとついていっている頃、私はアパートの4畳半のコタツの中やベットに転がって全部読んだ。文字通り、新潮社文庫の山本周五郎の文庫を全部買い読んだ。その頃の常として、マルクスの本なども読みはした。レーニンの本も読みはした。でも、一番しっくりし、心温まり、2年間にも渡る鬱のような状態から逃げる事ができたのも、山本周五郎の本によってだと確信している。

今回、早乙女貢さんの山本周五郎さんの評伝を読んだ。去年の本だから、早乙女貢さんはもう77歳にもなっていて、もしかして昨年なくなられているのかもしれない。私は山本周五郎さんが好きだから、彼に対しての評伝だって半端でなく読んでいるつもりである。少なくとも狭山市図書館にあるものは全部読んでいる。しかし、この本ほど泣きながら読んだ評伝はない。早乙女貢さんは山本周五郎の本質がよくわかっている人だと思う。山本周五郎の人の弱さへの共感、悲しさへの暖かい思いやり、権力から離れている庶民の生活に対しての思い、うまくいえないが早乙女さんの山本周五郎さんへの共鳴が私もそうだそうだと思うのだ。

特に、まるで生活感が希薄で人間に対しての優しさのひとかけらもない三島由紀夫や太宰治との違い、「よじょう」において宮本武蔵をコケにする肩肘ばった権威主義の空しさ滑稽さに対しての考察は前者は早乙女さんとともに怒りを覚えるし、後者に対しては権力のないものが後ろであっかんべーをしているような思いで嬉しい。

1つ私は早乙女さんの見落としている点に触れたい。それは、山本周五郎の父親は周五郎さん幼少の頃は横浜にあるバプテスト教会の教会学校につれて行っていたということである。私がクリスチャンになってみると、彼の視点はイエス様ならどう思うかと言う視点に思えて仕方がないのだ。神様、イエス様なら決してどんなところにいるどんな人も見捨てない。彼の本の中の女はとても優しい。自分を無にして人に尽くす。イエス様が自分を人に与えたように、彼の本の中の女性たちは尽くす。こんなところにも、私はイエス様を彼の本の中に見る。山本周五郎さんの最後の作品は未完ながら「おごそかな渇き」だと言う。イエス様が最後に「私は渇く」(ヨハネ19:28)と言われた事を思い、最後に最後に彼は信仰告白をしたかったのかと思った。

今、山本周五郎さんの本を読み返すことができない。時間がない。読む本が一杯ある。本当はそうじゃない。今、私は人生が辛くないから、山本さんのエールが必要ないのだ。20台の娘ではなく、50台のおばさんは、自分を無にして人に尽くす実践に忙しくなければならない。そうでしょ。

6月24日
獄窓記 山本譲司 懲役刑というのを、“塀の中の懲りない面々”で読んだ事がある。元衆議院議員が懲役に行くとこういう風になるのかと、痛ましい思いも有ってこの本を読んだ。図書館で借りられるかなあと思ったが、買う事にした。山本さんにはお会いした事もないけど、少しカンパの思いである。昭島って狭山から近いし、他の議員とは違い少し身近に感じていたのである。(実は、友達に彼の支援者がいたのである。)

一度議員なんかすると、終生議員なんだと言う人がいたが、本当にその通りだ。言葉の使い方、法律、システムに対する感覚は山本さんは衆議院議員そのものである。自分があの場所にいたらきっと同じような感覚なんだろうと思ったところが多々あり、苦笑してしまった。反省しているのがよくよく分かった。

山本さんは、清濁合わせて飲むのが大物になる事だと、間違って理解していたと言っていた。この清濁併せ呑むというのは、政治家にとって魅惑的な言葉なのだ。道をまっすぐ行こうとすると、なんとなく未熟者のように他の議員や時には支援しているという人にまで言われるのだ。でも、私は自分の道を良いといわれているように思った。頑固で群れない私。法律に触れるような事はしまいと努力している。もし、間違っていたら直していこう。常々スタッフともそう言っている。注意に注意をして順法精神を貫こうと思っている。

それにしても、辻元さんには執行猶予がついたのに、どうして山本さんにはつかなかったのか。裁判官が嘘は百書いているマスコミに影響されたのだろうか。公平だとは考えられない。
4月26日 裁かれた沖縄戦 阿仁屋政昭 事実は人によって異なる。当事者だって同じ事実を同じように見ない。見たいように見る。見ても見えなかったりする。聞こえても聞かない振りもする。人間ってそんなところがある。曽野綾子さんの強硬さが怖くなった。
3月20日 木村伊兵衛と土門拳 三島靖 木村伊兵衛の写真集がほしかったが、勿論お金がないし、手に入らない。1400円の平凡社ライブラリーという文庫本でやっと手に入った。土門拳さんまでおまけがついていて、お得な買い物でした。とっても優雅な思いでいる。
2月14日 沈黙をやぶって
(子供時代に性暴力を受けた女性達の証言+心を癒す教本)
森田ゆり 日本での児童性暴力に初めて取り組んだ人の一人だろう。この沈黙をやぶってを読んで癒された人たちがどんなにいたかと思う。1992年出版の本なのである。あれから10年以上が経ってみて、今回の性教育のアンケートをとってみて、状況は変わらずひどいと思っている。今日、いわゆる性虐待のサバイバー(被害者)と話す機会があったが、本当に修羅場を経てきたのだなあと思った。どう慰めてよいやら分からずに、「その人を殺してやりたい」といったら、「ありがとう、其の言葉で私は癒されるのよ」と言っていた。この本の原稿をたのまれたけど、書ききれなかったとも言っていた。そういうものかな。あまりに重いことで、判断が止まると言うか、無力感が付きまとう。しかし、子供達のためにも怒りを共有し、何かできることをしてあげなければと思っている。勇気を持ってという言葉が本当に重くつらい。
セクシャルアビューズ 山口遼子 1994年に出版された本が文庫化されたもの。重い。ここから逃げずに何ができるかを自分の問題として考える時、あ〜〜〜、重いため息をついてしまう。
子供と性被害 吉田タカコ 性虐待のことを知りたい方、実態そのほか、ちゃんと記述があります。闇から闇へ、証拠がつかみにくい性暴力にどう立ち向かったらよいのか、本当にため息が出てしまう。怒りとため息と。児童虐待法が改正されてもどうにもならないこの闇。勇気を持って真実を言った子供を保護できるシステムはどうしたらよいのだろうか。勇気を持って子供達の為に戦う大人が必要なのだろう。
2月4日 知っていますか。子供の性的虐待 田上時子 この本の前書きに「性的虐待は犯罪であり最大の性差別」と書いてあった。其の通りだと思う。問いが21問まである。1.子供の性的虐待とはどういうことをさすのでしょうか。6.そんなにたくさん怒っているのでしょうか。10.被害にあった子供に対してどうすればよいでしょうか。どれをとっても聴きたい事ばかり。私達のした性教育アンケートで小学校の9%、中学校の18%が性的暴力について報告していた。そこで全く他人事のように「見届けた」みたいな記述があり、逆上した。たとえ、関われなくても少なくとも児童相談所や警察に知らせ、子供の心のケアも考えてもらいたいものだ。
2月2日 もう「女」はやってられない 田嶋陽子 田嶋さんには何べんか市川さんのところでご一緒したが、お会いして勉強をご一緒させていただくのと彼女の本を読んだのとはぜんぜん印象が違う。お会いしている時は本当に天真爛漫にお見受けするのだが、本を読んでみると女性として頑張ってこられたんだなあと尊敬の気持ちで一杯になった。フェミニストとして生きるために、生きているためにさまざまな経験をなさった。そして、テレビの前で多くの人に顰蹙を買い、反感をもたれながらも自説を通してこられた。そこは見事としかいえない。英米文学者として女性に対しての評論は大きくうなずく点が多々あった。1990年前半の本は歯切れも良く私は好きだ。それとご自身の恋愛を語った本も彼女の理解に役立ったように思える。いつか私も自分史を書いてみたいと思うが、自分を冷静に分析できるかが問題なのだろう。彼女の視点で好きなのは、個から全体を見るという点と自分が身を挺してそれを実践するという其の点である。高みの見物、自分は傷つかないところで説を述べると言うのではない点が好きだ。きっと私が彼女を分かりやすいのはそのせいなんだろう。
だから女は「男」をあてにしない 田嶋陽子
愛という名の支配 田嶋陽子
それでも恋がしたいあなたへ 田嶋陽子

1月28日
だからなんなのさ 田嶋陽子 田嶋陽子さんとは市川房枝政治参画センターでご一緒しています。時々、同じ講義に出たりするのだけれど、私には彼女が良く分からない。そこで、また、仕事が忙しいので(こういうときに限ってそう思うのだけど)彼女を調べたいと思い始め、図書館で本を借りてきたわけです。まだ、彼女の著作を借り切っていないので、今後はもっと彼女の言葉で田嶋さんを知りたいと思っています。下のビートたけしさんに興味を持つと彼の言葉だけでなく、周りの本も読みたくなるように、田嶋さんを知りたいと思うとやはりフェミニズムについて知りたいと思う。実際いろいろ読んでみると、田嶋さんて、きちんとしたフェミニストなんだね。この人の言葉が私になじみがなく早口で言われても理解不能で、本で読んだほうが分かりやすい。そういえば田嶋さんはビートたけしさんと一緒の番組にも出ているんだっけ。(実際に見たことないけど。)彼女のキャラクターがフェミニストとして一人歩きしているのは判断の分かれるところらしいけれど、少なくとも本質的にはフェミニストの真ん中を歩いている人のようだ。過激でもなく、勿論保守的でもなく。もっと、もっと彼女を知りたくなった。そうすると、私も、田嶋さんのようになるだろうかって?私は、彼女のようにではなくイエス様に喜んでもらえるようになりたいと思っている。ご心配なく?!!!
フェミニズムカルチャーサブカルチャー批評宣言 村瀬ひろみ
サ・フェミニズム 上野千鶴子
小倉千賀子
北野家のなぞ ビートたけしを勝手に研究する会  こんなにたくさんの本を一日に読んだわけではない。何しろ反対討論だ、報告書だと原稿をたくさん抱え、議案の勉強もあると言う時に限って、くだらない本を読みふける悪い癖がある。ビートたけしなんか好きでもなく、あの初期のいじめとしかいえない事をコメディー、笑いとして私は認めない。子供にもビートたけしの出る番組は見せなかった。熱湯の中に入るなんて危険すぎて私には笑えない。真面目すぎるほどのブラックソン家ではビートたけしが出るもので見ていたのは、平成教育委員会ぐらいだろうか。それすら、良く見ていない。最近だって、私は夜仕事をしているので、彼がどんな仕事をテレビでしているか分からない。映画にいたっては見たいと思うような映画を作っているのかと思う。一度も券を買ってみたこともない。
 それなのに、こんなに読んだのは、お母さんに興味があったからだと思う。元祖教育ママに。それと、昭和と言う時代に。どんな信念でああも個性豊かな子供を育て上げたかと言う事が知りたかった。一心不乱で子供を貧乏から引き上げようとする迫力に脱帽。学問を、手に職をといって男の子を大学に入れる。お金をどう工面したのか、それが知りたかったが、息子達はそこに触れない。でも、お母さんを尊敬し続けたのだから、よほどの苦労をしてお金を作り子供に投資したに違いない。子供にそれを見せたのだろうね。しかし、悲しいかなそれもおどこの子だけなんだ。賢い娘には大学教育をさせていない。差別なんだよね。
 ビートたけしの本を今頃読んでみると、この人の洞察力は本当にすごいと思う。天才なんだろうね。お兄さんが自分より頭がよいと言っているが、謙遜も多少あるかもしれないが、実際彼は分析力と語彙・説明力は天才だと思った。10年以上前の本を読んでも、本質とずれていないと言うか、時代が彼の言っていたほうに動いてきているというか。あのころ読んだら、一見言葉の汚らしさで言いたい事が見えなかっただろうが、今読んでみると納得できる事だらけで、すごい。其の点、比較するのが野暮だけれど私は物が見えてないなあ。
たけしくん、ハイ
世紀末毒談1,3
北野武
なぜか、たけしの兄です
されど、たけしのあにです
僕が「科学者」になったわけ
北野大

1月18日
戦中戦後を生きて 小浜洋堂 今日いただいた本を読んだ。著者はこの本を書かれてすぐ、1月になくなったのだそうだ。しかし、なんだか、上っ面の感じのする本だ。この本の基調が良く分からないからである。懐かしい少年時代の様子はとても面白い。でも、洗脳された軍国少年が時代にさらされた中で洗脳の呪縛を解けなかったのは結局仕方なかったのか。小学校3年生で終戦を迎え、混沌とした時代を生き、教員をした。書けないこと、教職員組合の執行委員長をした後、管理職へ転進と言うように、私にはわけの分からない生き方をしていて、矛盾をどう克服したのか理解できなかった。昔の男の人の上昇志向を反省も葛藤もなく生きたのか、その辺のことをかけなかったのか。

戦争のことを最後の方に書いていらっしゃった。ある映画を見て、昔習った純粋な軍人さんと中国人を無残に殺した日本人の軍人さんのギャップに愕然としたと書いているが、それだからって、戦争反対とも言うわけでない。ただただ、呆然、愕然として終わり。だから何と言うこともない。日本史の考察をしているが、どうしても洗脳された知識が事実をそのまま認識するのを拒んでいるようにも見れる。戦前の学校教育を受けたことのある人、戦前の空気を吸ったことのある人と私達戦後派では精神的に決定的な溝があるように感じた。

1月16日
マザーテレサ あふれる愛 沖守弘 マザーテレサについての本は何冊も読んでいる。そしていつも感動する。それは私がクリスチャンだからだと思う。私も彼女に習いたいと思うからだ。彼女は有能なクリスチャンだ。変な表現だが、イエスの愛を実践していくにはタフな体や心やそれに信仰がなければ、実践者として生きていくのが難しい。あるとき、私は年老いたら出家してマザーテレサのように生きようと思ったこともあったが、マザーテレサの本を読み、出家しなくても、在家のままでも、インドに行かなくても、この日本でも私達クリスチャンの愛を必要としている人がいて、その方のために生きればよいのだと思った。そしてその時一番私の愛を必要としているのは息子であり夫だった。仕事をやめ、妻と母を頑張った。(私なりにだけど)

その時でも、私の周りに私を必要としている人は家族だけでなかった。悲しい人が私には見えたし、助けになろうと思った。「どうしてブラックソンさんにはそういう人が見えるの?」と言う友達がいた。養女が来たのもそのころだった。私は自分の弱さゆえに神様に祈っていた。家にいる子供だったら、愛し育てられる。一人でも多く愛する事がイエス様を愛する事。一人でも愛する事がね。

マザーテレサの思いを私が実践できるわけではないだろう。でも、おなじ信仰者として愛の実践者となりたいと思う。それにしても、今回もこの本を読んで胸をうたれる。人に、特に援助が必要な人に援助を惜しまない。関わるのを恐れない、自分の命をその人のために捧げることをマザーテレサは惜しまない。、もう一度私は自分の信仰を考えなければならない。勇気を持たなければならないと思った。DV夫にジムが襲われて以来、直接ケースに当たるのを避けている。これでよいのかと思う。もっと真剣に、もっと真摯に、もっと信仰を持って、愛のために死ねるように生きよう。マザーテレサのようにタフに。できるだけだけれど。
2003年 本の名前 著者 感想
12月30日 貴腐
聖ヨゼフ脱獄の夜
藤本ひとみ 「貴腐」は女性の性について、業について。私は、結婚して以来、恋もしたことがない。男性の多い職場にいても、男性の性についてあれこれ思うことがあっても女性の性についてあまり考えなかった。最近、女性の性の解放というか、男性と対等で性を謳歌するというか楽しむというか、それについてどう考えたらよいか分からなくなる。

よい夫を持って、愛し合っている。性を語るのは今でも難しい。きわめてプライバシーが高い分野だから。でも、性教育も含めもっと真剣に見つめなければならない事だ。

「聖ヨゼフ脱獄の夜」地獄のような要塞監獄から無実の男性が脱獄する話。この生きる意志の強さ。ストーリーの面白さは抜群だが、生き生きした人間が最後まで生きる努力をしている人間群が私をひきつけた。
12月10日 そこが知りたい市町村合併〜当事者たちの証言〜 小西砂千夫 インタビュー中心の本である。篠山市、北上市、あきる野市、西東京市の合併について、また、その当時合併をできなかった長崎県壱岐、兵庫県淡路島の合併推進派の方々の話を中心だ。読んでいて、狭山市と入間市の合併を考えた。市民の生活はそんなに変わりはしないだろう。けれど、行政界を変えると、私のいる水富は川の向こうも同じ市になって道路ももっと便利になるんじゃないかなんて思うし、橋もほしいと夢が広がる。こんな風に夢のある街づくり、できるかどうか分からないけど、新しい街づくりを夢見られる事は、今の閉塞感のある時代を吹き飛ばしてくれるように思う。そうなってほしいと思う。インタビューされた人たちの前向きの姿勢が好きだ。
12月8日 寄り添って老後
老いの道づれ
沢村貞子 男に尽くしきって、男と暮らす幸せを書いた本。

私が泣けたところは、また、私が自分でも振り返ってきっとこう思うと思うのは次のくだり、老いの道連れ186ページから

私は若い時、「一生懸命働いている人たちが、みんな、幸せにになるように、、、」と精一杯、いろんなことをしたけれど・・・結局、何にもできませんでした。
でもー1人だけ、しあわせにすることができたのですよね。あなた、ひとりだけ・・・・。うれしいわ

謙虚だとおもうな。夫を幸せにできた満足感。小さいかもしれないけれど、そんな満足感で自分の人生を振り返ってから死んでいけるのは幸せだと思う。
2月7日(金) Search〜きみがいた
GID(性同一性障害)ふたりの結婚
平安名祐生・恵 性同一性障害という言葉を知ってはいたけれど、どんな風な障害かという認識が余りなかった。私の周りにそういう人はいた。女子大の時にも、男っぽい女の人はいた。でも、余り突き進んで個人的な話をしたことがなかった。男女、女男という人は昔々からいたのに、皆目をそむけて来た。

この本を読むと悲しくなった。切ない。自分が自分でいることがこんなに大変な人たちがいるなんて。スカートを穿きたくないのに無理に穿かせられた苦痛、制服。おんなぽくしたいのに、出来ない社会。理不尽だよね。

蔦森樹サンの講演を思い出した。ミニスカートを穿いている彼女にとても男らしさを感じて当惑した思いがあった。かれ(?)の講演の時も涙が止まらなかった。彼は自分のことを性同一性障害者とは言わなかった。でも、彼は女性でも男性でもない性の人がいると言う話をしていた。中間を生きるというのは、とても難しい事なんだろうなと直感的に思った。
1月29日(水) マザーテレサ
素晴らしい事を神様のために
マルコム・マゲッリッジ マザーテレサは信仰者として、インドで貧しい中のもっとも貧しい人に仕えることでイエスキリストの愛を実践した。その彼女が言う。「たいがい、物が入用なのではない。もっと入用な何かを私たちはこの人々に捧げようとしています。中略 いろいろの病気のために薬もあるし、治療もある。でも、人からいらないと思われている人のためには、進んで仕える手と愛する心のほかには、この恐ろしい病気を治す道はないと思います。」マザーテレサはすべてを神に渡し、自分の職も、家庭も、将来も放棄して、貧しい人の中の一番貧しい人にそのすべてを捧げたのです。キリストの喜びを放射し、行動に表せるようでなくてはいけない、というのが彼女の考えです。

私はマザーテレサの言う事が良く分かります。この厳しい生活を生きてこそ、この人々の間の仕事が続けられる、神の愛を表せる。誰かに愛を浴びせなくてはならない。私はマザーテレサよりも厳しくない生活をしているだろうか。楽だろうか。比較はナンセンスだが、私にも厳しく辛い生活がある。ものがないのではない。でも、身を削るような辛さだ。言う事、することにイエス様を喜ばしていいるのか自信がないのが辛いのである。イエス様の愛を表しているという自信がないのが辛い。祈っている。特に議会で物を言う時には祈る。神様に喜ばれるような事を言い、していることを。

1月26日(日)
Be!増刊号
アディクションの根っこ
アスク(ASK)
アルコール薬物問題全国市民協会
この本はアルコール、薬物依存症や摂食障害、共依存からの回復、アダルト・チャイルド(AC)の課題、人間関係などをテーマにした雑誌です。

私がこの雑誌を購入し始めたのは、キリスト教矯風会の総会にでて、禁酒や禁煙がどのようになされているのか、日本の状況を調べ始めた事からです。アルコールの害について調べればおのずとこのNPOにたどり着くという事になったのです。

この雑誌を読んでみると、依存症には本当にいろいろあることが分かる。そのどれもが悲惨としか言い切れない。そして、本当にすごいなあと思うのは、そういう依存症の人の回復のためにとても多くのボランティアの人が関わっているという事である。医師や看護師、カウンセラーは仕事でそういう人に接しているのだろうが、報酬も何も求めずに自らを差し出している人を見ると本当にすごいなあと思う。

実は昨晩はマザーテレサについて書いていたものをよんだのだが、イエス様にお使えするように、貧しい人の中のもっとも貧しい人に仕えるのだといっていた。今日のこの本の中にも、何の損得無しに、依存症を抱える厄介な人たちに、誠心誠意仕える人がいるのを知ると、胸いっぱいになる。自分は出来ない事だと、真摯に頭がさがる。
1月23日(木) 禁酒法と民主主義 板倉聖宣 この本の趣旨は禁酒法を作った経緯とその結果を知る事により、善意や正義感だけで、法律とか決まりとかいうものの性質や社会の法則を知らないととんでもない結果をまねきかねないことを知るという事だと思います。

禁酒を社会正義だとし、憲法によって作ること、売ること、運ぶ事、輸入する事を禁止したアメリカでは飲む事を禁止しなかったばっかりに、禁酒法がなかった時以上のアルコールを飲み、密造酒を作り、マフィアが巨利をむさぼるという事になり、法律違反を平気ですることになりました。この壮大な社会実験は失敗に終わったのです。

筆者は言います。すべての社会現象を善意と悪意との戦いと見る事を克服す事にある。人の善意・悪意を問題にするよりはまず、社会の法則を研究して、いい結果をもたらすにはどうしたらよいか見極める事が大切であるわけです。また、彼は言います。盲目の正義が一度勝利を収めると、その他とが大変です。その正義の押し付けから、返ってさまざまな悪い結果が生じても、その正義は建前上正しいと認めざるを得ないので、中々改める事が出来なくなるのです。

今正義の戦いと言いながら、アメリカはテロと戦うといいます。具体的にはイラクを攻撃する事のようです。でも、このアメリカの正義の建前から生ずる結果は、もっと悲惨な戦争以外の何者でもないのではないでしょうか。アメリカは、禁酒法の失敗からナニを学んだのか疑問です。

一部の人の正義・善意が良い結果になるとは限らない。著者の言葉にもう一度耳を傾けましょう。「すべての社会現象を善意と悪意との戦いと見る事を克服する事にある。」20年も前に書かれたこの本が、また現代的な意味を持つことに、心から悲しく思うものです。アメリカだけでなく、私たちは歴史から学ばないのでしょうか。
1月19日 田舎議員奮戦記 荒木則夫 この本は飯能に5期市議会議員をした荒木さんが書いた本だ。読んで悲しくて悲しくて仕方なかった。荒木さんが書いている事のほとんどが真実なんだろうなあと思う。一本気で悪い事が嫌いで、弱い人のためにはいやといわずに助ける。私も真似したいけど、出来ないなあと思うような議員でした。

内容も本当に参考になります。金の掛からないアイディア選挙。今回少しまねをさせていただこうと思います。予算案決算案の勉強の仕方もとても参考になります。私はあそこまで徹底して調べていないと反省しました。意見書、決議書の自分の立場をしっかり記録しているのも偉い。私は意見書、決議書の提案委員にずいぶんなっているのですが、まとめていないので、すぐにはどの決議書の提案議員になったか思い出しません。う〜〜〜ん。

最後に悲しくなった理由を言います。彼は過激に議会で不正を糾していました。その挙句、彼はでっち上げの汚職容疑で逮捕されたのです。誰か、彼に近い人が第3者からのお金をポケットにいれ荒木が貰ったと,、いったのが真相です。でも、彼は自分の名誉を守れませんでした。そんなでっち上げのせいで6選は叶わず、傷心のうちに飯能市からも去り、その後すぐになくなってしまったそうです。年は生きていたら、母より1つ年下です。心労でいのちを縮めたのでしょう。

この政治の世界は全然罪のないものも陥れる事の出来る怖い怖い世界です。身近な少しの人はそう言う事がわかっていても、一般の人には分かりにくい。今、私はその渦中にいますが、この本を読んでいると政治の世界がとても怖く感じます。それでも果敢に暴露を止めず、不正を糾そうとした荒木さんの偉大さには感服するだけです。私にはここまでの勇気が与えられるのでしょうか。一人では出来ないなあ。
2002年
12月6日 NPO実践講座2
人を生かす組織とは
山岡義典 NPO に大きな可能性を感じている。ボランティアがいろいろな形の経済主体となれると思っている。高々女の暇つぶしと考えられてきたものも、NPO法人のお仕事になりうる。これをうまく生かせば、多くのサービスが単にボランティアではなく経済チャンスとなる。非営利というのもすごい。実践講座を狭山市でも開いて新しい街つくりの起爆剤にしたい。ほんとうに。
12月3日 少女パレアナ E. ポーター 私はこの本を小学校の3,4年生の時、病気で寝ていて退屈していたのを母が可哀相がって買ってくれたのが、初めて読んだ時だった。村岡花子さんの日本語が綺麗だと思った。(今回読んで少し古い日本語に感じた)パレアナの感謝の心、喜びを見つけながら生きていく行き方が好きだった。キリスト教の目で人生を歩んで生きたいと思った。勿論、これはもともとはクリスチャン新聞に掲載された物語なのだから、牧師の娘のはなしなのだから、すべてクリスチャンの規範で書かれているものだ。

その後、何べん読み返しただろうか。私は、ポーターだけでなく、オルコットの小説も好きで若草物語やそのほか彼女の書いたものは、文庫になったものはきっと全部読んでいるであろう。モントゴメリーの赤毛のアンシリーズも全巻読んだ。でも、始めの赤毛のアンがいちばんすきだが。19世紀から20世紀全般のアメリカのプロテスタントの少女小説は翻訳されたものはほとんど読んでいるといってもさしつかえないかもしれない。それも、繰り返し繰り返し読んでいる。

辛い時心を暖めるために。人生の目的を忘れそうになった時、神様の声を聞きたいと思いながら。人のために、身を捨てるような、自分を捧げるような生き方をこれらの本は薦めているのです。私がどのくらいそう言う人生を送れるか。少なくとも努力したいという気にさせてくれます。殺伐とした世の中ですが、無名な私たちが心を寄せ合いながら、誠実に生きようとするのを神様は望んでいるんだよという本を読んでみるのはいかがですか。
11月27日(水) サンデー毎日/12.8 毎日新聞社 私は辺見庸という人の講演会をわざわざ坂戸のコミュニティセンターまで聞きに行ったことがある。人権についての事だった。アイヒマンというユダヤ人の残虐な殺害に対しての映画に関しての講演だったと思う。そのとき、私はかなり彼に共感するところがあった。けれど、今日のこの“反時代のパンセ”の論調は嫌いだ。彼は今北朝鮮の人たちが飢えているのだから米をあげろ、あげないなんて“陰湿で酷薄な民即差別さえ感じさせる”という。また、“何の罪もないのにしきりに痛み入るものたち。相手が弱いと見るや、傘にかかって責める者たち。”という。

私はこの論調は今までのいわゆる革新の人たちの論調である事を知っている。北朝鮮の人たちは何も罪がないのに痛み入っていて、私たち日本人は相手が弱いと思うと傘にかかっていじめている?本当だろうか。私たち日本人は痛みをいやになるほど知っている。唯、他の国の人を痛めたことも知っている故に声を上げていないだけだ。止めてよ、北朝鮮だけが何も罪のない人のように言うのは。拉致した事は悪い事、日本人に痛みを負わせたことである。いま、被害者の人は正当な痛みについてのアピールをし、私たち国民はそれを支持している。いままで、広島の人がこれまで自分の事をアピール出来なかったのは、辺見さんのような知識人が私たちの痛みよりも痛めた事だけを取り上げて、私たち日本人の痛みに口をふさいできたのではないの。

私はクリスチャンだ。命を掛けて脱北を支援しているクリスチャンもいる。横田さんだってクリスチャンである。その私がいうのだ。今、米をいつものルートで北朝鮮に上げたら、あの支配体制を強め、人民を苦しめるだけである。早く、あの体制を崩壊させる手立てを考えるべきだ。辺見さんのいう人道主義は耳障りがよい。しかし、彼がいう正規のやり方では彼があげたい人民に米は届かない。もっと悲惨な目にあわせるだけだ。草の根、NGO、見えないやり方がある。こんな大上段に北朝鮮の金さんのための記事を書く事に私は逸見さんは“廉恥”を感じるべきだとおもう。私はえせ人道主義者の“無知と無恥のいかばかりかを、ここで知る”思いだ。

“週間金曜日は間違っていない”を書いている岩見隆夫さんの論調も嫌いだ。あのインタビューはするべきではないという主張は間違っているという。偽インタビューはいけないが、実際のインタビューしたのだから良いと言うのだ。けれども、岩見さんが言うように冷静にインタビューを読んでも、北朝鮮のメッセージと脅ししか聞こえない。きっとどの家族も北朝鮮の環境では同じ事を言うだろう。それを分かっていて載せる事の意味は、日本のメディアを通じて北朝鮮の宣伝をしてあげているだけだ。なぜ、北朝鮮に加担するのか分からない。

私は、書くことに思想があると思う。事実だからという、事実の意味を捉えないで記事をかくのは罪な事が分からないのか。黒澤の羅生門を引き合いに出す事もなく、事実は見る人によって代わるのだ。革新的な知識人の形而上学的議論が不毛で、人を救わないのが分からないのだろうか。私はいわゆる知識人の罪を問いたいなあ。“どういう性格の雑誌かは、この際それほど重要なことではない。肉声の中身だけが大事なのである。”要するに、岩見さんはナニがいいたいのか、北朝鮮の家族が戻ってきてほしいといっているので、拉致された人たちにわざわざ北朝鮮へ戻れというのか。なんでだ。日本人が日本にいて何で悪い。日本人の子供たちはどこで生まれようが日本人だ。子供は日本に返せというほうが筋がとおっている。そもそも、拉致したのは北朝鮮なのだから、早く子供たちも日本に返してほしい。

どうして、知識人は水を差し続けるのだろうか。今までもそうだった。いつも批評家で批判家だった。そして、自分は何の責任も取らない。私はこんな人たちを信用しない。

もう、サンデー毎日は買わない。
11月21日(木) 市川房枝政治参画センターで学ぶ 47人の挑戦 市川房枝記念会 友達が原稿を書いている。私も書いてといわれていたのだが、忙しすぎて原稿に手が付けられなかった。私の選挙日記、私の議会日記など、いつか出版したいと思っている。今日も記念会の山口先生にどうして書かなかったのよと言われたが、忙しすぎて書くのを忘れていたというのが本音。本が出来てみると、私も書くのだったなという思いがむくむくとわいてくる。どなたか出版社を知りませんか。
週刊文春 市川房枝政治参画センターに行く電車の中で読んだ。北朝鮮の拉致について多くの記事があった。私は新潟出身であり、横田さんがいなくなったとき新潟で中学校の教師をしていた事もあり、一人残らず無事に帰国させてほしい。黙って、人の意思を無視して拉致したのだから、反省して皆を日本に戻すべきである。私は今のマスコミの論調に賛成する。


2002年 本の名前 著者 感想
11月13日 寺内貫太郎一家 向田邦子 私は寺内貫太郎一家をテレビで見なかった。1974年に放送したものの、小説化した本である。1974年といえば私はまだ、奈良で大学院に行っていてアパートにテレビはなかった。

読んでみたけど、これはきっとテレビのほうが面白かったのではないかと思った。シナリオではないが、文章に粘りがない。だから、少し温かみを感じない文だ。内容は理解できるのだが、どこか白々しい。昭和49年と平成14年との時代のずれか、私の精神性と純和風の生活観とのずれかなあ。住み込みのお手伝いさんのいる風景なんて最近どこにもないものね。やはり、時代のずれが、この本に違和感を与えるのかなあ。
女の人差し指 向田邦子 身辺雑記。時が過ぎ、私の生活感と大違い。私の家にはコタツもない、座り込む場所もない。バタ臭い生活なんだよね。だから、向田邦子さんに共感できないのかなあ。私は彼女の本よりも彼女について書いた本のほうが好きだなあ。確かに彼女は日本のある時期の家庭について書いているのだろうが、少なくとも寺内貫太郎一家に関して言えば、それに大根の花についても古めかしいと思う。なんか前向きでない感じがいやだ。4畳半のちゃぶ台の茶の間はうちの生活じゃないものねえ。確かにそういう風景は日本にはあったけど、きっとそれは博物館に入れてもよいのではないの?私はいかにも日本の家庭よという向田邦子の家庭像は嫌いだ。
恋の計算いたします。 ダイアナ・パーマー 楽しく読めた。

この本の主人公は悲惨な結婚に懲りて、愛人はほしいが妻はいらないという。愛人と妻とはどんな風に違うのだろう。子供を作らない。セックスだけのお付き合いが愛人だろうか。婚姻届を出す事の意味はなんだろう。

最近独身の初老の男の人から、女性の友達がほしいと言われる。セックス抜きでいい、ご飯をつくってくれて一緒に食べられれば良い。財産をほしいとか、年金がほしいなんかいわない、物分りの良い女性はいないものかときかれる。いわば、愛人か。老後の面倒まで見てくれる愛人なんかいるわけない。それも、金は渡さず。男の人はこれをずうずうしいと思わないのだから、不思議だ。男のロマン?男の勝手じゃないの、と私は思ってしまう。

要するに、夫を愛している妻だからこそ、当然のようにしてくれる事を、他の誰がやってくれるというの。すなわち、愛し合わないければ、男のロマンは成立しない。それには、ありとあらゆるリスクが伴う事を覚悟しなければ。愛があれば、女性は何でも男性にしてあげるの。男性が女性を愛するために付き合うならば良いけど、家政婦やセックスフレンドのためというのなら、女性はそんな男は相手にしない。愛は買えない。愛は無償の奉仕をする素晴らしいものだ。男よ、どうしてそれが分からないの?
オンリー・ミー 三谷幸喜 面白い。特に劇団について書いているところは。今のところそれだけ。


11月17日 幼児のこころ≠ェ光って 東喜代雄 息子と娘が通った狭山ひかり幼稚園の園長先生が書いた本である。私は、この本を読んで感動したというより、共感したと思う。それは、園長先生は年季が入ったクリスチャンですし、私もそれに繋がるものであるからだと思います。イエスの私たちへの愛、私たちは愛をまとって生きていたい、キリストに習うもの、似るものになりたい。そういうものとして、親でいたい、教師でいたい、子供を育てたい、子供と育ちたい、言おうとしていることがよくよく分かります。

1つ気になるとしたら、明るい自己感を持てる子供だといいなという点。親に愛され、親に受け入れられ、自分をそのまま肯定する。でも、私はここに何かが欠けていると思う。それは神を恐れる事だ。怖く、自分でコントロール出来ず、どうしようもないことが世の中にあること、自分の中にもあることをやはり子供にも知っておいてほしい。私は明るい子供というのを信じない。ひかりには影はつき物だし、神様のない喜びだけの人生は不可能だと思っているから。

この本にジェレマイアが写っていた。なんだか嬉しくなってしまった。
第三セクターとPFI 宮城康夫
地方自治法
平成14年改正のポイント
地方自治制度研究会 借りて表紙と目次を見た。変な感想だが、官僚は真面目に仕事をこなし、法律を制定しているなあという思いが大きい。一見、私たちには今までなんともおもわなかったことを明文化していく技量はすごい。私は官僚にはなれない。能力ないものねえ、彼らのようには。
市町村合併と都市地域構造 片柳勉 私の里の上越市と別荘のある佐久市が例になっている。他にいくつかの合併のケーススタディがある。事実の羅列と歴史なので知っているものにとってつまらない。

1つ考えることがあることは、街つくりにおいて合併すると新たな箱物が必要になったケースが多いと言う事。特に遠隔合体型の場合、その中心地区に新たな市街地を形成し、市役所をはじめとする公共施設を建設していく事が多い。そして、旧市街地はさびれていくのである。

佐久も上越も巨大なインフラ整備が出来た。よいときに合併した。今後の合併ではインフラ整備のできる財政的な余裕があるのだろうか。今までの市街地を活気のないものとしてしまうような、合併が今後必要なのだろうか。

佐久市も上越市も私の目から見ると合併してよかったとは思う。それは国による道路網の整備で高速道路は出来る、新幹線は走るという状況が街つくりに大きく寄与していた。狭山市の場合入間市と合併してどこに役所を置くのか、どんな街つくりになるのか、私には見えてこない。上越市は合併しても人口12万人、佐久市は7万人であった。入間基地に市役所を置く27万人規模の都市を作ったところでどんな意味があるのか、余り発展の余地がないように思う。


11月19日 向田邦子の青春 向田和子 最近は向田邦子に凝っている。でも、私の好きなのは和子さんの書いた向田邦子さんかもしれない。和子さんはお姉さんをとても愛しているから、そのお姉さんのことを書いた文が柔らかで、優しくて、穏やかで、それでいて緊張感があって、好きだ。

向田邦子さんのエッセイも「父の詫び状」なんか、お父さんのことを和子さんが邦子さんのことを書くように愛情を持って書いているのですきなのだが、ご自身については、はにかみもあってか言葉が足りないように思う。

私はエッセイ類はどうも気持ちが入っている文章が好きだ。青木玉さんのエッセイに凝って彼女の書いたものを全部読もうとしたときがあった。彼女は幸田文さんについて愛情篭った文章を書く。情景に色も香りもある。それで、幸田文さんのことも知っているわけだが、どうしても幸田文さんのご本を手に出来ない。向田邦子さんも幸田文さんも激しく、りりしく、命を掛けて文章を作った人だと思うと、こちらが娯楽のために著作に手を掛けられない、気が負けるというか。私がもう少し激しく、強く、真剣に仕事に取り組んでいれば、こういう気合負けもなくなり、すごい女性の文章を淡々と読めるようになるのかもしれない。反省。
かけがいのない贈り物 ままやと姉向田邦子 向田和子 和子さんの書いた邦子さんのことが好きで、読み続けている。淡々とした和子さんの性格が良く分かる。邦子さんからの宿題を必死で誠実にこなしているのも良く分かる。私にも、こんな打てば響くような、緊張感にとんだ人が回りにいればよいのに、と思う。

今、私は友達にその緊張感を与える人なんではないかと思った。

私はずぼらなくせに、どこかかんしょ病みの所があって、きちんとしていないと気がすまない。中途半端、とか気を回さないのも嫌いだ、どうでもよいような仕事もいやだ。自分は甘えん坊で赦して貰いながら付き合っているのに、人の甘えが嫌い。立場をわきまえず、“ナニー”なんて怒り狂う。わざと意地悪ばあさんをしたくなるし、無理難題を言いつけるし、弱い人に対して強い人がする理不尽なことは大嫌いだし。

私が邦子さんや和子さんが好きなのは、やはり多く共感できるところがあるかららしい。

向田邦子全対談
向田邦子 いくつかの対談を読んだ。気心の知った人との対談といわゆる文壇の重鎮といわれる人との対談があり、対談の人選が面白かった。新人に対して、とても興味を示している大作家たち。やはり、向田さんの才能を遠めで見ていて、まじかで観察したいという感じだろうか。また、テレビ業界を隅々まで知っている向田さんにとって、文壇の作家や男性の世界を虫眼鏡でのぞきこみたいという気迫もどこかに感じる。善行淳之介、水上勉、阿川弘之、どうしてこんな人たちと対談したんだろう。遠藤周作さんがこの方々と対談していても納得できるのだが、向田さんとの対談は何か、直木賞への意欲の表れに見たとしたら、ちょっとひどいかなあ。彼女ではなく、出版社の編集者の変な意図を感じてしまった。
私にとって神とは 遠藤周作 遠藤周作さんがいなければ、私は洗礼を受けなかったかもしれない。「侍」だったかを読んで、私はイエスから選ばれてしまった以上逃げられないとおもったし、イエス様が一緒に私の人生を歩んでくださると思って洗礼を受けた。その当時の牧師にそんなことをいったら、「イエスを売り物にして」といやな顔をされたが、遠藤周作さんがイエス様について、小説の中であのようにとりあげてくださったからこそ、私でもクリスチャンになれるのか、と言うか、私はすでにイエス様にとっ捕まえられたのだと妙に納得したのだ。遠藤周作さんだって、イエスさまに一生を絡めとられ、イエス様ゆえに生きた意味が会った人だと思う。

クリスチャンだと言う事を隠す人もいるようだ。私のようなものがクリスチャンですみません、という思いがあるのだろうが、それでもクリスチャンでいる事を赦されるのだから、世間の批判に耐えながら、クリスチャンを表明する勇気が必要なのではないかと思う。遠藤さんのご本を読むたびにそう思う。

11月20日 触れもせで
向田邦子との20年
久世光彦 向田邦子さんについての、エッセイ。1992年に発行された。彼は20年間向田邦子さんと付き合っていたのだが、女と男と言う関係ではなく、本当の仕事仲間。彼女は非情に水臭いと言うか、自分の問題を自分で抱え込んで人に見せない人だったようだ。人に迷惑にならないように寄り添っているが、人に決して甘える事の出来ない人。距離を保っていないと息苦しくなる人。一人が本質的に好きだったのかなあ。自分を抑えられる人。

向田邦子さんが52歳で亡くなって10何年も立つのに久世光彦はずうっと向田邦子を引きずらなければならなかったのは、彼女が突然往ってしまったせいだろうか。それとも向田邦子が自らなにも説明しなかった性格ゆえに、推理小説のように謎解きをしなければ収まりがつかなかったのかもしれない。和子さんがお姉さんを思うのと、久世光彦の思いとは全然違うのが興味深い。きっと、久世は邦子さんに対して怒っているのだ。なぜそんなにけなげなんだよ、なぜそんなに甘えないんだよ、ちっとは隙を見せろよ、俺をどう思っていたんだよ、言いたい事がたくさんあるけど、犬の遠吠え。本当の意味で彼女に入っていけなかった悔しさがいっぱいである。でも、分かっていて距離を置いたのは久世さんの優しさなんだろうけど。

その点、妹さんは違う。お姉ちゃん、いつも心掛けて貰っていてありがとうという感謝と優しい思いと時代の共有感がある。私は邦子さんから少し分けていただいた心を喜んで受け入れている和子さんの気持ちがゆったりとのほほんとしていて好きだ。
日経地域情報400号 日本経済新聞社 この雑誌は、年間購読料が何と10万円を越すという超高価雑誌です。狭山市で私だけが購入しているらしい。電話を掛けるとすぐ、ブラクソンさまでいらっしゃいますね、なんて言って下さるので私は三越デパートでお買い物をするお金持ちのような錯覚をして今います。(変な例えかなあ)この400号では675市・23区の行政比較@として行政革新度が比較されていた。狭山市は残念ながら上位100には入らなかった。実際、草加市、鶴ヶ島市、新座市、志木市、などに比べてはズウと落ちるがそれでも121位というのは悪くない。

特に利便度は全国30番。偉い。これは全14項目の得点合計できまる。詳しくはここには書かない。しかし、市民参加度は入間市が92番であるが、狭山市は番外。同じく効率化・活性化度も番外。行政評価システムなんかない物ね。透明性も番外。これはやっぱりという感じもする。

里の上越市は総合1位から10位に下がった。でも、あの田舎町が全国10位とは恐れ入ります。また、ちょっと驚くのは新潟県の市が頑張っている事と、鶴ヶ島市が先端の行政経営をしているらしい事。全国60位というのですから。