私の独り言 2004年

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心のままに思っていることを書いていこう。嬉しいことに喜び、悲しい事に嘆き、怒る事も忘れまい。一生懸命生きようと思う。

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3月 私の独り事
4月4日(火) 今日は朝6時出発なのに、6時3分前に起こされた。私が起こす立場なのに、熟睡していた。寝る前に、スーツケースを詰めてパジャマを入れるだけにしておいたから、10分もしないうちに車にスーツケースを乗せて空港に出発した。バスの運転手が出発ロビーに下ろしてくれて、全部の荷物をカートに乗せたはよいけれど、またしてもターミナルが違った。今回はチャイナエアラインが融通を利かせてくれて、チェックインを間違ったターミナルでさせてくれたので、本当によかった。楽器類も多かったけれど、すべてフリーパスだった。何でそうなったのか理由が分からないけれど、感謝以外のなにものもない。

最後のどたばたは成田を出発した直後、生徒がトイレに行っていて乗り遅れた事。幸い300メーター走ったところで気付いたために、生徒はバスに乗れた。よかった。帰宅は結局6時過ぎていた。夕食のカレーライスがおいしかった。

今回の旅で思ったことは台湾の人、特にお世話してくださった宜先生や宋さんのご親切なことに対する感謝と尊敬の思いである。宜先生は78歳で台湾ルーテル教会の最長老の牧師で連盟の議長さんである。その彼が7日間朝7時から夜10時過ぎまで毎日私どもと一緒に行動してくださった。それはそれはすごい事である。それに、5日間毎食の準備をしてくださったのである。朝、早くに35人もの食事を買ってきて朝食をさせてくださるのには頭が下がった。とても私には出来ない。宋さんだって夫も娘もいるのに私達の世話のために、朝早くからずうっと一緒にいてくださった。だから、私達はなに不自由なく7日間を過ごした。団体行動の時はひもじい思いをしたりするものだが、お腹が一杯のことはあっても、いつになったら御飯にありつけるのかという場面は一度もなかった。それに、いつもスケジュールがゆっくりしていてとてもよかった。だから、間野先生がカリカリ怒る事もなかった。生徒達がのびのびできたのも宜先生や宋さんのお陰だった。

いや宜先生や宋さんだけでなく、いたるところで援助してくださった台北オペラコーラスの人たちのご尽力も忘れられない。影になり日向になってコンサートバンドに関わってくださった人たちのご好意をひしひし感じた。私達がこれほどのことを人にご奉仕できるだろうか。外国人のためにこれほど身を粉にできるだろうか。感謝はしても、お返しできるかと余計な心配をしている。その点間野先生は淡淡と感謝している。きっと、間野先生は自分のやり方でしっかりお礼はできるという自信がおありになるのだと思う。また、彼は本当に良くなさる方である。今年の秋に、またオペラクワイアの方々が来るそうである。その時には今回のお礼として少しでも何かができればよいと思っている。
4月3日(月) 今日は朝ゆっくりした後に、着替えをして中学校へコンサートに出かけた。台北に隣接している石牌市にある石牌(シパイ)中学校で、生徒3000人のエリート学校であった。校長先生とお話をさせていただいたが、評判のよい学校で越境しても生徒が来るという事で校長先生も余裕であった。近くに大学や専門学校、病院などがあり、かなりインテリジェントな家庭からの生徒が多いそうだ。話をあれこれした後に、私は「貴校の生徒は幸せですか。」と聞いたら、いや受験競争や期待や重圧で押しつぶされそうで、幸せとはいえないでしょうとの事だった。受験校の重苦しい気持ちが充満していた。

きっと聖望高校のコンサートバンドが来るのを何の期待もしないでいたのだろう。お茶を出していただいたが、使い捨ての紙のカップにどうでもいいような味のお茶。金曜日に行った景美(ジンメイ)中学校の厚遇に比べれば雲泥の待遇であった。体育館でコンサートであったが、何しろ音響のひどいのには驚いてしまった。音楽を奏でるなんて事がないのかもしれなくて、アンプすらまともになかった。聴衆も今までは一、二年生全クラスでコンサートを楽しむというのであったが、この学校はお義理に音楽の時間の生徒200人だけだった。きっと、コンサートなんて勉強の妨げとでも思ったのか・・・。前2つの学校と同じように、台湾の民謡´あり山クーニャン’になると歌詞を知っている人を呼んでうたわせた。でも、この学校では誰一人生徒が出てきてうたうことなかった。仕方なく大人が歌い、大人がダンスをした。まあ、それを見て生徒達も楽しそうだったが、ダンスに加わる事はなかった。聖望コンサートバンドは最後まで楽しい音楽を奏でた。間野先生は聴衆と一緒に音楽を楽しむようにいろいろ手を尽くしたが、中々難しかった。でも、コンサートは最後には結構盛り上がったし、プレゼント交換も何とかすんだ。前の2校の校長はよいコンサートをありがとうと言ってくれたが、この学校の校長は何にも言うことなくそこにいただけだった。一言校長先生の感想が聞きたかったが、彼としてはこの催しが終わればそれで良かったのかもしれない。

私はこのエリート学校の子供達は何か変だと思った。音楽に心を開いて楽しむ事ができないなんて頭がどんなによくてもまるでロボットみたい。喜んだり、感動したり、共感したりという感情の教育ができていないのは、どんなに頭が良くてもやはり貧弱としか私には思えない。豊かさの対極の、能力や効率とか言う中で何にもアソビのない人生なんて貧相である。リズムあふれる音楽のそのリズムに無感動で、音楽を音として流してしまうそんな子供達が大人になってどんな国を作り上げるのだろう。暗澹たる思いがした。受験競争にだけ明け暮れた大人がどんな社会を作るのかを日本は教えている。台湾が日本のようにならなければよいけれど。

ところで、私はこのコンサートの最後には胸が一杯になった。聖望バンドの生徒が一生懸命演奏していたからだと思う。色々な事があったけれど、コンサートは手を1つも抜かず、音楽を通しての心の交流に生徒も一生懸命だった。今までは間野先生の音楽が良く分からない面もあったのだけれど、なんとなく彼の目指すものが分かる気がした。生徒達はそれを良く理解していた。皆同じ思いでコンサートに臨み、コンサートに全精力を傾けた。それが私の琴線に触れた。私は何もコンサートに寄与できなかったけれど、思いはきっと同じだったと思う。それがとても嬉しかった。こんな素敵な時はもうもてないのだろうなという思いで一杯だった。この年になると、またいつか同じ事ができると思えなくなっている。一回一回2度とない貴重な経験である。それを体験できる喜びをかみしめた。

夜は最後のため、カトリックの幼稚園の先生たちが作ってくれたご馳走だった。おいしくいただいた。ご飯の後では皆出し物をした。(私息子と共に漫才をした)終わりに当たって、間野先生が4月25日に誕生日なのでお祝いをした。間野先生はとても嬉しそうだった。生徒達はケーキを食べてから、少しケーキファイトをした。その後、来る前よりもキレイにとお掃除をしてねた。最後にしっかり床吹きをしている生徒を見て、この子達は素敵な子供達だなあと思った。聖望の音楽部の生徒は悪くないよね。
4月2日(日) 今日は日曜日なのに礼拝に行かなかった。行くのかなあと思ったが、30人からの日本人を受け入れてくれる教会がなかったようだ。今の宿舎はカトリックの研修所で、朝祈祷会をしていたが何しろカトリックのやり方を良く知らないし、特に言葉が違うので祈祷会にも参加できなかった。礼拝に行かない日曜日は心が落ち着かない。勿論、心で一週間の祝福をお祈りした。

朝、蒋介石さんの記念館、中正祈念堂に行った。まさに、付き添いの先生がおっしゃるとおり、蒋介石は神様のように祭り上げられた。間野先生が「日本にはこんな個人崇拝はないよなあ」とおっしゃられたが本当にそうである。椅子に座っている像は、ワシントンにあるリンカーン像と同じポーズなのだが、意味がぜんぜん違うように思えた。リンカーンはアメリカを支配したのでもない。理想が高かった大統領で非民主的な方法(暗殺)で殺された故に、アメリカ人はとても残念の思っている現われとしてのリンカーンではないかと思う。リンカーンを見るごとに自分達を恥じる思いの方が多いのではないか。絶対、こんな事があってはならない(奴隷制も暗殺も)という思いを新たにするだけだ。でも、台湾はまるで違う。国民党が台湾人を踏みにじる権力の象徴のように見える。

その後、アジアで一番高いビルに行った。台湾で一番ファッショナルな場所ではないかと思う。日本で言うと横浜のランドタワーって感じかな。ディオール、グッチ、など世界で有名なお店がたくさん入っていた。私はティファニーに行き安いものを買おうと思ったけれど、お財布を忘れたのでクレジットカードもなく、つまらなかった。散財しなくてよかったのかもしれない。とはいえ、誰もビルのトップに行くことなく集合し、車の中でおすしの昼食をたべて、国立故宮博物院に出かけた。美しい絵、美しい書、美しい焼き物、ゆっくり見たいところだったが時間画なかったのが残念だった。その後、淡水に行った。ここは台北の北側にあるリゾート地。夕日がきれいなはずだったが、残念ながら曇っていて夕日も夕焼けもなし。

海岸沿いの堤防を歩き、その下のお店を見て周り、私はソフトクリームを食べた。アイスクリームがまずい。まるで、アイスクリンという感じでどこにクリームがあるのかと思う味。(台湾でも日本と同じ名前のものがあるが、味がぜんぜん違う。驚いたのは、醤油。また、マヨネーズや麦茶には砂糖が入っている。似て非なる物がたくさんあった。)

その後、お店やさんがたくさんあるところに行き、ショッピングをした。小さなアクセサリーを買ってきた。もっと買い物をしたかったが、何しろ時間がなかった。残念であった。夕食をレストランでした。レストランの隣は果物屋さんで南の島のフルーツがたくさん売っていた。名前を聞いても知らない果物もあって面白かった。生まれて初めてココナッツのジュースを飲んだ。味はぜんぜんしなかった。グアバも始めて食べた。おいしくない。おいしかったのはメロンかなあ。それとオレンジ。

帰ってきてから、時間は遅かったけれど、またマッサージに行った。今日は腰から下を中心に揉んでもらった。歩きすぎで、足が痛くて仕方なかったのだ。高いけれど、とても楽になった。帰りは11時ごろになった。台湾人の宗さんがお迎えに来てくれた。私は歩いて帰れるからもうお休みなさいと言ったのに、本当に申し訳なく思った。
4月1日(土) 今日はコンサートがお休みなので、午前中にダムを見に行って来た。私は疲れていて湖畔に佇んでいたが、男子達はボートに乗ってダムの湖一周をしたようであった。その後、昼食。ここで、私達より遅く来た中国人の団体(300人ほど)がさっさとたくさん食べて出て行ったのに驚いた。私達は疲れが出たせいもあり、行動がのんびりである。それなのに、中国人はエネルギッシュです。は〜〜〜。その後県立陶器博物館に立ち寄った。もっともっと素晴らしい陶器を見たかったのだが、新しい陶器が展示されていたが古いのは展示されていなかった。新しいのは目を見張るように素晴らしかったが。

午後に予定されていたフラワーパークをキャンセルした。調子が悪い生徒がいたりして、疲れが午後にどっと出てきていた。ところが、この日の夜はご招待での食べ放題ディナー。良く食べましたよ、生徒達は。とにかく、男の子なんか取ってくると1分もしないうちに全部平らげ、座っている時間よりも料理を取りに行く方が長いという感じ。恐れ入りました。エネルギーをチャージするとまた元気はつらつ人間になってしまい、午後からの疲れはどこにいってしまったの?って感じだった。回復の早い若い人たちを目の当たりにすると、頭がどうにかなってしまう。人間でなく別の品種の動物だね、若者って。

夜は、マッサージに行った。指圧というべきもの。日本の30%引きぐらいの値段だった。1時間1000元。その後、念願の台湾エステにも行った。これは1時間半1200元。気持ちが良くなってうとうとしてしまった。顔のお手いれとマッサージ。あまり効果を感じていない。残念。
31日(金) 今日は朝8時半に朝食。昨日私はほとんど食べられなかった。今日の朝食は肉と野菜の小龍包。おいしかった。少しいただいた。その後、10時半まで自由時間があり、横になって小説勝海舟を読んでいた。小説勝海舟は昭和16年に書き始められていて、そのせいか、どうも日本優位な書き方である。アメリカ人は毛唐人だし、神国日本だし、メリケンはあと50年も経てばやっつけられるなどと登場人物に言わせている。小説もやはりその時代の制約を受けるのだなあと思う。何しろ、私は勝海舟の多くの本を読んでいるので、そんなこと言わないはずだがなあと思ったりする事も多い。

福沢諭吉にしてもかなり良く書いてあって、やせ我慢説も開陳してあった。何がやせ我慢だと思う。自分は我慢などせず威燐丸に乗り込んだのに、よく言うよ。でも、中国と戦争を始めた年に書かれているので、福沢諭吉なんかを持ち上げなければならなかったのだろう。

午後にコンサートがあった。間野先生の優しさがあふれるようなコンサートで、始めの時はぜんぜん乗っていなかった生徒達も後になるにつれて楽しんだ。今回のコンサートも素晴らしかった。生徒達の交流会の時間が取れず、ハイキングの時に一緒に山登りをして交流した。私は一人荷物版をしながら、勝海舟を読んで待っていた。

食事は中学校の方々からのご馳走であった。33人もの人間をご馳走してくださった中学校に感謝である。とてもおいしくいただけた。この歓談の中で中国の女性進出についての話が出た。台北の中学校の校長の半数が女性だそうである。国会議員の40%は女性だそうだ。比例代表制にクオータシステムが導入されていて、半数は女性でなければいけないようである。そんな話を聞きながら日本は遅れているなあとつくづく思う。こんな事も日本の孤立を感じる。今のままでは世界の中で日本はやっていけない。女性政策についてバックラッシュが続いているが、日本古来の伝統云々というのを聞くと、今台湾にいて思うことは何が日本古来のものよと思うのだ。もっと謙虚に世界の動静を見ているべきなのに。今日は日本の政治はどうかと効かれたが、技術と経済は立派でも政治は本当に恥ずかしいと言い訳をした。言いか怪訝小泉さんはやめてほしいと思う。
30日(木) 今日は朝7時半に生徒は登校した。この協同中学校はすごく勉強させる学校で東大級の大学に多くの進学生を出している。朝、7時半登校。一時間自習をしたのち、正規の授業が8時間続く。とにかく英語は一日2時間はするとのことであった。田舎の市にある学校であるががスクールバスもたくさんあり、優秀な学生が2400人もいるそうである。キャンパスも緑が豊かで美しい。勉強している姿を見て回ったが、日本の状況とそんなに違わない。唯、先生がマイクロフォンをつけて授業をしているのが印象的で、決して聞こえなかったとは言わせないぞという思いが伝わってきた。中学生の数学は日本並みであったが、高校生の数学は昔で言う数Vぐらいの難しさであった。もしかしたら、それ以上かもしれなかった。

学校の方針がはっきり伝わってきていた。でもね、クリスチャンスクールなんですよ。クリスチャンはどんな人でも(この際、学力があろうともなかろうとも)神様は愛し、祝福してくださるという立場にあり、どうしてもエリート作りには2の足をふみがちだ。しかし、神様の御用に立つ人にエリートがいても良いではないかと思うし、クリスチャンが国の指導者になってもよいのではないかとも思う。台湾の後の大臣級にキリスト教精神の方が出てくることを期待する。(でも、決してブッシュみたいなのになってほしくないが・・・)日本にだって大平首相はクリスチャンだった。

午前10時半からコンサート。とても、学生が乗ってくれて素敵なコンサートになったよかったなあ。帰りは熱烈なさようならをして帰ってきた。午後は昼食後またバスに乗って台北まで戻ってきた。4時間掛かったけれど車中で教育論を始めて楽しかった。

夕食はピザ。私用にパイナップルピザであった。初めて食べたおやつのようなピザ。今日の朝のクロワッサンは一口食べて食べられなかったし、私達が日ごろ食べつけている食べ物とは似ても似つかぬような食べ物が多くて、食後にアンパン、カステラ、蒸しパンを宿の前のセブンイレブンで買ってきた。明日の朝食が食べられない時にはアンパンを食べる事にする。
29日(水) 今日は朝からてんやわんやの一日であった。まず、3時に起床。3時半過ぎ、バスが来て荷物を詰め込んだ。と、人数分の席がない。今回は去年に比べ3,4人行く人が多く、荷物と楽器が多くなったという事であった。それで、荷物隊は先に行ってもらい、後から私達人間だけを乗せたバスをチャーターしていく事になった。それで、結局私達が5時に飯能を出発したのだ。

成田に到着したらなんと先発隊が着いていなかった。聞けば、第一ターミナルで降りてしまったという事で、大変な思いをして第2ターミナルにやってきた。結局、9時40分発のチャイナエアーに皆間に合った。ほっ。

その後は無事台北につき、お迎えの方々と共に嘉義市(じゃい)にきた。生徒達はここでホームステイ先に泊まりに行った。私達は協同中学の校長先生はじめPTA会長さん達のおもてなしを受けた。とても高級なレストランに行ったのだと思うが、いつものように私は海老も蟹も烏賊も蛸も鮑もオキアミも食べられないし、今喘息がひどくてビール一口も飲めない状態で、かえって皆さんにお迷惑かけたかもしれない。でも、すごい料理であった。
28日(火) 今日は朝からパッキング。何しろ1週間分の荷物を作るわけで、洗濯できないので全部持っていくことになる。いざとなると靴下はぼろぼろ、パジャマは派手で人様の前で着られるものではないし、お土産もいるし、息子も買い物があるしで午後は買い物となった。頑張って夜までには荷造りをした。

9時過ぎ、聖望学園の研修寮に着き、これをかいている。明日は3時おきで、4時出発である。若者の監督として私は付いていくのであるが、体力的に大丈夫か心配になっている。今、どういうわけかもう11時だがまだまだ、若者は寝ていない。音楽部だけでなく、野球部も今日はここでお泊りのようで、騒々しい。私が一声、静かにというべきかなあ。とにかく、毎日レポートをして行きます。おやすみなさい。
27日(月) 今日は朝ゆっくりしたいと思ったが、咳がひどくて7時にはおきてしまった。明日から台湾へコンサートツアーの介添えとして出かけるので、早く喘息を治したいと、早く寝て英気を養おうと思ってはいても、体力が持たない。一昨日の頑張りがいけなかったんだなあとつくづく後悔するが後の祭りだ。何しろ家を1週間もいなくなるので家事だけはしておきましょうと、洗濯に励んだ。月末はお手伝いさんが来ないので、大変なのである。

午後、役所で企業誘致課と市民部・商工課の人から全協で報告するはずのことを聞いた。ついでに、あれこれ偉そうなことをのたもうてしまった。偉そうに、よく言うわと自分でも思うが、部課長級が私の言うような事をうんうんと聴いているのも理解されていて嬉しいと思う反面(勿論、ぜんぜん理解してもらえない事もあるけど)なぜこんなことを言わなければならないのかとそれこそ傲慢にも思う事があるのだ。きっと、役人さんは後ろで舌を出しているかもしれないけれどネ。私は役人に自分のおかれているところからずっと上での視線で物事を見ていってほしいのだ。行政を俯瞰して見る事が役人の役目だと思うが、どうも自分の目の前の事業だけを見すぎている。困ったものなんである。またも、偉そうに言っていますねえ。

夜は急いで家に帰ってきて入間の湯に行き、肩のマッサージと韓国あかすりをしてもらった。少しは体調がよくなるといいけど。
26日(日) 今日は朝桜祭りの出店の準備というか仕込みを手伝ってから、川口のベルディ武蔵野でスペシャルオリンピックスの総会があった。所沢のスペシャルオリンピックスのプログラムがダメになった事があって、私は出席を決めた。こんな事は言いたくないが、スペシャルオリンピックス埼玉の体質は変わりそうもなく、村上さんがいくら怒っても仕方がないとしか言いようがない。スペシャルオリンピックスに参加するのであれば、彼らの土俵で行うしかない。

それにしても、決算はあまりに杜撰だと思った。予備費200万円以上の使い道の詳しい決算が出ていなかった。勿論、口頭の説明どおりフェスティバルで使ったとしても、その内容は特別会計として具体的に書くべきではないかなあと思う。でも、私は公会計をチェックするのに慣れているので、このようなNPOの決算書類は始めて見るので、あまり指摘はしなかった。民間は簡単だね、決算書類は。役所ではこんな事ではがんがん質問が来る事でしょう。

とにかくスペシャルオリンピックスってなんだろうと思う。要するに、スペシャルオリンピックス・スポーツクラブ見たいな物なのかもしれない。スペシャルオリンピックスのコーチトレーニングを受けたコーチが、スペシャルオリンピックスのプログラムを作り、それに参加した人だけがスペシャルオリンピックスに参加できる。地区大会もスペシャルオリンピックスのプログラムに参加している人たちのために開く。だから、一大スポーツクラブと考えてもよいかもしれない。総合知的障害者スポーツ大会とは違うのである。ある意味排他的といわれも仕方がない。他の団体とははっきり一線を画すしているのだから。それはそれでよいとして、規則どおりにちっとも埼玉ブロックは機能していない。それが本当に問題である。
25日(土)
42800カウント
今日は朝から桜祭りの出店の準備と10時過ぎから出店した。4時まで頑張った。これで、材料費は売り上げた。後は3日間で利益分をカバーすればよいだろう。頑張って売らなくては、と声を張り上げて呼び込みをした。

今日は花粉が舞う中、マスクもせず、日焼け止めクリームもつけずに頑張った。帰ってきたら声も出せない状態だった。熱が出たようで、寒気がする。花粉症が悪化して喘息が出始めた。咳と痰で良く眠れつけなかった。家中が心配してくれた。
24日(金) 今日は、朝事務所で仕事をしたが、電話は掛かるし、人は来るし、書類は着くし、原稿は書かなければならないし、子供達は春休みでいるし、と議員と母親に忙しかった。(いつ、忙しくない日ができるのだろう・・・)昼近く息子を連れて川越に行き、パスポートを受け取りに。

帰ってきて、一休みしたら、もう出かける時間。明日の桜祭りの出店の材料を買いに出かけた。買い物をして返ってきたら、6時半。子供に夕御飯の支度の話をして、里親会に出かけた。いつものようにわいわいして、帰ってきた。途中で、ヤオコーにより、安いものをと思ったが、安いものはもう売れ切れていて、パンの残り物を買ってきた。
23日(木)
42700カウント
今日は朝小学校の卒業式だった。型どおりのお式。これはこれでよい。学校長の式辞の時、卒業生は起立してお話を聞いた。直立不動とはいえないけれど、お話を起立して伺うなんてことは卒業生にとって初めてではなかったかと思う。水富小学校は何しろ伝統のある学校で数年前までは卒業式のお行儀は目を見張るほどきちんとしていた。神庭先生がいらっしゃった頃までかなあ。その後は略式になってきたけれど、所々はっとするように思うところがある。式辞の後は着席でお話を聞いたが、しっかり聞いていた。私の挨拶の時も、子供達のしっかりとした視線を感じて嬉しかった。そうそう、呼名の時、一人一人が「ハイ」と大きな声で返事をしていたのがすがすがしかった。

帰ってきて、事務所で一仕事。電話はかけなければならないし、原稿もある。

3時からは娘を連れて、役所に。その後、彼女をカラオケまで送り(今日は3年生の送別カラオケ大会だった)、その後みのりへ行き、25日のパンについて交渉をした。その後、卵のことで2つの養鶏所を見に行った。地元の卵を使ったモーニングセットを考えている。

夕食後、息子を連れてユニクロに行って、台湾に持っていくズボンを買ってきた。返ってきたら11時近かった。
22日(水)
42600カウント
今日は議会の最終日であった。結局6時過ぎまでの長丁場となった。疲れた。まず、議会の朝の大問題は街づくり推進部の東口開発特別会計で1条抜かしたということであった。私は、今回訂正という処置をしたが、それについて言えば本来的には議案を取り下げ、新しく1条を加えた新議案を提案すべきだったと思う。様々な意見はあると思うが、1条と1つの表をつけいれるのを念頭に置かなかったとは、情けない。情けないのは、審議の途中に見抜けなかった私達建設委員会もそうなのであって、だからこそスパッと糾弾しきれないのが悔しかった。それでも、このような1条を加えるという訂正(?!!)は例外中の例外であり、様々な条件がなければやってはいけないことであることを明確にしておくべきだと思い、質問をした。その点は明らかにしたと思う。議場でこの議案を審査した後に、委員会で再審査し、再採決した。あ〜〜〜あ。

午後遅く、私の討論もあった。あれこれ直したので、真っ赤になった原稿を読んだ。ちょっと過激だったかなあ。私は備えあれば憂いなしなんてまやかしだと思っている。断固強い意志を持って、日本は戦争をしない、どの国からも攻撃されない協調外交に努めるべきだと思う。平和活動、国際親善活動に努める事が、日本の安全のために狭山市ができる事に思える。とにかく国防訓練なんかする事態は避けたい。実際意味がないことなのだから。(私の反対討論をお読み下さい。)

今日は特別委員会が作られた。ある議員が市民と共に提出した意見書に嘘の記述があったということで、それについて詳しく調べようという事であった。議員たるもの嘘の文書をあたかも本当のことのように言い立てて、人の考えを間違ったほうに導くようなことをしてはいけないのである。それにしても、今後この委員会がどのような“真相”を探り出すかは分からないが、ゆっくり時間を掛けて調べればよいと思う。

疲れ果てて帰ってきた。これからは明日のスピーチを書かなければならない。心を込めて書きたいと思う。
21日(火) 今日は朝家事に励み、あっという間に11時近く。女性フォーラムの総会が11時からなので出かけた。女性フォーラムが市役所とのパートナーシップを終えて、一定の役割を終えたとして解散を決めた。色々思いがあるのだけれど、会議のしている市民会館に車を走らせながら、次は私が女性活動を引き継がなければと密かに思った。勿論女性フォーラムなどという名前は使わないが、女性固有の問題がある以上その解決と男女共同参画社会の実現のための努力をする会にしたなあと思っている。女性運動が笛吹けど踊らずという事がなければよいけれど。

午後からは紀平のりこさんを迎えての講演会だった。市川房江さんと物資の何もないときに、アヒルの卵を蛋白源に婦人参政権活動のために頑張った話を聞きながら、涙が止まらなかった。私達は一軒名に不自由はないが、まだまだ差別は厳然としてある。間接差別は結局は女性差別である事が歴然としている事が多い。女性の目で政治に参画するのは重要である。

夜は、明日の議案6号の反対討論をかいた。夜書いた文章は冗漫になりがちである。明日読み返さないと不安である。
20日(月) 今日は朝、萩山の病院に行った。お医者さんと娘の状態を話し、薬をもらってきたら、12時過ぎ。その後、障害者福祉課で自立支援法によって変わった精神医療関係の手続きをした。

その後、1時半から西口事務所の方々が来て、認可に際しての再生機構との覚書等についての説明を聞いた。3時半まで。急いで飯能に行き、丸広デパートで注文していた子供の制服と自分のバッグを取りに行った。夕食のお惣菜も買ってきたので、帰ってきたらもう7時だった。公私共に忙しくて目が回った。
19日(日) 今日は朝9時30分に狭山市に集まって、全国喫茶コーナー交流会に出席した。内容は大学教授で交流代表の小林さんの講演、レインボーハウス明石の施設長 笹谷さんの基調講演、午後からは喫茶いずみの事例発表、中小企業診断士の大江さんの講演などで終わったのは5時だった。話を聞いたがすべてのことは増田さんがおっしゃっていたのと同じことだった。

パステルを改善するには、世界で一番おいしく他では食べられないものを提供することに尽きないのではないかと思う。パステルには健康志向の人が多く来るのだからヘルシーで材料を吟味して無添加、自然食を目指して進めなければならない。接客態度も明るく楽しくすべきではないかと思う。メニューも何でもあればよいというわけにいかない。的を絞って手作りの心を込めたものだけを提供したい。少しづつ始めてみよう。

昨日、少し休んだので、今日のように1日中のお勉強でも神経が途切れることなく、お昼過ぎにも眠ることなく過ごす事ができた。やはり、休養は必要だね。

そうそう、礼儀の話で日本は儀式が固すぎるというメールが届いた。私もそう思った時期もあった。特に自分が中学校の時、直江津中学校の卒業式の練習は半端じゃなくて、練習は大嫌いだった。何でこんなに軍隊みたいな事をシナケレバならないかと実際辟易していた。それに比べて、高田高校はのんびり、リラックスしていて明るかった。卒業証書授与だって、学級委員が代表で貰った。(実は私が3組の学級委員だったから貰いに行った思い出がある)これはこれで素敵だと思う。

私はアメリカに行って、クラスというものを実感した。階級というか、生活レベルというかそういうもの。ジェントルマンはかくあるべしというマナーに関してである。挨拶の仕方だって、握手の仕方だって、親しくキッスする仕方にしても、自動車の乗り方、乗せ方、戸の開け方、押さえ方、様々決まりごとがある。これは知らなければ非常に野蛮に思えて、本質的にはあるクラスでは違和感がある。実はアメリカでも、ラテンアメリカでも、身に着いたマナーによって人の評価があっという間に決まる。きっとヨーロッパでは口の聞き方、言い回しの仕方、すべてがそのクラスを示している事であろう。

そんな中日本人は礼儀正しいという評判があった。アメリカではお辞儀はとても優雅に見えるマナーである。アメリカ人がしなくても洗練されたしぐさである。欧米のマナーを知らなくても日本の礼儀を知っておけば本質的に丁寧である。ところが、私がアメリカで驚いたのは、日本人の特に男性のぶしつけな事であった。靴のかかとを踏んでパタパタ歩く日本人学生は顰蹙の的だった。歩くのも蟹股で肩をゆすって歩く。女の子は内股でこれまたパタパタ歩き。どこにでも平気でウンチすわり。それでいて、紹介されては照れ笑いでお辞儀すらしない。ドアを開けて自分だけが通れば後ろに誰がいても戸を開けておいてあげる事もなく、女性がいようが平気で戸を閉める無作法さ。立ち話をするにしても、外国人は真っ直ぐ立って目を見て話すのに、ゆらゆらゆれて真っ直ぐ人を見もしない。はっきり言って日本の若者は体型の劣勢もあり、アメリカで洗練されているとは見えなかった。

その原点が、この前の式にあると思った。アメリカの卒業式は私自身の卒業式も息子の卒業式も経験したが、アメリカでも儀式は儀式なのである。多くのアメリカ人は教会の礼拝を通じて儀式には慣れている。マナーどおりにすることは生活の中でしっかり根付いている。日本人はマナーをどこで教えるのだろう。自分より目上の人が来たり、座っているところに女性がきたら、立って迎えるのはアメリカのマナーなのだろうか。ご挨拶するのに、相手が立っているのに、座ったままでするのは無礼ではないの?こんな事を誰が教えるのだろう。「皆がすれば怖くない」ってビートたけしが言うが、皆で無礼になれば無礼じゃなくなるの?私は儀式過ぎるといわれても、公教育のどこかでマナーをしっかり教えるべきだと思う。目礼、敬礼、最敬礼の違い、こういう場合はこういう風にするのがマナーだと誰かがどこかで教えるべきだ。今、日本ではお年寄りのそういう小言を聞かなくなっている。価値がないと若者がそっぽを向いている。でも、それでは本当の意味で国際人にならない。外国のマナーは教えられないかもしれないが、しっかり日本人の礼儀を身につけておけば、どこに出しても引けを取らないと思う。

皇太子様が今日テレビに映っていた。とても洗練され堂々となさっていたと思う。歩き方、礼儀の正しさが彼を洗練された紳士に見せていた。私は日本人のどの人も皇太子様のようであってほしいと願う。お上品になんていうのは死語になっているようだが、私は中学生に「お上品に」と教えてきた。活発で元気で若々しく、それで、お上品になれるのだ。勉強が出来なくても、お上品になれる。その場その場の礼儀さえ知っておけばよいのだ。ただし、その礼儀は自然に見につくのではなく、誰かがどこかで教えることによってである。勿論、家庭教育が一番その責任を負うべきだろうが、学校教育も一翼を担ってほしい。きっと私は古い人間なんだろうが、国際的に通用する考えだろうと思う。
18日(土)
42500カウント
今日は、朝4時に起きて息子が5時4分の電車で修学旅行に行くので準備した。朝ごはんが早いのでたくさん食べさせたが、いつまでお腹が持っただろう。楽しんで返ってくるといいけど。

午後はゆっくりした。本当に久しぶりにゆっくりした。買い物や用事がたくさんあったけれど、全部しないでゆっくりした。最近はあまり忙しくて飽和状態だったのだ。何かをするというのもできず、自宅でぼおっとしていた。

それでも夜7時から高遠菜穂子さんのイラク報告に実行委員会があり、9時まで掛かった。その後、実行委員の人とココスに行き、私はてん茶を飲み、11時ごろまでおしゃべり。会議ではなかったので、久しぶりにだべったという感じだった。こんな時間がないと持たないなあとしみじみ思いながらいた。
17日(金) 今日は朝子供の修学旅行の荷物を持って飯能まで行った。帰ってきて、スタッフと打ち合わせして、書くべき書類を整理したりしていたらあっという間にお昼。今日は親の会の友達と3人でカレーレストランで食事し、そのあと梱包具屋さんに寄ってから、みのりのパン屋さんへ。みのりのパンというよりベーカリーみのりにしたらと進めた。パン工房みのりでもよいけど。

その後、パステルに行った。忙しいが、桜祭りの出店の準備である。帰ってきたら、7時。急いで御飯を作って食べさせた。亜〜〜、忙しい。ゆっくりする時間がほしい。ひとりの時間がほしい。
16日(木)
42400カウント
今日は朝どうしても気持ちが滅入って仕方がなかった。理由は色々ある。ここではいえない。子供のパスポートを取りに、川越まで行き、帰ってきて息子を中学校まで送っていった。その後、家に帰ってきて、スタッフと話した後、昼食。その後、議会だよりの原稿を書き上げた。4時過ぎに原稿をもって議会事務局に行った。5時頃教育委員会へ。色々な話をしたが、かなりオフレコの部分が多い。

1つ言えば、学校教育課は何を考えているのだろうかという事。淑女と紳士の協定はこの際ほとんど反故ということになるのだろうか。「私が悪かった」といわれたら、私が「ああ、そうですか」と納得すると思っているのだろうか。(だから???)って私は思うのは無理がないだろうし、だからどうするのだと言うことをぜんぜん言わない教育委員会学校教育課なんかとまともに向き合えない。教育長にもこのことをしっかり言って置いてほしい。次はヒヤリングはしても、原稿を見せることはしないよ。いいのよね。

昨日の卒業式で子供の卒業の思い方がお兄ちゃんの時と全く違った。これで公立中学校を私も卒業だ。もう子供がいなくなって、絆が切れる。中学生の母という時代が終わった。お別れ会で子供達のDVDを見ながら、自分の若さが去って言ったような思いである。これも、1つ寂しさの原因、滅入る原因。時間は戻せない。輝く人生の夕暮れを少しづつ感じ始めている。
15日(水) 今日は卒業式。朝、着物を着せて貰い、式に出席した。式も段々に変わってきた。今回の式は簡潔な式だった。謝辞というのもなく、保護者の言葉になって、保護者一同起立という場面が一度もなかった。略礼だけだったが、略礼で失礼しますとも言わなかったので、生徒達は昔の礼儀から言えば、自分達が略礼式で式を行っていたのも知らないのだろうと思った。普通、目上の人の言葉を聞くときは立ってお辞儀をし、失礼して座るのが昔風のやり方である。それなのに、今では誰が話そうが座ったままで、お辞儀をする。お辞儀に関して言えば、西中学校ではきちんと節度をもってしていたと思うが。

先生ですら自分達のやり方をなんとも思わないのだろう。まあ、文句を言う人がいないのだから、略礼が主流になって行くだろうけど、略礼は略礼なんだけどね。それに、生徒が歩けない。入場行進をしていないのだから、歩き方なんてわかっていない。パタパタ歩く女子。ゆらゆら歩く男子。訓練されていないのだもん。そのうえ、立っていられない。真っ直ぐ立っていない。気をつけの練習だってしていないのだろうから、気を付けして2分、証書授与されるのを講壇上で待っていられない。はっきり言って、子供達の動作が美しくないのだ。かったるく歩くな。くねくねしないですうっと立っていろといいたいが、学校では誰もそんなことを指導しない。どうでもよいことのようである。でも、社会ではそんな人間は求められていないのに・・・

午後3時から弟の台湾コンサートの付き添いの件で説明会に出かけた。デパートに寄って帰ってきた。
14日(火)
42300カウント
今日は委員会審査3日目。午前中までに採決し、建設委員会協議会をして帰ってきた。午後はお昼を食べた後に、友達が着物を見に着てくれた。明日、着物を着ようと思う。3時半からは次のミーティング。パステルのメニューを考えていた。仕入先を考えなければメニューにならない。大変。

家に帰ってきて、大急ぎで夕御飯の支度をして、美容院に行った。夕御飯を食べたのは結局8時過ぎだった。忙しくて、目が回りそうだ。
13日(月)
42200カウント
今日は委員会審査2日目。実はノーマの事が私を本当にダウンさせてしまっている。ため息がでて、力が入らないというのが今日一日だった。本当のことを言って、一人静かに家にいて、ノーマの事を偲んで居たかった。

それでも、自分に叱咤激励するように、できる限り頑張って質問をした。その質問をすることで何かが変わっていけばよいけれどと思う。今日の審査は朝9時から午後3時半までの長丁場。最後は委員皆疲れた頭を抱え込みながらも質問した。帰ってきて、横になった。頭では頑張らなければと思うのだが、気持ちがついていかない。明日は元気になるかしら。
12日(日) 今日は朝礼拝。祈っていましょうという事。色々な教会があるのだと思う。

礼拝後、マルエツの前で演説をした。いつもの議会報告。次に、駅前でお金を下ろし、カフェに入って中を見学。次にヤオコー前に行き、また演説。西中学校に行って御餅の箱詰め。終わってからはカルフールに行って、どっさりと買い物。友達の所に届け物をして帰ってきた。オネエチャンがカレーライスを作ってくれた。おいしかった。

忙しい毎日。アメリカの友達が死んだというメールが届いた。ショックで声も出ない。何でノーマが死ぬの?病気かなあ。今年アメリカに行こうと思っていたのに。彼女は私の唯一のブライドメイトであの寒いクリスマスイブの結婚式にやって来てくれた唯一の友達だった。私はノーマにお世話になったのに、何もしないで彼女を天国に送ってしまった。何年も何年も会っていないのに、どうしてこんなに寂しいというか喪失感があるのだろう。私は確実に彼女からの祈りを感じていた。それなのに、私は何にも彼女にして上げなかった。時々、思い出しては日本に来れないかなあと何度も思った。私の心の中からノーマが消えた事はなかった。でも、何にもしてあげないまま、ノーマは天国に行った。そんなに急がなくてよかったのに。

彼女は結局自分の思うようには生きられなかった。仕事も充実しなくて、パートタイムの仕事で終わった。地域の便利屋さんだった。お母さんが大好きで結局家族から離れなれなかった。末っ子の甘ッ子だったのかもしれない。とてもとてもよい人で、教会のため、私達のような一人ぼっちの外国人のために助力を惜しむ事がなかった。人生の楽しみも本当に慎ましく、日本人では考えられないような素朴な生活をしていた。田舎から出てきた娘さんで、私はノーマから中古屋で物を買う事を習った。(スリフティーショップはリサイクルショップとして日本でも定着した)嫌味に思わないでほしいけど、日本人の贅沢から見たらあの慎ましさがほほえましくて、感心してみていた。素朴で慎ましくて可愛くそれでいて頓珍漢なノーマを友達は少し呆れながらも愛していた。人生がうまく行っていないノーマに頑張ってと思いながらも何もできなかった。お手紙もいただいたのに、電話で返したり。返事をしなかったり・・・・ゴメンね、ノーマ。本当にノーマは悲しすぎる。急がなくてもイエス様は天国で待っていてくれたのに。大事なものは失ってから分かったりする。本当に、本当に悲しい。
11日(土) 今日は朝から、いろんな民族の会のポスターやチラシ作りに友達とあたふたとした。それで、総会に行くのが遅れた。会員の一人をピックアップして行った。いつものように、昨年度の事業報告と会計報告。予算は飛ばして、今年度の計画となっていた。まあ、承認され、今年はどんな事をしようかなどと話したが、選挙関係の話ができなかったのがちょっと残念である。秋口にはしっかりお願いをしなければならない。買い物をして帰ってきた。思ったよりも時間があったので、美容室に出かけて白髪染めをしてもらった。昨夜、ケーブルテレビに私が出ていて、息子に「あの髪の毛ちゃんと染めたら」と気になっていたことを言われた。髪が傷んでいたのでトリートメントもしてもらった。卒業式がすぐあるからである。

そうそう、ヤオコーで知っている人に会った。保母さんを辞めたという事であった。家の事情もおありになったようだが、色々その他の事もありそうである。詳しい事を言わないでやめるとだけ言った。私もいつか近いうちにそういうことになるのではないかと思っていた。やはりねえ。
10日(金)
42100カウント
今日は委員会審査第1日目。午前中に視察とその審査、それと一般会計補正予算を審査した。その後、桜祭りの間稲荷山公園内で福祉団体が運営資金作りのために出店してもよいかについてあれこれ交渉をした。福祉団体は補助金をだいぶカットされている。たとえばパステルは親の会の運営費を12万円削減されもうもらえないことになっている。他の補助金110万円もなくなり、パステルの光熱水費を払うようになったので120万円かかるがそれも十分に賄える補助金はもらえなくなっている。こんな状態の中、補助金の変わりにお金を作る算段をしなければならないが、そのために少し市から助けてほしいわけである。補助金をもらえなければ、障害者団体は今までやって来れなかったのだから、今少し団体が自立してお金を作るために支援をしてほしいのだ。

とにかく、稲荷山公園の指定管理業者に市がなり、使用に関しての許可は市が出せるようになった。都市公園内での営業はどうかと思うが、今回は売り上げのすべてが福祉団体に行き、福祉団体はそれを障害者の自立支援のために使う。四六時中場所を占有するというのでなく、桜の咲いている時だけなのだから、許可してほしいと願う。(福祉部長も建設部長もいいですよと言ってくれているから、あまり心配していないけど、課長の内には分からんチンもいるからなあ・・・・)

3時からは市街地整備促進特別委員会で請願の審査があった。現行計画での早期実現の請願が採択された。議会でも採択される事であろう。これで、ほぼ狭山市駅西口再開発事業が進んでいくことに成る。今日までに分かったことだが、55世帯の地権者のうち、49世帯が合意してくれたらしい。全員が合意してくれるまで、あと少しだ。ここまで来るのには、辛く苦しい時も多く、市長はじめ関係職員や地権者、権利者の方々は本当にご苦労があったと思う。私だって応援団として一歩も引き下がらずにこの事業を支援してきた。しかし、やってみなければ分からないところだって多いのだから不安がないと言えばうそになるが、不安要素は後々の努力でカバーするとしてできる限り経費をきりつめ、1円たりとも予算をオーバーしないつもりで建設してほしいと願う。

商工会議所の方々にお会いした。少し言わずもがなのことを言ってしまった。それは、西口の街づくりのことで、投資に見合う賑わいを作るのに商工会議所の方々によろしくお願いしたいという事である。拠点を作ってからの波及効果には行政だけの力ではできない事が多々あるのは今からもみえているからなのである。私の心はもうその後の街づくりに行ってしまっている。それにしても、請願が通るのも商工会議所の方々のお陰である。さすがに商工会議所の力はすごいと思う。
9日(木)
42000カウント
今日は一般質問3日目。私の一般質問のあった日。あれこれ、悩んだ末、色々資料を勉強して書いた一般質問だが、どうしてこうも平板にしか質問できないのだろう。平和のことは明日がちょうど東京大空襲の日だったので、それを言えばよかった。国際交流のことは、教育長の発言に驚いた。一応、質問のことをヒヤリングする代わりに答弁についても聞いておくのだが、昨日までに貰った答弁とはぜんぜん違う内容であった。それも、変な内容。言い訳がしたかったのかなあ。議会で言い訳をしても格好悪いのにねえ。聞いていておやっと思ったが、言い返しても仕方がないのでほっておいた。そうしたら、自分でその発言を取り下げて議事録から削除してしまった。実際のところ、何で取り下げる事にしたのかは私には意味不明。なぜ、自分の発言内容に問題があると思ったのか、少し聞きたい気持ちもあるが、聞いたところで自分で取り下げたのだから、私がとやかく言えないし・・・・

私は教育委員会の独立性を認めるが、それにしても予算の執行権は執行部にあるのだから、もう少し執行部と連絡をとってもいいのに。今日の答弁に関わるが、「僕達は知らなかった。」「言ってくれればやったのに」って論調はどこかで聞いたなあと思う。そうそう総合政策部の人たちが言っていたのと同じ。私が教育委員会に指摘したのは、子供の教育チャンスを能動的に求めてほしいということだった。教育委員会は国際交流協会に自ら行って、子供の国際交流のチャンスを見出してきてほしいということ。この前の交流事業を狭山市の学校と私立学校に打診したが、私立はさっとOKだしたが、公立はチャンスを物にしようという気もなかったのを 私が批判めいたことを言ったのだが、「知らなかったんだ。」「言ってくれればよいのに」というのはやはり感性が低いと思う。

要請があればそれに答えるという態度とチャンスは物にしたいという態度の違いが分からないのだろう。すなわち、教育委員会は少しでもよいチャンスならば子供に与えてあげようという貪欲な思いが希薄な集団なのだろう。学校に言われた事を、校長は教育委員会に上げるようなこともなく、チャンスをみすみす見逃したということなんではないかと私は思っている。「知らなかった」「言ってもらえばよかったのに」というのは非常に甘い。私立にとんびに油揚げを取られても、結局どうでもいいのかもしれない。私が批判しなければ、子供によいチャンスを上げられなくてもったいなかったなどとは思わなかったのが教育委員会だろうと思う。

これは教育長がわるいというのではなく、昔ながらのお役所感覚なのだろうと思う。特に学校はスケジュールが決まっていて、小回りが聞きにくい組織である。年間計画を立て、それに沿って動くのがよい集団だから、とっさに動けないのだろう。また、要請に沿って・・・という重い組織だから、こちらから動いて何かを得てくるという発想が少ないのかもしれない。

自分の一般質問の時間配分を間違え、いいたい事を省略して5分前に切り上げた。その時間がもったいなくて、後からくよくよその時間にこういえばよかった、ああいえばよかったと考えている。いつもの一般質問後症候群で鬱になっている。
8日(水)
41900カウント
一般質問2日目。思ったより、さらっと終わった。ヒアリングあり。今日も朝3時に起きて仕事。原稿は書き進めるのだが、なんとも自信がない。何度も読み直して、書き直している。段々エッセンスだけになってしまい、毒にも薬にもならないのではないかと思って悩む。言いたい事はきちんとメッセージとして出したいと思う。さすがに今日中に原稿を書き上げなければならにので、怖くて寝るわけに行かない。終わるまで書き続ける。
7日(火)
41800カウント
一般質問1日目。ヒアリングあり。原稿を書き始めている。夜8時30分。もう眠くてダメ。というのも今日は朝4時から起きて、原稿に取り組んでいたからである。
6日(月)
41700カウント
今日は9時から、議会質疑の続き。たくさん質問したい事があるが、あまりするとブーイングが起きるかなあなどと少し遠慮して質問した。といっても、私の質問が一番多いかな。

午後まで議会は掛かった。その後はヒアリング。久しぶりに5時ごろ帰ってきた。夕食を作り食べて、入間の湯に行き、肩を揉んでもらった。「すごくこっていますねえ」と呆れられた。40分揉んでもらったが、うとうとしてしまった。やっと頭に血液が回った感じで肩が暖かくなった。でも、まだ原稿は一字も書いていないのだ。明日、起きようかなあと思う。
5日(日)
今日は第一週なので自分の教会へ行った。内容は砕かれた心という事。礼拝が終わった後に、最近アメリカから来ていたジムの弟の話になり、素晴らしいクリスチャンだが、クリスチャンはこうあるべきというのがはっきりしすぎていて・・・という話をしたら、牧師は本当に悔い改めたらこうあるべしという事に囚われず、人をそれで批判したりせず、自分を人の下にして謙虚に生きるだけだといっていた。私はこの牧師がとても好きだし、尊敬している。最近なんだか、小さく見える。体調がわるいのかなあ。ちょっと心配している。心配なんかしないで、祈ればいいのよね。

午後からはどこにも行かず、考えようとしていたけれど、ちっとも何にも浮かばない。結局やっつけ仕事をした。
4日(土)
41600カウント
今日は朝から原稿のことで悩んでいた。昼食を食べてパステルの改革会議に出かけた。4時半ごろに終わり、図書館で本を返し、借りて来た。7時からは高遠さんの実行委員会。帰ってきたら10時だった。原稿の事で悩んでも、ちっとも字がかけない。下らない本は読める。
3日(金) 今日は一日議会で質疑。あまり、質問するのでブーイングが起きた。でも、私は他の人が質問するならばその議員に質問をしてもらうつもりでいるが、中々質問してくれないので結局は質問する事になる。障害者福祉に関しては、やはり障害児を持つ親として突っ込んで聞いておきたい事がある。国民保護法関係の条例が2本出た。有事の時の・・・・という条例である。この条例も勉強会をさせてもらっていて、狭山市に他の国の軍隊が攻めてくる状況や基地が爆撃される状況は最悪な時であり、こんな戦争をすることになれば日本は消滅する状態の時であろう。こんな時では、どんな計画を立てようとも市民をどこにも逃がし得まい。条例が絵に描いたもち、伝家の宝刀で、使われる事がない事を心から願う。

市長に、平和について考えている事を聞いた。平和とは人が平穏に暮らしている時であると市長は言った。そうだが、私はもう少し踏み込んで、今作っているような条例を使わずにすむような状態が永遠に続く事を願っているとでも言ってもほしかった。平和は何にも増して大切な事だといってほしかった。災害に備えるように、有事に備えるというニュアンスに聞こえる答弁はもう言い返すこともできないほどの無力感に襲われる答弁でがっかりした。戦争当事者の国の夫を持つ私と今平和な日本の狭山市長の平和への希求度が大きく食い違っていても仕方ないのかもしれない。

議会が終わってから、総合政策部長が謝りに来た。心にわだかまりがあろうとも、水に流そうと思う。仕事は仕事だもの。

夜、7時半ごろまで予算のためにヒヤリング。障害者福祉と高齢者福祉の制度は何度聞いてもわからない。どんな施策があるのかもごちゃごちゃしていて分からなくなる。色々教えてもらいながら、市民のために有効な情報はどれだろうかと考えていた。自分の知っていればよいこと、市民にお知らせすべき情報を分けて考え、議会の場ではよい質問をできたらいいなあと思う。
2日(木)
41500カウント
今日は一日、家にいて施政方針演説に対する質問原稿を書き、予算の読みあわせをしたり、スタッフとミーティングをしたりしていた。午前中は引きこもって原稿を書いたのだが、誰とも口を利かず没頭できないと原稿はかけない。その原稿も読み返せば陳腐であるのだが、まあ仕方ないか。これが実力であろう。市民が知りたい事であろうことを聞く。大抵はヒアリングしてあるから、私自身は分かっているとしても、私の知識を増やすために質問をしているわけでも、自分の好奇心を満たすために議会活動をしているわけでない。ケーブルテレビの向こうで、思いも寄らない多くの市民が議会に注目している。その人たちのためにも私が議員をしているのだ。自分だけが分かっているからそれでよいと言ってはいけないと思う。
1日(水)
41300カウント
今日は朝から議会の説明の続き。午後まで。その後で、市政方針演説に対する質問の通告を出していたので、役人さんがたくさん来てヒアリング。今日はさすがにすべての課から誰かが来た。

一昨日の総合企画部政策企画課長のヒアリング拒否の件は議長に申し入れたら、議長から執行部に話が行ったと見えて、課長と次長が飛んできた。内部の連絡の不備だったといっていた。謝っていたけれど、それでも私の腹の虫が治まらないのである。だって、7階の総合企画部まで行ってくれた担当課長の申し訳ながったその姿が目から離れないのである。子供使いじゃあるまいし、呼びに行ったのにすごすごと帰ってこざるを得なかった人の思いを考えれば、「私達が呼ばれたとは思いませんでした」ですむか。「呼ばれたといってくれればきたのに」といういいわけも嫌だ。例え、事実だったとしても私には素直にああそうですかと言えない。担当課長の所に行って謝ってきたのだろうか。

私もしつこい性格なのかもしれないけれど、謝ればいいのだというあの軽さに違和感がある。何かが、どこかで、微妙にずれ違っている。きっと、私の一生懸命の思いが通じなかったのかもしれない。私の思いを跳ね返せもせず、じっと聞いていてくれた担当課長の真剣さ、真摯さに比べて、なんか自分がおちょくられている感じがどうしてもぬぐえないのだ。私は生真面目すぎて、馬鹿かもしれないけれど。

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