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東日本大震災 被害地視察 (福島県浜どおり)フィールドワーク

8月24日朝早くの電車でいわき市に向かった。

視察は130人がチャーターしたマイクロバスや大型観光バスなどバス5台を使い、行われた。いわき市へ全国から多くの議員が集まるというので、歓迎に祭り踊りも披露された。実際集まった議員は南は九州から北は北海道まで、県議もいれば市町村議員も多かった。

 

 説明は福島県合同庁舎で、福島県小名浜港湾建設事務所による「東日本大震災による小名浜港等の被災状況と復旧・復興について」、「いわき地方における被災の状況、道路海岸等の被害状況」が福島県いわき建設s事務所により報告された。別紙を参考のこと。

私は小名浜港に関しての認識が少なく、原発がだめになった時に、火力発電所も福島県内に多く設置され、そのための燃料を小名浜港に集積していることを知らなかった。小名浜港は福島原発の事故を受け、火力発電所の燃料確保のためにも特急で復旧が必要だった。そして、8月2日現在では7割が復旧し、34バース中23バースが使用可能になったという。ただ、経済情勢がよくなるに従い、もっと改修を急がないと船舶の沖待ちが始まっている。

 道路に関しては、3月の地震による被害よりも、4月11日12日のいわき市内部を震源とする震度6弱の地震によるダメージが大きかった。

 

以下は久ノ浜、被災地視察の際の写真である。

 

道路から海までの間、点々と家も見えないことはないが、内部は壊滅状態であった。取り壊しが進んでいて、海岸線まで何もないというところも多かった。「ここで300人亡くなりました。」「ここで90人亡くなりました」という説明があり、バスの中は言葉もなして、静かに視察した。「高齢者がたくさん死にました。今まで津波は5,60センチだったからと言って逃げなかったんですよね。」と言うことだった。「若い人たちは働いていたし、子どもたちは学校で助かったんです。」という。想定外の津波だったんだろうと思うが、年寄りの経験則が反対に働いた悪い例だろう。

土台だけが残っている地区。片づけが終わって復興を待っているのだろうか。土台の跡がなければここに家が密集して建っていたとは思えない。ところどころに花がおいてあって、ここで人が亡くなったんだなあと悲しく思った。

家が残っているところもあった。しかし、中はぐちゃぐちゃだった。家の住民が行方不明で建物を壊すことすらできないところもあった。何かの拍子で建物被害が少なくて、帰ってきている人もいた。

しかし、放射能汚染があるせいか、人が少ない。福島原発から45キロ地点というので、参加者が2台の放射能測定器で昼食時に放射能を測定したら、ひとつは0.4、もうひとつは0.5マイクロシーベルトだった。風向きが南の風でいわき市は今のところ放射能は少ないが、北風の吹く冬場を迎えると、放射能はまだ2億ベクレル毎時漏れているから、大変だろうと思う。案内の人が家庭内での喧嘩について話をしていたが、子どもを持つ若い人は出て行きたいのには理解できる。また、年寄りは残りたいだろう。

 

これは富山中学校高齢瓦礫置き場。学校の周辺は津波せいで何もなかった。校舎も被災していて、使い物になっていない。瓦礫置き場はここだけではないが、この瓦礫を運ぶ場所がない。放射能汚染されているだろうから燃やすのも難しいし、汚染された瓦礫をリサイクルのために選別だって誰がすると言うのか。

積まれた瓦礫の高さは野球のフェンスと比べるとよくわかる。34メーターもしくは5メーターにも登る堆積量なのである。

こんな場所が市営ソフトボール場にもあった。海岸線にごみ置き場を作っていたが、もし何かあったらすべて押し流されて海に行くのだろうと思った。

 

 




下の写真は小名浜港のうち、公共施設ではなく、漁業組合の管理しているところ。

公共湾は県が必死に復旧したが、漁業組合はいつ漁ができる川からないせいで、復旧はまだのようだった。湾の中にひっくり返った船が何層もあった。これを誰がどうして行くのかと暗澹たる思いで通り過ぎた。ここも放射能のせいで、人がいなかった。野呂前通産大臣が「死の町」と形容したが、明るい陽のした人通りのないところは本当に不気味な感じがした。

 





今回の視察で、放射能被害がどんなにいわき市の住民にとってダメージだったかがよくわかった。案内の人が、「地震と津波ならば、立ち上がりようもあったのです。しかし、見えない、におわない放射能の不気味はどうしようもありません。」という説明に、バスの中の一同はうなずくしかなかった。あまりにも広い汚染で、県も比較的大気中の放射線の少ないいわき市に手がつけられないのだろう。

米が実っていた。野菜も植わっていた。有名な福島の桃も大きく、とても安かったし、おいしそうだった。ところどころにひまわりがきれいに咲いていた。「ひまわりは放射能を吸ってくれるからかしら」などという人もいたが、吸った後のひまわりをどう処分するんだろうか。地元の人は、地元の野菜を食べているのだろうかと聞いたら、やはり子どもを持つ世代と年寄りとは違うらしい。私自身はおいしそうな桃を買ってくることを躊躇した。風評被害と言うかもしれないが、すべてが測定されていない以上基準値以内かどうかわからない。わざ買ってまで、子どもに食べさせるには及ばないと思った。でも、何かを買って地元の人のためになりたいと思い、自分のために何本かの清酒を買って帰ってきた。

瓦礫の山は高く、多くの家が津波の被害を受けたのを実感したし、家が密集していたと言われれば土台があるのでそうかと思った。道から海まで何もなくなってしまっていて、空の青さが非常にむなしく感じてしまった。自然災害の恐ろしさを感じたが、今なお収束していない福島原発を思うときに、もうこれ以上原発に依存した社会形成はできないと思う。脱原発をしても、原発を廃炉にしても、使用済み核燃料や大量のプルトニウムの処理ができない。またいつかこのような地震が来たら、同じことが起こるのだと思う。困難に立ち向かう勇気も大切だが、山登りで山頂近くで引き返すこともあるように、引き返す勇気も大切ではないかと思う。

 

福島の悲劇を繰り返すのは、あまりにも愚者の行為だと思う。今こそ、英知を集めて引き返す努力をしよう。それは単に自然エネルギーを使うことだけでなく、この毒性のある放射能をいかに無毒化することだろうし、人類の破滅につながらないように封印することではないかと思う。