私の独り言 2004年44444をゲットした人は連絡を

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心のままに思っていることを書いていこう。嬉しいことに喜び、悲しい事に嘆き、怒る事も忘れまい。一生懸命生きようと思う。

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4月 私の独り事
30日(日) 今日は朝礼拝。昨夜の薬のせいか、熱は下がっているようだが、胃がもたれる。抗生物質はどうも胃にもたれる。

午後は、おじの所にご機嫌伺いに行った。忙しくて、バレンタインの時に伺ったのが最後。チョコレート3粒入ったのを持っていったら、ホワイトデーにすごいクッキーが来て、「海老タイ」で悪かった。気持ちだけだったから。今日もヤオコーに寄ったらカーネーションが売っていて、これも母の日の気持ちだけだが伯母さんに小さな一束を買った。この前、クリスマスに買って持っていったポインセチアがまだキレイになっていて、伯母さんが大事に育てていてくれているのが嬉しい。85歳のおじさんで、心臓に持病があり、時々入院したりするが、行くと喜ぶので時々顔を見に行くのだが、忙しくて中々時間が取れない。残念だ。

午後は、元気になって、新しいコンピューターのセットにかかった。夜にまでなったけれど、まだできず、夫が私の代わりに難しいセットに乗り出した。10過ぎになってようやく音が出たようだ。私は新しいコンピューターを私だけの物にしたかったのだが、結局夫なしでは使い切れないようだ。少し悔しい。
29日(土) 今日は夜中から体調不良。夜中に熱っぽくて解熱剤と抗生物質、風邪薬を呑んだ。体中がだるいのだ。昨晩は寒気がしたりもした。

朝、薬のせいか、熱も下がり少し楽になった。10時ぐらいまでベットからは中々降りられなかった。今日は祭日で誰も学校に行かずにすんだからである。それでも10時半の約束でバザーの品物を取りに伺った。その後、夫と共に「お茶と緑のフェスティバル」のために役所に行った。曇り空なのに沢山の人出で今年も大成功であった。市民部長も市民次長も嬉しそうだった。そうそう、助役に会って挨拶をしたが、中々タイトル(役職)が出てこなくて、assistant mayor ではどうかなあと思ったが、vice mayor, deputy mayor の方が正式だと夫は言うので、彼はそれを使う方がよいかな。というのは、アシスタントというのは秘書のような感じがあるが、副市長、市長代理というとそれ以上の権限を持つ。日本の場合、何かあれば市長職務代理になるわけだから、vice mayor, deputy mayor の方がいいだろう。たとえ、いつもは市長をアシストしているだけとしてもね。

午後はラオックスでノートパスコンを買って来た。開けるよりも疲れえて寝たくて、夕食まで眠った。疲れが取れないし、風邪も中々抜けない。
28日(金)
44100カウント
今日は朝から「狭山子供を育てる親の会」の総会。市長も来て賑々しく総会が行われた。本当にパステル、羽ばたきも綱渡りの経営である。どうにかしなければ。

午後は食事に出かけた。おいしくいただけてよかった。

夜、西中野球の母の会。これも春秋良く集まっている。気心が知れているので安心である。この度は高遠菜穂子さんの講演会にほぼ全員来てくれた。良いにしろ、悪いにしろ、皆高遠さんの事を考えたようで、種まき者としては良かったなあと思う。戦争が早く終わってくれれば良いのに。被害者を出さない事の根本は戦争をやめることである。一度始めた戦争を止める方がずうっと難しいのだ。パーミアンであって、カラオケやに移り、なつかしの名曲(?!)を歌って、帰ってきたらもう深夜を越えていた。不良中年のおばさん族である。途中で熱が出始めたが、最後まで付き合った。楽しいからである。
27日(木) 今日はいろんな民族の会の総会だった。持ち寄りで昼ごはんを食べながらの会。私は何もつくれないので、昨日買ったカルフールのチキンを持っていった。あれこれ食べておなかが一杯になって帰ってきた。民族の会もあれこれ13年。良く続きますね絵。誰か、サルサパーティーに行きませんか。ダンスパーティーを開きますよ。

午後遅くに支援者が着てくれて、後援会ニュースの発送の手伝いをしてくれた。お話をしながらの作業だったが、「人生は小説より奇なり」だわねえ。今回は少し少なめの発送のようだ。最近はスタッフに任せきりでよく分からなくなっている。信頼できるスタッフがいるのは良いが、何かあったときには「スタッフが、スタッフが・・・」となると思うと少し反省するべきだと思う。
26日(水) 今日は朝バザーの品物を取りに来てほしいとの連絡が入り、2件に取りに行った。その後、1時に生協にお友達に会いに行った。ちょっと言い過ぎたかなあと思ったが、ガス抜きをさせていただいた。思いを話したら、「ほっ」とした。
次に2時の約束があり、飛んで行った。まあ、小さな打ち合わせなような物。
帰ってきて3時半からパステルでコーヒー屋さんと打ち合わせ。
5時前に帰ってきて、5時過ぎから、友達と会談。

冷蔵庫をのぞいたら食料品がなかった。米もなかった。10日間で10キロ食べた。肉も一回で1キロぐらい(2パック)使うのが最近だから、少し買い物をしないと残るものは乾麺(パスタも含む)だけとなる。カルフールに飛んでいって買い物をした。
25日(火)
44000カウント
今日は朝から全員協議会であった。その前に、福祉部が来て行革の預かり保育の補助金をカットする事に対しての説明があったが、到底私には納得できなかった。幼稚園の預かり保育はどうなっていくのだろう。

全員協議会が10時半からあり、その後住宅協会の会議。そして、12時近くから建設委員会協議会があった。結局会議が終わったのは、12時半ごろ。急いで食事をして、書類について役所で話をし、視察のこともアレンジしたりして、帰ってきたのは2時ごろとなってしまった。そのあと、昨夜作ったネットニュースの2面、3面の校正をみて、直したところを直したち、あっという間に3時過ぎ。3時半からのパステルの会議に出かけた。

帰ってきたら、7時。御飯を作って、食べたらエネルギーが無くなってしまった。は〜〜〜〜。
24日(月) 今日は午前中にネットニュースの一面を作った。一生懸命、原稿を書き、紙面を構成した。エクセルの表をワードの紙面にどのように挿入するかが分からなくて、時間をとった。とにかく、1時には役所の人と勉強会の約束が会ったので、急いで原稿つくりに励んだ。

行革についての説明を聞いた。はっきり言って、何がしたいのかわからない。とにかく、現在ある事業を縮小したいというプランなのだろう。財政が悪いし、市民が減少している中で、ダウンサイジングしていくというプランだと私は理解した。つまらないね、そうであれば。貧乏だと夢も希望もないものかなあ。

私は最近アジアに行く事が多いけれど、貧しい国ほどエネルギーを感じるし、人が生き生き暮らしているように思えてならない。それに比べて、日本や狭山市の元気のなさはなんだろう。生活を楽しむ余力があるのだから、もっと豊かに生きればよいのに、豊かなゆとりのあるところからなし崩しに切り取っていく行革のような気がする。たとえば、学校。生徒数の割には大きすぎるので統廃合をする。理解できるけれど、何かが足りない。じゃあ、それをどう新しく夢を持って再構築(モデファイ)していくのだという事がない。私は、2つを1つにするのではなく、その際に魔法の粉をかけてキラキラするものにしてほしいと言っている。魅力ある新しい施策と合体した統合出なければ、不便になり、遠くへ通う子供の負担が増し、安全も脅かされかねない。決して、統合そのものは現在よりプラスに働く事が少ないだろう。

これは例だが他の事も同じである。行革のプランを見ていると、本当に夢もビジョンも感じる事が難しい。新しい狭山市の姿を思い浮かべる事が困難なのは、私のイマジネーションが貧困だからかもしれない。では、どう思い浮かべればよいか分かりやすく説明するプランにしてほしい。さもなければ、私のような市民は決して少なくないのだろうから、行革って結局節約プランなのよねとしか解釈されない。改革とは今あることや物を変革していく事で、唯出費を抑える事だと言うのならべつだろうが。
23日(日)
43900カウント
今日は朝礼拝。神様に昨日の講演会が盛況に終わった事を感謝した。大変な事、嫌な事、驚いた事、つまずいた事もある準備だったが、実行委員会の全員がそれぞれの個性をもって、頑張ったと思う。その結果が大好評の講演会だと思うと、本当に嬉しかった。まだまだ、興奮が冷めていない。

午後は、消防団の結成式のお祝いがあり、挨拶をした。水富地区の消防団も特に1部は減少の一途。女性や大学生を入れるように言っているが、新しい事は中々始まらない。途中で帰ってきた。

夜は昨日の疲れが出て、御飯を作るのが精一杯だった。夫が心配して、「入間の湯でマッサージをしてきたら」というので、入間の湯に行き、あかすりやら快汗房でリラックスしたりした。2時間もするとやっと体が楽になり、心もすっきりした。年を取ると一つ一つのことからの切り替えがうまく行かなくなる。年を取れば心が強くなってくるように思うが、これは間違い。もろい心を鼓舞しながら、本当にしゃんとしようと努力しているだけである。疲れたとき、心が弱ってくる。分かって支えてくれている夫に感謝で一杯である。
22日(土) 今日は朝から、資料の印刷。今日の朝、高遠さんからのメールが入っていたのを見て、資料を増やしたり、ケーブルテレビに電話を入れたりと、大忙し。本当はみのり福祉会の「野の花」の竣工式に行きたかったのだが、結局時間がなかった。その上、出ようとすると電話がドンドン掛かってきて、出るに出れなかったのだ。

それでも、11時過ぎに市民会館に出かけた。すでに、実行委員は来ていて、大看板をつけたり、三角看板の用意をしたりしていた。お昼を食べる時間になっても高遠さんから連絡が入らないので、仕方なく駅までお出迎えに行った。待つ事1時間。ようやく着いたのが1時40分。あわててコンピューターを接続し、音声も出せるようにし、なんと用意ができたのが5分前。本当に慌てふためいた。とにかく、時間を遅れさせなくてもよくて良かった。

講演は延々2時間近かった。「90分いただけませんか」という事だったので、90分を予定していたが、延びること25分。聴衆は高遠さんの話を聞きたかったのだろうと強引に話を終わらせなかった。質疑応答もあり、4時30分までに会場を出なければならないのに、なんと4時15分まで会は終了しなかった。

案ずるより産むが安し。300人弱の聴衆が集まった。高遠さんに謝礼をして、経費を払ってもきっとあまりが出て、イラクのボランティア活動に募金できそうである。快く、資料を買ってくださった皆さんの心に感謝したい。それ以上に、高遠さんの淡々とした口調での講演が好評だったのが嬉しい。悲惨な戦争の状況をそのまま受け止めた聴衆の勇気を私は称賛したい。昨日も書き、今日その気持ちを強くしたが、この会は成功だ。気持ちよく、講演会を終了できた事がとても嬉しかった。

会の終了後、コーヒーを飲みながら、返してもらったアンケートを読んだ。130枚ぐらいの回収だった。日ごろのアンケート調査を思えば、とても高い回収率である。すべて好評であった。読みながら、またまた、この会を持ってよかったなあと思った。

帰宅後、今日は私の55歳の誕生日なので、食事に出かけた。久しぶりにスパゲティ屋に行き、食事をした。ワインを2杯飲んだが、気持ちが高ぶっていて、興奮が鎮まらなかった。でも、快い疲労で、大いなる満足感で一杯だ。とてもよい、55歳の誕生日となった。
21日(金) 今日は朝は養護学校の保護者会。午後は中学校の保護者会。その後、銀行に行き、お金を新札で下ろして、写真展を終わりにした。何人かが写真と児童画を見てくれて、ノートに書き込みもしてくれていた。とにかく、物に支障が出なくてよかった。

7時からはミーティング。明日の準備でできる事を確認。資料の書き直しなどもあり、帰ってきてから大変だった。ミーティングでは様々な意見が出て、それを健闘しながら段々よいものとしていく事ができる。この実行委員会では、時間が少ない中で決め事が多いので、決めた事を覆すことなく会議を進めるようにした。議事録も3,4日後にはできて、すべての実行委員にファックスされた。素晴らしいと思う。

私は、今日の会議で「高頭菜穂子さんのイラク報告」の成功を宣言した。多くの人からの予約が入り、それだけでも感謝だ。散らし配りをしたところから、1件また1件と予約が入ってきた。賛同金も5万円を予算にしていたが、本当に5万円の予算をクリアーできそうだ。知らない、顔をみたこともない方々から1千から1万円の振込みがあった。感謝をどう述べて言いか分からない。たとえ、今日の時点で売ったチケット代や賛同金を含めて9万円近くしかないとしても、私はとても素晴らしい思いをし、感動した事をなんといおう。例え、お金が足りなくなって、実行委員が出し合う事になろうとも、私は、多くの好意に支えられて、この小さな平和活動をしていく事ができたことを「成功」としたい。

始めは無謀と言われた市民会館小ホールでの講演会。たとえ、聴衆が100人しかいなくても、私達実行委員は「成功」だと思っている。数ではない。狭山市だけでなく多くの市から聴衆が集まるだろう。平和を求める人がやって来る。戦争を止めようと思っている人がやって来る。これでよいのだと思う。この心の結集があるだけでも、聴衆が少なくとも、この会は成功だ。
20日(木)
43800カウント
今日は朝事務所でスタッフと打ち合わせをした後に、パステルの改善委員メニュー班の人と食べ歩きに出かけた。漫然とレストランに行ったわけでなく、その料理やシステムをどのようにパステルに取り入れられるかという事を考えに行った。とても参考になったと思う。帰ってきて、資料をクリアファイルに整理し、改革案を文字に落とした。様々な考えが出てくる。まだまだ、解決しなければならない。話がそれたりして、結局、打ち合わせは6時過ぎまで掛かってしまった。あ〜〜〜あ。
19日(水) 今日は朝中央公民館でイラク写真展の見張りに行った。中央公民館でじっとしていると色々な人がやって来る。ロビーもお昼頃には人で一杯になった。西口の公益施設でロビーを広く取ってほしいと思った。多目的ホールを1階にする事を私は嫌だといい続けてきたが、今日、ちょっと考えを変えた。多目的ホール部分を使っていない時に開けてロビーと一体化で切るならば、それはそれなりに有効なのかもしれない。今の中央公民館の4つのテーブルでは小さすぎるものね。どこにいても、いつでも西口開発や街づくりのことを考えている。

午後はデジカメをもってイラク写真展の会場を取った。それから帰ってきて、写真をプリントアウトした。その後、午前中に中央公民館で書いていた22日のスケジュールと挨拶の要旨を印刷していたが、気がついたときには6時を過ぎていた。このところ、かなりの人が申し込みの電話をしてくる。もっともっと多くの人が来てくださる事を願っている。
18日(火)
43700カウント
今日は朝スタッフとミーティングをした後、役所に行った。今日の調査特別委員会を傍聴するためであったが、なんと参考人が出席せずに、特別委員会は終わっていた。姉葉さんの参考人招致のとき、姉葉さんも怖くて出て行けませんとか言って、国会に出なかったときがあった。その戦略かあと納得。その後姉葉さんは証人喚問されていやおうなしてに出席しないわけに行かなくなった。110条の調査では限界があるので、100条へという筋道になったとしたら、Yさんもいやおうなしに出てこざるを得なくなる。さて、徹底抗戦の様相だが、どのようにこの状況を打破していくのか。ちょっと知恵比べになっている。下手したら、臨時議会で100条調査委員会に変えるということになるかもしれない。100条ともなれば、議会は長野県議会のように、議員を告発するなんて事になるかもしれない・・・事実の解明ができたならばということと、何が法に違法していたらが明確になればのことだけれど。

午後は高遠さんのチケットの回収に出かけた。私の分はあまりはけなくて悲しい。夜は「昭和」とはなんだったかを斜めに読んだ。私の考えと同じ人がいると感心した。要するに、第2次世界大戦をじっくり考えれば、外交で平和を築くしかないという結論だった。著者は今が大変危険な時ではないかと言う。ファッショの再来が聞こえるというのだ。実は私も小泉さんにヒットラーを見る思いなのである。本当に、恐ろしい世の中になったものである。歴史の勉強をきちんとしない首相をもち、付和雷同の大衆だもの。いつ何時、戦争に突入するか分からない。それが怖い。
17日(月) 午前中にケーブルテレビから電話があり、イラク展についての取材をしたいということで取材に応じた。ケーブルテレビさんのご好意に心から感謝したい。世界に平和をという思いは誰でも一緒だと思う。でも、朝に高齢な男性と思われる方から電話があり、「何で高遠の話を聞かなければならない」のだという抗議めいた電話があった。高遠さんにたいする思いは色々あって仕方がない。

で、私は自分の話をした。すなわち、長岡の空襲の話は本で読むこともできるが、私は母から聞いた焼夷弾の中を悠久山まで甥を2人手を引いて死体を乗り越えて避難した事や、お友達が焼夷弾で負傷して傷から蛆がわき、それが脳までいって狂い死んだ話を聞いた方がずうっと空襲の怖さが分かったという話をしたら、彼は結局黙ってしまった。イラクのことは新聞で読めば分かるのではないかと彼が言うから、自分の体験を話したのだ。千住から悠久山まで逃げた目黒家は歩いて栃尾まで生き延びた。「おばあちゃんが兵隊さんに、(そのおにぎりもらわんねがろか)といって、おなかが空いていた私達や孫達におにぎりを貰ってくれた」と母は語っていたっけ。私はおばあちゃんのとても裕福な時しか知らなかったのだが、一生に1辺子供達のために物乞いをしたらしく、母にはとても印象的だったようだ。あれもこれも、誰かの体験として文字で読むのではなく、肉声を通して聞くのは耐え難いけれど、この痛さに目をつぶってはいけない。

先の大戦のことは直接母から聞いている。今、イラクでも戦争がある。私達には遠い世界のことのように思える。テレビや新聞の報道では痛みも苦しみも嘆きも悩みも恨みも感情を押し殺したようだ。シーラ派とスンニ派の抗争だから日本は関係ないと朝の高齢者は言う。日本人としてすることは何にもないのではないかという。高遠はどんな解決策を言うというのだと彼はいう。私は高遠さんに解決策を求めてはいない。私は彼に言った。「高々30歳の娘さんに解決策を教えてもらうつもりなんですか」と。私はシーラ派とスンニ派の対立をどうにかする事はできないかもしれないけれど、もしかして、そのための被害者に何かできるかもしれないと個人的に思っている。

その時は言わなかったけれど、今日電話をしてきた高齢の方に言いたい。わざわざこんな電話をするくらいならば、今まで生きてきた経験を使い、戦争の時に何ができるかご自分で考えて行動したらどうですかと。きっと彼だって戦争を体験しているはずだ。殺し合いは空しく、死んだものも残されたものも不幸である事を知っているはずだ。平和を望んでいるはずだ。高遠さんが講演すると彼に何が困るのだろう。高遠さんは自民党の転覆の話をするのではなく、ただ唯イラクの悲惨な話をするだけなのだ。その話がピンとはずれというのがその人の批評だが、それは聴衆が決めることである。高遠の講演会なんかしてなんになるのかというならば、それは聞く人によるのだ。同じ話を聞いても、何にもならない人には何にもならないに決まっている。でも、次のステップを模索できる人だっている。私はそういう人のために講演会を開くのだ。

午後はパステルのメニュー分科会。私はもう唖然とした。改革改革とこの何ヶ月か改革案を作るために頑張ってきた。しかし、親の会は掛け声だけだったのではないか。ある日、改革の日が決まったら改革が成就すると思っているのだろうか。改革のための準備は机上の計画をきちんとするだけでできると思っているのか。試行錯誤がなければ実際の改革に達しないのが分からないのか。私達改革を模索した仲間は運営委員として試行錯誤を進めるため4月の総会で任命を予定していた。ところが予算を決める時になってもちっともお呼びが掛からない。今日になって、今までどおりの体制でパステルを運営するつもりだというのを聞いたのだ。もう、そうであれば私は改革から手を引く。

パステルの改革の時をあいまいにするのは、何でか分からない。今改革に手をつけないということは今までの努力は一体なんだったのか。今のやり方では赤字は進んでいく。それをどうするというのだ。一歩ようやく前進すると思うと、すぐに3歩後退する。もっと障害者に雇用の機会を与えたいという思いで一生懸命してきたのだ。この職場をなくしてはいけないと思ってやっているのだ。今までどおりでしていくというのならば、何もプロジェクトなんて作る必要がなかっただろうに。あんまりの仕打ちに私は呆然とするだけでなく、あきれ返る。この会長のすることは、仕事一途にやってきた私のような人間には理解を超えてしまう。
16日(日) 今日はイースター。朝起きると夫は早朝礼拝に行っていた。私が起きるころ帰ってきた。私は今回は自分の教会に行った。久しぶりだった。本当に嬉しく思った。小さな教会なのだが、だからこそ私は息がつける。何年いても、一緒に礼拝いる人の住所も家族構成も知らない。牧師の家庭の事だって何にも知らないといえる。礼拝の後におしゃべりする習慣もない教会なので、返ってプライバシーが保て、自分の信仰を見つめていられるような気がしている。様々な教会があるが、小さな教会のよさを時々しみじみ感じている。今日は、イエスの蘇りの朝であるが、私の中ではイエス様はずうっといらっしゃると思う。

午後は買い物をして食事をしたらすぐ2時となり、写真展の準備のために中央公民館に出かけた。すでに写真も届き、パネルも用意ができていた。何点か複写した児童画があったので、それも展示した。今回の写真はこの前の写真に比べ、目を覆うようなものは何一つない。唯、どの写真も写真家の思いが出ているのだが、それがとても暗い。建物も灰色であるし、すべてがモノトーンに思われる。とても悲惨な写真は1枚もないのだが、気持ちが沈んでいるのが良く分かる写真である。道路に座り込んでいるストリートチュールドレン見ていると誰かがこの子達に手を差し伸べているのだろうかと思う。せめて、少しでもお金をボランティアとしてイラクで働いている人にたくし、この子供達に何かできれば良いと思ってしまう。
15日(土) 今日は、午後1時半から新都心のwith you さいたまで彩ネットのセミナーを開いた。市川房枝政治参画セミナーの山口みつ子先生が講師であった。私や後上さんなど市川さんの所の受講生もいるので、山口さんもリラックスしていて、内容もあちこちにとび、なんとヨン様のお話が入ったりして、「あら、この方も」と驚いてしまった。インテリ女はヨン様好きですねえ。冬のソナタも好きですねえ。信じられない。ところで私はヨン様には不感症。どうして、ああいうのがよいのかぜんぜん理解できない。インテリじゃないのよ、私は。

山口さんのお話の後、加須の市議会議員の酒巻さんのお話。選挙の時の候補者の態度はいかにするべきかということ。私は他の人に思わず言った、「酒巻さんの言うような事を私ができたら、私はトップ当選よ」。勿論、酒巻さんの言うように市民へ柔軟に対応しようという考え方を持たなければ、立候補はできない。私は彼女のようにうまく出来ないけれど、一票一票大切にお願いするという事はしているつもりである。ボランティアさんやスタッフにも感謝の思いで一杯である。でも、うまく表現できないのが私の欠点。

とにかく、街に出て、人にあわなければと思った。私は、ご存知のように人見知りはするし(誰、嘘って言う人は!)、話すよりも書くほうを好むし、実は行動派に見えて書斎での学者肌。一生懸命勉強してそれを市政に反映しているのだけれど、市民の方に理解してもらいたいなあ。山口先生は私が当選したのは「奇跡です」と今日おっしゃった。「頑張っているね」とも言っていた。市議会議員として、市民から遊離することなく、生活に密着した政治を進めていこうと思っている。それは、7年たった今も初めの頃も同じ思いだ。それは誠実に仕事をしている。

朝11時に狭山を出たが、帰ってきたのは7時過ぎ。今日はそれから夕食を作った。から揚げを作ったのだけれど、ちょっとしょっぱかった。
14日(金)
43600カウント
今日は午前中に議会報告会、タイのカレーも作った。楽しくやっている。けれど、こういう楽しみながらの議会報告もそろそろ終わりにしようかなと思っている。来る人もすくないし、決まった人になりつつある。それで、今後は少し硬めにして、子育て支援を考えるとか介護保険のこと、自立支援法ののことなど、専門家を呼びたいなあとも思うが、それでも人が集まるかとも思うし、組織を持たない無所属議員の悲哀を時々感じる。

午後は原稿を書こうと今日も悶々としていた。何をどう書こうか。

7時からは高遠さんのイラク報告実行委員会。最終局面に入っている。当日の当番について、明日からの写真展について。資料について、アンケートについて、激論の中良く頑張っている。それに、チラシも巻いたので、その効果か、少しづつ予約も入ってきている。すこしづつ、緊張し始めている。
13日(木) 今日は午前中は病院に出かけた。耳鼻科。ポリープが消えていたが、咳のため口頭はぶよぶよしていて見えにくかったのかもしれない。その後、喘息。気管支炎を起こしているらしく、その治療が必要だった。次に婦人科。がん検診が中心だが、「異常はなさそうですけどねえ」という事だった。閉経期の女性は自分の体が訳が分からない状態なのである。

3時半からはパステル改革委員会。なんだかんだといいながら、役所は組織としてよく働くなあと感心する。それにくらべ・・・・・換えてってきたら、7時半過ぎであった。
12日(水)
43500カウント
今日は比較的暇で原稿を書こうとしていたが、中々進まない。実際書き始めなければならないのだが、構想が・・・・とか言って書き始められない。スタッフはそれぞれ忙しくて、私の相手などしてくれない。

午後は遅く役所に行って、視察の調整をした。今年は女性政治スクールと政治参画セミナーを2つほど取る事にしているので、それはそれは大変だろう。という事は、報告書をたくさん書かねばならないということなんである。夕方遅くに帰ってきた。女性の登用について、職員と話をしていたが、今すぐの事を言うのも大切だが、女性のエリート教育も必要だろうと思う。上司が女性というだけで反発があるのではないかと心配をしている人もいる。とにかく、保育課や子育て支援課に女性課長がいても良いように思うのだが。どうだろう。
11日(火)
43400カウント
今日は、狭山養護学校の入学式。今回は来賓ではなく親として行った。何しろ、仕方ないのかもしれないし、東京のようにするのは大反対だけれど、国歌斉唱の時に立ったのは親と来賓と校長先生だけ、生徒も教師も一人もたたないのには、唖然とした。歌わなくてもよいけれど、子供を起立させるぐらいの思いはないのかなあとひどく驚いた。他の国に行き、国家斉唱をしている時、今日みたいに日本人がひとりも立たないで国家も斉唱しないでいたら外国人はどう思うかなあ。夫はアメリカ人なので(アメリカ人は特殊かもしれないけど)「アメリカではこういうことは考えられないなあ」と言っていた。「君が代」という歌詞に、国粋主義的な匂いや、天皇主導の昔を思い出し危機感を持つのはよくよく理解できても、あまりにも失礼な気がするのはどうしてだろう。たとえば、私はクリスチャンで神道ではないから、神社をお参りする事はないけれど、神道の人に敬意を払いはしなくても侮蔑的な態度は取らないけど。

座っていることがその方々の信条を表しているというならば、それに対してあれこれ言う事もないかもしれない。そして、東京都のように命令無視だといって、処罰するなんてもってのほかだと思う。けれど、礼儀として、子供達に立つように言うのはいけないことなのかなあと思う。教務主任は校歌のときは起立するように言ったけれど、国歌斉唱には起立といわなかったと思う。そのところは変だと思うんだけれど。クリスチャンとしては、国歌を君が代すなわち天皇の世を讃えるものとして歌わない人も多いので、私もこれに関しては微妙だ。しかし、たとえ天皇の世が続けば良いという意味であっても、象徴天皇制を取っている現在、この天皇の世が続くという事は日本が続く事と捉えれば悪くないと思うのだが。

神の国が大切だから、日本がどうであってもよいのだというキリスト教の極論に対しては、どうしたらよいだろう。きっと私はクリスチャンの神の国というのは確かに国境を越えているし、心の問題が大半だから、国歌を歌うことで損なわれる事はないとは思う。すなわち、私には神の国と日本という国とを同列に考える事はできないということである。日本が未来永劫あろうとも神の国は樹立しているし、今後も未来永劫であろうと思うのである。この点、色々な考えがあると思うので、お聞かせ下さい。

午後は市長と教育長への案内文を作っていた。
10日(月) 今日というべきか、昨日というべきか、朝2時ごろようやく西中学校のあいさつ文を書き終えた。短く短くと思いながらも、短い方が難しい。自分の言いたい事を短い挨拶の中で伝えられるか心配だ。でも、これしか自分の能力がないのだから仕方がない。というわけで、9時過ぎから西中学校の入学式。大過なく終わった。鶴校長先生のお部屋は楽しい。先生は書道の大家でいらっして、いつも素晴らしい書が飾ってある。今日は前進と言う文字。それと三到という言葉だった。卒業式は桃里という言葉であった。

そうそう、今どきの中学校ではテレビが各教室にないのだそうだ。気がつかなかった。視聴覚教育はもう昔の物となり、体験教育が主流だかららしい。そういえば、私が教員になった頃から実験は自分達でさせ、テレビで見せるものでなくなった。私達は実験室が整っていなかったので、テレビの実験を見て学習したが。時代が変わったのを、時にはっと自覚する。

今回は起立の省略について一言あった。本来の礼がどうで、今日のは省略をしているのだということさえ知らせておけば私は文句は言うまいと思う。新1年生の言葉がしっかりしていて良かった。

午後からは、役所で西口開発事務所の公益施設の話を聞いた。あまり使われる事のない和室と調理室をどうするか。やはり多目的室を1階にするべきか。日当たりのよい南側に自転車駐輪場を作ってよいのかとか、施設の外観とか吹き抜けの感じとか、設計者の選び方とか、色々問題点は多いなあと思う。言いたいこともある。すべては六月議会で。唯、とにかく小さいので、その中でどんなサービスができるか考えなければ。私は、喫茶室は出来れば駅に近い方がよいように思うけれど。

夕方、早めに帰ってきて、御飯を作った。自分で御飯を作りながら、やはり手作りの食べ物は飽きないし、おいしいなあと思った。
9日(日)
43300カウント
今日は、朝礼拝にある教会に行った。本当に残念だったが、その教会で高遠さんの講演会のお招きをしようとしたが、牧師にさえぎられた。教会ごとに色々な考えがあると思うので仕方がない。私は「平和を作る人は幸いである」という聖句はずうっと政治家として大切な聖句であり、一介の市議会議員でしかなくとも、クリスチャンとして少しでも御心のなるような平和の活動をしたいと思っている。政治的なことは中々宗教界では理解していただけない。信仰生活を政治で引っ掻き回してほしくないという思いがあるとしたら、もしかして間違いではないかと思う。政治に対してどのような姿勢も持たず、この世に従順であるだけで信仰を保てるのだろうか。私達はこの世に従順ではなく、神・イエス様に従順であるべきではないか。そのために、イエス様は親子兄弟とも仲たがいすることも仕方がないと言う。とにかく自分の十字架を担ってイエス様に従いたいと思う。

義のために非難されても仕方がないというのが、今日の学んだ箇所であった。その通りだと思う。唯、信仰のためにしている行為が信仰者から迎え入れられないのはなんとも切ない。そういうこともあるに決まっていると分かっていても、落ち込んでしまった。私が市議会議員になったのを、権力がほしかったからと思う人が信仰者にいるらしいことは知ってはいた。でも、もし、私が権力がほしいから市議会議員になっていると言うのであれば、私は無所属で一人ぼっちでの議会活動はしていないだろう。むしろ、徒党を組み、委員長、議長の道を突き進んでいただろう。それの方が力があるからである。まあ、色々言っても市民の方に理解してもらうのは難しいのだろうね。

午後は明日のためのあいさつ文を作るために頭を働かせていた。
8日(土) 今日は、朝ゆっくりした後、メールをたくさんかいた。午後は急いで麹町に行き、女性の政治スクールの講義に出かけた。防災(特に震災)についての講義だったが、非常に興味深く聴いた。その後子育て支援について。とても、勉強になった。帰りに池袋の西武デパートで本屋に行った。帰ってきたら、8時半ごろであった。
7日(金) 今日は朝から原稿書きで大変だった。結局、平和の道こそが日本を守る最大の道であるという意味の反対討論を議会レポート(3面)に入れる事にした。狭山市が陸から空から攻撃されるような状況はどう考えてみても日本が戦争に巻き込まれほとんど占領間際という状態だと考えれば分かる。そんな事態に絶対しない意思が必要なのである。それこそが、日本の備えとして一番必要な事だと信じている。

次に2面に取り掛かり、施政方針演説に関して新施策などへの質問を記事にし、議案質疑では基本構想に関して、一般質問はさらっと3問についてコメントした。書き終えたのが4時過ぎ。スタッフはそれから印刷し、夕方遅くに新聞社に折込のために運びこんだ。

夜7時からは高遠菜穂子さんのイラク報告実行委員会があった。あっという間に9時40分。まだまだ決めなければならない事がたくさんある。その後、急いでカルフールに行き、食料品を買い込んできた。何しろ、冷凍庫の肉はないし、パンはないし、また、夜遅かったので弁当が安くなっていたので、明日のために買ってきた。帰ってきたのは11時近かった。
6日(木) 今日は、朝スタッフが早く出てきて原稿を書くように催促されて、急いで書いた。書けた。これはすごいと自分で思った。始めのタイトルをどうしようかとずっと悩んでいたが、スタッフに聞くとそれでよいと言うことで、調子が出て一気に書き上げた。「久美子さんの文章は淡々として嫌味がないですねえ」と言われたが、そこが私の良いところであり、政治のどろどろに一線を画しているせいであると思う。

スタッフと話をしていたら午後1時半。署名簿関係の特別委員会が開催されていたので傍聴に出かけた。大島議員が員外議員として出席して、事情を聴取されていた。言う事に矛盾があり、答弁に反するような証拠を突きつけられて前言を取り消したり、証拠を突きつけられてもとぼけたような発言をしたりしていた。すべて大島さんはある市民に言われてそのことをしてあげただけだということに終始したが、例え市民に頼まれたとしてもその内容を知らなかったというのは極めて無責任ではないかと思う。大島さんは市民に言われたから共に行動した、役所の部長に市民と共に会いに行ったというが、私が市民と共に行動するときは自分が理解し納得した上で行動する。勝海舟ではないが、「行蔵は我にあり」ではないかと思う。勿論、毀誉は他人に帰すわけで、それを批判されようが仕方がないだろうが、少なくとも自分の行動が主体的でなかったという言い訳は議員として、政治家として、恥ずかしいと思う。

結局、大島さんの言い分を要約すれば、すべてその市民の方を信じ、その人の言うことを言われるままにしたということになる。(私は見ていないが)委員会の始めに、自分が署名をきちんと精査しないで公表したことを謝罪したというが、もはや議員の間では、彼は署名者のうち権利者ではない人が大半であると分かっていて、すなわち偽りの権利者署名簿だと分かっていて、新聞に記事にするような行動や、役所のいくつかの部長に会いにいったり、市街地整備特別委員長に会いに行ったり、議長に意見書を提出したのではないかと疑われている。彼の行動のあの時期は認可申請前のとても重要な時であった。反対権利者71人というのは衝撃であった。新聞記事として偽りの反対派権利者数を掲載させ、誤った報道で市民の意識を反対に誘導しようとしたならば、これは委員会で「ごめんなさい」ですむ問題ではないと思う。だからこそ、事実関係をはっきりさせたいわけである。
5日(水) 今日は朝疲れが出て仕方なかった。咳が朝方出て、寝れなかった。それでもスーツケース2個とも大量の汚れ物だし、いない間には家事もあって忙しかった。お手伝いさんが来てくれてホッとした。それで、パソコンに向かい、台湾旅行記をかいた。何しろメールを見たら50も入っていたので、その対応も大変だった。

午後はスタッフが出てくるのをまって、社協へ。高遠さんのための手話通訳を申請してきた。その後、図書館に行き、郵便局へ行き、役所に行き、帰ってきた。戻ってきたらもう夕御飯を作る時間になっていた。原稿を書かなければと思っていたが、結局手がつかなかった。
4月4日(火) 今日は朝6時出発なのに、6時3分前に起こされた。私が起こす立場なのに、熟睡していた。寝る前に、スーツケースを詰めてパジャマを入れるだけにしておいたから、10分もしないうちに車にスーツケースを乗せて空港に出発した。バスの運転手が出発ロビーに下ろしてくれて、全部の荷物をカートに乗せたはよいけれど、またしてもターミナルが違った。今回はチャイナエアラインが融通を利かせてくれて、チェックインを間違ったターミナルでさせてくれたので、本当によかった。楽器類も多かったけれど、すべてフリーパスだった。何でそうなったのか理由が分からないけれど、感謝以外のなにものもない。

最後のどたばたは成田を出発した直後、生徒がトイレに行っていて乗り遅れた事。幸い300メーター走ったところで気付いたために、生徒はバスに乗れた。よかった。帰宅は結局6時過ぎていた。夕食のカレーライスがおいしかった。

今回の旅で思ったことは台湾の人、特にお世話してくださった宜先生や宋さんのご親切なことに対する感謝と尊敬の思いである。宜先生は78歳で台湾ルーテル教会の最長老の牧師で連盟の議長さんである。その彼が7日間朝7時から夜10時過ぎまで毎日私どもと一緒に行動してくださった。それはそれはすごい事である。それに、5日間毎食の準備をしてくださったのである。朝、早くに35人もの食事を買ってきて朝食をさせてくださるのには頭が下がった。とても私には出来ない。宋さんだって夫も娘もいるのに私達の世話のために、朝早くからずうっと一緒にいてくださった。だから、私達はなに不自由なく7日間を過ごした。団体行動の時はひもじい思いをしたりするものだが、お腹が一杯のことはあっても、いつになったら御飯にありつけるのかという場面は一度もなかった。それに、いつもスケジュールがゆっくりしていてとてもよかった。だから、間野先生がカリカリ怒る事もなかった。生徒達がのびのびできたのも宜先生や宋さんのお陰だった。

いや宜先生や宋さんだけでなく、いたるところで援助してくださった台北オペラコーラスの人たちのご尽力も忘れられない。影になり日向になってコンサートバンドに関わってくださった人たちのご好意をひしひし感じた。私達がこれほどのことを人にご奉仕できるだろうか。外国人のためにこれほど身を粉にできるだろうか。感謝はしても、お返しできるかと余計な心配をしている。その点間野先生は淡淡と感謝している。きっと、間野先生は自分のやり方でしっかりお礼はできるという自信がおありになるのだと思う。また、彼は本当に良くなさる方である。今年の秋に、またオペラクワイアの方々が来るそうである。その時には今回のお礼として少しでも何かができればよいと思っている。
4月3日(月) 今日は朝ゆっくりした後に、着替えをして中学校へコンサートに出かけた。台北に隣接している石牌市にある石牌(シパイ)中学校で、生徒3000人のエリート学校であった。校長先生とお話をさせていただいたが、評判のよい学校で越境しても生徒が来るという事で校長先生も余裕であった。近くに大学や専門学校、病院などがあり、かなりインテリジェントな家庭からの生徒が多いそうだ。話をあれこれした後に、私は「貴校の生徒は幸せですか。」と聞いたら、いや受験競争や期待や重圧で押しつぶされそうで、幸せとはいえないでしょうとの事だった。受験校の重苦しい気持ちが充満していた。

きっと聖望高校のコンサートバンドが来るのを何の期待もしないでいたのだろう。お茶を出していただいたが、使い捨ての紙のカップにどうでもいいような味のお茶。金曜日に行った景美(ジンメイ)中学校の厚遇に比べれば雲泥の待遇であった。体育館でコンサートであったが、何しろ音響のひどいのには驚いてしまった。音楽を奏でるなんて事がないのかもしれなくて、アンプすらまともになかった。聴衆も今までは一、二年生全クラスでコンサートを楽しむというのであったが、この学校はお義理に音楽の時間の生徒200人だけだった。きっと、コンサートなんて勉強の妨げとでも思ったのか・・・。前2つの学校と同じように、台湾の民謡´あり山クーニャン’になると歌詞を知っている人を呼んでうたわせた。でも、この学校では誰一人生徒が出てきてうたうことなかった。仕方なく大人が歌い、大人がダンスをした。まあ、それを見て生徒達も楽しそうだったが、ダンスに加わる事はなかった。聖望コンサートバンドは最後まで楽しい音楽を奏でた。間野先生は聴衆と一緒に音楽を楽しむようにいろいろ手を尽くしたが、中々難しかった。でも、コンサートは最後には結構盛り上がったし、プレゼント交換も何とかすんだ。前の2校の校長はよいコンサートをありがとうと言ってくれたが、この学校の校長は何にも言うことなくそこにいただけだった。一言校長先生の感想が聞きたかったが、彼としてはこの催しが終わればそれで良かったのかもしれない。

私はこのエリート学校の子供達は何か変だと思った。音楽に心を開いて楽しむ事ができないなんて頭がどんなによくてもまるでロボットみたい。喜んだり、感動したり、共感したりという感情の教育ができていないのは、どんなに頭が良くてもやはり貧弱としか私には思えない。豊かさの対極の、能力や効率とか言う中で何にもアソビのない人生なんて貧相である。リズムあふれる音楽のそのリズムに無感動で、音楽を音として流してしまうそんな子供達が大人になってどんな国を作り上げるのだろう。暗澹たる思いがした。受験競争にだけ明け暮れた大人がどんな社会を作るのかを日本は教えている。台湾が日本のようにならなければよいけれど。

ところで、私はこのコンサートの最後には胸が一杯になった。聖望バンドの生徒が一生懸命演奏していたからだと思う。色々な事があったけれど、コンサートは手を1つも抜かず、音楽を通しての心の交流に生徒も一生懸命だった。今までは間野先生の音楽が良く分からない面もあったのだけれど、なんとなく彼の目指すものが分かる気がした。生徒達はそれを良く理解していた。皆同じ思いでコンサートに臨み、コンサートに全精力を傾けた。それが私の琴線に触れた。私は何もコンサートに寄与できなかったけれど、思いはきっと同じだったと思う。それがとても嬉しかった。こんな素敵な時はもうもてないのだろうなという思いで一杯だった。この年になると、またいつか同じ事ができると思えなくなっている。一回一回2度とない貴重な経験である。それを体験できる喜びをかみしめた。

夜は最後のため、カトリックの幼稚園の先生たちが作ってくれたご馳走だった。おいしくいただいた。ご飯の後では皆出し物をした。(私息子と共に漫才をした)終わりに当たって、間野先生が4月25日に誕生日なのでお祝いをした。間野先生はとても嬉しそうだった。生徒達はケーキを食べてから、少しケーキファイトをした。その後、来る前よりもキレイにとお掃除をしてねた。最後にしっかり床吹きをしている生徒を見て、この子達は素敵な子供達だなあと思った。聖望の音楽部の生徒は悪くないよね。
4月2日(日) 今日は日曜日なのに礼拝に行かなかった。行くのかなあと思ったが、30人からの日本人を受け入れてくれる教会がなかったようだ。今の宿舎はカトリックの研修所で、朝祈祷会をしていたが何しろカトリックのやり方を良く知らないし、特に言葉が違うので祈祷会にも参加できなかった。礼拝に行かない日曜日は心が落ち着かない。勿論、心で一週間の祝福をお祈りした。

朝、蒋介石さんの記念館、中正祈念堂に行った。まさに、付き添いの先生がおっしゃるとおり、蒋介石は神様のように祭り上げられた。間野先生が「日本にはこんな個人崇拝はないよなあ」とおっしゃられたが本当にそうである。椅子に座っている像は、ワシントンにあるリンカーン像と同じポーズなのだが、意味がぜんぜん違うように思えた。リンカーンはアメリカを支配したのでもない。理想が高かった大統領で非民主的な方法(暗殺)で殺された故に、アメリカ人はとても残念の思っている現われとしてのリンカーンではないかと思う。リンカーンを見るごとに自分達を恥じる思いの方が多いのではないか。絶対、こんな事があってはならない(奴隷制も暗殺も)という思いを新たにするだけだ。でも、台湾はまるで違う。国民党が台湾人を踏みにじる権力の象徴のように見える。

その後、アジアで一番高いビルに行った。台湾で一番ファッショナルな場所ではないかと思う。日本で言うと横浜のランドタワーって感じかな。ディオール、グッチ、など世界で有名なお店がたくさん入っていた。私はティファニーに行き安いものを買おうと思ったけれど、お財布を忘れたのでクレジットカードもなく、つまらなかった。散財しなくてよかったのかもしれない。とはいえ、誰もビルのトップに行くことなく集合し、車の中でおすしの昼食をたべて、国立故宮博物院に出かけた。美しい絵、美しい書、美しい焼き物、ゆっくり見たいところだったが時間画なかったのが残念だった。その後、淡水に行った。ここは台北の北側にあるリゾート地。夕日がきれいなはずだったが、残念ながら曇っていて夕日も夕焼けもなし。

海岸沿いの堤防を歩き、その下のお店を見て周り、私はソフトクリームを食べた。アイスクリームがまずい。まるで、アイスクリンという感じでどこにクリームがあるのかと思う味。(台湾でも日本と同じ名前のものがあるが、味がぜんぜん違う。驚いたのは、醤油。また、マヨネーズや麦茶には砂糖が入っている。似て非なる物がたくさんあった。)

その後、お店やさんがたくさんあるところに行き、ショッピングをした。小さなアクセサリーを買ってきた。もっと買い物をしたかったが、何しろ時間がなかった。残念であった。夕食をレストランでした。レストランの隣は果物屋さんで南の島のフルーツがたくさん売っていた。名前を聞いても知らない果物もあって面白かった。生まれて初めてココナッツのジュースを飲んだ。味はぜんぜんしなかった。グアバも始めて食べた。おいしくない。おいしかったのはメロンかなあ。それとオレンジ。

帰ってきてから、時間は遅かったけれど、またマッサージに行った。今日は腰から下を中心に揉んでもらった。歩きすぎで、足が痛くて仕方なかったのだ。高いけれど、とても楽になった。帰りは11時ごろになった。台湾人の宗さんがお迎えに来てくれた。私は歩いて帰れるからもうお休みなさいと言ったのに、本当に申し訳なく思った。
4月1日(土) 今日はコンサートがお休みなので、午前中にダムを見に行って来た。私は疲れていて湖畔に佇んでいたが、男子達はボートに乗ってダムの湖一周をしたようであった。その後、昼食。ここで、私達より遅く来た中国人の団体(300人ほど)がさっさとたくさん食べて出て行ったのに驚いた。私達は疲れが出たせいもあり、行動がのんびりである。それなのに、中国人はエネルギッシュです。は〜〜〜。その後県立陶器博物館に立ち寄った。もっともっと素晴らしい陶器を見たかったのだが、新しい陶器が展示されていたが古いのは展示されていなかった。新しいのは目を見張るように素晴らしかったが。

午後に予定されていたフラワーパークをキャンセルした。調子が悪い生徒がいたりして、疲れが午後にどっと出てきていた。ところが、この日の夜はご招待での食べ放題ディナー。良く食べましたよ、生徒達は。とにかく、男の子なんか取ってくると1分もしないうちに全部平らげ、座っている時間よりも料理を取りに行く方が長いという感じ。恐れ入りました。エネルギーをチャージするとまた元気はつらつ人間になってしまい、午後からの疲れはどこにいってしまったの?って感じだった。回復の早い若い人たちを目の当たりにすると、頭がどうにかなってしまう。人間でなく別の品種の動物だね、若者って。

夜は、マッサージに行った。指圧というべきもの。日本の30%引きぐらいの値段だった。1時間1000元。その後、念願の台湾エステにも行った。これは1時間半1200元。気持ちが良くなってうとうとしてしまった。顔のお手いれとマッサージ。あまり効果を感じていない。残念。
31日(金) 今日は朝8時半に朝食。昨日私はほとんど食べられなかった。今日の朝食は肉と野菜の小龍包。おいしかった。少しいただいた。その後、10時半まで自由時間があり、横になって小説勝海舟を読んでいた。小説勝海舟は昭和16年に書き始められていて、そのせいか、どうも日本優位な書き方である。アメリカ人は毛唐人だし、神国日本だし、メリケンはあと50年も経てばやっつけられるなどと登場人物に言わせている。小説もやはりその時代の制約を受けるのだなあと思う。何しろ、私は勝海舟の多くの本を読んでいるので、そんなこと言わないはずだがなあと思ったりする事も多い。

福沢諭吉にしてもかなり良く書いてあって、やせ我慢説も開陳してあった。何がやせ我慢だと思う。自分は我慢などせず威燐丸に乗り込んだのに、よく言うよ。でも、中国と戦争を始めた年に書かれているので、福沢諭吉なんかを持ち上げなければならなかったのだろう。

午後にコンサートがあった。間野先生の優しさがあふれるようなコンサートで、始めの時はぜんぜん乗っていなかった生徒達も後になるにつれて楽しんだ。今回のコンサートも素晴らしかった。生徒達の交流会の時間が取れず、ハイキングの時に一緒に山登りをして交流した。私は一人荷物版をしながら、勝海舟を読んで待っていた。

食事は中学校の方々からのご馳走であった。33人もの人間をご馳走してくださった中学校に感謝である。とてもおいしくいただけた。この歓談の中で中国の女性進出についての話が出た。台北の中学校の校長の半数が女性だそうである。国会議員の40%は女性だそうだ。比例代表制にクオータシステムが導入されていて、半数は女性でなければいけないようである。そんな話を聞きながら日本は遅れているなあとつくづく思う。こんな事も日本の孤立を感じる。今のままでは世界の中で日本はやっていけない。女性政策についてバックラッシュが続いているが、日本古来の伝統云々というのを聞くと、今台湾にいて思うことは何が日本古来のものよと思うのだ。もっと謙虚に世界の動静を見ているべきなのに。今日は日本の政治はどうかと効かれたが、技術と経済は立派でも政治は本当に恥ずかしいと言い訳をした。言いか怪訝小泉さんはやめてほしいと思う。
30日(木) 今日は朝7時半に生徒は登校した。この協同中学校はすごく勉強させる学校で東大級の大学に多くの進学生を出している。朝、7時半登校。一時間自習をしたのち、正規の授業が8時間続く。とにかく英語は一日2時間はするとのことであった。田舎の市にある学校であるががスクールバスもたくさんあり、優秀な学生が2400人もいるそうである。キャンパスも緑が豊かで美しい。勉強している姿を見て回ったが、日本の状況とそんなに違わない。唯、先生がマイクロフォンをつけて授業をしているのが印象的で、決して聞こえなかったとは言わせないぞという思いが伝わってきた。中学生の数学は日本並みであったが、高校生の数学は昔で言う数Vぐらいの難しさであった。もしかしたら、それ以上かもしれなかった。

学校の方針がはっきり伝わってきていた。でもね、クリスチャンスクールなんですよ。クリスチャンはどんな人でも(この際、学力があろうともなかろうとも)神様は愛し、祝福してくださるという立場にあり、どうしてもエリート作りには2の足をふみがちだ。しかし、神様の御用に立つ人にエリートがいても良いではないかと思うし、クリスチャンが国の指導者になってもよいのではないかとも思う。台湾の後の大臣級にキリスト教精神の方が出てくることを期待する。(でも、決してブッシュみたいなのになってほしくないが・・・)日本にだって大平首相はクリスチャンだった。

午前10時半からコンサート。とても、学生が乗ってくれて素敵なコンサートになったよかったなあ。帰りは熱烈なさようならをして帰ってきた。午後は昼食後またバスに乗って台北まで戻ってきた。4時間掛かったけれど車中で教育論を始めて楽しかった。

夕食はピザ。私用にパイナップルピザであった。初めて食べたおやつのようなピザ。今日の朝のクロワッサンは一口食べて食べられなかったし、私達が日ごろ食べつけている食べ物とは似ても似つかぬような食べ物が多くて、食後にアンパン、カステラ、蒸しパンを宿の前のセブンイレブンで買ってきた。明日の朝食が食べられない時にはアンパンを食べる事にする。
29日(水) 今日は朝からてんやわんやの一日であった。まず、3時に起床。3時半過ぎ、バスが来て荷物を詰め込んだ。と、人数分の席がない。今回は去年に比べ3,4人行く人が多く、荷物と楽器が多くなったという事であった。それで、荷物隊は先に行ってもらい、後から私達人間だけを乗せたバスをチャーターしていく事になった。それで、結局私達が5時に飯能を出発したのだ。

成田に到着したらなんと先発隊が着いていなかった。聞けば、第一ターミナルで降りてしまったという事で、大変な思いをして第2ターミナルにやってきた。結局、9時40分発のチャイナエアーに皆間に合った。ほっ。

その後は無事台北につき、お迎えの方々と共に嘉義市(じゃい)にきた。生徒達はここでホームステイ先に泊まりに行った。私達は協同中学の校長先生はじめPTA会長さん達のおもてなしを受けた。とても高級なレストランに行ったのだと思うが、いつものように私は海老も蟹も烏賊も蛸も鮑もオキアミも食べられないし、今喘息がひどくてビール一口も飲めない状態で、かえって皆さんにお迷惑かけたかもしれない。でも、すごい料理であった。
28日(火) 今日は朝からパッキング。何しろ1週間分の荷物を作るわけで、洗濯できないので全部持っていくことになる。いざとなると靴下はぼろぼろ、パジャマは派手で人様の前で着られるものではないし、お土産もいるし、息子も買い物があるしで午後は買い物となった。頑張って夜までには荷造りをした。

9時過ぎ、聖望学園の研修寮に着き、これをかいている。明日は3時おきで、4時出発である。若者の監督として私は付いていくのであるが、体力的に大丈夫か心配になっている。今、どういうわけかもう11時だがまだまだ、若者は寝ていない。音楽部だけでなく、野球部も今日はここでお泊りのようで、騒々しい。私が一声、静かにというべきかなあ。とにかく、毎日レポートをして行きます。おやすみなさい。

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