私の独り言 2004年

バ。ックナンバーもご覧ください。(2001年8月から現在まで)

心のままに思っていることを書いていこう。嬉しいことに喜び、悲しい事に嘆き、怒る事も忘れまい。一生懸命生きようと思う。

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10月 私の独り事
31日(水)
67100カウント
今日は朝から家事に励んだ。珍しく今日は予定が入っていない。心の中では報告書を書かなければと思うのだが、いつものとおりこんな時には他の事をしたくなる。だから、家事。

洗濯物は昨夜夫が帰ってきたので、いつもの2倍。10キロの洗濯機で2回まわした。干す場所がなくなった。新聞紙を袋につめてリサイクルへ。昨日買って来たものやアメリカからのものをキャビネットに整理して入れた。お皿は山ほどあったので、食器洗機に食器も詰め込まなければならなかった。

あっという間に夕方になった感じだ。夕方疲れて、少し横になって本を読んだ。明日は報告書に取り掛からなければと思っている。頑張ろう。

聖望が慶応に負けた。野球のこと。でも、もしかして甲子園にいけるかも。応援に行きたいと思っている。いけるといいなあ。
30日(火)
67000カウント
今日は朝9時に市長に養護学校の駐車場について要望に行った。本木県議、養護学校の校長とご一緒した。なかなか物事はうまく行かない。という事で、成果が少なかったが、何とかできないということもなさそうである。議会に戻ったら、ちょうど議長がいて、笹井のことなのでちょっと相談した。駐車場は始めに考えたとおりにならないけれど、駐車違反にならないように駐車できそうである。

午後は、娘の実習の説明会に行った。実習はとてもよいのだが、それが就労に結びつくかどうか分からないところが大変なのである。来年は3年生であるから、大変だ。学歴の話しがでて、養護学校を卒業しても高校卒にはならない。それが、理解できない親もいるのである。高卒でないと本当に職がないのが最近なのだ。最低学歴高卒と言うのが大半だから、養護学校の子どもたちは仕事にありつけない。

教育委員会の給食センターでもっと雇ってもらいたい。また、市役所ももっと障害者枠を設けて、彼女たちが出来る仕事を作り上げてほしい。委託で多くの業者が入っているがそういう業者には障害者の雇用がきちんとなされているところを選んでほしい。

パンジーを植えた。きれいにさくといいね。

夫が帰ってくるので、カルフールに買い物に行った。少しだけのつもりが、またまたカートに一杯になった。久しぶりだろうから、刺身を買って帰ってきた。夫が8時過ぎに所沢に着くというので、迎えに行った。久しぶりに会って嬉しかった。疲れきっていて、口数が少なかった。
29日(月) 今日は、朝決算委員会の最終日。要望事項の整理をした。あまりにも短時間で終わり、後からゆっくり字句の整理をしたくない。しまい。これでよいと委員が決めたことだからね。(読み返すのが少し恐ろしい感じもする。)ある委員が最短時間で要望事項の整理をした日だといっていた。

今回副委員長をしてみて、議会で議員の違いだけを見がちだが、大勢の人が同じ意見であることが分かり少し嬉しかった。だからこそ、要望事項の整理のコンセンサスが早く得られたと思う。それにしても、今回委員を選ぶ際、無所属が5人で、私が無所属からの代表のような形だったので、割りと意見を集中しやすい委員だったのかもしれない。それに、昨年に比べ、質疑の時間も長かったので、審査の過程でコンセンサスを形成したという事もある。

後は委員長報告のまとめと要点のまとめだ。議会事務局も忙しいだろうが、議員も忙しい。誰が1年を20日しか働かないといったのだろう。毎日毎日忙しいし、悩みも果てしがない。

午後はスタッフとあれこれはなしをした。沖縄平和旅行の日程を決めた。もう来年4月の予定を決めるのだから、大変である。ホテルも決めた。何人のツアーになるか分からないが楽しみである。国会ツアーもあっという間に思った以上の方が集まりそうだ。よかったなあ。いつか大野松茂衆議院議員、現官房副長官に官邸でのお仕事についてお話を聞きたいと思う。今は、現職、それも要職なのでお忙しいだろうから、官邸に伺うことは難しいだろう。でも、こんな時でなければ伺えないのでお伺いしたいと友達同士で話し合っている。実現できると嬉しい。今日、秘書の方にちょっとお会いしたのでそんな話をした。

夜はゆっくりした。本当はサピオに行くべきだろうが、行かない。体調がいいと少し嬉しい。こんなにホームページを書く気力が出てくる。
28日(日) 今日は、朝から別荘へ。実は別荘の鍵が開いていたと管理人からのお電話があり、急いで鍵を掛けに行った。ついでに庭の木の下枝を切ったりした。夕方5時過ぎに別荘を出たが、渋滞で帰ってきたのは10時だった。疲れた。
27日(土) 今日は朝、聖望学園の学年委員会。食事が珍しく出た。そのご、聖望学園PTAの厚生委員会主催の講演会。さすがに81歳の桂小金治さんの講演は古い。私でも想像することが出来ない戦前の話。「愛があったら、親が子どもの眉間を殴ってもいいんですよ」と言うけれど、私はそうは思わないけれど。愛があるなら子どもにきちんと分かるように教えればいいのに・・・

「古きをたずね新しきをしる・・・」と講演者がいい、古い時代の自分の親について(それも戦前の親)の振る舞いを見て、今の親がどうすればよいのか。まあ、子どもを愛を持って育てなさいということだろう。中学校に入った時が6番で、魚屋を手伝わされて出るのは186番だったと言う話しを聞いて、そこから何を親として学べばいいのだろう。勉強なんかさせなくてもよいという事か、昔の親は学業にそれほど意味を置かなかったという事か。分からないなあ。

古きをたずねたとしても、小金治さんの話しを懐かしいなあと言う思いで聞けるような年ではない。聖望の親世代としては、「だから何」という思いだけだった。キリスト教の学校の講演会がこんな陳腐な講演会かあと情けなくなった。

夕方から雨脚が速くなった。台風が近づいているとのこと。
26日(金) 今日はまたもや気力減退。報告書を書こうと思いながら、書けず。夕方に郵便局、本屋、カルフールへとでかけ、帰ってきたのは7時を大幅に過ぎていた。
25日(木) 今日は朝からワージントンの国際交流協会の訪問団を成田空港まで送りに行った。9時に集まり、さよならの式典をして、バスに乗り込んだ。高速道路は込む地点では込み、12時過ぎにようやく空港へ。チェックインをし、お昼を食べ、多少のお買い物をして帰ってきた。ワージントンの訪問団は17人の応募の中から8人が面接で選ばれてきたようだ。

すごいおもてなしで、訪問団に人は感激して帰っていった。私は、はっきり言って、ホストファミリーの負担はいかなるものかと暗澹とした。行きたい所をあらかじめワージントンに聞いたところ、かなり忌憚のない要望があり、富士山や軽井沢、新幹線に乗せたりと大盤振る舞いしたようである。日本人は「こうしたい」と言われれば出来る限りその要望にこたえようとする。でも、そんなことをしていたらホストファミリーのなり手がいなくなるのも無理がない。よほど、余裕のある人でなければホストファミリーになれない。日本人の日常の様子を見せてあげるという原点に立ち、観光旅行をホストファミリーに任せるのはいかがなものか。

確かに、ホストファミリーに観光旅行まで任せれば費用の面も協会に負担はかからない。でも、私は国際交流の意味、特に地方都市間の国際交流の範囲を大幅に超えたホストファミリーのもてなしに違和感を感じた。あちらに行っても勿論大歓待されるに違いないが、行った人に聞くとワージントンの生活をみせていただいくのが主流だったという事である。それでよいのではないか。一般家庭に泊まってもらうにしても、ここまでするのが慣例となれば、こんなもてなしを続けていかれるのかと心配だ。はっきり言って、私にはそこまでのもてなしは出来ない。

協会そのものには会員がいる。しかし、会員のためだけの訪問団交換ではないはずである。協会は国際交流の要として一般市民の国際交流を高めるためにあるのではないか。そのため、補助金も出している。だから、建前になるかもしれないけれど、できれば誰もが(実際は不可能課も知れないけれど)ホストファミリーとして交流が出来るような催しでありたい。

例えば、今回は1週間の日程で訪問団がやってきた。実際、1週間もお客さまを引き受けるのは出来ないので、2家庭で一人を引き受けた。出来たからよかったが、無理に引き受けたと言う家庭もあったようだ。そうであれば、向こうに宿泊費を出してもらい、ホテルに泊まってもらうことも可能だし、旅行を短縮することも可能だったろう。向こうの要望を聞くだけでなく、こちらから訪問団受け入れの趣旨にそって、できることを前もって提示しておくことも出来るはずである。

「批判するならばお前やれ!」という声が聞こえそうである。訪問を受け入れ、快く帰っていただくのは大変な労力が必要である。会長や委員長の負担は如何ばかりであろうかと想像に難くない。しかし、草の根の国際交流をどうするかという事を、少し考え直してもよいように感じた。

私は何べんも言うが国際交流、特に草の根の国際交流は大賛成である。人に会いたい、心を通じさせたい、考えを聞きたい、同じ人間であることの喜びを分かち合いたいと思う。ここから平和が始まるのだと思う。違いを知り、それをそのまま受け入れる。だから、狭山市国際交流協会の地道な取り組みは素晴らしいと評価している。日本語教室の取り組み、外国人さんを地域に溶け込ませる努力は市では出来ない取り組みなのだ。この前のバスケットボールの交流試合もとてもよかった。その中での訪問なのである。

ところで、出来れば、中学生、若い人にも外国を知ってもらいたいと願う。そのためには、もう少し補助金が必要である。特に、外国に子どもを行かせる余裕のない家庭の子どもたちのためには、市の補助が不可欠である。華やかでなくても質素に、でも着実な国際交流の取り組みが平和の礎になると信じて疑わない。
24日(水) 昨晩は寝たのが2時。でも、今日も子どもの弁当つくりのため、7時には起きた。皆子どもたちを学校に出したら、疲れが出て、動けなくなった。10月は忙しくて、体力が消耗している。昨日も歩いた。最近は、疲労回復に時間がかかる。という事で、今日は書かなければならない報告書も書かず、ひたすら寝た。夕方、おきだした。夕ご飯を作って寝る。
23日(火) 今日は朝7時半に出て、国際交流協会のワージントンの人への浅草、東京江戸博物館回りをした。とにかく、疲れました。

浅草は7月にも行ったのだけれど、今回は気候もよくて、1時間近くしか見る時間はなかったけれどあれこれ堪能した。今回は何か買おうかなという気分があったので、散策も楽しかった。秩父の霊山何とかをしていて、秩父太鼓を演奏していた。(奉納と言うべきかな)素晴らしくて聞きほれてしまった。菊花展をするらしいが、残念ながらまだ花は咲いていなかった。日本の秋が下町にあった。実は、今日どういうわけか高速道路が込んでいたので、下道を通った。東大があり赤門を見、湯島天神を見、上野の忍ばずの池をとおり、河童橋の商店街を抜けて、浅草に行った。河童橋商店街なんて始めて通ったが、面白いところだなあと思った。東京見物をする機会はアメリカ人が来るなんて機会じゃなければあまりない。

本当は、秋葉原に行く予定だったが、アメリカ人さんは日本の文化を知りたいというので、江戸博物館に予定を変更した。浅草から両国まではそんなに遠くないのでよかった。博物館では英語の説明ボランティアがいたので、説明をしてもらえた。私は通訳のはずだが、あんなに細かいことまで知っていられないので通訳できない。ボランティアさんに感謝である。

帰りはスムーズに帰ってきたが、100円ショップに行きたいというので、広瀬のダイソーに連れて行き、30分限定で買い物をさせた。メイドインジャパンのものをほしかったようだが、皆中国製で買うものがないとアメリカ人が嘆いていた。これはアメリカでアメリカ製品を探すのも難しいのと同様である。

急いで家に戻り、夕食の支度をした。7時から西中野球部母の会の飲み会。ここは肩肘張らないでいいし、バーミヤンは安いしで、またまた12時までいた。甘い中国のお酒をのんびり飲んだ。身体から疲労が抜けていくような感じだった。また、飲みたいなあ。(飲むといっても、本当に2,3杯を4,5時間掛けて飲むのだから、リラックスするだけで酔っているわけでない。ちょっと言い訳)
22日(月)
66800カウント
今日は朝から議会の全員協議会が行われた。会派、市民21が出来、未来フォーラムが一人増えと議会内の状況が変わってきた。それに伴い、席も変わった。今後、どんな議会運営が行われるか楽しみである。とにかく、民主的な運営を望む。

今回は1時間以上執行部から報告があった。老人医療制度改革の中で健診が大きく制度を変える。大変である。

今回初めて女性の課長が説明に入った。単刀直入な答弁で、非常に分かりやすかった。この方は今年で定年であるが、このように答弁できる女性であれば部長職にしたかったなあと思う。この課長が辞めれば、狭山市の女性課長はたった一人になってしまう。それに、狭山市の女性課長は本庁にいない。皆、外である。一人では女性課長をするのは大変である。2,3人女性課長が誕生してほしいものだ。日本女性会議に行って、女性管理職の育て方を聞いてきた。職員課は男女共同参画室と手を組んでプログラムを作ってほしい。

さて、午後から決算特別委員会関係の委員長とのミーティング。早く、早くが口癖の狭山市議会。ゆっくり、時間をとって議論をしようよという雰囲気を作れないものか・・・・

給食センターの仕様書を見、代表者会の説明を聞き、開発課に行って話しを聞き、役所を出るころはもう真っ暗。でも、5時半。急いで帰ってきた。買い物もなしで帰ってきたら、息子が早いねえと驚いていた。私は、最近学園祭で息子が家にいるほうが、何かあったんじゃないかと思ってしまう。でも、家にいる分には安心である。
21日(日) 今日は疲れて起きることすら大変だった。が、夫がアメリカ出張なので、駅まで送っていくことになっていた。いつもはここに出張のことをかかなかった。帰ってきてから、出張していたとかいていた。今回初めて夫の出張が今日からであることを書く。という事は、息子たちが大きくなって入るので、何かあっても心強いという事なのである。

夫は出張前に市民会館に行って娘のお花の展示をみるという。私も見たかったので一緒に出かけた。娘のお花は今一かなと思った。でも、お師匠さんがいるのだから、きっとあれでよいのだろう。他の人の生け花を見たが、もうオブジェ。その中で私が好きだったのは、日本の秋の花をたくさん挿した生け花。懐かしい花の色、懐かしい生け方。素敵だなあと思った。知っている方にお会いし、嬉しくも会った。隣の陶芸展も見て帰ってきた。陶芸は難しい。お茶碗をいただいて帰ってきた。ありがとう。

午後は、疲れ果てて、寝込んだ。本を読んでごろ殺していたのだが、起き上がれない。夕方ごろ洗濯物を干した。ひどいね。

夕食は、広島のお土産、お好み焼き。あまりおいしいと思わなかった。アレルギーがあるので、怖くて広島駅で食べることも出来なかったし。今日も一口だけ。
20日(土)
66700カウント
午前中はシンポジューム。多様性について。韓国の元議員、外国人相談員、日産のダイバースティ デペロープメント 課長がシンポジスト。これで私の一般質問は決まった。青少年問題(雇用も含む)、外国人施策、女性問題。考えるところが多いシンポジュームでとてもよい参考になった。

午後は、男女共同参画局の局長、坂東久美子さんの講演。吉行さんの講演もあったのだが、飛行機の都合で一足早く開場を出た。

少し、時間をとり、平和資料博物館(原爆博物館とは言わないみたい)に入ってみた。ここが怖くて広島に来れなかったのに、入ってみてあっけなかった。もっとじっくり見る時間があればよかったのかもしれない。でも、最近は心して原爆のテレビを見たり、本を見たりしているので、事実に対して目を背けないという強い気持ちが「気持ち悪い、怖い」と言う思いを消させたのかもしれない。昨日の碑を読んで回ったのが胸に重くて・・・・被爆者の話のビデオを見た。タンタンと話している人たちを見て、大変だったね、辛かったねと抱きしめてやりたい思いで一杯だった。癒されない傷や悲しみ、苦しみってあるのだよね。

戦争反対の気持ちが強くなった。私のすべきことは何かと昨日の若い20歳台のシンポジストが自問していたと同じことを胸の中で何度も考えた。少なくとも、戦争反対といおう。デモがあったら、参加しよう。もしかして、デモを組織しなければならないかもしれない。暴力は何も解決しない。憎しみや悲しみを増幅するだけだ。

飛行機に乗り、帰ってきた。9時になった。夜、久しぶりにホームページを見たら、66700カウントを回ってしまっていた。66666を取った方はどなたでしょうか。メールをお待ちしています。
19日(金) 今日は午前中に予定を入れておかなかった。原爆ドームや土手沿いにある碑を診て回った。碑の一つ一つを読んでいると、胸が一杯になってしまった。どの碑の前にもお花が上がっていたが、どの花も生花でしおれていなかった。誰かがいつも取り替えに来ているんだなあ。広島の市民の深い悲しみをかんじた。この大田川にほとりは、本当に聖地と言う感じで、さすがにホームレスの青テントもない。

原爆ドームは小さな建物だった。思っていた以上に荒れ果てて、朽ちるのを人間が躍起になって支えているというビルである。この上、600メートルで原爆が破裂したという。上を見上げてしまった。曇り空を見上げて、あの日、あの時、原爆がこの上で炸裂したのかと、すぐそばを流れている大田川に死んだ人がたくさん浮かんでいたのだろうと、想像した。気持ち悪いとか悲しいとかでない、重く辛い気持ちで一杯になった。この回りでは、小学生も中学生も大人も老人もいたが、皆自分たちの思いに胸がふさがれて静かに静かに原爆ドームを見上げていた。

平和公園の中を歩いた。貞子のモニュメントがあり、平和祈念堂があり、たくさん碑があった。黒い塊のようなオブジェは黒焦げの人間を表していた。夫が燃えたとき私は飛んだという文言だっただろうか。私は目の前でジムが黒焦げになって燃えたら、飛べない。私は、真っ白になるまで燃えたい。この人が、悲しみ、あきらめを忘れ、気が狂ったら楽だっただろうにと思った。

午後は日本女性会議の分科会。私は第3分科会に参加した。若いパネリストの話を聞いた。広島は何をしていても、鎮魂の音楽が静かに流れているような街だ。1発で20万人が亡くなった。誰も、ここで平和を願わない人はいない。誰でもここに住んでいる人は密かに平和活動にどう対峙すればよいかを考え続けているように思った。年を越えて、同じ思いを抱えている気がした。

夜交流会。入間市のかたとお会いした。もっと交わりたいなあと思った。
18日(木) 今日は朝夫が起こしてくれた。出張の用意を昨日の夜中にしていて、寝たのが2時。起きたのが6時。寝た気がしない。

夫に駅まで送ってもらい、羽田へ。飛行機で広島まで行った。広島空港からバスで広島駅へ。そこで食事をした。尾道ラーメンを食べたが、まずかった。後で、胃が痛くなり、その上、下痢まで。脂っこかったので、疲労困憊で睡眠不足の私にはこたえた。

向洋(むかいなだ)駅前の区画整理事業を見に行った。いろいろな事情で計画が変更され、まだ着手に至っていない。問題は財源のようである。合併するはずだったのにしなくなったので、県はあたふたしているらしい。現場の人はもう事業を進めたがっているのがよく分かった。私も同じ思いになってしまった。いろいろ、ざっくばらんにお話しを聞いたが、参考になった。ありがとう。ところで、区画整理事業で補償地区にならないのはどうしてかと聞かれた。まあ、公共用地(例えば小学校)などが多いので、減額にならないのだと説明した。「駅前で補償地区にならないのは珍しいですねえ」と言われてしまった。考え込んでしまった。

それにしても、丸2時間みっちりお話しを伺うことが出来て嬉しかった。115万人という政令指定都市の広島市。区画整理事業をたった2箇所しているだけらしい。平成14年度の財政危機宣言以来、まちづくりが頓挫しているらしい。広島市駅前が中心市街地ではないが、あそこを再開発してもよいと思った。

ところで、1つだけ駅前で再開発ビルらしきものがある。その9階、ジュンク堂という本屋が入っている。素晴らしい。図書館のような本屋さん。紀伊国屋のダサさを思うと、ジュンク堂のセンスのよさに目を見張る。結局2冊買った。
17日(水) 今日は身体の調子が悪くて、起きるのも辛かったが、午後から田町の“女性と仕事の未来館”でスウェーデンと日本の内閣府の共催によるシンポジュームがあるので、バッファリンを飲んで出かけた。

内容は、スウェーデンの女性の進出状況、労働を主に報告された。女性の社会参画について言えば、やはり民間企業に就職よりも役所に就職の方が正規職員を続けやすい。日本もそうだが、スウェーデンほど女性を雇ってくれないのが問題だ。パートタイマーの比率も高い。日本はそれ以上なんだから、何をかいわんや。女性議員の比率はほぼ45%。日本の9%そこそこに比べると恥ずかしい。育児休業によるディスアドバンテージをなくす法律を作ったそうである。

法律、計画、チェックをオンブスマンがするというのが、スウェーデンの仕組みらしい。オンブスマンの公平性をどうするのだろうかと思った。何しろ、オンブスマンは政府によって任命されるわけであるから。

ひとつ思ったのは、国が男女平等を国是のようにして、国づくりをしているという事である。ここが日本と違う所だ。スウェーデンでは女性が国で男性と責任分担しないことには国が成り立たないという事を、なんと1930年代の少子化の中で気づいた。その危機感が女性の地位を男性と同じレベルへという運動になった。スウェーデンでは高学歴で、高収入の女性が低学歴で、低収入の女性よりも子どもを産むという結果であるそうだ。確かに、きちんとしたところにお勤めし、産休、育児休業ができ、賃金が高かったら、仕事をやめる必要がないので、女性も子どもを産みやすい。女性の社会参画が子どもを産まなくすると言うのは神話であった。嘘であった。

多様性の時代で、ボルボの開発課長が女性のニーズを考えないでは車の開発は出来ないといっていた。女性が購買車の8割を決定すると言うのだ。男相手に車は作れない社会らしい。

それにしても・・・と、日本の状況を考えてしまう。女性の地位が低く、女性の政治参画が低く、女性の企業や役所での意思決定の役員が少ないのは、ちっとも変わっていない。だからこそ、スウェーデンでは1.9という高い出生率でが、日本では1.29、狭山市では1.05という事になる。ため息が出る。

疲れ切って帰ってきたが、夕食に手作り品をたくさん作った。あしたから、出張だからお母さんのおかずを作れないからね。
16日(火) 今日は朝に洗濯をし、お皿をお皿洗い機に入れ、新聞を読み、出勤。決算委員会の要点のまとめを委員長とした。結局、お昼まで係った。

午後は、障害者福祉課に行き手続きを終え、アミーでコーヒーを飲ませてもらい、買ったパンでお昼にした。その後、明日からまた忙しくなるので、カルフールに買い物に行った。いつもどおり、カートに山盛りの買い物をした。

今日は、まだまだ疲れが取れない。マッサージの揉み返しがきているようで身体がだるい。仕事をしないで、横になりたいと思う。

ところで、亀田の反則ボクシング。ボクシングだって格闘技、プロレスと同じはずだし、k1と同じなのかもしれないが、私の中で昔のストイックなボクシングがボクシングである。それに、サッカーでも何でもジャッジに見つからなければ、反則でも何でもありって言う風潮はとても嫌いだ。本来、私は生真面目だ。影で後ろ暗いことをするのは、大嫌い。

亀田親子のようなボクシングはいかがなものか。あんなボクシングは真っ当なボクシングを馬鹿にする行為だ。詭弁を並べて自分を正当化するやり方は醜いとしかいえない。お相撲の時津風部屋のリンチ事件もどこか同じ香りがする。自分だけを正当化して、自分たちのしたことに正面から向き合わない。自分たちがおかしなことをしていることを理解していないのかもしれない。そうであれば改良も改善もありえない。いやだなあ、こんな世界は。

亀田親子のやったことは、ボクシングが昔のボクシングではなく、もはやプロ格闘技 プロレスと同レベルになったことを示した。私は、もう見ることはないだろう。今回だって、真面目に試合を見ていたのではなく、時々チャンネルを合わせていただけだった。お相撲ももうまともに見ることはない。30過ぎた大人を箒でぶったたいて、“しつけ”だなどという世界はねじが狂っている世界である。おかしい。そんな勝負を国技だという事すら、私には違和感どころでない嫌悪感がある。朝青龍が帰ってくるそうだが、もうお相撲は見ない。
15日(月) 今日は朝事務連絡を役所としてから、養護学校へ。聖望学園コンサートバンドのコンサートを聴きに行った。というか、ダンスをして音楽を楽しんだ。生バンドでダンスとはゴージャスだった。楽しくて、楽しく素敵だった。

午後は昼食後、スタッフとミーティング。もう12月議会後の話。来年の沖縄平和ツアーの計画など、今月、来月、毎月何らかの後援会事業が続く。スタッフはのびのび仕事をしているが、私は何もしないのに息切れしそうである。やっと、原稿を書き終えたのに、また次の原稿や一般質問のことが頭を占め始めた。木曜日からはまた視察をする。

夕食を作った後、食べる子どもたちや夫が帰ってこないので、明日の要点まとめのために、決算委員会委員会録を読み始め、要点にしるしをした。夕食後も続けた。でも、11時にはもういやになった。お風呂に入って、寝る。
14日(日) 朝礼拝。その後、食料を買い込んだ後、古本やへ。帰ってきたら3時過ぎ。その足で、支援者宅へ。お茶を頂いて帰ってきたら、なんと6時を過ぎていた。急いでご飯を作った。

8時前、入間の湯へ。マッサージをしてもらったが、肩から足にかけてこりに凝っていた。視察の疲れが残っている。
13日(土)
66500カウント
今日は朝、広瀬公民館でイラクのDVD試写会と私の議会報告会があった。皆さん忙しいようで参加は今一だった。DVDを見るよりも私の話が聞きたいという人が多く、議会の話しと議案の話しに終始した。タバコのポイ捨てからアイドリングストップの話になり、市で何とかできないかと言う市民の話があった。女性政策に関しては、狭山は遅れているという指摘があり、女性団体を育てていこうなんて機運がなくなったことを私も残念に思っている。

あっという間の3時間だった。午後は、昼食を食べた後に郵便局へ、JTBへ。来週18日から広島の女性会議に出かけるがその際のチケットが出来たという事で、チケットをもらってきた。これで空港からのバス料金を除けば、OKである。夕食の予約を入れてもらい、領収書を作ってもらっていたら、1時間以上の時間が経ってしまった。その後、本屋によって、食料を買って帰ってきたら、7時を過ぎていた。

今日は手巻きすしにしたのだが、刺身なんていやだと肉派の息子はぶーたれていた。高校生・男はたんぱく質が必要で、淡白な食べ物なんか食事にならないらしい。毎日、焼肉なんて親はたまらない。結局、2種類おかずが入ることになり、手間がかかる。でも、こんなことを言えるのも今のうちかもしれない。がんばって作ろう。
12日(金) 今日は知多半島の知多市に行って、プレイパークを視察した。これは、狭山市でも智光山公園のアスレチックなどの所を使って出来そうな感じである。導入を提案してみよう。

今回の視察は歩いた、歩いた。今日も1万歩以上歩いた。何しろ、山の上にプレイパークがあったのだから、私のように運動をしない人間は心臓がパクパクした。きっと健康によかったに違いない。

午後は視察をしないで、2時過ぎの新幹線で帰ってきた。狭山市には6時前についた。足がパンパンにはれていた。それでも、夕食を作り子どもに食べさせた。われながら偉い。夫は私が帰ってきたのを大変喜んだ。子どもの世話は大変だったのかなあ。もう、高校生だから、自分で何でもできるはずなんだけれど、私がいないと扇の鼎がないような感じらしい。
11日(木) 今日は朝春日井市の勝川整備事業の視察。食事は区画整理事業内の蕎麦屋へ。区画整理や再開発で1000億円も投資した街。その効果は3棟の民間再開発ビルになっていた。何百世帯も周辺に住み着き始めている。市で48箇所も区画整理事業をしているとかで、一駅周辺の1000億円もの投資にも文句が出ないという事であった。

ある再開発反対の狭山市の委員が素晴らしいとか言っていたが、何を言うかである。今まで再開発の足を引っ張り、時間をどのくらい浪費させ、また、議会でも余分な出費をさせたか考えればよいのに。よその市のまちづくりは評価するが自分の所はみすぼらしくてもよいとはどういう了見か。

帰りに名古屋市下水道博物館によって帰ってきた。ちょうどお城の公園の中にあったので、お城を見た。お城の周辺を歩き、地下鉄で一駅分歩いた。この日も1万歩以上歩き、日ごろの運動不足を解消した。
10日(水) 今日は建設委員会の行政視察。1日目。8時集合、新幹線で名古屋へ。午後は、豊田市へ。あの、愛知県のトヨタ自動車のある豊田市である。財政は今も昔も超好調。駅前の整備をしていた。車のまちらしく、駅は換算としていた。また、駅前にホテルがあるでなし(私達も名古屋に宿を取った)、小さな商店街があっただけである。中心市街地のリニューアルをしていた。お金がある町だが、私達の参考にならないとは限らない。「へ〜〜」とかんしんしながら、役所の課長の話、商店街の方々、元TMO、いま街づくり会社の人たちの話を聞いた。

久しぶりに歩いたので、5時過ぎにホテルに帰ってホッとした。その後、6時半から夕食。

食事をした後、紀伊国屋書店によって「池波正太郎の世界」を買い、他も見ずにホテルに戻った。疲れたし、明日のこともあるので、早々に就寝。
9日(火)
66400カウント
今日は、朝9時から決算委員会の第4日目。4時に審査を終えた。早く、早くという委員長がせっつくので、聞こうと思っていた点をいくつか逃した。生産緑地の転用についてを聞こうと思っていたのだが、失敗した。それと、格差時代の象徴というか、三位一体改革で教育扶助費の基準の切り下げの結果を聞こうと思っていたのに、聞きそびれた。あ〜〜〜あ。

それと、委員会で問題提起するのはいかがとは思ったのでいえなかったことは、救急体制のこと。狭山市民がある産科医で子宮外妊娠で救急車を呼んだのに、こなかったという事があった。その産科医は狭山市になかったので、その救急車は狭山市のではなかったが、子宮外妊娠で産科医が救急車を呼ぶと言うのは危険が迫ってのこと。「狭山市では、このような事はしないでしょうね。」と課長に伺ったら、そのようなことはしませんとのこと。よかった。

また、知人の娘が救急指定病院に搬送される途中でなくなったことがあった。今年の5月のこと。小児の病気は怖い。何がいけなかったのかよく分からないが、救急体制、小児緊急医療体制の充実が必要だと痛感している。

議会の後、女性会議について男女共同参画推進室のほうからレクチャーがあった。来週に迫った。早いなあ。

途中で買い物して帰ってきたら、六時半。明日から、視察なので今日のうちにたくさん作っておいた。お母さんの手作り料理が食べたいに違いないから。
8日(月) 今日は朝ゆっくりしていた。起きたら10時。朝ごはんを11時ごろに食べ、お昼を2時ごろ食べた。朝の短かったこと。友達とお茶したらそれで終わった。

午後からは家から持ってきた議案書と行政報告書を読んだ。行政報告書はかなりきちんとまとめてある。ここから見えるてくることも多いのだが、どのような話しにするかが問題。今回、放課後教室の充実など、放火の際の見回り、火災警報器、橋の補修、小さく見てみれば、ああしたらこうしたらと考える点も多い。

午後お掃除をして、6時過ぎに家を出た。渋滞もあり、藤岡で夕食を食べ、帰ってきたら、9時だった。それから、荷物をかたづけて、あっと間に1時半。寝る。
7日(日) 今日は朝礼拝。野沢福音教会にて。聖餐式もあり。

その後、りんご狩りに出かけたが、農園に人がいなかったので、あきらめていつものあんず亭でスパゲティを食べた。そこで、小諸にリンゴ園があることを聞き、出かけた。小さなリンゴ園でりんご狩りをした。おいしく頂いたし、多少取ったりんごを買った。いろいろな種類のりんごがあって、リンゴ園のご主人とお話をしたり、楽しかった。来年、後援会のりんご狩りをしたいなあと思った。その後、いつものように穂の香の湯に出かけた。温泉はやはり温まる。帰りにうどんやによって讃岐うどんを食べた。

温泉でのんびりしたら、またまた眠くなった。ストレスがお湯の中に解けて出た感じである。嬉しいな。
6日(土) 今日は朝台湾の友達に会いに出かけた。聖望学園の研修棟にいて、日本でコンサートをしていた。お別れに油絵をいただいた。素晴らしい絵で帰ってきてから、玄関に飾った。南の人はとても熱い。素晴らしい人々で私は自分が恥ずかしい。お世話になったのにメールもせず、無沙汰の限りだった・・・・

お送りしてから、帰ってきて山の別荘に行く用意をした。その前に、息子たちの食料を買い込んだ。カルフールに行ったので、また2万円近くなった。すぐに食べられるローストチキンやらピザをたくさん買い、息子たちと私達のもって行く分にした。

娘のお友達も今回は連れて行く。娘も嬉しそうだ。途中に買い物をしたので、別荘には結局8時ごろついた。カルフールのローストチキンと稲荷寿司というとんでもない取り合わせで夕食を終えた。山は空気が少ないので、とても眠くなる。ベッドに横になって、ごろごろしながら本を読んだ。
5日(金)
66300カウント
今日は朝9時から決算委員会。とりあえず、4時まで頑張りました。一応、考えていた質問の大半はしたのですが、いくつか質問し忘れた。それに、今回は副委員長なので皆さんの質問の後にするようにしているので、委員長からは「もう止めろよ」というオーラが出ており、そこを無視して「聞くべきことは聞きます」と頑張っています。私の質問はもう一歩が足りないなあ。反省。いつでも、議会活動を振り返るとああすればよかったこうすればよかったと、思うことが多い。いつかどうにかなるのだろうか。

帰ってきてから、すぐに美容院に行ってパーマをかけた。明日、会う人がいる。来週は視察、再来週も視察。週末も忙しいし、今日しかなかった。とりあえず、カットも出来たし、よかった。

夜は少しのんびりしたが、夕食が始まったのが8時だもの、あっという間に夜も更けている。明日は、買出しに行かないと食べるものが亡くなっている。今週は忙しくて、まともな買い物に行っていない。もう、疲れ果てた。寝る。
4日(木) 今日は朝夫を狭山市駅まで送っていった。駅前のMさんの家がもう取り壊されていた。とても嬉しかった。いつか、Mさんのうちに行ったことがあった。半年前のことだ。家の中はもうすっかり片付けられていた。引越しをいつしてもよいようにだ。再開発の開始をまっていた。Mさんはあんなにおげんきだったのに、再開発の準備の中で身体をこわしてしまった。必ず再開発が終わって、まち開きまでお元気でいてほしい。勿論、もっともっと素敵な駅前を見てほしいと思う。

駅前の工事がはじまっていたので、入間川小学校跡地の家の建設を見たくなって、現場を車でぐるっと見た。大きな家がたくさん建設中。4月に機構の所長さんが変わったという事で、会う約束をした。その間、役所に行き、書類を取ったり、PFIの話しをきいたりした。取って返し、機構の事務所で所長さんにあった。とても、前向きの方だった。出来ること、出来ないこと、しなければならないことなどを話した。

私は工事関係の情報を出来る限りたくさん市民に流してほしいという事をお願いしてきた。工事関係のことは機構が施工者だから、西口事務所からはなかなか情報を流せない。機構の所長さんは西口事務所を通じて、市民の興味に答えてほしい。

それにしても、私もそうおもうが、狭山市は早く西口まち開きチーム・中心市街地活性化チームを作り、再開発の開始に備えるべきだ。これは、所長とも話しをした。また、9月議会のヒアリングでつくづく思ったことである。こんな大きなプロジェクトのソフトを引っ張るチームがなくてどうするのだ。西口開発事務所は基本的に技術屋集団なんだから。商工課の今中心市街地活性化をしている人たちを7階に持ってきて、横断的なプロジェクトチームを結成すべし!!!!!所長も行っていたけれど、もうまち開きもすぐだ。何も用意していなくてどうする。運営母体すらどうなっているか分からない。

私が焦っても仕方がないけれど、市長はどう思っているのだろう。そもそも、狭山市の政策決定はのろい。アンテナが低い。私に言わせる前に、さっさとチームを作ればよいのに。10月に人事異動があって、再開発まちびらきプロジェクトチームが出来るかと思ったら出来ていない。人事異動すらなかった。こういう時は、総合政策部長や副市長が気を利かせるべきだろうに。私も人事のことだから、議会でプロジェクトチームのことを言わなかった。職員の中ですら、早く準備チームを作るべきではないかと言う声が上がっているのに、一体狭山市は、どうした。私なら、あの職員とあの職員と引っ張ってきて、少なくとも5,6人の準備チームを作るけれどね。あの職員って誰?だって、教えてほしいならば、私に声をかけてね。推薦しますよ。

午後は急いで帰ってきて、ネットニュースを作った。郵送分も作った。ホッとした。ご飯を作ろうかと思ったら、台湾から知人が来ているという事で会いに行ったが、すれ違いになってしまった。
3日(水)
66200カウント
今日は朝10時から決算委員会の第1回まとめを委員長とした。昨日、大分要約してしまい、これでよいのかと思っていたが、それ以上にカット。市民生活に関係のあるところをピックアップした。行政の事務遂行上のことはほぼカット。

30分ほどで終わり、その後また決算の勉強をした。障害者関係、一人暮らし老人関係、母子加算、シルバー人材センター関係といろいろな課題を見てみた。午後までかかった。しかし、1時から2時間は区画整理事業に関しての勉強会を入曽事務所の所長に来ていただいて学んだ。来週、再来週の視察に備えたからである。何べん聞いても、何年やっても難しいことは難しい。

意やっと言うほど話して、結局役所を出たのは6時だった。は〜〜〜。

ご飯を作り、食べた後ゆっくりしたかったが、昨日書いた原稿の校正が出来上がっていたので、校正部分の書き直しをした。今はもう夜中の12時を過ぎてしまった。いつもいつも忙しくて・・・・夜に仕事をしないでもよい日はないのだろうかと思う。
2日(火) 今日は朝からネットニュースの原稿つくりに励んだ。議会レポートは日曜日に新聞折込に入れた。その反響は思ったより大きくて、国会に行きましょうに参加者が何人も申し込んでいる。出来れば20人以上になってバスの貸切が出来るといいけれどと思っている。無理かなあ。

とりあえず、3時半ごろまでに原稿を書き上げ、プリントアウトした。そんな時に、支援者から電話があり、「87歳の青春」という市川房枝さんの自伝ビデオがあるから見にお出でと言うお誘いが架かった。市川さんの人生を見てみると、挫折の多い人生だなあと思った。仕事も何べんも変わっている。でも、変わらないのは彼女は学校を出てからずうっと自立していると言うことだった。

市川さんについては尊敬している。市川房枝政治参画セミナーにはお世話になっている。彼女がクリスチャンであったことがどこか私は彼女に親しみを持っていることなのかもしれない。ユテリタリアンだという事である。アメリカでお手伝いさんをしてアルバイトをしたといっていたが、それが出来たのも牧師からの推薦状があり、日曜日には教会に行っていたからかなあと思う。

そういうわけで市川さんの中にはあまり左翼的な匂いがない。平塚らいてふさんと懇意だったと言うが、平塚さんだってブルジョア夫人だった。市川さんだって農家の娘とは言うものの、アメリカに親戚がいたりしてちょっと変わった家庭の娘さんだったろう。本当に残念だったのは、彼女は第2次大戦の時に国の女性政策に乗ったという事である。だから、彼女は戦後パージされている。ひっそりとその時代を過ごすべきだったのに・・・・そういう見極めは難しいことだろうけれど。

6時過ぎ、ビデオを見終わって帰ってきた。夕食後、28日の決算委員会のまとめを考えた。仕事は尽きないなあ。手を抜く暇もない。

気分は今日だって最低なんだけれど、それに浸っている暇なし。祈ってはいるけれど、神様の一番よいようにしてくださいと祈るほかない。人を嫌いになるのと、人に嫌われるのとどちらが辛いかと思うと、比べようもない。この前までは嫌いでいることが辛かったが、嫌われるのも嫌なものなんだと納得した。この年でこんな思いをするのかとつくづく嫌になる。日曜日にイワンの馬鹿のイワンのように能天気に生きたいといったら、教会の姉妹が一人づつ違うように作られたのだから、それは無理よということ。イワンになれないならば、シンプルに生きられないのなら、悩んだり苦しんだりして生きていくより仕方がないのだなと思う。それでも、子どもたちや親の生き死にのことでないのだから、まあいいか。神様に任せよう。
1日(月)
66100カウント
今日は朝からネットニュースの原稿を書く予定だったが、集中できず、役所に行き、決算書などの下調べをした。少し飽きて、HPを開いたら、なんと66100カウントである。66666までもう少しだ。わ〜〜い。6時過ぎに退庁。

夕食後、ゆっくりした。けれど、気分は最低。でも、そんなことを言っても仕事は待っていてくれない。ネットニュースの原稿を1ページ分と2ページの半分を書いた。1面のタイトルが決まれば、後はかなり楽に進むのだが、そのタイトルが頭からというか、何かからスルっと出てくるまでに、あれこれ時間を潰すのだ。いつもの事ながら大変。

夜中まで書き続けた。そのせいか、頭がさえて寝付けないのがたまらない。

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