私の独り言 2004年

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心のままに思っていることを書いていこう。嬉しいことに喜び、悲しい事に嘆き、怒る事も忘れまい。一生懸命生きようと思う。

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1月 私の独り事
31日(火) 今日は午前中、ちょっとゆっくりできるかと思ったら、電話は掛かるし、人は来るし、あっという間に11時半。家事もせずに飛び出した。12時に役所を出発。今日は議員研修なのである。言っておきますが、議員研修は議員が自分のお金を着き2千円づつ貯めたお金でバスをチャーターし、研修に出かけるのである。

今回は国立科学博物館に出かけた。新館ができたのを見に行った。新しい技術を使った博物館で、見る人に優しいし、興味を持てるように展示していた。狭山の博物館と比べようもないのだが、やはり比べてしまう。友の会があるそうです。ボランティアも多くいて、見学の子供達に説明をしていました。そういえば、私はPTAで狭山市の博物館に行ったけれど、一度も誰かが展示物の説明をしてくれた事がありません。してくれてもよいのに。

また、狭山市の博物館は歴史博物館であって、科学的な要素の展示は皆無である。年に1度でもよいので、科学的な催しができたらよいのに。工学的なものでもかまわないから。今は、科学離れが進んでいると言う事である。元理科の教師としては、もっと科学振興をしてもよいと思っている。

その後、夕御飯を上野でいただいて帰ってきた。おいしいお上品なお料理で、北海道のお酒をお猪口で一杯いただいたが、それも甘くておいしかった。豆腐の突き出し、おからの味噌だし(生麩入り)、鳥のスキヤキ、鳥のつくね鍋、おじや、りんごのジェリーという献立であった。(冷凍物の刺身なんか出ないところがお上品なところなのである。)鍋奉行もしっかりしていて、私はいただくだけ。これが嬉しかった。家でスキヤキしたら、一番忙しいのは私だもの。今日はゆっくり「私食べる人」をした。夕方の上野公園がくれていくのを見て、とても幸せな気持ちだった。行きのバスの中では、あれもこれもシナケレバならないと思って、焦る心もあった。しかし、、博物館で知的刺激を受け、おいしいお料理をいただき、自分で運転しないでもよい贅沢に浸りながら、いつも何かに追われているような生活だけでなく、一日ゆっくりする事も必要なんだと、帰りのバスでは思っていた。

帰宅途中にスーパーにより、食料を買い込んだ。一日ゆっくりとはしていられない現実が帰宅した途端見えた。お掃除しなければ・・・明日からまたお手伝いさんが来てくれる。待ち遠しい。
30日(月)
39100カウント
今日は、朝市街地整備促進特別委員会に出かけ、傍聴。今後の財政スキームが示された。かなりよい財政計画で安心した。あの数字を見れば、西口はとにかく、他の振興事業にも手がつけられそうである。色々質疑があったが、11時半に休憩が入ったので、私は浦和に出かけた。

3時から浦和の県庁内の記者クラブで、彩ネットのアンケート調査の発表をwith you さいたまでの女性フェスティバルで行うことを記者にアピールした。女性への風が吹き止り、立候補者も当選者も頭打ちになっている。これをどう打破していくかが大きな問題なのである。実際のところマスコミの力をお借りしたいと思うが、男女共同参画にバックラッシュの風が吹いていて、中々難しい。しかし、微かながら女性への風当たりも少なくなってきている。それはやはり少子化によって、人口減少が起きている事が大きな原因だろう。女性が行きにくかったり、子育てしにくかったりしたら、女性は子供を生まない。

話はそれるが、私は人工中絶を少なくするには、女性が結婚していようがいまいが、子供を産み育てられる社会であってほしいと願っている。家庭は大切だけれど、もう家にこだわった家庭ではなく、様々な家庭があってもよいのではないかと思うわけである。フランスでは結婚外の子供が6割になったそうである。古い考えの私は残念に思う一方で、これでもよいのではないかと思ったりしている。生まれることなく殺される子供が助けられるならば、それもよいと思う。

記者会見後は市谷の法政大学の大学院に行き、フェミニスト議員連盟による講座に出席した。赤松良子先生も法政大学教授の衛藤先生の欧米の女性の政治参画についての講義に参加してくださっていた。江田五月さんも来ていた。その他、参加者は富山からや関西からも来ていて、熱心な受講者が多くて驚いた。私はフェミ議に入ってから始めての講座への参加だった。結局、クオータ制についての考えで、制度として立法化する事が早くに女性を政治に参画させる道であると結論されるが、さて、日本では如何か。日本はアジアの中でも女性の政治進出が一番と言うほど遅れていて、世界では第3世界と言われる発展途上国にも遅れを取る有様である。こんな状態では、男女共同参画社会などというのはまだまだ先のことである。それなのに、この状態を嘆かわしいと思わない人が政府にいると思うと、それが嘆かわしい。とほほ・・・

懇親会には出ることなく、まっすぐ帰ってきたが、家に付いたら10時半を過ぎていた。
29日(日) 今日は、朝本庄市の小林千代子さんが2期目の市議会議員に立候補したので、応援に出かけた。関越を使い車で行った。1時間掛かった。本庄市は遠かった。急いだので、10時の出陣式に間に合い、多くの方に混じって応援の演説をした。出陣式を見て、本当に羨ましくなるほど人が出ていた。来年私の選挙があるが、どんな事になるか。選挙も所によって様々な戦い方がある。私の場合は7日間マイクを離さず、先回は喉にポリープまで作ってしまった。また、家の選対は小さくて、少人数でてんてこ舞いをするのだ。それにくらべ、小林さんのところは地区の婦人会が総出で手伝ってくれる。おにぎりを食べさせていただいたが、おいしかった。きっと彼女は勝つだろう。ポスターもよかった。

11時半ごろ本庄市を出て、また関越に乗り、さいたま新都心へ。北浦和が込んでいて1時過ぎにようやく着き、iwith you さいたまで男女共同参画条例の勉強会へ。狭山市の場合を思い浮かべて、寂しさと悲しさで一杯になった。狭山市の女性団体の活動は趣味的なものが多いし、男女共同参画条例を作ろうとする市民団体なんかない。私が中心に勉強会を開いたが、結局発展しなかった。けれど、今日のほかの市の方々の話を聞けば、条例を作る意味は大変大きいと思う。2期、7年にわたり男女共同参画条例の話をし続けたのだが、結局できなかった。松伏町が議員提案したそうである。私が作り、他の議員に諮って条例を作るのも可能だろう。でも、そうしたら、市民がその後動くだろうか。

勉強会なんかに出てみると、狭山市が本当に田舎町になったんだなあと思う。男女共同参画宣言をしよう、条例を作ろうと言った町田さんはなくなり、この3年間なんら進歩がないように感じる。プランを作り、計画にしたが、その達成状況を議会に報告する事もない。なんだか、計画が唯あるだけのような気もする。センターもないしね。女性団体でも婦人会は年寄りだけになり、若い人は組織を持たずばらばらである。女性の施策が進まなかったのは、誰のせいだろう。私が力がなかったという事が大きいだろうが、この狭山市は現状維持が良い人が多いのが原因の一因かも。合併もせず、今のままがいい。西口開発はお金を使うので止めてもよい。学校の統合だって、新しい発想での教育(教育改革と言う)は念頭にない、etc 。いくら日本の将来は男女共同参画社会の構築に掛かっているのに、狭山市民は現在の幸福のために将来への改革なんて迷惑と考える人が多いのだから、段々日本の流れから離れ、東京に近い地区なのに、新潟の山の中の村より遅れてしまう。

社会の流れをキャッチしないで遅れていくことや、唯我独尊の結末を私は、幕末に独立国を作ると言って戦った長岡藩や彰義隊に加わり旗本達はさっさと逃げたのに殺された高田藩の80人の侍達、その上、この前の第2次世界大戦の軍人達を通して嫌というほど学んでいる。歴史から取り除けられた悲哀を狭山市がこうむらなければよいけど。狭山市のイメージは近隣で一番いなかっぺで、魅力のない感じだろうなあと思ってしまう。それだけでも、私には悲しい。
28日(土) 珍しく予定の入っていない土曜日だった。嬉しくて嬉しくて何をしようかなあとスケジュール表を見て喜んでいた。というのは、来週は目一杯忙しいからである。でも、結局朝は家事に励んだ。子供達の布団を干してやり、洗濯をし、流しに溜まったお皿を洗い、何のことはないあっという間に朝が終わった。という事は昼食のしたく。珍しく子供3人とも家にいた。その後、知人が自転車を直しに来てくれて、その間、乾いた洗濯物をたたんだりしているうちにあっという間に4時過ぎ、珍しく知人と共にお茶にした。結局、楽しみにしていたスケジュールの入っていない日はこんな風に終わってしまった。夜御飯を食べさせてから、夫と娘と共に入間の湯に行った。

本当は図書館にいきたかったし、古本やで本も見てみたかった。楽しい本をベットに寝転んで読みたかった。それなのに、結局はいつも手抜きの家事に追われて・・・・こんな日があと2,3日も続かない限り、家はまだまだ片付かない。ふ〜〜。(~_~;)
27日(金)
39000カウント
昨日、過激にも抗議のバナーをフロントページに掲げた。就学援助金で基準を下げことについてである。冷静になって考えているが、2つの観点で私は正しいと思う。また、違うように考えた点もあった。

1点目は、やはり教育委員会議での議案の説明、及び審査は傍聴者には理解できなかった。もっと丁寧にするべきではないかと思う。普段、傍聴者なんかいないから、市民に納得できるような説明や審査がなされてこなかったのだろう。

2点目は、引き下げた時の影響についてのことについての説明や議論がなかった事。これは昨日私が述べたように、なぜ就学援助家庭が増えているかの分析が説明されていない事と裏腹にあると思う。

3点目は考えを深めたところ。これは就学援助と児童手当の関係についてであり、小学校6年生まで児童手当が出ることになったが、それと今までの就学援助金とどのくらいの違いがあるのかと言う事。第2子までは5千円づつ、第3子からは1万円づつ小学校6年生まで続くとしたら、年間でかなりになるのだから、就学援助金の引き下げがこれで相殺されるかもしれない。この点は、実際数字を当たらなければならないが、児童手当の支給の上準がかなり高いので、今まで援助されていた1.3から1.5の基準のひとも児童手当は勿論もらえるわけである。狭山市の支出についても知りたいところである。

それでは、中学生をどうするか。行革の中で子育て支援をどう考えるかが問題である。何しろ、子供を生んで育ててほしいというのが、日本のどの市町村でもねがっていることだろうが、そのためにいかなる施策をとっていくか。とにかく、教育委員会だけでは、経費削減、耐震工事優先となるのだろう。きっと。

今日は、今まで溜まっていた原稿を書き、手紙を書いていた。それと、昨日のことをあれこれ考えた。議員として思うことだが、きっとこういう援助の引き下げを文教厚生委員会では話があっても、私のような無所属で建設委員の議員には耳に入らなかったのだろう。でも、もし、文教厚生委員会にも教育委員会会議の後に報告が行くのならば、いつもの事ながら議会がどんなに歯噛みしても訂正も修正もできない。それでも、文教厚生委員会ではきっと様々質問が出るであろうから、ことのあとの対処には議会の考えも入れられるかもしれない。議会への報告がどのようになされるか、楽しみである。(え!報告しない?議会にあれこれ言われてはたまらない?そんなことはないでしょう、ね。)
26日(木) 今日は午後までに報告書を2部書き終えて、議会に行った。教育委員会会議があるので傍聴をしようということだったので、役所に行く事にしていたからである。3時から教育委員会会議だった。

私は役所に行くたびに腹をたて、がっかりし、夢をなくし、気が落ち込む。私はおかしいのか、それともおかしくなってしまったのか。今日の教育委員会会議だって終わってみれば私はカンカンに怒り狂っていた。事務上のことも一因だが、本質的なところに怒り集中だ。

ここまではこのところで触れてもよいのだろうが、学校の統廃合について検討が進んでいる。内容に付いてこんなところで発表できる状態ではないし、はっきり言って口にもしたくないような検討内容だ。(もったいぶっているわけでないのよ。)適正規模とは何かとか、地区割りに付いてだとか、教育委員会が言いそうな検討内容なのよ。検討と言えば、結局その程度の検討しかしやしない。担当課長が考えるのは自分の手の上で何ができるかと言う事だけなのだ。大所高所からの視点なんか彼の役目ではないからである。

しかし、私は学校の統廃合は狭山市政運営上、極めて政治性の高い問題であり、学校教育的視点だけでなく、運営・経営じょうの大きな視点なしにはできないと思っている。学校の統廃合を大きな視点で考えなければ、狭山市の将来はもっと悲観的になってしまう。(分かってもらえるかなあ)教育施設は明治から街づくりの中心であったからである。たとえば、3校を2校に使用とする場合、真ん中の学区を二つに分けて2校にするなんて計画に誰が賛成しますか。足して2で割るという平板な発想で街づくりをやられたら、狭山市は都市間競争に敗れ、元の木阿弥の状態になってしまう事だって考えられるのだよ。それに、今後狭山市は人口が2030年までに20%ほど下がると言われているのだから、それに対応する街づくりの場合、今学校だって公民館だって立替時期で築後50年以上経つ施設も多い。どのようにこれらの市の施設を立替え、街を新しく形成するべきかを考えなければならないのだ。

将来を見越し、人口減や小さい効率のよい街づくりを考え、楽しく有意義に健康で過ごせる街づくりを思うときに、私は、今後は4拠点に集約すべきではないかといっている。散漫な街づくりは街の魅力を減少させるし、結局市民にとっても使いづらい事になる。公共交通機関を集約的に4箇所に集めるような工夫と教育施設を核にした公的機関をその近くに集めるように街を作り、施設を立て替えればよいと思っている。たとえば、水富地区ならば公民館も古くなり、小学校も古くなり、立て替える時には上の原団地の近くの調整区域に幼稚園から生涯学習までの拠点を作っていくのはどうか。ついでに広瀬小学校や笹井小学校の生徒も少なくなっているので、コミニティバスをスクールバスのようにして、安全な交通手段を作る。入曽の逆線引きのところに幼稚園と保育園の複合施設と古くなった入間公民館や小中学校を建て替えてここら辺を拠点とする。入間川では澤地区の市街化調整区域のところ辺りに入間川幼稚園、東小、中、を取り組んだ施設を造る。新狭山は3階にある公民館と幼稚園の複合施設をやめ、出張所とともに新しい施設を造り拠点とする。また、新しい箱物かといえば、イエス。その代わり、今市街地にある土地を売り、開発してもらうわけである。そうすれば、新しい街に新しい人が住み、新たな活気に満ち溢れていくだろう。足して2でわる。金を使わないなんて、ちんけな案を教育委員会が画策しているならば、もうよしたら・・・・詰まんないなあ、結局狭山の役人の度量はそんなモンかいと思う。

次に私が怒ったのは、今は子育て支援に力を入れなければならないし、若い世代を狭山市に取り込まなければならないのが課題であり、世間でも言われているのに、狭山市では就学援助の基準を1.5から1.3に下げると言う事を教育委員会議で決めたことだ。収入の少ない若い世代が年々多くなっているので、就学援助する人の基準を下げ、その分の就学援助をカットしたいと言うが理由なのだ。私は教育委員会会議の話し合いが非常に杜撰だと思った。同じ議題を議会の文教厚生委員会に掛けてごらんなさい。ありとあらゆる質問が出てくるだろう。勿論、教育委員会会議と議会の役割が違うのは分かっていても、納得がいかなかった。今まで1.5でもらえていた人が何人いるのか、今後もらえなくなる人が何人に予想されるか、今の時点の人数ではどの程度か。また、これを引き下げると、狭山市の持ち出しはいくらほど下がるのか。誰も質問しない。もし、引き下げたら、若い世代はどうするだろうかと言う想像もしない。子育て支援関連での質問が皆無。また、狭山市は100世帯ずつ就学支援の世帯数が上がっていると言うが,他市はどうか。また、なぜそのようになるのかの分析は?とにかく、ただただ、金がない、だから引き下げると言うわけだ。

もし、引き下げによる狭山市負担分が膨大であったなら、その分をどうするのか(余計な心配か!)。もし、少なかったならば引き下げなくてもよいわけだ。川越市は1.5なのだから、引き下げたことによって、それらの若い市民は川越市に移って行くかもしれない。その際、貧乏な若い世帯なんかいらないんだよと言えますか。元気な狭山市が老齢化率が近隣に比較して高い状態でできるのか。あまりにも、近視眼的な施策の転回に私には思える。行革は必要だけど、ここら辺はどうも納得ができないところだ。施策のメリハリを誰が見ているのだろう。実際のところ教育長しっかりしたらどうですか。あなたは学校長ではなくて、教育だけを見ている人でなく、市政の中で考えながら教育を見ていってほしいものである。どっちにしても、教育委員長だって校長上がり、今日いた4人の教育委員の中で教師上がりでない人は一人だけ。それも女性議員はお休みで、全員男性。これでは、市政全般からまた国の課題の状況を鑑みての施策は難しいのかもね。もっと説明をしてくださいよ。さっきから言っているけど、どの目線で施策を見ているかと思う。もし、私の考えている事も考えていたとしたら、それをどう考えたか教えてもらいたいものだ。説明に来てください。

とにかくしばらくは役所に行くのを止めたくなった。血圧に非常に悪いところである。
25日(水)
38900カウント
39000カウントが近い。その上の、40000カウントももうすぐ。ワオ!!!16万カウントになって、市民の人に全員読んでいただいた数字にしたいなあと野心を持っております。議員をしているうちにできるでしょうかね。

なんて言っているが、読者の人に会って話をしていると、本当にこんなに自分をさらしていていいのかと思ったりしている。内面をさらけ出しているし、家庭の事が心を一杯に占めているときは結局それも書いてしまった。できればキレイなところも、俗でいやらしい面も含めて愛していただけたらと思うが、人は神様でないので、すべての人に理解されたり、愛されたりはされず、結局非難の矢面に立っても仕方ないのだろう。でも、すべての人が非難しているとも思わない。きっと少しのひとは理解を示していてくれるに違いない。

今日はお昼に朗読ボランティアの方にお会いして母の録音テープをいただいた。ご存知のように母は目がほとんど見えないし、虚弱な体質(最近は少し改善したが)で動き回れない。それで、唯一の楽しみが本の朗読テープを聴くだけなのである。ベットに横たわり、テレビは見れないから録音テープを何べんも繰り返しかけて聴いている。私は楽しそうな図書館の朗読テープをほとんど母に借りてあげた。だからもう借りるテープがなくなってしまった。それに朗読テープに掛ける予算が年間ほとんどないのが実情だから、昔のテープを繰り返し借りてあげていた。それを朗読ボランティアの人に言ったら、ご親切にも読んであげましょうといってくださって、テープを作ってくださった。本当に感謝である。

私は自分で中々録音して上げられない。コンピューターの前に座っている事はできるのにである。「全く、もう」である。自分が母のためにできないことをよその方にしていただくのだから、どれほど私が感謝しているか理解していただけますか。このご奉仕は本当にありがたい。何べんも言うようだけど、ありがとう。

午後は防災課の国民保護法についてレクチャーを受けた。条例については議案になってからの勉強。しかし、これは伝家の宝刀にしなければならない。絶対使用禁止。これを使う時は日本はめちゃめちゃの外交で、民族を滅ぼす時だと思う。専守防衛といっているが、防衛は不可能。外交で諸国との協調、平和を保つ最大限の努力を忘れてはいけない。人民、国民、市民、住民一人でも戦闘でなくしてはいけない。戦争をしないこと。どんなに生活が苦しくなっても戦争はしないこと。これに、限る。日本の専守防衛は平和に尽きる。挑発をしないことだ。挑発してなんになるのか。(安倍や麻生の無責任な発言を許していはいけない。)協調路線に尽きるのだ。

5時過ぎからは教育委員会に。学校荒らしを取り捕まえる事を要望した。
24日(火) 今日は朝、娘の養護学校の合否を聞きに行った。合格できなかった。まあ、何しろ倍率が倍率だけにあきらめていたけれど、親の欲目で「もしかしたら」と思っても見たりした。なぜこういう結果なのかなあと思うのだが、聞く術もないので納得するしかない。彼女の将来についてはしっかり考えていかなければならないと思う。

10時半からは全員協議会だった。いくつかの議題があったけれど、腹が段々立ってきて、夕方まで役所にいたが血圧がぐんぐん上昇していくのが自分でも分かった。不手際、無戦略、無戦術、批判するほうから言えばそういうことだ。目的を達成するためにどんな手段でどうそれを構築していくか、安部譲二ではないが絵図を書かなければならないのに、それがちっとも見えない。市長の周りには、戦略会議を開く人がいないのか。一体部長連中は何を考えているのか。まるで、狭山市政なんて他人事。部長級であっても、お役人根性まるだしなのか。

今日、給料のことで市長から報告があったとき、部課長級に関しては組合に入っていないのだから何とかできないのかと聞いた。けれど、部課長で自分の給料の減額しても市が発展する事を望むなんて人はいないんだね(いるかも知れないけども、そう言わない)。お金持ちの息子でお金なんかうなるほど持っている課長だって一杯いるのにね。黙って皆でサボタージュしているように見えて仕方がない。こんな役所、こんな事を許す政治状況でいいのか。ため息が出る。
23日(月)
28800カウント
今日は朝スタッフミーティングをした。いくつか確認する事があった。午後には報告書を書き始めた。なんだか疲れて、早く眠りたくて、ちょっと横になったら、うたた寝をした。夫が帰ってきたので10時過ぎに起きて、ニュースを一緒に見た。堀江さんの逮捕と言う事だった。あるブログで堀江さんの決算が粉飾ではなかったかと言う事が長い間にわたり検証されているのをずうっと呼んでいて、会計士さんはこんな風に決算書を読むのかと目から鱗と言う気持ちだったから、逮捕されてもあまり驚かなかった。

ホリエモンに関して言えば、額に汗して働くのをよしとする私の信条には受け入れられないものはあったにしても、また、彼が調子に乗りすぎているのではないかと思う時もたびたびあったにしても、新しい世代が失われた10年という過去から違った価値観でITを含めて新しい産業形態を構築してくれるのではないかという期待があったことは隠せない。確かに拝金主義でお金さえあれば何でもできるというホリエモンの言う事には正直笑ってしまったけれど、「今に分かる時が来るよね」と余裕でホリエモンを見ていた。フジテレビやニッポン放送は笑うどころではなかっただろうが、ITと従来メディアとの結合の意味を考えてスリルを感じたのは私だけだろうか。

詐欺まがいの株価操作で虚業を作り上げ、それを違法だとも思わなかったホリエモンはちょっとずれているのは分かっている。もし、ホリエモンを批判するのであれば、お金で何でも買えるのではないことを証明する事でも、やったことの違法性を指摘することでもないような気がしている。そんなことは、すぐにでもできる。しかし、多くの若者にきっと支持されたホリエモンの、その支持されたところの意味の検証をじっくりするべきではないかと思う。支持されたところはきっと、今までの価値基準をホリエモンがぶち壊そうとするエネルギーが支持されたのではないだろうか。自分達はいい子のフリをして実業に励み、回りや上ばかりを気にして、いささかの経済力はあるにしても、真綿に包まれて身動きできず苦しんでいる状況の現在の若者が、ホリエモンのような無鉄砲に、ドンキホーテのごとく経済界、野球界に自己主張したその行為を支持したのだ。したくてもできない若者にとってホリエモンは一種のヒーローだったのだろう。ジャパニーズドリームだったのだ。

そう考えると、今の若者には挑戦する場が必要だ。若者にも自己実現できる場が必要だ。若者の話を聞いてやる必要がある。社長になる事が夢でない社会を作り上げてやる大人の度量が必要だ。大人が自分の利権、地位、肩書きにしがみつき、決して若者にチャンスを上げず(フリーターやニートに喜んでなっているものなど、ほんの一握りなのだ。)、結婚も子供もあきらめている多くの若い世代に可能性という贈り物をしなければならない思う。、ホリエモン逮捕から私達が考えるべき反省があることをしっかり考えるべきで、彼の人格や違法性を私的に問う事が一般人に必要かと考えてしまう。
22日(日) 今日は朝起きたら、青空がまぶしかった。これが昨日だったらよかったのにと思った。朝、ちょっとメールを見て、メールを出してとしていたら、あっという間に10時前、急いで礼拝に出かけた。おくれたけど・・・・

午後はパステルに寄って昼ごはんを食べ、サピオのプールで水中ウオークを1時間ほど。今日は寒いにもかかわらず、込んでいた。室内プールは経費は掛かるけどよいものだと思う。入間川小学校のプールをなぜサピオのようにしなかったのかと思うが、光熱費を考えると温水プールは経費が掛かりすぎるだろうか。今はまるでデイケアのように高齢者が多いプール。今後高齢化人口が増えればもっと必要になる施設。お金を工面してでもプールを作ればよいのに。ところで、サンパーク奥富の利用者がとても少ないそうである。看板を出して、わかりやすくすればよいのにと言う話が昨日でた。箱物行政をどうにかしなければいけない。奥富は公民館があるのに、サンパークもある。どっちか1つにしたらよいのではないかと思う。

プールの後は図書館により、帰りにサティーで買い物をして帰ってきた。今日は心して仕事をしない日にした。けれど、こんなホームページを書いていたら、全く仕事をしない日というわけでもないわね。
21日(土) 今日は朝から雪だった。大きな破片の雪が空から舞い降りて美しかったが、心は複雑だった。だって、雪が降ったら来れないという人がいたから。実は今日は餅つき議会報告会だったのだ。あ〜〜あ、用意したお餅やお汁粉、黄な粉、大根、納豆は余るのだろうかと心配した。

まあ、案ずるより産むが安し。十分食べる人が来て多少のお餅がお持ち帰り用になりちょうどよかったと言う事だった。新しい人も来ていただき、お話ができて嬉しかった。今回の新しい方も退職した男性だったので、「私の知性と美貌に引かれる男の人が多いわねえ。」なんて冗談を言って他の人を笑わせた。あの小さな字で書いている議会レポートを一生懸命読んでくれている男性が多いらしく、この前もバスを待っていたとき、高齢の男性に隅々まで読んでいますと声を掛けてもらい嬉しかった。最近、やはり高齢の男性が会員になってくださる事が多くなっている。ありがたい。

このときの話題は合併がどうしてできなかったのかと言う事だった。今更言っても仕方がないけれど、またいつか仕切り直しができる時もあると思う。次に、西口再開発についてはDVDをプロジェクターで写してみた。これに対しては、あまり市民からのコメントが出なかったが、駅前広場を大きくして降りてくる人を待つ空間を作ってほしいという話が出た。駐車場に入れるには惜しい、5分か10分を待てる場所が駅広の中にほしいと言うのである。もっともだ。

3時からは「高遠菜穂子さんのイラク報告」実行委員会準備会があった。実行委員会までフライングをしないように、そして、実行委員をひとりでも多く集めるためにどうしようかと考えた。事務所の体制が組めていない。私がいない時も多いし、スタッフもいつもつめているわけでない。ボランティアの方々がつめてくれるとよいのだけれど。そのことも考えねばと思った。
20日(金)
38700カウント
今日は朝10時過ぎに介護保険の説明会に広瀬公民館まで出かけた。10時からだったが、事務所で仕事の打ち合わせをしたら、10時までには行けなかった。それで遅ればせながらも広瀬公民館に行った。思ったよりも多くの人が聞きに来ていた。私も説明を聞きながら理解できないところもあったし、財源について不安もある。何しろ今45億円の事業が3年後には65億円になるという恐ろしいほどの事業拡大である。介護認定者は高齢化率のアップと共に増え続け、介護費用も増え続ける。分かっているが怖い。もうじき、4人に1人が高齢者になるというのだ。

午後は机に向かって報告書を1つ書き上げた。偉い。(自分で褒めてやらなければ、次のモーチベーションが続かない。)でも、いくつも原稿書きがあるけど、進まない。

夜は狭山市環境ネットワークの懇親会に出かけた。色々なご意見を聞いた。環境団体としてはあのような話が出るのはもっともである。もっと市民のパワーを高めて、自ら行動する団体となってほしいと願った。市を責めても仕方がないし、国を責めても仕方がないし、だったら私達がやると言ってくださるといいのだが・・・
19日(木) 今日は朝ゆっくりしていたいと願っていたが、結局は息子の弁当のために早く起きた。珍しく外に出るスケジュールがない日で嬉しくって仕方がなかった。といっても、原稿やら報告やらはたくさんたまっているのだが・・・・

で、何かをしたかというと、報告は途中でやめて、役所に行った。今日は会議ではないのでかなりリラックスして役所にいた。高齢者福祉課で介護保険についてたずね、男女共同参画室の責任課長のところで長々と話し込み、環境部へ行ってビンカンの収集の経費について話を聞き、総務課に行って、審議会などの女性の参画状況をうかがい、議会事務局に行き、次長とあれこれ事務連絡をし、西口事務所の方からビデオテープを借り出して、帰ってきた。1階から3階まであちらこちらに寄りながら帰ってきたが、今日は走り回って情報をあつめるという感じでなかったのでよかった。

1つ感じたのは、良くやったというか、たとえば行革でいくらか収入を得たり、いくらか支出を抑えたりしている職員の評価を全庁的にするべきではないかと思う。良く聞くが、民間の事務所などでは成果を表にして競い合うそうだ。市役所でそれができないだろうか。課ごとに競い合うのは如何だろうか。そして、半年に1回でも表彰する。ビール券1ダース分の賞品でもいいではないか。いや、福祉では行革はできないと言うのであれば、抑止策だけでもよいし。何か、やる気が出る行革の進め方はないかなあと思った。行革こそ職員間の温度差が激しいところはないのではないかと思う。
18日(水)
38600カウント
最近カウンターがどんどん進む。どうしてかなあと思っていたら、議会レポートを9日に発行したことを思い出した。きっと、議会レポートを見てホームページを覗いてみようという人もいるかもしれない。ご立派なホームページとは言えないが、誠実に書いている。良い事も悪い事もかなりはっきり書いている。自分の損になることも書いている。こんな風でいいのか分からないけれど、丸ごと人に自分をさらしながら、生きて行っている。時には、私でも大変傷ついている事も多い・・・(勿論、他の人を傷つけてもいるとは思う。意識をして意地悪する事なんかないんだけれど)

今日は、朝事務所で仕事をし、午後急いでさいたま新都心まで出かけた。彩ネットのアンケート調査の考察が主であったし、午後5時からは彩ネットの総会があった。彩ネットとは女性と議会を結ぶ彩の国ネットワークをいう団体で、女性議員を増やす活動をしている。「埼玉県内の女性議員率50%を目指して」というのがスローガンである。まだまだ30%に満たない議会が多い状況で中々女性議員の立候補者がすくないというのが実情である。立候補しないことには当選しない。徐々に女性の立候補者も増えていて、女性の当選する割合もおおくなり、立候補する事に意義ありというより当選を目指して頑張る人も多くなりつつある。でも、さっき言ったように、女性の立候補者は少ない。(17%、全埼玉県市町村平均)実際のところ、町村だけでなく、市でも女性ゼロ議会がある状況である。

その市では女医さんが議員になったけれど、あまりにも議員の中での動きがばかばかしくて1期で止めたそうだ。女医さんにとってははっきり言って議員報酬は自分の給料よりもずっと少ないものであっただろうし、どろどろした権力闘争に身をおくよりも病んでいる人を治した方が嬉しかったのだろう。なんとなく、分かる気もする。私だって、2期目の挑戦は私の義務だと思って自分を叱咤激励した思いがあるもの。しかし、どろどろした権力闘争をわき目に見ても、自分の政治信条を変えずに2期目も頑張ってきた。市政のためだけでなく、女性の地位向上のためにも頑張ってきて良かったと思う。

彩ネットでは議員へ立候補したい人にはそのノウハウを伝え、また議員になった人には政策の勉強会や議会での身の処し方を提供し続けてきた。政党には無関係だから、無所属も自民党も民主党も様々である。議会も様々、女性の状況も様々。しかし、経験のない人が経験のないまま戦うのは無謀である。今後私達の目標が達成するか、または社会状況が大きく変化した時まで彩ネットの地味な活動を続けていこうと思う。
17日(火)
38500カウント
今日は朝6時過ぎに起きて弁当を3つ作った。1つは息子、1つは娘、もう1つは私のため。今日は娘の受験だったから。とても丁寧に審査をする学校で、受付8時半に済ませた後、帰りは4時近かった。私も保護者面接があった。本を読んでいたが、待っているのに飽きてしまった。

それにしても、養護学校の倍率は高すぎはしないか。絶対に入れる狭山養護学校を除いて、学芸大は19倍、この学校は10倍近い倍率。それと言うのも、社会自立(一般就労)をさせる訓練が行き届く養護学校には生徒がたくさん受験するからである。言い換えれば、狭山養護学校へ行けば一般就労の機会がとても低いと言う事なのである。悪い表現だと思うが、障害のある人の人生は人知れず生きがいももてない授産所に閉じ込められる事がママあるのだ。能力があっても、社会に出られない事がママあるのだ。これを避けるために、就労の機会の多い養護学校に人が殺到すると言うわけ。

娘は癲癇の発作もあるし、きっと障害者年金を貰って生きていくだろうが、それだけでは生活ができない。何とか収入を得なければ自立不能なのである。私達がいなくなったときを考えれば、いかなる方法を講じても彼女がひとり立ちできる術を身につけさせなくてはならないと思う。だから、今私はいろんなことを考えているが、実行するとなるともっと考えが必要ではないかと思う。でも、時期は来ている。来年選挙が終わり次第実行に掛かろうと思う。
16日(月) 今日は朝、お弁当を作ってからまた寝て10時過ぎに起きた。疲れがどっと出ている。それでも、おきたら仕事。荷物を作り、封筒を支援者に届けて、また配っていただくようにお願いした。その後、水富郵便局に行き、封書を出し、支援者のところ2軒回った後に今度は中央郵便局へ。3時半近く、友人と待ち合わせて、桜田門にある法曹会館の高遠菜穂子さんの講演会に出かけた。

高遠さんの講演会は怖かった。私は最後の方はほとんどのスライドを見る事ができなかった。グロテスクな死体の山としかいえない。子供の死体は見れない。それを見ながら高遠さんについて考えていた。彼女は自分の事はほとんど話さず、イラクの話をしていた。事実の羅列だったろう。見てしまった人のドライ(をよそわなければやっていけないんだと思うけど)な雰囲気があった。あまりにも悲惨な事実。

彼女の仕事は報われて多くの子供達が更正した。そして、彼女が始めた更正工場はもう彼女の力を必要としなくなったほどに、自立したそうだ。(これは他のHPから知ったことだが)そんなことを彼女はあまり話さない。井戸の掘削のことも話さない。きっと彼女が何べんもヨルダンに行くのは、イラクの井戸水や医療品の補充のためだろうと思うが、それについても話さなかった。また、ファンドレージングでもなさそうで、お金をくれとかNPO に参加してくれとも言わない。聴衆の関わりと一線を隠すように話を進める。余程、彼女は心を痛めているのだろうと思った。私達は始め、この講演会の後にお話をさせてほしいと願っていた。彼女は死体の話をした後普通にお話をできないと断ってきた。身を削り、心をすり減らして語っている。

あるところで高遠さんの狭山市での講演会の実行委員を求めている話をした。ある人が言った。「日本でだってボランティアを必要としているのに何でイラクでボランティアをしなければならないのだ」私は、マザーテレサ、シュバイツアーの例を出した。でも、高遠さんはマザーテレサやシュバイツアーほど偉くないというのだ。本当だろうか。彼女や彼だってバッシングをどれほど受けたか分からないけれど使命感を捨てられなかったのだ。今の高遠さんのように。日本人でもマザーテレサやシュバイツアーのような働きをし始めている人がいるのに、それを容認できないのはなんと貧相な思いか。

そんなことを思うが、一方で高遠さんが自分の事を語れる時が来るとよいのにと思う。一匹狼の高遠さん。でも、決して一匹狼でない。多くの人が彼女を支えたくて講演会を開く。彼女の話を聞きたいというだけで講演会を開くのではない。彼女を支えている人がいることを彼女に知ってもらいたくて講演会を開く。ただ、世の中は私のような思いの人ばかりでないことは確かだ。でも、大多数出なくても、平和を願う事を行動にしている人を支援している一握りの草の根の人がいること、また、その草の根を絶対絶やさない努力が必要だと思う。
15日(日) 今日は朝礼拝。午後急いで虎ノ門の真霞ヶ関ビルで財団法人日本障害者リハビリテーション協会主催の国際セミナーに出かけた。「世界の障害者インクルージョン政策の動向」〜ソーシャル・ファームの経営と障害者支援活動〜という題名で日本、ドイツ、イギリスからの講演があり、その後パネルディスカッション。日本ではソーシャルファームを授産所なども考えているようだが、ヨーロッパではあるパーセント(UKの場合25%以上)障害者を雇用している会社をさすような感じがした。日本にだって福祉工場は昔からあった。唯、日本の福祉関係の人は営利事業に対してアレルギーがあるのがおかしいのではないかと思う。

とにかく、話をよくよく聞けば、制度として日本とヨーロッパとはそんなに変わらないのではないか。唯、先ほどから言っているが、歴史が違うので障害者が働く事を容易にすることの醸成は日本で遅れているかもしれない。普通人と同じほど稼げる会社を作る気概を持って頑張らなければならない。

それにしてももっと期待して行ったセミナーだったが、なんとなく期待はずれ。どうしてかと言うと私の悩みはこの話を聞いてもちっとも直らなかったからである。
14日(土)
38400カウント
今日は朝広瀬公民館に行き、プロジェクターの検査。お昼近くまで掛かった。21日の議会報告会に西口駅前再開発のDVDを皆さんに見せたいと思っている。請う、ご期待。午後はごみ減量推進部会の新年会に顔を出した。本当に、リサイクル協議会以来何年ぶりに会議に出ただろう。ごみについてはリサイクルプラザの工場内部の仕様について反対意見が多く出された。私は意見書を書いても、変更をするのは難しいだろうと言った。唯、8千万円の経費削減になるというのは嘘だったのだろうかと疑問になった。もし、経費が削減されないのなら、袋で缶ビンを出だす必要はない。

本当のことを言って、缶ビンの収集も市がお金を出して処理すべき事だろうか。その点、今後民間の力をどう活かせるかと考えて見る必要はないだろうか。缶にしてもビンにしても昔は民間で処理していていたのだから。

西口開発と合併についての大議論になった。西口開発は新狭山地区に住む人には遠い話なのだと思った。まず、新狭山をと言うのだが、新狭山は一応両口とも駅前は整備させたもの。その後の進展は狭山市駅西口の開発を待っていてほしいと願う。
13日(金) 今日は2つか酔いで横になっていた。昨夜、飲みすぎた。おいしかったお酒だったのだ。あ〜、何年ぶりの二日酔いだろう。
12日(木) 朝、おきてから、魚屋に行き魚をたくさん買って詰めてもらいクール宅急便で自宅に送った。午後12時の特急で狭山市へ帰ってきた。途中越後湯沢で新幹線に乗り換えた。帰ってきたら4時ごろ。本当に早くなった。6時半からは女性フォーラムの会議に。疲れたけれど、母がいなくなって寂しい。一生懸命看病したからね。母を送っていって、ホッとしたけど、せいせいしたとは思っていない。一生懸命尽くす事ができて良かったと思う。おいしいものを持っていこう、楽しいテープを持っていって目の痛みを忘れさせようとずっと思っていた。心が母のことから離れなかった。重荷だったかもしれないけれど、一生懸命だったのでそんなことも思いもしなかった。父も言っていたが、できるだけの事ができたのもジムのお陰である。一言も文句を言わなかった。そんな姿を見ていたから、息子も娘も夕御飯を作らせても文句1つ言った事がなかった。ぶつぶつ文句を言う末の息子ですら一生懸命助けてくれた。おばあちゃんの事があったからこそ、家庭がしっかりしたみたいなところがあった。

不幸ってなんだろうと思う。健康でないと不幸かというと違うような気がする。クリスマスイブに病室で歌った「きよしこの夜」を忘れる事はないだろう。目を摘出すると決まった時の思いだって今思えば皆で悲しんだ事だけでも一家の思いとしてまとまっており、家族一人一人が母を思う気持ちで一杯になった。不幸で悲しく辛い経験だったけど、家族を感じた瞬間だった。

父も80歳だ。みんな変わらないつもりでもそれぞれ年を取った。これからについての覚悟をしなければならないと思うこの頃である。
11日(水) 今日は母を直江津に連れて行く日であった。朝、子供に弁当を作り、全員を学校に出して大急ぎでしたくして出かけた。ジムが休みを取って一緒に退院を手伝ってくれた。急いだが病院に着いたのは11時ごろだった。お金の支払い、荷造り、薬の話(飲み薬や点眼薬だが、右目と左目が症状が違うので様々である)、今の目の状況、お礼、などをしていたら、お昼を過ぎてしまった。1時ごろ病院を出て、タクシーで東京駅まで行った。母が障害者なので少し安かったようである。赤坂の御用邸前を通り、赤坂の豊川稲荷を通り、平河町を通って、外堀どおりを回って、東京駅に。ジムは「ミニ東京ツアーだね」と言った。

東京駅で車椅子連れははっきり言って大変だった。スロープが見つからなかった。ようやくスロープが見つかったと思い、入ったらエレベーターがないので、エスカレーターの前で立ち往生。その時JRの職員が突然現れ、母をエスカレーターの乗せ、車椅子を持ってくれた。ジムは大きな荷物を2つ抱え、車椅子どころでなかった。急いで新幹線に乗ったのだが、その時も職員さんが一生懸命椅子を押してくれたので、私は一緒に駆けていくだけだった。ジムとは東京駅で別れた。「車掌に車椅子のことを言いなさい」とその職員に言われたので、車中で車掌さんにあって、車椅子のことを言ったら越後湯沢に連絡してくれてお迎えの職員さんが出ていてくれて、エスカレーターで乗り継ぎの白鷹に乗せてくれた。特急の入り口が高く、プラットホームからスロープを付けてくれなかったら降りられなかったと思う。直江津でも職員が出ていてくれて、車椅子を下ろしてくれた。

車椅子を押してひとりで直江津までいけるかと心配したが、障害者支援がこんなに進んでいるとは予想外と言うか嬉しい誤算であった。母は車椅子で不安そうだったが、私は断固一人でも彼女を車椅子で連れて行くと強い決心をしていたが、家に着いたときはホッとした。驚くなかれ、一番バリアがひどい駅は狭山市だった。私は自分の車椅子を狭山市から持って出たのだが、JRに比べ西武線は障害者には優しさが足りないと思った。
10日(火) 今日は全く忙しくて目が回った。まず、後援会関係の文書を書き直し、50%ぐらい削った。その上、スタッフによる校正が入り、また原稿を直した。ここまででお昼になり、食後、お金を引き落とし、ダンボール箱を貰ってきて、母の荷物作った。その間、事務所にはお客が来て話し込んだ。3時過ぎ、コンビニで荷物を出し、郵便局で手紙を受け取り、市役所に行って新年の挨拶をし、急いで帰ってきた。今日は夜7時から国際交流協会の会議があるので、御飯を早めに作って食べ、会議に出た。ヤオコーにより安いものを買って、帰ってきたら10時を回っていた。は〜〜〜、忙しかった。
9日(月)
38200カウント
今日は、朝11時ごろ佐久を出た。片づけがたくさんあって、早く帰れなかった。しかし、今回は行きも帰りも渋滞もなく、スムーズだった。長野の北のほうの山は大雪らしく、私達でさえ佐久に行くのを躊躇していたぐらいだった。でも、案ずるよりも産むがやすし。この3日間は青空が広がり、確かに寒かったけれど、美しかった。

土曜日は、珍しく軽井沢に寄って、お蕎麦を食べた。軽井沢値段でとても高かったが、おなかが一杯になったのでそれなりによかった。プリンスのアウトレットモールによって、夫の誕生祝(11日が誕生日なので)を買った。初めてブルックスブラザーズでネクタイを買った。色々なお店に行ったがなんとなくピンとこなくて、結局アメリカ製のネクタイを買った。まあ、アメリカ人なんだからアメリカ製でもよいか。夕方は市が経営している温泉に行き、外食して、夜は「若草物語」のビデオを見て、7日は終わり。

8日は野沢福音教会で礼拝を守り、午後は教会学校の子供達とカルタ会をし、帰ってきて私はぼんやり本を読んだ。夫と娘は暗くなってもそり遊びを止めなくて、凍えて帰ってきた。出来合いのお惣菜で夕食。寝た。冬は水を止めているので、どうしても外食やらお弁当やらで済ます。これも、別荘に行く意味かな。少し、家事からの解放。

今日は、すいすい帰ってきた。その後、荷物を片付けて、母の病院に会いに行った。寂しいだろうと思うから。退院が決まり、母は嬉しそうだった。また、2月4日に診察に来なくてはならないらしいけれど、今後順調に良くなることを願っている。痛みが完全に直るとよいのだけれど・・・・主治医にお礼を述べて、「今後お会いしたくありません」といったら、笑われた。本当に、病院と無関係になることを望んでいるのだが。とにかく慶応病院のこの先生はとてもよく話を聞いてくださる方だったので、私や他の患者さんには人気の先生だった。確かに、若くてハンサムってところが人気の一因だったけどね。そうそう、隣のベットの人は先生が独身だってチェックを入れていた。若くてハンサムで独身でも、もう眼球をくりぬく手術は2度とゴメンだから、お会いする機会がない方が嬉しいわけだ。

11日に私が彼女を連れて直江津に行く事になっている。車椅子の調子もよいし、雪さえ降らなければいいのだけれど。
7日(土)
38100カウント
今日は朝遅く佐久に行く事にした。昨日は原稿を2枚書き上げた。夜中12時まで原稿を書いたが、どうせ直さなければならない。とにかく10日間原稿を書き続け、心身ともに疲れた。狭山にいればするべき仕事はまだまだある。結局休めもしない。

この冬休みは子供達を連れて伯父の所とおばあちゃんのお見舞いに東京に行っただけだった。お年玉も今年は少ししかなかったから子供たちも買えるものもなかったのかもしれない。お買い物にも行かなかった。日ごろとちっとも違わないまいにちだったが、今日、息子の学校が始まってもぜんぜん2学期がはじまったという感じもなく、どことなくお正月の気分。とにかく、私と夫はやっと休みが取れると言うわけである。よかった。
6日(金)
38000カウント
明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。今年の目標は痩せたいとおもっているのですが、ダイエットがいつまで続くかなあって弱気でいます。

今年は年末年始に仕事が忙しくサイトをアップする事すら考えられなかった。母の入院で信濃町まで通い詰め、自分の議会レポートの原稿がなかなか手に付かなかったこともあって、元日から原稿を書きとおしである。まだ、後援会ニュースであるネットニュースの原稿を書かねばならない。今年の正月は夫も忙しくて、なんと2日会社からの呼び出しででかけ、3日には徹夜で、4日夜中12時まで帰ってこなかった。ひどい!!

その点、子供達はのんびりだが、冬休みの宿題をしているのかどうか。楽しい冬休みを送っていることだけは確かだけれど。

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