私の独り言 2004年

バ。ックナンバーもご覧ください。(2001年8月から現在まで)

心のままに思っていることを書いていこう。嬉しいことに喜び、悲しい事に嘆き、怒る事も忘れまい。一生懸命生きようと思う。

“私の独り言”を読んの感想、皆さんの暮らしのこと、何でもメールして下さい。すぐにはお返事できないかも知れないけれど、全部に目を通します。
私のメールアドレスは
kumiko@takahashi.comです。たくさんのメール待っています
11月 私の独り事
30日(金) 今日は議会。議案質疑。議案の質疑勉強は昨日のうちに終わっていたし、28日にはほとんど役人さんに通告していたから、問題はなかった。たくさんの質疑がされ、結局は午後まで掛かったのだけれど、それはそれで仕方がない。否、活発に質疑がされる状況は大切なことである。私はこのような活況を呈している議会を誇りに思う。健全な議論(私には暴論に思えるようなことを言う人もいるけれど)が議会の役割なのだろうと思う。

午後、役所であれこれしたが、何しろ私の原稿が出来ていないのだから話にならない。ごめんなさい。

4時からは娘の実習の反省会が実習先であった。娘は言葉でコミニケーションできるから、彼女のハンディがよく見えない。彼女にまるで普通の人のようなことを望んでも難しい。場が読めないし、空気を読むことは難しい。天真爛漫。それがハンディなのだ。来年の就職がどうなるか。どうしても、就職してもらいたいものだが・・・
29日(木) 今日は休会日。朝、病院へ。この前の状態が最悪だったので、ダイエットにはいったのだが、今日の検査の結果、かなり好転していた。このままダイエットを続けなければならない。この上、きちんとトレーニングをすれば、いいのだ。強い意志。強く妥協をしない意思。これが大切だ。そのために祈らなければならないと思う。

今日は尾崎の42歳の誕生日だそうだ。今日当たり、狭山霊園は人で一杯だろうと思う。日を改めて墓石をなでてみたいと思う。一杯映像が残っていて、とうとう私もDVDを買ったのだけれど、見れない。議会が終わり、ホッとしたら見てみよう。上の息子は「尾崎かっこいいよな」なんていうから、「一生懸命頑張ってと言うのが、尾崎のメッセージだよ、しっかり生きてね」と言った。きわめて気障な尾崎だけれど、その端々に真摯な思いがあふれていて、必死に生きている姿勢に胸が打たれてしまう。可哀想だね、あの生き方では生きていくのがと思う。でも、私も結局そんな生き方が好きだから、運命みたいに、きっと自分が与えられた生き方からは逃れなれない。その生き方を選ぶほうが辛くないのかもしれない。

生きていたとしても、もっとも会うこともなく、どこかのメディアで様子を見ているだけだろうけれど、それでも、今日一日でも42歳の尾崎を見たいなあと思うね。26歳で殺されちゃうなんて、本当に惨めで可哀想すぎると思う。
28日(水) 今日は議会初日である。昨日も結局寝たのが2時過ぎ。起きたのは7時。子どもの弁当を作り、自分のしたくもあり、忙しい朝。9時までに議会に入った。代表者会、全協などがあり、その後本議会。今日は決算の賛成討論をすることになっていた。緊張はなかったのだけれど、気分が晴れ晴れと言うわけには行かなかった。自分に妥協したことが胸に突き刺さっていて・・・・

ときには過ちを犯してしまうこともきっとあるだろう。
だけど過ちにさえ、自分のこの体でぶつかって一つ一つの物事を自分で解き明かしていかなければ、
新しい第一歩は踏み出せないような気がするんだ。
そのために傷つくことも多いかもしれない。
そのために命を落としてしまうかもしれない。
ただ俺は新しい一歩のためにこの命をかける。
それが俺の生き方だ。 (尾崎豊、18歳)

激しく共感を持ってこの言葉を思うのに、
大人になったというか、大人になりたいと言うか、そんな私は妥協をした。やっぱり、それはそれで痛くてね。もう、しない。何が良心なのか、きっと自分の思い込みなのかもしれないが、心の痛まないことを選び取って、それを自分のこの身体でぶつかって進むようにしよう。「オザキみたいな餓鬼のいう事を、真っ当だと思うのは、馬鹿じゃないの」と言う人が多いだろうけれど、今日は大人になるのをやめる記念日。何をどう妥協したのか言えない自分が恥ずかしい。

午後は、議案の関係などのヒアリング。帰ってきたのは8時ごろ。夕食をそれからつくり、原稿を書こうと思うのだが、筆が進まない。
27日(火)
68200カウント
午前中は明日のための賛成討論をまとめた。思ってもいないことは言えない。この賛成討論は私の名前でするのだから、きちんと自分の考えで行う。とはいえ、軟弱であるけれどね。

午後は、役所でヒアリング。もう、涙が止まらなかった。精神不安定が出てしまった。私の仕事は議会で問題提起をし、具体的に提案することである。勿論、それは事業のチェックによって行われる。しかし、今回涙が止まらなかったのは、自分がやってきたことがまるで窓の外に向かって話していたような無力感があったからである。要するに私は今貧困にいるといわれる青年や、女性や、ホームレスや、障害者のために多くの言葉と何回もの質問と言う提言をして着たけれど、事実として何をして上げられたのだろうかと思うのだ。

9年間、確かに一生懸命議員を務めている。今だって、どんな風に、どんなことを、どんな人のために発言したらよいかを考えている。しかし、何年も同じことを言っていて、何も状況が変わっていないことがある。否、状況は私が考えた以上に悪くなっている。中途退学者の問題を捉えて質問したが、ある子は今ひどい状態だ。個人的にその子に係わったわけでない。私は議会を通じ、中途退学者の問題の解決策を提言していたのだが、結局中途退学した子どもたちや引きこもりの子どもたちのためには、何もして揚げられなかったと思う。こんな風に思うときに、無力感と空虚な思いで胸が一杯になり、今日は涙となった。

挫折と孤独の青年たちがいることは知っていたし、そういう青年に何かをしてあげたいと今でも思う。だから、今回もいつもと同じように提言する。社会の中で、バブル絶頂のころの若者は、そして今でもお金を持っている青年はコンサートだ何だと学校で学校外で集うことは多いだろうが、それから弾かれた若者は個々バラバラになっている。暴走族ももう終わったようだ。金もなく、帰るところもない青年は東京で派遣と言う名の日雇い労働者になり、夢すら贅沢になり、日々の命の糧を得るだけに汲々としている。狭山市の高校中退者は何人いるのだろう。高校を出たって仕事にありつけない子がいることを県の統計が教えている。また、高校でても正規雇用にならないことも多くなった。子どもたちはそれをどんな思いで受け止めているのだろうか。挫折、自己否定、自信喪失・・・・そして、孤独。

私の戦いの場と言うか、仕事の場は議会だ。私の感性はどうしても痛いほうへ辛いほうへ向いていき、結局最後は自分の方へその刃がやってくる。そして、また、自分の無力さに打ちのめされてしまう。分かってもらう努力が足りなかったのだろうか。お金の問題なのだろうか。本当は何もしなくてもよいことだったのだろうか。さまざまな思いでゆれてしまう。
26日(月) 今日は朝、狭山養護学校の職場見学会に参加。コーセー工場を見てきた。300人ほどの従業員がいる工場を見てきたが、その中に10人を超す障害者が働いているという事であった。でも、ユニフォームを着ていると誰が誰かわからなった。でも、聴覚障害者が多いそうで、知的障害者は少ないらしいのだ。そうだ、けっきょくは。

午後は、職場見学会をパスして、家に戻った。やるべきことはたくさんあるが、全然まとまらない。精神的に不安定なのか、涙が出てきてならない。息子たちや夫は私の状態がこんなだから、とても優しくてだから感謝とまた涙なのだ。議会前の緊張感も高まってきて、本当に気持ちが定まらない。

あるお宅へ出かけた。喪中のはがきが来たのだけれど、意味が分からなかった。理解できなかった。で、伺ったら、彼は9月に亡くなっていたのだ。全然、知らなかった。お知らせが入っただろうに、どうしたのだろう。胸が一杯になったのに、涙も出ない。悲しいのに、言葉にならない。嘘でしょう。胸に一杯涙がたまっているのに、ふわふわして帰ってきた。

結局、夜にはHPで尾崎の検索をし尾崎についての文章を読み続け、夜中には本を1冊読んだ。
25日(日) 今日は朝礼拝。午後、「本だらけ」に行って尾崎に関する本やCDを大人買いしてきた。いつもの悪い癖で、あることに突き当たると徹底的に研究し尽くしたくなる。山本周五郎の評論は私が入手出来る限りの本を読み、出版社にまで注文した。勝海舟にしても出版物は著者が違うバージョンまで買いつくした。よかったことは勝海舟全集が売り出されていなかったことで、もし手に入るならば買ったかもしれない。

その後、博物館に行き、ぐい飲み展を見た。その後、今後の展示について話を聞いた。この後は、橋だそうで、狭山博物館の多様性には驚く。これがこの博物館のよい所。今回は、裏の倉庫を見せてもらったが、少しかび臭かった。どんなお宝が隠されているか、それの価値すら分からない私だが、貴重なものもあるらしい。

今度は「尾崎豊」だ。今回もHPの検索をかけ、買える本は買うつもりだ。それに、検索を掛けてみて、尾崎豊が殺された可能性が高いことを知った。何てことだろう。ブログが真実だとしたら、奥さんが暴力団に依頼して殺したことになる。あるブログでは、彼女は離婚しようとしたが3000万円の慰謝料がもらわれないので、ある人に相談したら、殺しを示唆され、彼女の知り合いに尾崎に覚せい剤を飲ませ、その後乱打して、結果尾崎が死んだことになる。そして、今彼女は年間1億円以上の印税を得ている。

本当かどうか、裁判も起こされたがうやむやにされた。でも、もし殺されたとしたら、金のために殺されたとしたら、なんという才能の浪費。あの天才をお金のために殺すなんて、もったいない。その価値観が全然理解できない。尾崎に関する本を読んだ。
24日(土) アメリカのサンクスギビングは木曜日だったと思う。今日は私達、ブラクソン家のサンクスギビングディナーの日。朝から、夫と二人、スタフィングの材料をきった。夫は七面鳥を持って、教会に鳥を焼きに行った。うちのオーブンでは鳥が大きすぎて焼けないのである。今回は特にLLで17ポンドぐらいあったので家の狭山市のオーブンには入らなかった。

私は家に残り、ヤム、コールスロー、マッシュドポテトをつくり、オリーブやら多種のものをストックから取り出して、ディナーの用意をした。ディナーは午後4時から、ジムさんの会社の人たちが集まって始まった。子どもたちもいて、子どもたちは娘が扱ってくれたので、大人は楽しく食べ、遊んだ。パーティーは9時過ぎまで。楽しく過ごせて、お腹を一杯にして帰ってもらえて嬉しかった。

この1年の恵みに感謝した。健康も与えられた。必要な食べ物に困ることもなく、着るものに不自由はなかった。子どもたちはそれぞれの道を歩いている。必要なものは、聖霊の働きだ。私達が、社会の中で必要とされ、神様の御心にかなったことをすることができること、今後の働きのために備えることが出来ることだ。

実は「尾崎豊」という歌手にはまってしまっている。彼の音楽を私は知らなかった。彼が生きているころは、子育てに忙しく、青年の歌を聞いている余裕がなかったと言うのが実情だった。1985年に帰国したのだが、私もそのころにようやく青年の彷徨から実世界に戻ったと言う感じだったのだ。結婚をして夫と二人でささやかな家庭を築くことに精力を使い、親になった教員として新しい視線で教員をしていて充実していた。「尾崎豊」は知っていたし、どこか心に掛かっていたが、曲に触れようと思ってもいなかった。80年代は私には歌がなかった。1991年、私は「尾崎豊」が死んだことを知った。「しまった、聞きそびれた」と思った。弔いに若い人が多かったというニュースを今も覚えているから、気に掛かっていた。

私は長い長い青春の彷徨をした。大学、大学院、教員、留学と何を探していたのかも今では思い出せない。大学も大学院も通過する場所で、留まる場所ではない。教員は臨時的任用で、その間に教育学の勉強のしなおしをしなければならないという思いになった。勿論、留学で勉強に明け暮れたが、その後も展望はほとんどなかった。実際、そのころアメリカのLDの最先端の勉強をしたのだが、残念ながら何のつてもない私には大学での職もなく、結局今でも何の役に立ったのかと思うことだ。

デラシネと言う言葉がある。私は大学の時代から経済的には自立はしていたが、31歳で結婚するまでどこに住んでいても虚ろっていたように思う。今ですら老後にアメリカにわたるかもしれないなどと思う状況である。でも、今は狭山に私の命のうちで一番長く住み、住民として生活を見つめているので、デラシネと言う感覚はない。

さて「尾崎豊」に今回出あったが、私の悪い癖で自分の中で彼を構築しないとすわりが悪い。という事は、徹底的に彼の音楽を聴き、分析するという事なのだ。青年と言う1くくりの中で息子たちを見ていると、しっかりと成長したなあという思いだ。詳しいことは後から書こう。それにしても、中学の教師をしている時に彼を知れば、中学生の思いをもっとよく理解することが出来たり、共感を持って中学生に接することが出来たかなあと思う。

青春の辛い中で、若い子が手に入れることの出来ないベルサーチのジャンパーを着ながらもさ迷っていなければならなかった「尾崎豊」は可哀想にとただただ思う。そして、彼が自分の聴衆とのギャップを埋めるために、自分をさらし続け、みっともなく生きたこと。自分が許せず、常に自分を罰し続けたことは、私の20歳代がまさにそのとおりだっただけに痛みをもって、感じることが出来る。そういう意味では「尾崎豊」に接するのは辛い。感じられることが多すぎる。でも、私は神の力によって許され、自分を罰することをやめた。幸せになることは私にも許されるという思いで結婚も出来た。心のそこで、自分の意識していない部分で自分が幸福である資格がないと思っていたことに気づいたのだが、これは正に神様からの恵みだった。「尾崎豊」にその瞬間が与えられなかったことが、残念だった。少しくは、神との接点があったのに・・・・
23日(金) 今日は朝、みのり福祉会のフェスティバルに行った。本木県議や手島市議にも会った。取立てのキャベツや人参を買い、夕食のために焼き蕎麦などを買って帰ってきた。

その後、新しく出来たショッピングモールを見に、狭山台方面に行き野菜市場とベルグで買い物をした。どちらも多くのお客さんがいた。ベルグは品物もよく、これでは多くの買い物客を集めることが出来るだろうと思った。ユニクロ、D2もあった。そちらは見なかった。いつものようにブックオフをのぞいて帰ってきた。

2時からは入間市のアミーゴでいろんな民族の会のコンサートがあった。今回はいつもと違う感じだった。私は駐車場係をした。体力がなくて朝からコンサートの最後までいられない。だから、コンサート直前の忙しい時だけを手伝った。110枚のチケットを完売した。きっと楽しく終わったことだろう、いつものように。

その後、うちに帰ったら夫と子どもたちはパイを作っていた。5個も焼くのだから最低5時間は掛かる。ふ〜〜〜。でも、一年に一度の大盤振る舞いだもの、よいとしよう。寝る前に、モルディドサラダを作った。
22日(木) 今日は朝からずうっと本を読んでいた。勿論、仕事に関係のない本を1冊と、仕事関係の本。頭が少しは整理されつつある。餓死した兄弟の話を読むと、日本には死ぬほどの貧困はないと豪語した小泉純一郎元首相や竹中総務大臣の欺瞞を感じたし、憤りも感じる。今は餓死する人がいるほどの貧困が実際に日本にはあるのだ。

思い出せば生活保護をもらえないで死んだ九州の男性も蛾死だった。貧しさ故の殺人事件や高齢者虐待事件だってあった。勉強していると貧困が固定化している事実が分かってくるが、1つの不運でまるでなだれを打ったように生活が成り立たなくなる怖さを感じる。私達の家庭を考えると、もしかして夫がなくなったり、病気にでもなったら、生活が出来るのだろうかと不安になった。今、ネットカフェ難民と言われている人たちはあと何年もしない内にホームレスになっていくだろうと思うと気が重い。
21日(水) 今日は一日スタッフと話をしたりとうだうだ。なぜなら、今日は一般質問の通告最終日。何が何でも通告しなければならないけれど、頭の中がまとまっていないので、どう通告書を書いてよいやら困っていたのだ。こういう時はいつものように、今しなくてもよいようなことをしてしまう。彼女とこんな話をしなくともよいのにと思うし、時間つぶしなんだと分かっているのに、3時過ぎまで、うだうだ。

とうとう3時過ぎになって腰を上げ、役所へ。議会事務局の通告書の前に座って1時間。文字がぽつぽつ出てくるのだが、枯葉のごとく、ぱさぱさ。事務局の人に手伝ってもらいながら、ようやく通告したのは4時45分。13番目だった。16人が通告したから、3日目の2番目になった。

夜、所沢のミューズで「井上ひさし講演会」に出かけた。憲法9条を守ると言うだけでなく、非武装地区宣言をして、戦争をしない地区宣言で市民を守る運動が必要ではないかと井上さんは言う。基地の町、狭山市ではこれは難しいだろうが、運動してみるのもいいかもしれない。戦争が始まったら、基地を封鎖し、軍に出て行ってもらい、非戦闘地区、非武装地区にしてしまうという事なのである。ローマ、パリもそうだったので、戦火にまみれなかったのだそうだ。京都はすぐにでもこの宣言をするべきだろう。

帰ってきたら、10時だった。それから食事したが、身体にはいけない。3食時間を決めて食べるべきだし、運動もこのところしていない。意識的に運動スルべきなのに。サピオにも今週は行かなかった。
20日(火)
67900カウント
今日は朝から全員協議会。死亡者の出た交通事故が2件続けて起きた。それやこれやの報告。建設委員会の協議会があり、裁判のこと、指定管理者に関することなどの報告。食事をしに家に帰ったが、12時半を過ぎていた。

午後は急いで、萩山に行き、娘の薬をもらってきた。帰ってきたら、4時。役所でお茶の会が素晴らしかったと言う話しをして、中国茶のお手前を20回記念のとき、市政55年の時に呼べないかという話しを延々としてきた。本当に狭山茶会はお上品で素晴らしい催し物。私はこんな風な催し物は大好きだ。もっともっと市民の方、市外の方に狭山市の素晴らしさを知っていただきたいと思う。

夜、国際交流協会の集まりが7時からあるという事で、急いでカレーライスを作り、子どもたちの食事を整えて出席した。帰ってきたのは、10時。毎日、夜までこういう風に会議があると、ダイエット中の私は体力がないので、辛い。
19日(月) 今日はお昼から霞ヶ関の東京地方裁判所に行き、市川房枝政治参画センターの雇用の裁判を傍聴した。市川房枝記念会は会員が高齢化し、講座に対しても現在も将来も存続が楽観できない状態である。その上、今市川房枝さんがなくなって20年。生きているころを知っている人は少なくなり、歴史上の人物となってしまっている。そんな中で、記念会を維持するには、事業を小さくして、今ある会館の貸室による安定した収入で細々と財団を維持していく方針に切り替えた。それで、従業員が6人解雇せざるを得なくなった。依頼退職に応じた4人を除き、2人が解雇無効の裁判を起こしている。

なぜ、このように急な解雇になったのかと言うのには、婦選会館の老朽化で不特定多数の受講生などを迎えるのに、安全性に対して補償が出来ない限り、すぐに会館を閉じたという事があった。そして、そのため講座が継続することが不可能になったと言うことで、収入が激減するという事情もあった。

それに対して東京ユニオン所属の従業員は月20万円、昇給2%、定年までという口約束を盾に解雇に、また財団の縮小と言う方針に真っ向から反対していると言うことである。しかし、このご時勢に毎年2%の昇給をしてきた企業がどのくらいあったのだろう。それに、市川さんの所では全然行政からの補助がない状態なのにである。民間でリストラがなかった企業がどのくらいあっただろう。私は財団の高齢化や市川房枝さんの個人ファンがどんどん亡くなっている状況で今までどおりのやり方で続くわけがないと思っている。

勿論、東京ユニオンのこの裁判での落としどころは、結局彼女たちの復職になるとは思えない。だって、復職したって仕事がないのだから。ない仕事に一生しがみつくのだろうか。だったら裁判の目的は、お金か、それとも解雇した財団への意趣返しか。確かに意趣返しとしたら立派にその使命は遂行できた。女性の敵だの、労働者の敵だの、自分たちが持っている財団から持ち出した個人情報であれこれ宣伝を尽くしたのだから。

裁判の中で常務理事の個人の人格攻撃のようなことを言っていた。結局裁判とはそういうところをいやらしくついてくるのだろう。けれど、原告にしても、私は非難されるべき点があると思う。誰かが言っていたが、「どうしてあんな人を雇ったのかしら」と思うこともあったし、裁判で格好良いことを言っていたが、選挙に出ようと言う人やなりたての新人議員に優しく声をかけ、励ましてくれたのは、原告たちではなく、常務理事の山口さんだった。山口さんは多くの選挙を戦い、苦しんでいる女性たちを目の当たりして、私達とともに奮闘努力してきた。私は原告の冷たい仕打ちが忘れられない。女性議員に対する思い入れ・共感はなかったのではないか。選挙の大変さや議会での辛い経験な考慮にいれない人柄に見えた。そんな人には私は本質的にこの財団にいてほしくなかった。勿論、今回の裁判では原告の資質なんかを問わないだろうが、私はそう思う。

閉廷前にでて、高校の同級生に会おうと思ったが、受付に行くと総務課に行き、事務室がどこにあるか聞けなどと言われたので、面倒くさくなってやめた。彼は知的財産関係の地方裁判所裁判官になっていて、この前重要裁判の裁判官としてNHKのニュースに出ていた。あまり老けて驚いたので、激励に行こうかと思ったのだ。でも、役所に同級生が来られても困るかなと思ってしまった。高田高校の私のクラスは本当に優秀で、医者は一杯輩出したし、一流上場企業にお勤めの人ばかりだ。女性も学校の教員をはじめ、働いている女性が多く、専業主婦の友達は超優良企業の重役婦人におなりになったりしている。貧乏な地方議員なんか私だけだ。

夜は、8時半からある人と会った。謝罪を受け入れた。やっと、おかしな電話が私達とは無関係なのを信じてもらえた。ところで、メールにしても私が発信していないメールが私から来るという変なことが起きてる。成りすましなのだけれど、迷惑。特にいやらしいメールが多いのは気持ち悪いとしかいえない。取り締まる方法はないのだろうか・・・・・
18日(日) 今日は朝礼拝。ヨブ記について。ヨブ記を分かっていたというか、知っていたつもりだったが新しく発見があった。自分が正しいと思うような思い上がりはしてはいけない。自分にとってどんな理不尽に思えることがあっても、神をのろうような高ぶった思いをしてはいけないという事だ。ヨブについては同情の気持ちが大きかったし、私も彼と同じように思うに違いないが、それは神様を冒涜することである。でも、私はヨブのように試されることのないように祈らなければならない。主の祈りには「試みにあわせないでください」と言う下りがあり、本当にそう思う。

午後は、カルフールでお買い物。またまた1万円を超える食品を買ってしまった。安いからどうも大目に買ってしまう。来週は一般質問の通告をしなければならないし、20日は全協で議案も配布される。また忙しくなる。だから食料品を溜め込んでおかないと、買い物に行く暇があるか分からない。時々、自分がケージの中のハムスターのような気がする。くるくると回っているだけの思いだ。3ヶ月は早い。議会、調べ、原稿書きが1ヶ月サイクルでなされる。その上、今回は決算委員会やら視察やらで10月は忙しいどころではなかった。

今日、ストーブを出した。そしたら、ファンヒーターがつかない。22年目にして、このファンヒーターが駄目になったようである。直すにしても部品はないだろうし、その上アスベストまでついている製品のようで、このお金のないときに買い替えしないといけない。全く〜〜〜。
17日(土) 今日は朝子どもの弁当を作り、急いでシャワーをして頭を洗い、美容院へ。いつもの美容院。今日は市政功労者の表彰されるとのことで、髪をセットに出かけた。9時半からと思い込んでいたので、焦ったのだ。美容院の先生は、「今日は自分へのご褒美においしいものでも食べに行ったら」と言ってくれたが、私は「自分の力と言うよりも、2期八年の間支援してくださった美容院の先生始め多くの支援者の方のおかげだから、そんなことはしません」と言った。それに対して、美容院の先生は「そうだけれど、ブラックソンさんも頑張ったわよ」と言ってくれた。ありがたい。

実は、子どもの弁当を作ったりしている最中、ずっと表彰について考えていたのだ。まず、当選しなかったらどんなに市に貢献したくとも出来なかった。本当に感謝である。そういう意味で、私は表彰されることを本当に光栄に思ったし、その光栄はすべて私の支援者や投票してくださった方々に帰すと思っている。だからこそ、私は髪を整え、一張羅の服を着て出かけた。今まで表彰なんかされたことがなかったので、どんな気持ちになるか分からなかったが、表彰されることは自分が高められるのではなく、私の周りの人たちが表彰されると同じことだった。謹んで表彰された。

帰ってきて、夫と二人でひかり幼稚園の親父の会のバザーに出かけた。お天気もよく、盛大な催しだった。私は野菜を買った。おでんやチヂミを買って昼ごはんにした。ジャズバンドがジャズを奏でていて、夫と二人で踊った。

帰ってきてから、本を読んでいたらねむくなってお昼ね。ストレスがいけませんと言うので、土日は出来る限り仕事をしまいと思っている。で、家庭団欒かと言えば、子どもたちは忙しくて、夕食すら皆で食べられない。
16日(金)
67800カウント
今日は9時から決算委員会協議会。委員長報告、要点記録などの承認を得た。いくつか意見も出たが、そのまま通った。最後に、田村委員長が私のこの独り言の2日分についてコメントをされた。決算委員会としては、正副で個人的に話し合ってほしいという事で、協議会後話し合った。

1つ田村委員長が心配していたことは、委員長報告、要点記録まとめの中で審査がなされたこと以外のことをしたと思われることであった。だから、私は、田村さんにお約束したので、ここにしっかり書いておきたい。私が2日に書いたことは、私の側から見て委員長との意思の疎通がなかったという事であった。彼の決断に対して口を挟めなかったし、はさむ余地もなかった。決断する時の説明もなかったので、副委員長として無視されていたのだと感じたことであった。細かいことは多々あったが、そのことの中で委員長報告に関しても、要点記録のまとめに対しても、自分が係わったと言う実感がなかったという事である。

なぜ、ホームページで書いたのかと言えば、私が話しかけても聞いてもらえない状況があったからなのだった。今日の話し合いの中で私の真意は委員長に分かっていただけたと思う。なぜ、こういう事を話せなかったかとため息が出る。「私の話しを聞いて、考えていることを説明して、私を無視しないで」なんて、まるで愛されていない妻が夫に言うような気持ちだった。

私は、委員長報告や要点記録が捻じ曲げられたものだとか、不正で作られたものだとかは言っていない。それらは純粋に審査の反訳の中から抜粋した内容である。誤解されることはないと思うが、きちんとここにそれを記したい。

また、何べんも言うようだが、決算委員会の審査は朝9時から夕方まで熱心に委員が係わって行い、手抜きなどなかったことも記したい。要望事項も委員全員が長時間にわたる審査の中でコンセンサスを得た事項である。行政には真剣に改善に取り組んでいただきたいと願う。
15日(木) 今日は”国会に行こう:参議院”の日である。朝、息子の弁当を作り、娘に発破を掛けて学校に出し、急いで友達をピックアップして狭山市駅へ。私は渋滞で遅れたが、皆(私だけかなあ)遠足に行く時のようにうきうきして、電車に乗り込んだ。永田町まで行き、参議院を見学した。今回は議長応接室を見せていただいたが、まるで美術館だった。10年に一度描かれる絵がお部屋一杯に掛けられていた。素晴らしいと思った。調度品も素晴らしかった。

豪華さに関して言えば、確かに豪華かもしれないが、日本の素晴らしさを保存する上にも、国会で工芸技術を大切にしてよいと思った。アメリカの議会を見ても、日本が比較にならないくらい豪華であるとは思えない。特に「お休み所」は素晴らしい工作がなされていた。もう、日本で同じような技術が保存されているかと心配した。作るのは難しいかもしれない。目の保養である。

ちょうどこの日は証人喚問の日。伊藤洋行の社長や守屋全事務次官が喚問されていた。私も傍聴を希望したが、残念ながら傍聴券はなかった。でも、国会や国会の委員会の傍聴もする必要も感じた。“すすむ会社会見学会”のメニューにしなければならない。昨年のこの日は教育基本法の改悪で委員会審査をしていた。あれからあっという間の一年だった。

食事を議員食堂でさせていただき、衆議院議員会館地下で買い物をして帰ってきた。私は“貧乏くじを引いたら福が来た”饅頭も買わなかったし、“ねじれ餅”も買わなかった。ただ、ストラップを1つお財布につけるために買った。昨年は“晋ちゃん饅頭”と“アッキークッキー”だったのに、一年の政治の流れの速さに戸惑いを感じるとともに、安倍超右翼政権が葬られたことに安堵の気持ちも大きい。

午後は、議員会館で解散した。皆さん東京で用事するようで、三々五々分かれた。私は、ついでと言ってはいかがかもしれないが、2箇所の衆議院議員の事務所を訪ねて帰ってきた。一緒に行った皆さんに議員事務所がいかに狭いかを見ていただいたほうがよかったかもしれない。国会の豪華を見て、議員会館の中の議員事務所が豪華だと思ってほしくないものね。

市川房枝さんの集まりに深川まで行き帰ってきた。もう少し、深川近辺を歩きたかったが、地理が不案内の所を歩くのが不安でまっすぐ帰ってきた。一度、下町ツアーにでも行ってみたいと思う。鳩バスツアーに行きたいなあ。

買い物して帰ってきたら、8時近かった。
14日(水) 今日は朝ゆっくりした。窓を開けたら、昨日見えなかった唐松の葉が目に入った。唐松は真黄色になっていて、常緑樹に混じってとてもとても美しかった。お昼を食べてから娘と散歩に出かけた。別荘地を一周した。二人で「美しいねえ」と八ヶ岳の山々を見て言い合った。冬の前は美しいのだと、その後に寒く辛い冬が来るのだと、人生もそうだと、昔年老いた女性の牧師が説教したのを聞いたことがある。冬は来る。確かに冬は来る。美しい深い秋に見とれているうちに、冬は来るのだ。だからこそ、今を楽しみたい。できるかなあ・・・・

散歩の後、庭にでてこの前切った枝をまたのこぎりに短くして階段を作った。女二人で20センチの太さの枝をのこぎりで切るのは容易でなかった。汗一杯になって階段を一段だけ作った。「男が出来ることは女にも出来るわよ」と言いながら娘と二人頑張った。小さな達成感があったが、夫が見ればまた作り直しだろうと思う。確かに粗製である。

4時過ぎ、別荘の戸締りやら水の始末をして出た。いつものとおり、穂の香の湯に行った。露天風呂でのんびりしたが、まだ日が暮れなかったので本当に開放された気がした。昼間から温泉につかる(今日は夕方だけれど)気分は最高である。夕飯を佐久のうどん屋で済まし、7時からR254で下仁田に行き、高速で帰ってきた。この前は4時間も掛かったのに、2時間しか掛からなかった。
13日(火) 今日は朝から本を読んだり、報告書を書こうとしたりした。そして、娘が3時半過ぎに帰ってきたので、別荘に行く準備をし、夕食の支度を済ませて、出発した。もう薄暗くなっていて、山の景色がよく見えないので高速で佐久まで行った。途中、甘楽で疲れてコーヒーを飲んだだけで、2時間もかからずに佐久についた。いつものようにブックオフで本を立ち読みし、何冊か買い、その後、ツルヤで私達の夕飯と朝ごはんを買い物して別荘着。

寒くてストーブをつけ、夕食を食べ、夜遅くまで買って来た本を読んだ。そうそう、忘れてきた携帯電話はベッドの下においてあったのを見つけた・・・
12日(月) 今日は、朝から洗濯ものをしていたが、あまりにも多くて干す場所がなくなった。その後、美容院へ。明日は美容院は休みだし、忘れ物を取りに別荘に行き、あさって帰ってくる。15日は国会だし、美容院に行く時間は今日しかなかった。夜、夫が「髪の毛の色が黒くなったみたいだね」といったが、染めたのが分かったのかな。

午後は、貧困についての本を読んでいた。ワーキングプアなど悲惨で読みたくない。ホームレスなんかになりたい人がどのくらいいるだろうか。今まではアルコール中毒症の人が好き勝手にホームレスになったなどという説が多かったのだけれど、今はアパートが借りられない人が路上や漫画喫茶に入ることが分かり始めている。生活保護以下の生活をしている人が多いのも見えてきている。中高年だけでなく、若い人にもワーキングプアが多い。派遣、それも1日限定、定職をもてない若者。一日8時間働いても手取り5,6千円では安いアパートにすら入れない。その日ぐらしとはよく言ったものだ。その日の仕事がなければ飢えるだけ。今ではコンビニも日持ちした食品をホームレスにあげなくなっている。

女性のホームレス。子どもを連れたホームレス。中学生のホームレス。母子家庭の貧困。悲しくなる。ゆっくり夜が寝たいというネットカフェの難民たち。あ〜〜〜
11日(日) 今日は朝礼拝。その後、おじさんを訪問。年を取っているのだが、86歳になり、急激に記憶などに衰えが来ている。見る見る年を取っていくのを見ると、怖いなあと思ってしまう。叔母さんのお手製のおかずをいただき、コーヒーを飲んでお話しを一杯して帰ってきた。娘がいない人なので、ちょっと娘代わり。

今日は雨なのでどうなるかと思っていたが、稲荷山公園で狭山大茶会があり、今回はお煎茶のお手前の席に入り、お茶を頂いた。おいしかった。玉露とはこのようにして飲むのかと始めてのすすり茶に舌鼓を打った。夫も娘もいたが3人でおいしいお茶に感激した。いろいろな、お茶の道具を見せていただき、お花を見て、優雅な思いで一杯になった。お茶をいただくまえの3曲も素晴らしくて、尺八はまさに日本のサックスだと思った。素晴らしいよね。

博物館で生け花展をしていたので、見せてもらった。もう、生け花はオブジェ。芸術だ。それにしても、池坊の昔ながらのいけ方は、すっきりしていいなあと思った。個性はないかもしれないけれど、型を守ることは素晴らしいのだなあと思った。

津南のお野菜などを買って帰ってきた。私は文化好きだが、何人もの市議会議員にあった。ねえ、議員の皆様。市長に、文化推進基本計画を作るように圧力を掛けましょうよ。もっと、もっとお金を文化に掛けましょうよ。お上品なまちづくりをしましょうよ。ね。
10日(土) 今日は朝からのんびり。西中のバザーがあったりしたが、雨で、その上、疲労感で一杯で出かけなかった。夕方まで、うだうだしていた。

夕食後、夫と二人で映画を見に行った。一日中本を読んでいたので外出したくなったのである。「3丁目の夕日」を見てきた。懐かしい風景なのだけれど、もっと東京中を見たかったなあ。確かに日本は貧しかったけれど活力があったなあ。道が舗装されていなかった。「そういえば、田舎の道はいつ舗装されたっけ」などと思いながら見ていた。日本橋が何回も出てきていたが、ついでに三越も出てくればよいのにと思った。日本橋三越は私の大好きなところの1つである。銀座はゆっくり出来ないけれど。

映画のあと、不二家でお茶をして帰ってきた。久しぶりの夫とのデートだった。
9日(金)
67575カウント
(このカウントに見とれてしまいました。ちょっと、嬉しかった。)
今日は9時から決算委員会の要点記録と委員長報告の件について最後の打ち合わせがあった。いつものごとく、あっという間に終わった。これはこれで・・・・・・後は来週の協議会を待つのみである。

その後、執行部からいくつか報告があった。思うことが多い報告だった。意味不明に思える事案や頷ける事案もあった。詳しくは書けないので、いつかまた。

午前中で終わり、そのまま帰宅と思っていたが、結局役所で昼食。その後、友達と合い、立ち話しをし、まちづくり事業部に行って、西口の工事の様子を市民に早く伝えるようにと要請し(今後どうなるの?工事をどうするの?と言う市民の声が多々あり)た。そのまま帰ろうとしたが、思い出して福祉部の高齢者福祉課に寄って、この前の視察の報告とお礼をした。なんだかよく分からなかったという話をした。またまた役所を出たのは5時を過ぎていた。

役人さんには迷惑かもしれないが、施策について議論している時が一番充実している気がする。尊敬できる役人と仕事を出来るのは楽しい。どうか、厚生省や他の省庁の役人のように、政治家に嘘を言ったり、だますなどのない事を願っている。狭山市の職員を信頼できなければ、仕事にならない。本当に、よろしく。出来ないことなどは率直に言ってください。意見の相違も仕方ない。ただ、嘘だけはやめて・・・
8日(木) 今日は朝から報告書を書こうと思っていたが、一日中、自動車修理工場へ行ったり、図書館へ行ったり、郵便局に行ったりと忙しかった。

その間にも、昨夜のことが頭に一杯になっていて、心の中は怒りで一杯だった。実は、この一ヶ月怒りや苦しみを押し殺しながら仕事をしていた。仕事があり、愛する家族があり、夫やスタッフの理解があったからこそ、私は崩れないでいられた。途中、さすがの私でも心が壊れてしまうかなと思うほど辛い日々があった。ひどい、あまりにもひどい仕打ちだった。

祈れなかったら、負けていただろう。無条件で受け入れていてくれる今の教会の存在はありがい。何があっても毅然としていること、強く自分を保つことは本当に難しいことである。毅然としていることは、超然としていることではない。向かうべきことには向かう、戦うべきことを戦うことが毅然とした態度と言えるだろう。それが可能だったのは、先ほどから行っているように、今の教会、夫や家族、スタッフの私への信頼が私を支えてくれていたからである。

実は、まだまだ胸が晴れていない。どうしたら自分の気持ちの整理ができるのかと思う。忙しい中ですぐ思いはそっちに向かうが、出来る限り身体を動かして日々の仕事に励もうとしている。息子がお母さんは「欝なの」とか心配をしている。欝にならない努力を重ねている。
7日(水) 今日は朝から体調が今一。昨日の疲れが出たかなあなんて思った。体調が優れない。

しかし、午後からは娘の実習先に打ち合わせに出かけた。来年は就職活動をしなければならない。実習を通じて社会人になる勉強をしなければならない。お兄ちゃんも就職活動を始めるべきなのに何にもしていない。どうしよう。

夜、教会へ。ある人による誹謗中傷について。あまりにもひどい人権侵害に、私たち家族はこの1ヶ月間非常に苦しんだ。私のみならず娘も夫も巻き添えになり、怒り心頭である。その人は自分が私達に何をしたのか理解もしていないようで、だからこそ私の怒りは止まる事がない。それが誹謗中傷であることを私達が証明しなければならなかったのは、怒りを何倍にもすることだった。誹謗中傷する人がそれが事実であることを証明するべきなのに、出来ないから私達に事実を証明せよと言うのはきわめて理不尽だった。

それに言った言わないの事実は水掛け論である。電話と言うのであれば、いかようにもいたずらのしようもあるという事だ。そんな途方もないことで、私達がしていないことを証明出来るというのだろうか。したというのであれば、証拠を示してほしかった。彼女がそう思ったでは済ませられない事案なのである。

内容は書けないが、その日には娘はアルバイト先におり、私は独り言に書いてあるような行動をしていた。電話が云々とのことであったが、発信記録を取り寄せても電話を掛けた形跡は一切なく、何かの間違いか、思い違いか、いたずら電話にだまされたかとしか考えられない。一切私達とはかかわりのないことであった。

このように私達とはなんら関係もないことを、あたかも私達がしたかのように言いふらすのは人権侵害、名誉毀損としかいいようがない。失礼千万である。公人である私のみならず、私人の娘や夫に対してに非礼は許しがたい。

謝罪をしたいということであった。「もしかして、私の記憶間違いであるかもしれない。いたずら電話かもしれない」という事なのだ。何しろ、私達が電話したという形跡が皆無だからだ。あまりにもひどい話ではないか。「ごめんね」ではすまないほど、私達にダメージを与えたのだ。私はこの間体調を崩し、病院に行き、検査その他で1万円以上の出費だった。「ストレスがいけないのです」とドクターに言われたって、このひどい人権侵害でストレスがたまらないはずがない。

私は謝罪を拒否した。顔も見たくない、声も聞きたくないと言う思いだったからである。しかし、今、やはりあの事件で私達がどのように苦しみいやな思いをしたかをしっかりその方に言う必要があるかと思い直し始めた。人様には言えないほどの誹謗中傷を浴びたのは生まれて初めてだった。私、夫、娘の名誉はどうなるのだ。言った本人があたかも自分が被害者であるかのように言うのであれば、徹底的に戦いたいと思うようになっている。私達こそが、彼女の確かめもしないでの暴言による直接の被害者である。

彼女が何を聞いたか分からないが、私達とは一切係わり合いのない事であり、今まで他言した人にそのことをはっきり言い、今後一切、私達の名前を口にすることのない事を願う。
6日(火) 今日は午前中に午後の視察の勉強などをしていた。午後は狭山市内のすべてのすなわち5箇所の包括支援センターを視察した。仕事の内容、仕事量ともに地域性が出ている。センター長もそれぞれが個性的な方々で、勉強になった。けれど、始まってからまだ半年、実際することやしようとしていることが定まっていない感じである。

場所的にはそれぞれが交通の便や、外からの判別しやすさなどを考えて作っているようだった。狭山台のは場所がとてもよくて、気安いだろうと思った。入間川は移転してしまったが、前の所のほうが駐車場、場所ともによかった。これは残念だった。新狭山は駅前どおりにあったら、相談がしやすかっただろうにに思った。新狭山と入曽のは駐車場がないのが決定的に致命傷。訪問しますからという事だったけれど。広瀬はOK.

看板などはいろいろ工夫をしていた。大きく分かりやすい看板がよいと思った。ただ、包括支援センターは何をするところかという事が市民に周知されていないので、今後啓発に努めなければならないと思う。

1時から5時までの予定だったが、いつものようにオーバーしてしまった。来年の今ごろまたきますと言って帰ってきた。
5日(月) 昨日、本当ならばサピオにトレーニングに行くはずだったのだが、浅田真央のスケートを一家団欒で見ていて、行きそびれた。それで、今日は朝、9時半過ぎ、ヤオコーまでお金を下ろしに行くのに、土手を歩いて行った。思ったよりも早くついて、友達がいたので、散歩をやめて、おしゃべり。その後、マイバッグに一杯の買い物をして、また歩いて帰った。結局1時間かかった。でも、少し汗ばみ、良い体操となったと思う。

午後は、日ごろお世話になっている支援者の方が、今度私が市政功労賞をもらうのでお祝いを持ってきてくれた。8年の市議会議員の功労を市が報いてくれるらしいが、応援している人にとっても嬉しいそうで、そう言われると心から感謝の思いで一杯になる。ありがとう。

15日の参議院へ行こうというイベントの詳細を決めて、行く人にファックスで送った。行きたい方はお申し出ください。まだ余裕あります。参議院議長応接室で議長からのお持て成しもあるかもしれないとのこと。少し、わくわくしますね。

夕方サティーへ。本屋によってワーキングプアの本と、天樟院についての本を買った。
4日(日) 今日は朝礼拝。聖餐式もあり、心新たにイエス様を思った。会員のお母さんが88歳でなくなった話をした。私も死ぬ時は苦しむことなく、多くの人に見守られて亡くなりたいなあと思う。一人で寂しく死ぬのはいやだなあ。牧師に私が先に言ったときには司式をお願いした。

身体の調子がよくなるように祈った。食事に気をつけるだけでよいのだろうか。ダイエットを始めたので、少し精度のよい体重計を買って来た。チャートをつけよう。

午後は息子の友達が怪我で入院して、お母さんとも親しいのでお見舞いに行った。息子は教会の用事でいけなかった。部活で足を骨折した。その上、もう一本の足は捻挫。歩行に困難で車椅子の生活。手術をしたのだが、順調そうでよかった。痛がっていなかったのでホッとした。痛いというのでは可哀想過ぎるもの。お母さんも大変だ。

帰ってきて、夕ご飯を作り、久しぶりに4人で夕食。お兄ちゃんはバイト。その後、久しぶりにゆっくり浅田真央のスケートをテレビで見た。何しろストレスがいけないので、仕事はしまいというおもいだった。テレビを家族と見るというのも珍しいことだが、こんな時間もよいわね。

ところで、民主党の小沢一郎代表が代表を辞職した。無責任で自己中心な人柄が見えて、しらけた。せっかく政権交代になりそうな予感があったのに、あの会見は全く持って無礼千万。腹が立った。
3日(土) 今日は朝から息子のアメフト部の練習試合を見に行った。双柳グランドはアメフトのポールもなく、寂しい限りだ。この前、徳栄高校のグランドに行き、素晴らしかったので、本当に見栄えがしない。でも、芝が張ってあったので少しはタックルの際に痛くはないのかもしれない。浦和学院との試合で、前半は全く試合にならないかと思ったが、後半は相手にタッチダウンを一回もさせず、こちらは3回タッチダウンをしたので、結果は勝ったようだった。

アメリカンフットボールは頭を使う試合だと思った。作戦を立て、実行する。これは大変である。息子はデフェンスだ。今後、たくさん試合に出してもらい、突進することを学ぶ必要がある。頑張れ、ジェレマイア。

午後は少しゆっくりした。お医者さんがストレスを溜め込んではいけないと言う。だから、週末は仕事をしないことにしている。出来る限りだけど。だから、今日はゆっくり。でも、お兄ちゃんと夫はブロンコス(所沢のプロバスケットボールチーム)が東京アパッチと試合をするので有明コロシウムに出かけるので、送っていったりとなかなか大変。でも、7時過ぎに入間の湯に行き、マッサージもしてもらい、身体はすっきりした。後は心がすっきりするといいのだけれど。
2日(金) 今日は朝、決算委員会の要点のまとめと委員長報告をまとめた。実は、委員長は私の意見など全然聞かないのだから、私が一緒にやる必要は全くない。今日も、要望指摘事項に関しては、要点に入れるべきだといったのだが、全く無視された。こういう質疑があったから、こういう要望になったという流れが必要だと思うが、田村委員長は要望に入れたのを要点に入れる必要はないと言い切った。なぜ必要でないかの説明がないから会話にならない。彼の責任での要点のまとめとしてもらいたいと思う。だって、私の意見は本当に無視なのだから。尾崎さんのもと建設委員会で副委員長をしたが、尾崎さんには副委員長の考えを少しでも尊重してという態度があった。時間を掛けて慎重にまとめた覚えがある。でも、今回の田村さんの委員長ぶりにはただただ驚く。

委員長報告にしても、要望事項に関して係わるところをほとんど全部けそいで、ほかの所を中心に委員長報告を作ることになった。要望事項がどんな質疑に裏打ちされて入れられたかを、要点記録に入っていない。議場での報告でもない。きっと、他の議員はなぜだか理解に苦しむだろう。あんなに午前9時から5時ぐらいまで、真剣に審査したのに・・・田村さんの強引なやり方を目の当たりにすると、こんな大雑把な要点のまとめ方でよいのかと情けなくなる。正副委員長にまとめを任されたのだが、私には自分が係わったという感じがしない。まるで、アリバイつくりのような作業の仕方でよいのかと思ってしまう。今日だって、なんと20分でざっと作業を終えた。私はスローだから、まともに考える時間もなかった。

まあ、私が何を言っても彼は聴く耳を持たないのだから、仕方がない。委員長報告は委員長の報告なわけで彼が責任を持つだろうし、要点記録についても、彼がすべてを決定したのだから、これ以上神経を使うこともあるまい。しかし、「でも、でも」と思う。

私は無所属議員だから、常任委員会ぐらいしか委員会と係わらない。特別委員会も今の所、委員ではないし、これからも委員ではないだろう。だから、今回は議会で雑巾掛けをするつもりで副委員長を務めた。でも、私は副委員長をしなければよかったと思った。田村さんにしても私とするよりは他の人とすれば、その方の意見は聞き入れたのではないか。その方が、良い報告や要点記録になったかもしれない。私の意見だからこそ、田村さんは聞く気にならなかったのかもしれない。

いろいろ考え込んでしまった。もう、こんなに無視されたような仕打ちはこりごりだ。私は、市民派の議員として、街の角から角まで歩いてみて、市民の願いや声を議会を通じて届けることに徹しようと思った。それこそが私の市民派議員としてのアイデンティティーだものね。長とつくものは今後お断りです。
1日(木) 今日はもう11月。子どもたちを学校に出してから、家事をした。また、今日からお手伝いさんが来る。月末は彼女は来ない。だから、家事がきつかった。彼女が来るとホッとする。

午後、病院へ。体調が今一だし。血液検査の結果、真剣にダイエットする必要がありそうである。1600カロリーぐらいにしなければならない。強い決意が必要だ。あまりにも検査の結果が悪くて、暗い気持ちになってしまった。このごろ、疲れが出ていたわけだ。ストレスをどうにかしないといけないと言われた。出来る限り、仕事を忘れる時を持つべきだ。分かっていても、出来ない相談なのである。ふ〜〜〜。

現在メールがあった県など: 大阪、岡山、福井、新潟、埼玉、神奈川、東京、アメリカ、稚内、登別、長野、広島

私のメールアドレスは
kumiko@takahashi.comです。たくさんのメール待っています。
バックナンバーへ