私の独り言 2004年
こんなに硬い内容の独り言を聞いていただいて感謝しています。ありがとう。
バックナンバーもご覧ください。(2001年8月から現在まで)

心のままに思っていることを書いていこう。嬉しいことに喜び、悲しい事に嘆き、怒る事も忘れまい。一生懸命生きようと思う。

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12月 私の独り事
31日(土) 今日は大晦日。それでも家では大掃除が終わらず、お兄ちゃんは蛍光灯を買いに走り、付け替えた。弟は蛍光灯のカバーを洗っていた。娘はガラス吹き。夫は明日のお雑煮の具を切ってくれた。それで私は監督をしながら、議会レポートを書いていた。更正ができてきて、それを直し、また、第3面を書き始めた。大晦日まで仕事をしている年はなかった。一家で大晦日を狭山で過ごしたのも初めてだ。

1キロのお肉を入れたすき焼きの御飯を食べた後、娘や夫は紅白歌合戦を聞いている。息子達はきっと他のテレビを見ているのだろう、二階に上がってしまった。私は御酒をちびちび飲みたいと思っていたのだが、おなか一杯でお酒が入らなくなってしまった。それで、これからお風呂に入り、また仕事をしようとしている。

思い返せば、我が家は色々あったような、なかったような。お兄ちゃんが大学生になった。肺炎になった。下の息子は骨を折った。娘は受験で1敗している。夫の尿管の石はどこにいるのだろう。私は、ますます太ってしまって、来年はダイエットか運動をするかをシナケレバならないと思っている。総じていえることは、我が家は幸せに1年を過ごせた。神様に感謝しよう。

夜は遅くまで書評を書いた。勝海舟の本をまとめて書評を書いたのだが、図書館の返した本の中にも勝関係の本があるので、勝海舟に関して何冊読んだのか分からなくなっている。それでも、手元において読みたい。時々、はっとするような新鮮な感動がある。外交、内政の基本に対して、しっかりした見方をしている。それは人民に対してどのような政治がよいのかと言う観点を貫き通したと言う事かもしれない。また、人間的には癇癪もちだったと言う点は少し嬉しい。頭がよすぎて周りが付いていけなかったのだろう。時々、私は支援者にいわれるが、わたしには先を見れるが支援者に分かるように説明してくれないから私がいけないと言うのだ。でも、見えるものはその人の能力によるのだと思う。勝海舟を読むと彼は歴史や政治家の天才だったと思う。それでも、時代の中で自分の思いを発揮できない事の方が大きかった事は否めない。要するに天才はいても、個人は小さいと言う事か。3が日は独り言を書かない。
30日(金)
37900カウント
1月1日が38000と言うキリバンになるでしょうか。楽しみです。

さて、今日は朝、夫が休みだったので大掃除もどき、現実には多少大掛かりな掃除ををしようとした。夫は27日に退院し寝ていたが、28日が会社の仕事納めだったので痛いのを我慢して仕事に行った。そして、昨日はおまけの仕事日(?)だったようで、仕事に行った。だから、夫が正式に年末休暇に入ったのは今日からである。ご心配おかけしました。今なお痛みは取れないらしく、腫れた腎臓がまだむくんだママなのかもしれない。

今日はごみ出しの最終日。古新聞や家にあったダンボール、缶やプラスチックなど出しそびれていたのを車に積み込んで第一環境センターへ。11時過ぎに行ったが、車がずらっとならんでいて、時間が掛かった。環境部総出で仕事をしていた。本当にご苦労様である。ありがとう。

久しぶりに掃除をし、子供に洗濯物を干させ、お風呂を洗わせた。2時過ぎにおなかがすき、チリとトルティーやのお昼御飯を食べた。私はその後母の病院に行った。母は元気そうだったが、今朝目が痛くて薬をいただいたら痛みが止まったと言って喜んでいた。しかし、ぎっくり腰をしたといって、車椅子をおしてもらっていたのにははっきりいうとショックだった。あんなに車椅子が嫌いの人だったのに、歩けなくなったのかと思ったのだ。もう、入院して1ヵ月半、年寄りをベッドに入れておけばすぐに足腰が弱る。少し、心配した。術後は順調のようだが、先生から説明をいただかなければ実際のところ分からない。

夜、帰ってきたら10時を過ぎていた。実は途中でお財布を病院に忘れたので取りに帰ったのであった。ほんと、馬鹿みたいだ。
29日(木) 今日は朝3時まで仕事をしていたので、起きたのは遅かった。ようやく1面と2面、4面を作り上げ、後3面を残すのみである。今日事務局長さんが仕事納めをして帰った。今年は事務所の大掃除すらできなかった。家の大掃除なんて、できていない。

午後遅くにもう、コンピューターを見る元気もなくなり、少し昼寝をした。母の事も心に掛かっているが、仕事が気になって今日も病院に行かなかった。昨日従妹が病院を訪ねてくれたらしく、よかったと思っている。
28日(水) 今日は朝遅く仕事に取り掛かった。といっても昨夜も帰ってきたのも8時ごろで、食事して仕事をしてから寝たのである。こんなに押し詰まっても仕事ができていないのは今までなかったのことである。母の事があるので、まとまった時間が取れなかったのである。食料を買って、家族に食べさせ、洗濯物の始末をするだけで、他の事には手と目と心が付いていかない。

今日もスタッフが来て仕事をしていたが、その後「高遠菜穂子さんのイラク報告」のことで少し打ち合わせをした。300人を集めるためには、実行委員がどうしても20人から必要である。川越の友達を通じて川越近辺にもお話をすべきであるし、とてもとても大変な事を始めたのかもしれない。私にとって高遠菜穂子さんには特別な思いがあって、あのバッシングの最中だって支えに行きたいと思ったほどである。「自己責任」なんていっているが、危険も顧みず苦しんでいる人のために立ち向かえるなんて素晴らしいとしかいえない。国を挙げて支える思いでいるべきなのだ・・・頑張ろう。

午後は議会事務局によって帰ってきた。打ち上げが始まろうとしていた。「怒涛の2005年、まさに終わらんとす」と言う感じだ。来年度の課題も多く、政治力が試されるが、今度は受けて腹をしっかり決めて粛々と受けて立てばよいのだと思う。
27日(火)
27800カウント
今日は朝10時ごろ病院から夫の電話があり、退院できるとの事。退院できるからといって、痛みが消えたわけではない。クリニックで泌尿器科の先生に診てもらったけれど、見立ては結局尿管結石。2ミリほどの石が早く体外に出ると痛みが早く消えるそうである。でも、まだまだ痛みは取れないので可哀相である。身体をゆすって痛みに耐えている。急いで連れ帰ってきて、昼食を食べさせ、自分も食べてから、また慶応病院へ。

3時の面会時間に着いた。今日は、昨日に比べ痛みが取れた様子で嬉しかった。手術の間心臓が止まったとかで、心臓マッサージのせいか胸が痛いといっていたが骨も折れていずよかった。食べ物はこの前ジムさんが置いてきたカステラが食べられたと言っていたので、また1つ買い、みかんも買って置いてきた。また、テープを借りて持っていかなければ。彼女は本が大好きなのに、目が悪くなってしまい朗読カセットで物語を聞くのが唯一の趣味である。(テレビだって見れないもの・・・)

夜帰ってきたら娘がカレーライスを作っていてくれた。夫にはうどんを作り、熱を出して寝ている息子もうどんを食べた。忙しいときはすべてが変な回転になる。息子は昨日から熱を出していたが、今日は少し楽らしい。

スタッフは夕方遅くまで頑張っていた。私も議会レポートの原稿を書き上げなければならない。
26日(月) 今日は朝から家事を超特急で済まし、病院に直行した。でも、11時半に病院に着いたら、母はすでに手術室に行ってしまっていた。父が心配して大雪の中を直江津から出てきていた。父と2人で昼食をして母の手術が終わるのを待った。母は思ったより遅く、2時過ぎに帰ってきた。手術の途中で心臓が止まって蘇生しなければならなかったらしい。5秒間ぐらいだったそうだが、心臓が止まったと聞いたときは本当に驚いた。後遺症が残らない事を本当に願っている。目を押すと心臓が反射的に止まるというのがその説明だったのだが、私はそんな話を聞いた事がなかった。

帰ってきて目の麻酔が切れてからは、何べんも吐き、痛がり、ポータブルでおしっこをさせ、点滴を変えたりとなきたい思いで看病した。痛がっているのをどうしようもないのは辛い。背中をさすったり、手を握ったり、ようやく8時過ぎに傷み止めの座薬と睡眠薬が効いて寝たので、9時過ぎに病院をでた。

10時半ごろ稲荷山公園駅まで夫に迎えに来てもらった。帰り道、夫が腰が痛いと言い出した。そして、家にかえるや否やもう立っても横になってもいられない痛さが始まった。慶応病院で母の苦しみを見て帰宅してホッとする間もなく、夫のすさまじい苦しみをみるのは、またまた辛い。どうしようもなく119で救急車を呼び、石心会狭山病院へ連れて行ってもらった。薬を飲ましても効かず、座薬も効果なく、仕方がなく強いお薬を点滴と共に入れた。それで、少しはよくなったらしいが、痛みは消えず、痛みのせいで立っても横になってもいられず、夫はうろうろしていた。私は明け方3時まで付き合ったが、彼を一晩入院させる事として帰ってきた。なんという1日だったんだろう。
25日(日)
37700カウント
今日はクリスマス。知り合いの方受洗なさるので、いのちの樹教会へ出かけた。しっかり証しなさっていて素晴らしかった。自分の時の事を思い出した。私は1989年12月24日ではなかったかなと思う。その前長く教会に通っていたので人生の大半をクリスチャンとして過ごしたように思う。

洗礼の儀式を見てすぐに自分の教会に車を飛ばした。礼拝は終わっていたが、愛餐会はまだ始まったばかりだった。おいしいご馳走をたくさんいただいた。お土産もたくさん。その後、所沢の伯父の所に寄った。伯父も元気で、おいしいコーヒーを飲ませていただき、おしゃべりをして帰ってきた。行って、喜ばれるのは嬉しい。

買い物をして帰ってきたらもう5時。今朝は忙しくてプレゼントを開けられなかったから、夕方全員がそろったのでプレゼントを開けた。皆幸せだった。今日はようやく一家5人で夕食が食べられた。クリスマスディナーと言うわけである。例年通り、ハムのステーキ、ポテト、サラダ、御飯など。たくさんお祈りを捧げた後、いただいた。今年のクリスマスが幸せに過ごせた事に感謝し、この次の1年の幸せを祈った。
24日(土) 今日は朝ゆっくりし、夫と共にクリスマスのプレゼントを買いに行った。私へのプレゼント。安い実用品ばかりのプレゼントを買ってくれていて、ちょっと夫はつまらなそうだった。いつか貰ったゴールドのチェインはヘッドを取り替えながらほぼ毎日使っており、それを見るたびになんとなく夫は嬉しく思っている様子。でも、今年はお金が羽をつけて飛んでいくので、装飾品をお願いできなかった。実はパジャマを貰ったのだが、新しい物はやはりクリスマスのような機会でもなければ買えない。高いのでもよいよと言われたけれど、結局デパートではなくサティの特売品を買ってきてしまった。

午後は月曜日の手術のためにお医者さんからお話を伺うために信濃町の慶応病院へ。手術担当医、麻酔担当医、手術室看護婦、病棟看護婦から手術についての説明を受けた。その間に、母をお風呂に入れ、食事をさせ、録音したテープをセットし、イアフォーンを新しく買い直し、洗濯をして乾かした。ここを1時過ぎに出かけたが、帰ってきたのは9時過ぎていた。寂しい病院のイブで、4人部屋の病室で患者さんのひとりが賛美歌を歌ってくれた。私は昨日焼いたケーキを持って行って配ったが、前のベットの人は糖尿病だったので上げられなかった。病室には面会時間をちょっとすぎた7時過ぎまでいたのだが、町の喧騒とは別世界の病院だが、皆病気と戦いながら懸命に生きてる。私はずうっと母の看病をしていて、2,3日に1度は病院に行くし、もし私がいけないときは家族の誰かに行ってもらっている。でも、ちっともお見舞いが来ない人もいて、心がふさぐ。

「あなたは良くお母さんに尽くしますね」と褒められた。「できる限りしかしていない。看病ができるのは、されるよりもずっと感謝です」と答えた。信仰によって“尽くす”“仕える”と言う事を学んだように思う。それがちっとも苦にならないようになった。
23日(金)
37600カウント
今日は朝大急ぎで家事をして、その後忘年会兼「高遠菜穂子さんのイラク報告会」の実行委員会準備会をした。高遠さんからは4月22日に講演していただく事ができそうであり、こまごまとした打ち合わせが必要である。実行委員長には菅野さんがなってくださることになった。よかった。場所は市民会館小ホールである。3百人集める事ができるかどうか。いや、集めなければ。

平和祈念会にしようと私が提案したけれど残念ながら却下された。でも、世界を平和にしたいと言う思いで高遠さんに来ていただくのだ。平和の種をまき続けたいと言う思いでこの講演会を開くのだ。だって、戦争で幸せになるのはどこかの武器商人か石油商人ぐらいで一般市民は巻き込まれてなくだけだ。先の大戦で、私の従妹だって伯母さんだって非戦闘員だったのに、死んだ。伯父さんも郵便局長をしていたのに、死んだ。きっと今イラクでも多くの人が傷つき、死んでいっているだろう。もう、戦争は止めよう。悲しみの連鎖を止めよう。そんなことを思うからこそ、高遠さんからイラクの話をしていただきたいのだ。

午後遅く図書館に行き、買い物をして帰ってきた。帰ってきても、座ることなく洗濯物を取り入れたり夕食を作ったりした。忙しい。
22日(木) 今日は朝少しゆっくりしたが、家事がたくさんあってあれこれしているうちにあっという間にお昼になってしまった。娘が帰ってきて昼ごはんを食べさせてから、1時過ぎに萩山の病院に出かけた。毎日毎日あっちの病院コッチの病院と行き、本当に疲れた。今日だって買い物して帰ってきたらもう7時を過ぎていた。夜に時間があったが、議会レポートも何も手が付かない。まとまった時間が必要なのだ。あ〜〜あ。

母のこと、伯母のこと、老人を抱えていると悲しいなあと思う。ただ、私は次世代育成の使命がまだある。親のことを一生懸命看病しているが、子供のことを忘れたりしてはいけないと心している。80歳を過ぎた支援者に言われた事が頭に残っている。まず、私が健康である事。さもなければ、看病どころか、親も悲しい思いをする。それと、子育てをしっかりした後に看病する事。命の継承が私に課せられた大きな使命である。親は死んでいくもの。生きていく力を育てることの方が優先すると言うのだ。

それにしても、自分の事が後回しになって、ちっとも仕事がはかどらない困ったものである。あ〜〜〜あ。
21日(水) 今日は朝慶応病院に連絡したが中々つながらないので、病院まで母の顔を見に行った。その前には、息子が溝に填まって自転車ごと看板にぶつかったと言って、帰ってきた。ひざにシップをしてやり、車で飯能まで送っていった。もう、家に帰らずそのまま信濃町の慶応病院に行った。

母は眼球を摘出する覚悟と、たとえ事故がおきて死んでしまったとしても全身麻酔で手術をする覚悟ができたようだ。私は母の前では泣き言も言わなかったけれど、帰りの電車では涙が出て悲しくてたまらなかった。心の中でこの手術で痛みが止まらなかったら母にどう説明したらよいかと思うのだ。今まで、よくなるからと何べん辛く痛い手術を母に強いただろう。確かにない物は痛くないはずだが、ほかに悪いところがありはしないか・・・・長い間看病しているものとしては医者の見立てだって信頼しきれない・・・・でも、信頼するより他に手だてがあろうはずもない・・・・

手術は来週月曜日に決まった。手術をするとなれば、いまさら痛いのを我慢して手術の日を待っているのは酷である。大人が泣くほどの痛さって考えられない。それもあの辛抱強い越後人の母が涙を流しながら痛がっているのである。見ているのも、声をかけることさえ辛い。

午後2時過ぎ、息子の保護者会があるので出席。帰ってきたら頭が痛くて寝込んだ。それでも、7時から国際交流協会の事業の実行委員会に出席。私は税金を使うのだからと何べんも言うのだ。きっと他の会員には嫌な奴だろう。でも、市議会議員になって血税を使わせていただくのには、ありがたさと真剣さと誠実さを求められると心から思っている。きっと国際交流会の人は市から貰ったお金だからどう使おうとよいではないかと思う人もいないではないだろうが、もらったお金が税金ならばやはり市民に還元できるような事業を組み、会員だけでなく多く市民にその恩恵を受けていただきたいと市議会議員ブラクソンは思ってしまうのだ。運営補助金を貰う市民団体には税金を使うに当たりその気構えを持っていていただきたい。

帰ってきたら、10時ごろ。もう、頭の痛さは半端でなく、すぐに食事をして寝た。
20日(火)
37500カウント
今日は朝から家事に励み、10時過ぎからコンピューターの前に座った。でも、いつもの通り、「原稿を書かなければ」と思うとそのための助走期間が必要であれこれ、スタッフとしゃべったりしてようやく議会レポートの1ページの見出しを考え出した。きっとこれがあれば次は書けるさと思い、図書館に本を借りに出かけた。勝海舟を読めば、中浜万次郎が気になるのだ。本当は万次郎を通じて勝の事を知りたいわけだが。

本によると、「やっこ」という浅草のうなぎ屋へ勝や万次郎、武市などが良く行ったそうで、万次郎と勝は大変懇意だったそうである。何しろ万次郎はとても優秀だったそうだし、全世界を見ている初めての日本人でもあり、しょっちゅう外国に行っていたのだから、新し物好きで情報収集に死ぬまで勤しんでいた勝だもの万次郎を大好きだったと思う。それに咸臨丸で地獄を共に見たような人どうしだし、平等感覚においては似たようなところもあったのだろう。(はっきり行って、万次郎の感覚はほぼアメリカ人だったのではないかと思う。)

母の目の調子が大変悪い。実家から電話があり、眼球摘出かという話だ。私は大変動揺した。想像するだけでも怖い。明日医者に電話をするが、勇気が必要である。実家の父は冷静で、その手術をして痛みが取れるならば手術をシナケレバならないと言っている。私は、考えるだけでも痛く、辛い。ひとりで病院にいる母を思うと辛くてたまらない。手を握ってあげたていたい。時々、自分が弱くて悲しい。夫が支えてくれていて、本当に感謝なのである。
19日(月) お手伝いさんがお休みなので家は大変です。今日は、朝から洗濯やらお皿洗いをし、その上、12時過ぎには新都心で彩ネットの運営委員会があるので出かけ、夜まで帰れないので、朝10時過ぎには昼夜食用カレーライスを作った。9合の御飯を炊いたのだが、息子が昼ごはんを食べに帰ってきたりして夜には御飯はもうなくなった。

サイネットの運営委員会は2月のwith you saitama festival の打ち合わせと来年度の予定。着実に行動しているが、これはひとえに代表の吉田さんらのご尽力によっている。ありがとう。それでも、この会は埼玉の女性政治活動の支援を真正面から取り組んでいる会で、この前は横瀬町と秩父町で見にフォーラムを行った。(私は横瀬でシンポジストだった)来年度の講座も一応色々な役割を担うことになる。

委員会の後、飲み会に出ず、東京に出て母の病院に寄った。昨日、目が痛くて声も出なかったので心配だったのだ。それで、ちょっとでも寄れたらと思い、顔を見に行った。昨日よりも楽そうでよかった。今日も帰ってきたら、9時すぎだった。疲れた。
18日(日)
37400カウント
今日は朝礼拝。車を小手指に置いて信濃町の慶応病院に行った。鉄火巻きを持っていって母に喜ばれた。生ものは病院では口に入らない。目が痛くないうちに父に電話をかけに行き、下のコンビにまで買い物に行った。少しでも運動させてあげたいから。姪が洗濯をしに来てくれることになっているがこの頃病院に来ていないようだ。それで、1、2時間だけいようと思ったけれど、結局お洗濯しているうちに5時ごろまでいることになった。その間、新しい薬を目にいてたが、痛みが激しくなって母は薬を飲んだ。あんなに痛がったのを初めてみた。可哀相で可哀相で仕方なかった。

帰ったら7時過ぎで食事をして今はもう9時を過ぎた。娘はクリスマスツリーを飾っている。もう、直江津からクリスマスプレゼントも届いているのに、まだ何にもクリスマスの用意をしていない。どうも、元気が出ない。忙しいのは昔だって忙しかったが、今は1つの事をするだけでばててしまう。年だね。
17日(土) 今日は朝洗濯をしたり、家事を少ししてから美容院へ。昨日からお手伝いさんは歳末でお休みに入った。子供達はそれぞれの仕事を手伝ってくれている。それでも、お手伝いさんなしではするべき家事も多く、これまで以上の忙しさである。

午後は、図書館にテープを借りに行ったのだが、借りたものが多く、結局CDを借りてきた。CDのままでは母は朗読を聞けないので結局ダビングしてテープにして持っていってあげなければならない。目の悪い人ように本を読んでくれる人がいて、それをダビングしてくれるとよいのだけれど・・・・・図書館はそのためのお世話はやってくれない。

夜、もと成人委員会の忘年会。去年いけなかったから、今年は参加できてよかった。楽しかった。
16日(金) 今日は午前中に喉の病院に行った。ポリープは大きくもならず、なくなりもせず、そこにあった。また、引き続き受診する。癌ではないのであんまり心配はしていないが、嫌ね。

午後は支援者が忘年会がてら御餅をついてくれたのでスタッフともども出かけて食べた。結局は話は政治に行く。狭山の政治については話題にならず、外交の話となった。あんなに戦ってきた人でも「今の中国は傲慢だ」と言うようなことを言う。私は段々世論が国粋的にあおられていく脅威を感じている。誰がこんな感情をあおっているのだ。何のためにこんな国粋感情をあおっているのだ。私は中国の都市と田舎の貧富の差がひどいと言うのを知っている。だからって、中国を蔑視したり、見下したりしてはいけない。戦前、中国を馬鹿にして戦争を拡大し、日本は敗れた。戦争に負けたのは日本だよ。一度日清戦争で勝ったという人がいるかもしれないが、実はあれは戦争を止めただけ。結局、何にもならずすごすご日本は帰ってきただけだ。勝海舟は中国にもてあそばれたと言うようなことを言っている。

今まで、中国の安い労働を使って儲けてきたのは誰?日本でしょ。中国で、機械を売りつけ、工場を建て、道路や交通網を整備するために、大きなプロジェクトを進めてきたのは誰?日本でしょ。日本は中国に投資したが、その分どのくらい今までに儲けているか。それを考えればありがとうと中国に感謝しさえすれ、いやだと言う事を平気でする神経では国益を損じる。日本の何十倍の国土、人口。この市場を狙っているのは日本ではないの?

私には中国人の友達がいる。韓国人だってタイ人だってインドネシア人スリランカ人、多くの友達を持っている。私は「いろんな民族の会」初代会長であった。そこで思うのは、民族は文化も違うし考え方も違うが皆同じ人間だと言う事である。お互いに幸せになる道を探すという思いで外交をシナケレバならないと思う。相手が何で理解してくれないか想像する気持ちがなければ議論にもならないし、交渉も成立しない。誰かが国粋的感情が高揚を目指し、中国を敵対視し始めた、日本だけがアジアの誰からも相手にされないと言う事のないよう、そんなプロパガンダに躍らせられてはいけない。しっかりと精神を持って流されないように。

デブ解消に運動をシナケレバならないと思う。痛切に思う。それと、ダイエット。食べない事は難しい。
15日(木)
37300カウント
今日は市長に面会求めていた日だった。予算要望書も私は最近出していない。してほしいことはたくさんあるが、個々のことよりも西口再開発のこと、将来の狭山市のグランドデザインについて話をした。西口は市長が固い意志で実施を考えておられるのだからお任せである。ただ、市民をどのように説得していくかについて、いくつかの提言があり、入間川地区以外の市民には入曽、新狭山駅付近の街づくりを後にはすることで理解を求める事が必要ではないかと思う。また、職員のボーナスカットは始めはやむ得ないかもしれないが、その後、実態に合わせ5年後までカットすると言うことなく終われるようにと言った。市長もその辺のことは自分でも思っている事があるようだった。今後は組合との交渉もあり、矢面に立つ市長は大変だろうが、それも市長は分かっていて一歩も引かないようであった。

私は今後地域に退職老人が増えるし、この傾向は後20年は続くだろうが、その後は過疎と言うか、地域からも人が少なくなる時が来る事を言った。だから、地区センターを今は昔の1町5カ村プラス狭山台を考えているようだが、私は最終的には4箇所に公的な施設を集め拠点化することを勧めた。地域、地域と今は行っているが、後20年もすれば地域に任せられない事態が発生する。そして、結局今地域に任せようと言っている事を行政がせざるを得なくなるのではないかと思う。そうなった時、IT化が進み、公共交通機関が使われるようになるだろうから、出張所などは数を減らしてもよいと思う。すなわち、3駅付近と水富地区ぐらいで十分だと思っている。図らずも、NHKで捨てられる部落の話が出ていた。感傷は別にしても、行政としては過疎状態を防ぐためにも4拠点地域だけでも活性化するように考えておかなけばならないのではないかと私は思うのだ。

幼稚園、保育園もいくつかを除き、民間に譲ってもよいのではないかと勧めた。言う事を忘れていえなかったが、民間の幼稚園園長と保育園長さんと会を作り、今後の幼稚園・保育園の将来像を諮問してみるのもよいと思う。実行するかどうかと言うよりも民間の玄人に考えてもらうのは良い考えだと思う。それには入曽乳児保育所の問題も入れるべきで、私は入曽乳児を止め、幼児園という複合施設をたとえば旧堀内電気前のマクドナルド近くに作る事を提案したい。これも言うのを忘れたのだが、先の会の方々に意見を求めるものよいと思う。誰かが「やりましょう」と言ってくれえるかもしれない。今、確認検査をめぐり、民の参入が疑問視されている。しかし、私は幼稚園、保育園は民間と言えどもちゃんと子供に接しているのを知っている。私は、市がするべき事業には思っていない。(けれど、全部からは撤退してはならない。)

学校の統廃合についても、統廃合をするならば新しい教育と抱き合わせにするべきだと言った。理解してもらえなかったかもしれない。私は、狭山台北小を狭山台中と狭山台南小と統合し、4,3,2年せいの新しい学校を作るのもよいと思うことなどを提案した。2つを1つにするならば、新しい校舎だけでなく、新しい教育も提案するべきだ。町田さんが入間川小学校を作った時エコスクールとオープンスクールという新しい概念の学校を作り出したように。

狭山台の賃貸住宅についても、再生機構と話し合いを進めることを提言した。分譲のところは個人の財産でどうしようもないが、賃貸分を今のままにしていたらスラム化してしまうのが怖い。今ですら少し寂れてきているところが出ている。ホンダの従業員を狭山市に住まわせる工夫、独身寮から出てからは、狭山市に家を買ってもらえるような工夫が必要である。

これも言い忘れたが、西部バスだって採算が合わなければ路線を縮小してしまうだろう。その時、団塊の世代は車に乗れなくなったらどうするだろうか。昨年に行ったニュージーランドの老人問題はこの点だった。引きこもり、ひとり病死、様々な問題が公共交通機関がないことから引き起こされていた。車をギブアップした後の老人問題。このことは今どうこうできると言う問題ではないが考えていなければならない。

私は市の施設を分散するのではなく、集中させる事を提案した。「物によって」と言うようなことを市長は言っていた。そうかもしれないが、私は意識的に中央・拠点を作るべきだと思っている。人が集まる事による効果が大きいからである。また、勝海舟になるが勝が江戸を引き渡した後江戸の市民の生活を考えた時、幕府があるから生活している人が大半だったそうで、その人たちを食べさせるために、大久保らと江戸を東京として遷都したのだそうである。核があるから人が集まるのである。

狭山市について色々な事を考えている。寝ても覚めても、勝海舟関係の本を読みながらも頭は狭山市のことばっかりである。狭山市の政治状況も考えている。本当の意味で狭山市の政治を引っ張る力がどこにあるかなど思いをめぐらしているのだ。確かにいえることは、私ではないことである。でも、私は今までもしてきたが先を示し、旗を振り続ける事はできると思っている。ちょっと、きざだが、私の言う事を耳をそばだてて聞いているように。私の言う事はきっと正論だから。

胃カメラを飲んだ。人間ドック。どこも悪くなかった。喘息。薬をずうっと飲むようである。スギ花粉などのアレルゲンが示された。お金をかけなくても、検査なんかしなくてもそんなこと分かっていたんだけどね。
14日(水)
37200カウント
今日は議会最終日だった。いくつかの陳情書、要望書が出た。何が言いたいのだろうかと思うようなものも出された。ため息が出てしまう。町田さんの時の悪い遺産が闊歩しているような感じ。誰にも相手にされないので駄々をこねているような感じだ。コメントを書きたいのだが、後々のこともありいえないが、嫌な思いが一杯だということだけを言っておこう。

議会は一部修正された議案があったが、それ以外の議案は通った。いくつか賛成したくないけれど諸事情を考えて賛成した議案があった。国民健康保険税の値上げについてだ。私は1回め65000円、2回め以降は60000円づつ払うことになる。年間50万円以上払うことになる。最高額に近くなるだろう。どうして私がこの税率アップに賛成したいものか。それでも、一般会計からの10億以上の持ち出しを考え、治療費に対して現年滞納分を入れても収入が低い税率だったら上げざるを得ないのかなあという思いがあり、しぶしぶながら賛成してきた。3億5千万円の増収だと言うが、滞納者は今後だって払えない人は払えないのだから今税率アップしたって3億円も増えればよいところなのだ。

信じられるだろうか、所得200万円以下の家庭が国民健康保険世帯のほぼ半分を占めているのだ。老人2人だったら生きていけるだろうが、4人の標準家庭では生活は大変だと言うのもわかると言うものだ。反対したい気持ちが強いけれどだったら繰り入れを大きいままにしていていいかと言われるとそうもできないと言う事なのだ。

公社の問題は私が指摘しておいた点が議会の指摘ということでコンセンサスになりつつある。公社もしっかりしないと3年後には解散の憂き目となろう。指定管理者の民間事業者(特に株式会社)に期待する事大である。期待を裏切らないでほしいと痛切に思っている。
13日(火) 今日はくたびれ果てていて、ボランティアに行くつもりでいたが、行かなかった。毎日忙しくて家事はほとんどお手伝いさんにお願いしている。午前中は議会だよりの原稿を書き上げた。午後は子供がテストで昼ごろには帰ってきたので食事をさせたりしていた。

午後からは図書館に本を返しに行き、またまた勝海舟関係の本を読んだ。福沢諭吉と木村摂津守の評伝を読んでしまった。勿論斜めに。どうも福沢諭吉は好きになれない。木村摂津守に関しては海舟よりも年若いにもかかわらず、気性の激しい勝海舟の不遇時代に咸臨丸の総督として艦長勝海舟と共にアメリカに行った人だ。彼は明治維新後に幕臣として官職に付かず隠居してしまい、後には海舟の金銭的援助を受け、海軍歴史の監修をした。海舟と木村とは後からは何にもわだかまりを持たなかったらしいが、福沢は木村の弟子としてどうしても海舟を理解できずに終わったようだ。偏見が強い人だったのかもしれない。今時は脱亜入欧は福沢が言った事ではないという説も出ているようであるが、欧米大好き福沢は欧米並みの帝国主義国家を望んだとしても不思議はないなあ。

今日ニュースで小泉さんが「首相が対談したくないと言うのが理解できない」と東アジアサミットで言ったと言う。中国と韓国が小泉との会談を拒否している事が理解できないのだ。すなわち、小泉はたくさんお土産を中国と韓国に持ってきているのに、貰いに来ない中国と韓国が理解できないと言う事なのであろう。でも、中国こそ面子を大事にする国であり、金で国のほっぺたを殴るような下品な外交に乗ってくるわけがない。こんな外交オンチで、誠心も誠意も感じさせない男で、相手国の気持ちを理解できない人が日本の首相だと思うと情けない。

明日、議会の最終日である。値上げ、税金アップ、そんなことばっかりしているような気がしてならない。今までの社会の枠組みを維持しようとするならば、高福祉高負担は仕方がないのだろう。分かっていても、手取りのサラリーが額面の半分になってしまうのは辛いなあ。
12日(月)
37100カウント
今日は朝ボーナスが出たので、急いで銀行に行き、息子の授業料分を定期に入れなおした。さもなければすぐに使ってしまうだろうと思うからである。(また、です、ます体からである体に変わってしまった。)ボーナスから出て行くローンもかなりの高額で2つも家を作ったり買ったりしたツケを今必死で払っている状態である。その上、年払いの簡保もあり、楽しく使えるボーナスの残りと言うものはあるのだろうか。年末も来るしね。クリスマスプレゼントもいるし、お年玉も用意しなければ・・・ユウツ。

それを片付けてから家に戻り、「さて仕事」と思ってコンピューターに座ったが、原稿はかけない。3時過ぎ、母のいる信濃町の慶応病院に行った。今日も母は調子がよくないようで、ベットに横になっていた。蒸しパンを食べ少し元気になったようだった。母の好物のゆで卵も買っていって夕食に食べさせた。喜んでいたので嬉しかった。姪が洗濯物を取りに来て、少し話し込んだ。7時半ごろ病院を出て帰ってきたが、乗り継ぎが悪く狭山市に着いたのは9時過ぎだった。この3日間信濃町まで通ったけれど、とてもとても疲れた。

勝海舟の本は氷川清話を読んだり、海舟語録を読んだりしている。それを読んでいると小泉さんの外交が本当に稚拙に思える。桜井よし子という人が小泉を評価していて、何も中国や韓国を相手にしなくてもアジアにはインドネシアもタイやカンボネシアもあるなんていっている。本当にば〜〜〜かと言いたくなる。中国が本気に日本を相手にしなくなれば、地続きの国々、たとえばカンボジア、ベトナム、ミャンマー、タイなどは日本を相手にはしなくなる。怖くって中国の怒りを買うような事ができないのだ。その上、歴史上中国に侵略もされたかもしれないが、先の大戦では助けられたこともあるのだから、日本にはできても中国にたてつくなんて事はない。インドネシアだって中国系の人が経済を牛耳っている状態で、中国がそっぽを向いた日本と今ほど親しくする事はなくなるだろう。そんな時でも仲良くできるとしたら、インドが英国のなじみで少しはよい関係をもてるかもと言ったところだろう。

先の大戦で日本は帝国主義からアジアを開放してあげたなんて思っていたら大間違い。アジアの人は日本は中国から南下して帝国主義を拡大しようとしていただけだと覚めた目で日本を見ている。今まで仲良くやれたのも日本が戦争を廃棄して、経済のつながりだけだと信用してくれていたからだ。それに、中曽根さんにしても首相になれば、中国や韓国の神経に障るような行動は慎んだ。それなのに小泉さんは靖国は外交の支障にならないなんて大見得を切っているけど、自分がそういっているだけで中国も韓国も問題にしていると言う事は支障になっているのだ。

その支障になっているのは、小泉さんが相手の気持ちを斟酌できないと言うその点にあるのだと思う。この靖国問題を中国や韓国が政治的に利用していると言う人もいる。勿論そういう事もあるかもしれないが、だからと言って、アジアにお金をたくさん出して感心を金で買おうという態度では日本は見下されても尊敬されたアジアの一員としては受け入れられなくなると思う。勝海舟ではなくとも政治も外交も”誠心誠意”が大切である。自分の思いに囚われて、相手を思う気持ちがなければ、相手にはよく思われないのは当然である。やり方は異常だといわれたが、日本で小泉与党は勝った。世界でそれが通じるとしたら大間違いである。人の気持ちを踏みにじるようなことで外交がなるものか。中国を発展途上国と思って侮るようなことはすぐにでもやめるべきだと思う。

また、日米関係についても小泉さんは何か間違った思いがあるのではないか。私だって日米安保は絶対必要だと思っている。その関係維持のために日本が妥協する時もあって仕方ない。しかし、安保があるから中国に対して強硬な態度をとってもよいとは思わない。中国に力として対立するのはいけない。私は日本はアジアの一員として尊敬され、そしてアメリカのバックの元で安全を確保するのがよいと思っている。しかし、小泉はまるでアジアの王様のような思いでいるのではないかと心配している。確かに日本はお金は多少あるかもしれないが、人口、国土の広さからして中国に太刀打ちできない。その点をよくよく考える外交を小泉さんにしてもらいたい。韓国と中国と仲良くする事が日本の安全保障を将来的に確立することなのに・・・田中真紀子さんを外相からはずしたツケは大きい。(いまさら、鈴木宗男が田中さんのやろうとしたことは正しかったなどと言うのを雑誌で読むとこれにも笑ってしまう。)

最後に、桜井よし子というは長岡市立東中学校を卒業し、長岡高校を出ているようである。東中は私が1年在籍していた学校で、もしかして私が長岡にいたら長岡高校を卒業しただろうから、先輩になるのかもしれない。長岡の人はどうしても、慶応の人と思いを1つになりたがるのは、明治維新の時の因果かもしれない。でも、大雑把に言って、河井継の介にしても、山本五十六さんにしても時局の読み方を間違えた人ではなかったか。桜井よしこさんが間違っても仕方ないかなあ。
11日(日)
37000カウント
今日は朝インマニュエル教会で礼拝を守りました。いつも牧師さんがきれいな聖句の書を送ってくださっています。昨月もいただき、お礼に伺いました。聖句は机の前に飾ってあり、仕事をしながら眺めたりしています。きっと祈ってくださっていると思います。この前クリスマスコンサートに行き古い友達に会いましたが、彼女も祈っていると言ってくださいました。自分だけで仕事をしていると言うのは大間違い。大勢の人に支えていただきながら仕事をしているのだと思います。

その後急いで、稲荷山公園に行き息子と2人で池袋へ。私達は座っていましたが、途中で高齢そうな御夫婦が電車に乗ってきたので、息子を立たせて座っていただきました。夫も息子もこういう場合に文句を言う事はありません。私だって席を譲ることをいといません。(勿論、喘息などが出ていて息切れがするときなどは、申し訳ありませんが席を譲らないときもありますけれど。)子育てに成功した(!!)と思うときは、こんな風に子供が黙って人に席を譲る時などです。心優しい大人になってくれて嬉しいです。

息子はリーダー研修会に出かけました。私が勧めたのですけれど、ちょうど息子の時間が空いていたらしく出かけて行き、「よかった」といって戻ってきました。「ワークキャンプに行ってもいいなあ」などと言っています。フィリピンの孤児院で2週間ほど働くのだと思います。お金を出そうかなあと思ってはいるのですが、あまり高いと出し切れない。でも、世界には恵まれない子供達がたくさんいて多くの人が助けるために働いているのだと言う事を知ってほしいと思っています。自分からワークキャンプに行きたいというのならば、援助したいなあと思っています。

私は母の看病に行き、夜戻ってきました。今日は“紅牛”で焼肉。お兄ちゃんの誕生日は毎年“紅牛”と決めてあるのですが、今年は忙しくて今日になりました。“紅牛”のオーナーは牛肉が高くて大変だとこぼしていました。そうだろうなあと思いますが、それでもアメリカのお肉を食べる気がしないのが本音です。
10日(土) 今日は朝9時過ぎに病院に出かけた。母が入院しているが中々看病にいけない。今日は午後から関さんという女性ジャーナリストが文庫連の講演会に来てるので、急いで出かけ急いで帰ってくるつもりだった。それなのに、母はとても孤独だったようで、お風呂に入れてあげて、主治医の先生にお話を伺い、などしているうちに、あっという間に2時過ぎになり、帰ってきたら、3時を過ぎていた。もう、お話は伺えないと思っていたら、講演会が延びたようで最後にお会いできた。私は、彼女が執筆している女性ジャーナルの定期購読者で、もうかれこれ4年ほど読み続けている。特に、色々な女性のイベントが分かる欄や勿論トップページも素晴らしい。

女性誌は市川房枝さんの所の女性展望とこの女性ジャーナルを読み続けているが、女性の政治感覚の鋭さは素晴らしいと思っている。私が、中央の動きから大きくそれる事がないのはこれらの先進的な刊行物に寄っている。勿論、「ぎょうせい」などの月刊誌や機関紙をとり、多くのメールマガジンも読んでいる事も役に立っているだろう。だからこそ、狭山市議会の中でも新しい問題を提起し続けられるのだと思っている。その中で、とても多くの問題が解決されてしまった事は嬉しい事である。

午後は、そんなわけで病院から急いで図書館に行き、帰りがけにサティによって夕御飯の食材を買い、その後、御飯の準備にチャーシューを煮込み、いつでもたべらるようにしたのち、クリスマスパーティーへ。とにかく、友達がたくさんいて、最後まで楽しんだ。久しぶりに仲間通しって感じ。鈴木ノンヤオの組織力には脱帽である。
9日(金)
36900カウント
今日は朝から特殊学級の子供の学習発表会だった。いつも楽しく見る事ができる。今回は娘の最後の発表会だった。小学校4年の時、小学校を転校した際、彼女に選ばせたら特殊学級を選んだ。彼女には特殊学級の方が楽しそうに見えたのだろう。それ以来、いろんな事があり、とにかく中学校を卒業する。一つ一つの行事が終わるごとに、高等部が近づき、社会に出る日が近づく。私達障害児を持つ親は将来を見るのが怖いのだけれど、その怖い将来がドンドン近づいている。

発表会の最後に中学校3年生が全員ステージに並んで、最後に娘が感想を発表した。昨日、家で練習し、上手にいえた。今日はステージで発表したのだけれど、娘は胸が詰まって涙を流しながら、ありがとうを言い終えた。全く、親子は似るんだからと思いながらも、私も胸が一杯になった。ありがとうと言われるけれど、私達親だって色々心配はするけれど、娘を持って楽しい事だってたくさんある。よい友達にも会えたのだって、彼女のお陰でもあるのだ。本当はコッチも娘にありがとうを言うべきなんだと思う。それに、娘を授けてくれた神様にも感謝の祈りを捧げたい。

午後は食事にクラスと生徒と親で出かけた。今回もイタリアレストランでスパゲティだった。その後、ボーリングを2ゲームした。楽しくて、子供は大喜び。私は下手で少しボールを投げただけ。

帰ってきて疲れて横になった。議会の開催中は神経が張っていて肩が凝って仕方がない。
8日(木) 今日は委員会2日目。あれやこれやあり、結局終わったのは4時過ぎだった。その後、5時半から委員会の忘年会。席がうまく配置されていて嬉しかったけれど、もう、とても疲れた。

ピースオンの相沢さんからメールで高遠さんの講演会がOKだそうだ。来年4月22日を予定している。大勢の方が来てくださることを願っている。いろんな民族の会に共催のお誘いをした。引き受けてくださるとよいのだけれど。
7日(水)
36800カウント
今日は朝から委員会があった。午前中は視察。建設委員会はよく視察します。できる限り市道の認定や廃止をするところは見て回るようにしています。これは、この委員会のよい伝統だと思っています。他の委員会では毎回視察に出るという委員会は少ないのですから。今日も、初めは入曽、それから堀兼、柏原、その後鵜の木によって帰ってきました。2時間半も外に出て道を調べて歩くだけで疲れてしまいます。

午後は4時ごろまで審査をして、その後建設部によって帰ってきました。条例改正が多いし、指定管理者制度が導入される事での新しい事案も多くあります。民営化や民間に権限移管をするのですが、最後の責任については、初めからハッキリさせておく必要を感じます。何でもかんでも最終的には狭山市が責任を負うというのでは納得できません。この度の建築確認の不正をみても、国がすべての責任を取るのはおかしいのではないかと思っています。多かれ少なかれ、結局、指定管理業者を使う事でそんな責任問題が出ないとは限らないわけで、できる限り文書で責任を確認しておくべきだと思います。
6日(火) 今日は一般質問の3日目でした。始めは順調に進んでいた一般質問が磯野議員のところで止まりました。一部の議員から発言に対して疑義が出ました。今回も通告にない質問をしたというのです。私が聞いている分にはなんら問題を感じなかったし、昨日の大島さんの発言とは違い、通告内容から大幅にずれたり、ヒヤリングをしなかったと言う事でもありませんでした。(少なくとも私にはおかしいとは思わなかったのですけど。)何がどうなったのか分かりませんが、結局11時半ごろから休憩に入り、1時過ぎまで議会は開かれず、結局磯野さんがその発言を取り下げました。

最近の議会は本当にぎすぎすしています。政治の世界は数や言葉で戦争をしているような社会だから、丁々発止になるのは仕方ないとしても、言葉狩りばかりしていては自分で自分の首を絞めかねません。また、今日のことは、昨日のこととのバランス感覚が働いた(?!)という事もあるのかもしれません。このバランス感覚というのが政治の微妙なことで、もし渡辺さんが議長でないならば、同じ会派の磯野さんにお咎めがなかったかもしれません。なんだか分かりませんが、この世界は本当に微妙で、蚊帳の外にいられるならばそれでいいのだと思います。それでも、いつとばっちりが飛んでくるか分からないので、油断もできないと言う世界が議会です。
5日(月)
36600カウント
久しぶりの私の独り言です。なんと、先週、コンピューターが突然壊れてしまいました。兆候があったので、夫に外付けのハードディスクにバックアップを頼んだのですが、それもうまく行っていなくて、事務所のコンピューターにデータを移せなかったのです。本当に困ってしまいました。

が、夫の会社はなんと壊れたハードディスクからファイルかデータを引き出すのが仕事のオントラックという会社です。(たまに、朝日放送の家出人探しのときにオントラックも出てきますよ。)ですから、夫は友達の力をかり、2,3日で壊れたハードディスクから修復可能なファイルを拾い上げ、新しく買ったハードディスクに移し変え、私の機械を修理してしまいました。それで今、私は前のコンピューターを使っているのです。もし、壊れたハードディスクから必要なファイルを取り出したい方は、ワイ・イー・データ(株) オントラック事業部へお電話ください。04−2932−6365にどうぞ。

私は新しいコンピューターを買わなければならないかもしれないと憂鬱になっていたのですけど、これで助かったと嬉しい思いです。しかし、息子は私が新しいコンピューターを買ったらこの古いのを自分の物にできたのにと、あっという間に機械が直ったのが残念そうです。

今日は一般質問第2日目。大島さんは一般質問の通告をよくしていなかったようで、結局質問した内容の一部を途中で取り下げた。そのための協議に午前11時半から午後8時半ごろまでかかり、結局議会が終わったのは10時だった。大島さんはご自分が議運の委員長の時、私の発言をあんなにチェックして、事実でも「過激な発言だ」などと言って発言を取り下げさせたり、通告書に因縁をつけるかのようにしつこく言い募ったりした。私の発言を取り消させようとして私が従わなかったので、問責決議の責任者になって、言論の弾圧を図るかのような振る舞いをしていた人が大島さんである。その彼だからこそ、自分はどんな発言をしても誰も何も言うまいと思ったのかもしれない。それにしても、政策論争というよりも、どこか底意地の悪い感じのプロジェクト21のメンバーの方々の発言を聞いていると最後には嫌味にしか聞こえなくなってしまう。

それは、なぜかと言うときっとプロジェクトの方々の発言からある意味誠意を感じられない点があるからだろう。「本当に市のことを考えているのかなあ」、とか、「本当に市民の方のことを考えているのかなあ」とかと思ってしまうからである。それは、彼らが西口開発反対と言う事を言っておられるからと言うのではない。本当は開発ができようができまいが自分達にはどうでもよいけど、とにかく市長は嫌いなんだというのがチラチラしているからである。反対して市長を悩ましている事が楽しくて仕方がないという態度が見え隠れしているのである。

反対でも誠が見えればそれはそれで意見の相違。何も目くじら立てる必要はない。意見は様々だもの。そんな風に思うのだけど、西口再開発をただただ政争の具にしてしまうのはやめよう。そう感じている。

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