私の独り言 2004年

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心のままに思っていることを書いていこう。嬉しいことに喜び、悲しい事に嘆き、怒る事も忘れまい。一生懸命生きようと思う。

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12月 私の独り事
31日(月) 今日は朝のうちゆっくりしていたが、お昼前には別荘を出発して直江津に行くことにした。早速、掃除をして、荷造りをして出発。

雪が少しづつ降っていたが、長野の近くになると雪がひどくなり、信州中野を過ぎると吹雪いた。車も50キロ制限の所を40キロぐらいでのろのろ。2車線の所だって、皆1車線にしてスリップをしてもよいように走った。ところが、黒姫を過ぎてから、一台追い抜き車線を走る車がいた。私達の車の前はタンクローリーで、私達はゆっくり車間距離を保って走っていた。その時、追い抜き車線をとおり、タンクローリーを追い抜こうとした車が突然回転し始めた。

夫は急ブレーキをかけた。それでも、ゆっくりしかブレーキは掛けられない。道路はアイスバーンである。追い抜こうとしていた車は1回転半して後ろから中央分離帯にぶつかった。そこで止まらなかったら、私達の車の横にぶつかるか、私達がその車にぶつかるかだった。怖い。冬の道は怖い。どうして、こんな天候の時にスピードを出そうとするのか理解に苦しむ。所沢ナンバーの車だったと思うが、雪の道の怖さをしらない運転手は怖い。冬の道路を走る時は、格好をつけてはいけないのに。こんなドライバーには冬の道路は走ってほしくない。

4時前に直江津に着き、お風呂に入り、6時前に大晦日の食事となった。夜はゲームや麻雀をして遊んだ。
30日(日) 今日は朝は野沢福音教会で礼拝。ツルヤに行き、夕食になるものを買ってから、ハナマルうどんで昼食。私達は、かなりはなまるうどんを気にっていて、佐久に来ると一度はよる。安いしね。カロリーの低そうな食べ物もある。

ブックオフによってから別荘に帰ってきた。少ししてからお風呂に行こうかなどと話しをしていたのだが、本を読んだり、ゲームをしたり、ビデオを見たりしていたら、あっという間に夜になった。少し吹雪いていたので、路面の凍結も心配で結局家に閉じこもった。冬の山道は怖い。
29日(土) 今日は朝からお洗濯を3回した。その後、荷造りをしたりして、帰省の準備をした。お兄ちゃんは残っているという事だった。けれど、後の4人は出発の準備で忙しかった。家もそれなりに片付けなければならないし・・・・

出発は結局5時過ぎ。でも、雨だったのに、山に近づくにつれて気温が上がり、佐久についてあまりの温かさに驚いた。途中で食べ物を買ってきた。家の別荘の前にオリオン座が大きくくっきり光っていた。冬の大三角形はどれだろうかと探したけれど、あまりに星が多くて分からなかった。

夜、wIIで遊んだ。
28日(金) 今日は朝から郵便局へ行ったり、銀行へ行ったり、役所に行ったり、病院に行ったりと忙しかった。お茶屋にいってお土産を買ったし、掃除はせずに本年の用意は済ましたことにした。

それにしても、お金に羽がついて飛んでいく。この前のボーナス、その後の給料がまるで底を突いている。昨日の病院への支払いだって、1万2千円。薬代が3千円。今日のお茶代も約1万円。携帯代6千円。何万円あっても、あっという間になくなるという事だ。その上、クレジットカードで10万円の請求が来た。この前の車検代も入っているから仕方が無い。あ〜〜〜〜。
27日(木) 今日は朝から人間ドックに入った。一年に一度の恒例行事。胃カメラも飲んだ。上手な先生でよかった。病院から2時過ぎに帰ってきたが、もう少しダイエットを続けることになった。60キログラムを目指す。後2ヶ月ぐらい掛かるかなあ。検査結果は1ヵ月後とのことだが、早く結果が知りたいと思う。血液検査の結果はよかった。ダイエットが効いている。

昼食後、支援者のうちへ。ストーブを直してもらった。直ってよかった。おしゃべりをして帰ってきたのは7時近かった。有り合わせで夕食にした。お兄ちゃんはバイト。息子は友達と「スタミナ太郎」のバイキングに行ってきたのでお腹はすいていないという。(後でお茶漬けを食べていたけど)娘もお菓子の食べすぎか、「まだわたしたべな〜〜〜い」と可愛くないことを言うので、私一人がご飯にした。

その後、サピオに行き、おっとを迎えに工場に行き、このようにして一日が過ぎていく。今週から事務所は休み。私はネットニューうを書くはずなのだが一時もしたためていない。は〜〜〜〜
26日(水) 今日は朝夫を会社に連れて行き、その足で奥富の環境センターへ。ひどく混雑していた。一方通行のはずなのに、昔と同じように相互通行。おかしいんじゃないの?環境部長に聞きたい。一体どうしたのか。直したんじゃなかったの?

ところで、その後、カルフールにより、いつものごとく安物だけを買い物をし、役所へ。役所で年末のご挨拶をしてから、少し仕事をして帰ってきた。夕方郵便局へ行ったが、結局渡し一人ではなんとも出来ず、後日に出かける。

夜、家族が集まらず、私と娘だけで夕食。そのご、夫や息子たちが食事。明日、人間ドックに入るので9時以降の食事は出来ない。その後、またまた、オザキの本を読んだ。寝たのは午前2時ごろかなあ。今日の本は私も同意見で気分がよくて、最後まで読んだ。後で読書日記に記す。
25日(火)
69200カウント
今日はクリスマス。朝にプレゼントをあける。けれど、朝起きてみると息子はアメフトの練習でいなかった。でも、娘と私とおにいちゃんはプレゼントをあけた。WIIが夫からのプレゼント。私はソックスを4足あげただけなのに・・・今年も上越の伯父さんたちやおじいちゃんたちからクリスマスプレゼントが届き、アメリカからのプレゼントもあっていつものように一人当たりいくつものプレゼントになった。

したの息子は部活から帰ってきて、夫とともに、夜プレゼントをあけた。結婚して初めて夫はクリスマスの日に風邪を引いたらしく、午前中は薬を飲んでベッドにいた。かわいそうに。

私は元気で、夜娘を連れて入間の湯へ行った。wIIを使ってテニスをしたら少し汗をかいたのに、息子がお風呂を作ってなかったので。湯船につかりながら娘がいるのはいいなあとつくづく思った。男の子とお風呂やに行くなんてことが無いもの。
24日(月) クリスマスイブ。今日は午前中に用事が無いのでゆっくりできるという事で、昨晩は、というか今朝の3時半まで本を読んでいた。勿論、オザキ関係。土曜日に図書館から尾崎の本を残りの全部借りてしまった。借りた本が何冊もあるので、片っ端から読み進んだ。尾崎を否定する人もいるし、彼は六本木界隈で15,16歳ごろから遊んでいた単に不良であるというのも事実かもしれない。かなりのミーハーだろうし、人格障害だと言われるときもある。酒を飲めば浴びるほど、人と喧嘩をし、暴力も振るう。ネガティブな尾崎を揚げればキリがない。麻薬に手を出したのだって、意思が弱かったというのであればそうだ。

でも、私は熱烈なファンだから、尾崎がどんな風であったとしても、好きだ。音楽も素晴らしいと思う。彼の歌う真摯な姿が好きだ。音楽に対する真面目な姿は素晴らしい。尾崎教なんていわれるが、彼の前向きに生きようという姿勢は私にも大きく影響を与えた。とにかく前へ、弱い犬が鳴くといわれようが何もしないよりはいいという姿勢はとても好きだ。

彼は死ぬ直前まで何かと戦っていたとお兄さんや大楽さんが書いていて、お兄さんは尾崎の最後の言葉は「オレ勝てるかな」という言葉だったという事。死ぬまで戦うなんて、私に出来るかななんて感動する。この2ヶ月尾崎を聞きすぎるほど聞いていて飽きない。

午後は家事を済ませた後に、サピオに。帰りはトリビューンの緑を聞いて帰ってきた。尾崎の曲を若手の人に歌わせたアルバムだけれど、私は怒ってしまった。そのうちの何人かの曲はもう尾崎の曲ではなかった。勿論、尾崎の曲を歌っているのだが、人生に対する姿勢が尾崎と違うから尾崎の曲にならないのだと思った。尾崎は曲の中で自分を告白しているのだが、人生が歌い手で変わっているのだから、さらけ出すものがない歌手が歌えば、空っぽに聞こえるというものだ。

今のさらっとした歌い方がとても冷たく、無機的で、人との関係を薄いものにしたように感じた。尾崎の熱く、痛いほどの真剣さを、まるでおちゃらかすように私には聞こえる。尾崎の歌を誰が歌ってもよいけれど、彼の心を歌ってくれなければならないと思う。私は宇多田ヒカルの「I  LOVE YOU」で、尾崎を知った。宇多田の歌う世界は尾崎が示した世界だった。違和感は無かった。尾崎よりもずっとよいと思った。でも、それは宇多田の中にオザキの歌の世界とシンクロするものがあったからだと今は思う。

私はブルースが大好きで、シカゴを留学先に選んだのはブルースのせいだった。シカゴ滞在中にはコンサートにはたった一度しかいけなかったし、実際はシカゴシンフォニィーやジャズをもっと聞いたけれどね。それでも、私はブルースやこてこてのロックが好きだ。シャウトする音楽が好きだ。人生をさらけ出し、自分を飾らず、体ごとぶつかっていくような生き方が好きだ。これは、どうしてこうなのかわからない。親が教えてくれたわけではないのにね。おきれいで、回りを取り繕うような生き方も、歌い方も、楽曲も虫が好かない。それよりも、身震いがするほど嫌いで、信用が置けないとすら思ってしまう。
23日(日) 今日は、朝からクリスマス礼拝。午後は珍しく食事が教会で出たので、祝会となった。少しゆっくりした。その足で本だらけに行き、吉川晃次のアルバムを買った。歌い方も詩も尾崎の方がずうっと上。でも、プロモーションのせいか一時は吉川晃次の方が売れていた。でも、残る曲は尾崎の曲だと思う。詩の深さ、曲の複雑さと繊細さは尾崎の方がずうっと上だ。

本も何冊か買い、立ち読みもした。この週末は楽しい。仕事はしないときめているし・・・・そのご、クリスマスプレゼントを買いにユニクロに行った。5人分のプレゼントを買った。自分にも1つプレゼントした。

夕食はおにいちゃんはバイトでいなかった。したの息子はクリスマスボールを味の素球場まで見に行ってきて夕方遅くに帰ってきた。楽しかったようだった。夕食後、私はまた尾崎関係の本を読んだ。尾崎は確かに頭がいいなあ。言葉が豊富だなあ。自分を表現できる豊かな感性を持っているなあと思う。今日読んだ一冊は彼が20歳になるまでのインタビュー。後は評論。私は吉岡と言う人が言うのには賛成できないところがある。尾崎の最後のアルバムはとてもよいと思う。彼は尾崎の20歳代の曲はよくないと言い放つのだけれど、確かに街路樹は好きではないけれど、だからといって彼の精神性が表れていてそれはそれでいいような気がするのだが・・・・

夜、レイトナトショーの映画を見に夫とユナイテッドシネマに出かけた。「椿さん十郎」を見た。織田祐二の笑顔が素敵だった。三船と織田を比べれば、織田は子どものように見えるが、でも、山本周五郎は権威が好きでなかったので、織田みたいなひょうひょうとした人物を書きこんだろうなと思った。原作を30年以上前に読んだので、よく覚えていないのだが・・・とにかく、織田の踊る走査線の続編を待っている。たのしかったよ〜〜〜〜
22日(土) 今日、朝はゆっくりしたが、家事がたまっていて片付けた。洗濯物はとてもたくさんで大変だ。午後からはクリスマスの買い物に出かけた。小さなものを買った。でも、全員で10人分だけれど、全部の買い物が出来るわけでなかった。また、明日も買い物である。図書館により、オザキ関係の残りの本をかりた。

午後遅く、お兄ちゃんが北海道の体育研修から帰ってきた。彼はスノーボードをしたという事で、楽しかったらしく喜んでいた。私は自分が親にお金を出してもらって遊びに行ったことなどなかった。冬のスキーやスケートは信州大学ではすぐそこにスキー場やらスケート場があったので、遊びに行くなんて構えたものではなかった。

でも、私は甘い親だと思うが、北海道の冬を息子に見せたかった。いや、本当は冬でなくてもよかったのだけれど、家の息子はこの狭山近辺で遊んでいるだけだから、日本のあちこちを見せたいという思いがあった。私は、大学と大学院の間に北海道と沖縄を除きほとんどの地方をたずねたことがあった。考えてみてもよく出来たなあと思うが一人旅だった。その旅から何も学ばなかったかもしれないが、さまざまところで人が生活を営んでいることが分かったし、地方ごとに生活が違うのも知った。息子は、今回の旅行でそんなことは学ばなかっただろう。でも見聞はひろがったようで、小樽のガラス工房も覗いたようである。
21日(金) 今日は本気になって報告書を書き上げた。あれやこれやをやりながらだから、全部終えるまでに4時半まで掛かった。それで急いで議会事務局へ提出しに行った。ホッとした。来週はネットニュースの原稿を仕上げる。仕事は続くのよ。

夜、サピオへ。実は尾崎のCDをそこで掛けてもらったのだ。これで分かったことは、尾崎の楽曲はきわめてパーソナルなことだった。きっと何万人集めたコンサートでも彼の場合一対一の関係だったのだろうと思った。私が尾崎を受け入れているだけで、他の人には関係の無い音楽だった。そうか。

その後、軽いイージーリスニングの曲、ボサノバのけだるい曲などが流れた。サピオにはそれが合う。誰も、サピオで何かを語り掛けてもらおうなんて思っていないのだ。もしかして、今はやっている歌や音楽はただの記号なのかもしれない。何を示しているのかわからない記号。例えば、息子たちの聞いているラップは言葉が私に入ってこない。無意味な記号の羅列だ。イージーリスニングはいい気持ち、楽な気持ち、否な気分にならない音楽で、“癒す”音楽なのだろう。

尾崎の音楽は、私の、リスナーの人生すらが危険にさらされるほどの力がある。もしかして、バブル崩壊後の人たちは自由への希求も薄まり、制限された、仕組まれた自由の中で窒息しないだけのために生きているのだろうか。尾崎は

自由になりたくないかい
熱くなりたくはないかい
自由になりたくないかい
思うように行きたくはないかい
自由って一体なんだい
どうすりゃ自由になるかい
自由っていったいなんだい
君は思うようにいきているかい

と歌うが、今の窒息しそうな人にはこんな歌は迷惑だけかもしれない。つながれた綱をほどくのは大変だものね。

でもと、お母さんの私は息子たちに言いたい。本当はつながれてなんかいないのよ。強い意志で自由って一体なんだと前に進んでみれば、風は向かい風に決まっているけれど、思うように生きる充実感はあるのよ。逃げて、向かい風を避けて、壁の向こうへ行かず、扉を開けもしない人生なんて、本当の意味での辛さや楽しさに背を向ける人生になるのではないかと思う。私の人生できちんと立たなかったときほど、人生が惨めで意味を感じられなかったときは無かった。息子たちがこれを読んでくれたなら、能力がどうであれ、夢に向かって走ってほしい。夢が駄目でも、走ったあとには素晴らしい明日が来るのさ。神様は悪いようになさらないよ。最後は信仰の問題かな。
20日(木) 今日も報告書書き。でも12時過ぎに、聖望学園に行き、クリスマス礼拝を受ける。ベルの前奏、フルート、バイオリンが奏でる中キャンドルに光が入った。本当に贅沢な礼拝。そもそも、300人も高校1年生がいるだけでも圧巻。聖霊の交わりがここにあることを祈った。

午後は友達と保護者会について話をした。4時半ごろまで。

帰ってきて、夕食後、サピオに行きたかったが、クリスマスツリーを出すことになり、夫や娘とともにクリスマスツリーをセットした。23年たってもこのクリスマスツリーはしっかりしている。息子が生まれた年のクリスマスイブに夫が買ってきたものだ。少しずつバルブが壊れたりしているけれど、オーナメントを買い足したり、手作りのものを飾ったりしていて楽しい。そうそうクリスマスプレゼントを買わなければならない。
19日(水) 今日も報告書書き。少しずつはかどっている。広島の報告で、原爆、平和への願いを書き入れた。

またまた、尾崎を読み返し、音楽を聴いている。もうじき、私も尾崎の何かをつかめるような気がする。さもなければ、尾崎を卒業なんか無理。とにかく頭のいい不良少年が学校から放り投げだされ、道を失い、社会と自分との距離が分からなくなったのが、20歳までの尾崎かなと思う。卒業しても結局思い出が残るだけ、何べん卒業したら、自分にむきあえるのかという卒業の詩を読むと痛々しい。学校を事実上放校されたショックは大きかっただろう。彼がかなりの学力でお兄さんも含めエリートを目指していただけに、中卒の自分を受け入れるのは辛かっただろうと思う。

でも、それを整理してはっきり自分で表現できたのは、二十歳代中盤にかかってからだ。ただただ、自分の実像と社会との距離、学校の名前をはずされた時に自分の立つ位置の無さ・はかなさをいやというほど思い知った後に、きっと呆然となったのだろう。それがいくつもの楽曲になった。彼には歌があった。これが彼の救いになったのかは、分からないところだ。私の友達は「彼に音楽の才能が無ければもっと楽な人生で今でも生きていたかもしれないね」というが、さあどうだったのだろうか。運命は逆らえないものだから、「仕方が無いじゃないの」という事だ。
18日(火) 今日は報告書を書こうと思っていたが、結局少ししか手がつけられなかった。しかし、区画整理事業についての部分は終わりとしたの、少しホッとした。

いつもの癖で報告書を書くとかいうと、他の本や音楽に目が行く。一日中報告に向き合っているのだから、ちょっと息抜きとか思うとそっちの方の時間が多かったりする。またまた、尾崎について。同じ本を読み返している。尾崎のMCを聞くと、私もかなり感じるところがある。若さとか青さという人もいるが、“人生って自分が好きに生きていいんだぜ”とか“まだ時間があるのだから、自分の思うようにやってみたら”とか“弱い犬はきゃんきゃんなくというが、鳴かないよりいいんだぜ”とか言うのを聞くと、彼にどっぷりつかって自分と対峙していた若者の姿がみえるし、若者が彼から勇気と生きる姿勢を学んだという言葉の意味を理解できるような思いになった。尾崎のファンは尾崎の精神性がどうであったかをかなり彼の曲の詩を読んで分かっていたのだろうと思う。

突き詰めていけば、尾崎のメッセージは「勇気を持って生きていこうぜ。人生は自分の好きのように生きていいんだ。自由に生きようぜ」という事だった。「好きに生きられるように戦おうぜ。闘いながら自分の人生を自由に生きようぜ」「もし、自由の結果が社会から見放されることだとしても、そこから自分で扉をこじ開け、壁を登り、自分の道を作っていこうぜ」という事。

それと、愛に対しての幻想があったのではないか。幻想と言うのは、愛すること以上に愛されることを望んだこと。特に、愛されない人に愛を求めたこと。愛することよりも愛を求めた結果、常に愛に飢えていたこと。自分の道を行くこと、自分で自由を勝ち取っていくことには孤独が付きまとうに決まっているが、それを支えてくれる愛に彼は飢えていて、彼の場合、その愛は本質的に女性からの愛でなければならなかったのだろう。彼の周りには彼を多かれ少なかれ尊敬し愛していた(ゲイとか言う意味ではなく)男が大勢いたが、彼は本質的には女性からの愛を求めていた。お母さんはお父さんのものだ。彼も彼の妻も若すぎて、愛し愛される時に自由は制限されるという事や、愛は無償ではなく、かつ奪い奪われるものでもなく、お互いの思いのやり取りの中でやり取りされるもの(うまく表現できない。ギブアンドテイクという意味ではない)を事実上知らなかったのではないだろうか。

尾崎は「無償の愛」を息子に感じたのではないか。尾崎は息子が可愛くて愛していて出来る限りそばにいたがったそうだが、ようやく尾崎は息子を通じて愛の本質に通じ始めたのではないかと思う。だからこそ、プロデューサーの「真実の答えはあるかどうか分からないのではないか」という問いかけに、彼は最後に「須藤さん、真実は育むものではないでしょうか」と答えることが出来たのではないかと思う。

年を取った私が尾崎のメッセージを見て感動した。勿論、子どもが3人もいて、夫がいる身では自由に制限が掛かるのは仕方がない。しかし、制限内であったとしても、私には自分の人生を自分で考えて生きる自由のマージンは残っている。群れない一匹の弱い犬の私だから、きゃんきゃん鳴いていようと思う。命を掛けて、自分の人生の真実に突き進んでいくやる気みたいなものを感じているのは、人生後15年とおもう私に必要なことだったのかもしれない。

尾崎を破滅型の人間だという人は多いし、近くにいた人間も行き急いだという。ただ、破滅という言葉で片付けてしまうしかないかもしれないが、彼は人生を必死に駆け抜け、それこそ命をかけ、汗と涙と彼の人生すべてでロックンロールを歌おうとしたことは事実だろう。彼は自分の人生を歌を通じて告白していたが、ファンは彼の「人生」への「自由」への「愛を求めること」への真摯さを理解していた。私にもしかして残されている時間があるとしたならば(あと15年ほしいのだが)、彼のようなひたむきさで生きて生きたいと思う。

彼は死にたくて死んだわけでもないだろうし、これからの方向性を持った時だけに、私は彼が中年や初老になって、どんな風にロックンロールを歌っていたか知りたいと思う。願ってもかなわないことだが。

夜サピオに行った。
17日(月) 今日は朝6時過ぎに起きた。しまったと思った。それで、下に下りてきたら、事務所で夫が仕事をしていた。夫に聞くと彼が息子を送ったと言う。私を起こしてくれてもよかったのに。夫は徹夜したようだ。朝ごはんも食べず、9時過ぎまで頑張っていたが、その後にお風呂に入って寝た。このところの彼の仕事の仕方は異常。3時過ぎに彼は仕事に出かけたが、夜中を過ぎても帰ってきていない。心身とも消耗しすぎないことを願っている。

私は、今日も報告書を書こうとしたが、結局、尾崎の膨大な本を読み続けた。尾崎については人となりをつかめる。彼の音楽と人生は不可分であること。彼は自分の不幸も幸福も含め自分を告白することが自分を生きることだった。恐れおののきながらも勇気を持ってそういう人生を生きた。愛されたくて、愛を自分だけにしたくて、苦しんだ。神様に愛されていることで安心できればよかったのに、残念ながら神に会うことがなかった。尾崎は天才だ。本当に、もったいない才能をなくしたものだ。
16日(日) 今日は朝礼拝。午後は娘を伴って親の会のクリスマス会。市長も教育長も来た。福祉部は部長、次長、障害課長。子どもたちはそれぞれ楽しんだ。

夜、珍しく家族5人で食事。その後、長男は明日からのスキーの研修に向けて準備。私は彼のためにお金を下ろしに行かなければならなかった。外に出るついでに、サピオに行き、トレーニング。帰りにヤオコーにより、パンを買い込んできた。明日の朝ごはんの代わり。お兄ちゃんを明日駅に送るつもりで早く寝る。

でも、夫はずうっと事務所で自分の仕事をしている。このところ、彼は仕事の虫と言うか、過労を心配している。この何週間も休みを取れない。土曜、日曜も働き尽くめなのだ。いつ寝るんだろう。
15日(土) 今日は、本当は遅くまで眠っていたかった。昨晩だって、寝たのは2時半過ぎ。結局朝7時半には起きて、息子を駅まで送っていったりしたのだから、寝ていませんね。下の息子はアメフトの練習。夫は仕事。娘は公民館のタンポポ教室に出かけ、私は一人ぼっち。

久しぶりに自分の時間が出来たのに、原稿もうまく書けず、尾崎の歌を聞きながら、オザキ関係の本を読んだりしていた。天才に翻弄され続けた回りは大変だっただろう。けれども、26歳で終わるのはもったいない才能だ。曲を聴きながら、本当に尾崎は天才だと思う。

この前、市議会議員選挙で当選した朝霞にいる友達に尾崎のことを言ったら、お父さんと友達だとのことだった。いつかお会いしたいなあ。昨晩夫を向かいに行ったとき、そんな話を夫にしたら、「お父さんに何を言うの?」と聞く。きっと尾崎は天才だったという事。本当に夭折はもったいなかったこと。それと、私は生前に彼にあったこともないのに、今彼の音楽のファンになったこと。彼の寂しさのわけがちょっと知りたいかな。若い人は尾崎を聞くと励みになると言うが、私には何を聞いても、彼の曲は慰めにならない。寂しい歌だなあ。どんなにロックンロールで、レッドツエッペリンのようなヘビメタ編曲であっても、悲しい歌だなあ。いつも尾崎は泣いているような音楽だけだ。
14日(金)
午前中は原稿の整理など。ヤオコーまで歩いていき、お金を下ろしてきた。

午後、印刷が終わりスタッフは議会レポートを新聞折込に頼みに行った。私は、銀行へ行き、お金を定期にした。息子の授業料なのだが、定期にしておかないと使い込んでしまう。そのご、郵便局、役所、カルフールに行きかえってきた。息子を迎えに行ったので、ご飯を作り出したのは8時を過ぎてしまった。12時ごろ夫のお迎えに行った。車が1台ないと不便だけれど、送り迎えにちょっと息子や夫と話が出来るのはよいことかな。夫は忙しすぎで、過労が心配である。
13日(木)
68800カウント
今日は、議会最終日。息子と夫を送ってから議会に。雨のせいでおくっていったのだが、道路が込んでいて議会についたのは、9時3分前。とにかく、代表者会、議運があったので、全協が始まったのは9時40分。その後、直ちに議会が開かれた。私は昨日書いた反対討論をした。

反対討論に関しての反応は今一というか、「馬鹿なことを言うな」という声は一切なかった。後で討論をHPにアップしたい。市長にしても「そういう考えはあるよね」と言う感じ。「う〜〜ん」。県内では狭山市だけが支給している出生祝い。少し、PRして狭山市と他の市の差別化の手段にすればよいのにと思う。まあ、反対討論は私の思いを全部込めることは出来なかった。

表現する時にどうして私はああも情が先に出てしまうのかと思うが、これが私だし、あれが私の言葉なのだろう。時には自分自身に辟易するのだが、一面これを超えることが怖いし、この私を壊していくことが本当に私が一歩踏み出すことに、それもよいほうに踏み出すことになるかどうかの自信がない。立ち止まってしまう。立ち止まることにすら、私には闘いがある。一歩踏み出すことが、前にか、後ろにかの判断がつかない。立ち止まって周囲をみている。きっと、私の周りを過ぎていく人たちは、私が立ち止まっていることに安心する人もいるかもしれないし、逆にいらだつ人もいるかもしれない。

でも、私は立ち止まりつづけ、そして、目をしっかり開きながら、でも、見たものと心を寄り添わしながら、自分の言葉で語る勇気を持ち続けようと思っている。

午後は全協の後、うちに戻った。原稿の推敲をもう一度した後に、印刷に掛かった。何部か議会レポートが出来上がった。明日、スタッフが来て刷り上げることになる。とても嬉しく、ひとつ肩から重荷が取れた。
12日(水) 今日は朝から原稿の推敲と、原稿を書いた。一応、2,3ページを完成させるのには夜まで掛かった。スタッフが出来た原稿から推敲をしてくれるが、それにまた目を通さなければならない。ひとつの原稿は3、4回書き直す。この前の一般質問原稿は7稿まで推敲した。

夜、8時過ぎにサピオへ。一日中、書斎のコンピューターの前では体中おかしくなる。帰ってきてから、反対討論を書き上げた。反対とは言い続けたが、討論までするかどうか迷っていた。でも、賛成よりも反対の時は自分が反対する理由ぐらいはっきりするべきだろうと思った。市長の選挙の時には私は彼を応援したが、施策に関しては反対することはあると言ってある。すべての施策への思いが同じではありえないからである。この前の賛成討論は健全財政に対する賛成の気持ちあらわしたのだし、今回は出生祝いはあげ続けてもよいという思いで廃止には反対である。
11日(火) 今日は朝から原稿を書いた。一ページ分は出来たので、後2ページ、3ページ分になる。いろいろ考えてページを作っているが、何が市民にとって必要な情報なのかと考えている。議場でもその観点で質問する。

今日は、一日中家に閉じこもった。原稿書きの時は例外なくこんな感じに引きこもる。途中、支援者の方が来てお茶を飲んだので、よい休息になった。
10日(月) とうとう、原稿書きのシーズンとなった。あさから、子どもの弁当を用意して、その後、書斎へ直行するはずだったのに、あれやこれや。特に、ようやくボーナスが入ったので、お支払いするところにはせっせと支払いをした。議会事務局にも少し寄ってきた。

で、原稿を書き出したのは、午後遅く。何をメインテーマに書けばよいかを、スタッフと雑談する中で決めた。これが浮かべば、もう一気呵成に原稿が出来る。今年は、年末に議会レポートを入れるつもりだから、例年と少し違う。12月議会が11月末から始まり、閉会も早いので、まとめもできると言うことである。
9日(日) 今日は朝礼拝。午後は、買い物をして、郵便局によって帰ってきた。その後は、図書館、サピオで、ゆっくりとすごした。

夜、ホームページの更新をした。尾崎豊関係の読んだ本の整理を私の読書日記に書き込んだが、膨大な資料を読んだことが分かる。ただ、私がしたのは、尾崎の音楽を聴いたのは確かだが、そのあとは尾崎本人の書いた文章にたどり着けない。痛すぎるのだ。

資料の中で、鬼頭という人の本だけは、私には受け入れられない。なぜだろう。彼だけはまるで傷つかない。批評家なのだ。私が読んだ他の人は尾崎豊の死でのた打ち回るように苦しんでいるのにである。尾崎が作った楽曲は桑田が作った「いとしのエリー」のようにメジャーでないと言い切る。メジャーな曲を作らないで尾崎が死んだのはとか言うのだが、それはあなたが思うだけで、私はそうは思わないなどとチャチャを入れたくなる。鬼頭さんは何年掛かっても尾崎を理解できなかったし、尾崎も結局そのところが分かったからこそ、首にしたんだろうな。それにしても、大楽さんの苦しみが癒されることを心から願う。

もうこれで尾崎を卒業かと言われるとそうは行かない。図書館から借りたビデオがあり、まだ見ていないDVDがある。辛くて見れないかもしれないが、トライしてみよう。 
8日(土) 今日は朝ゆっくりした。久しぶりにリラックス。で、午前中はこのページの書き換えをしていた。アッと思ったら12時半。ひかり幼稚園の東先生からこの前電話があり、中央公民館でひかり幼稚園のパーフォーマンスがあるのでという事で、夫は忙しく無理だろうから私が聴きに出かけた。まあ、盛大な入間川のフェスティバルだった。

ところで、水富でもしているとのこと。入間川では地区の市議会議員さんがお呼ばれしているらしく、来賓の駐車場まであった。私の水富地区は今までかってこんな時呼ばれたためしがない。広報しているのだから、来たかったら勝手に来たらという事だろう。地区センターで何かしているらしいが、何をしているやら。「メモでもいいから、センターが市民とすることがあれば教えてください」とセンター長にお願いしたのだが、今まで一度もメモをもらったことがない。そうね、市議会議員なんか関係ないものね。私は水富地区の代表じゃなくて、市民の代表なのだから、地区のことなんかに顔出しされたくないんだろう。それにしても、他地区のセンターと水富地区のセンターと市議会議員の距離の違いには、はっきり言ってムカついた。

でも、一応は水富地区のふれあいコンサートに行き、1時間コンサートを聴いた。その後、うちに帰り、昼食をした後、今度は3時からパステルでコンサート。これは、もう少しレベルが上だとよかったと言うのが、はっきりいって私の感想である。

帰ってきて、夕ご飯をチャッチャとつくって、今度は夫を迎えに行き、18時から入間市のアミーゴでコンサート。今日は3つのコンサートに出かけたのだ。このコンサートは1部はもう下手すぎて聴くに堪えなかった。お金を取るとはひどいと思った。でも、2部のカルメンはプロがたくさん出ていて、そのプロが素晴らしくて、堪能した。今日は3つもコンサートをはしごしたが、満足したのは結局プロのパーフォーマンスだった。お金を払っても、よいものを聴きたいなあと思う。夫と2人で帰り道に、小沢征治さんの音楽を聴きたいねと話し合った。でも、なかなかチケットが取れない。

本当のことを言って、文化に掛けるお金は入間市の方が多い。それだけ、文化に対する行政の理解の仕方が違うのだろう。入間市には音楽大学もあるしね。アミーゴだってお金を掛けている建物だが、とても素敵なところだ。こんな雰囲気の場所が狭山市にどこにある?皆似たり寄ったりの個性のない古い建物だけ。少しでいいからお金を掛けて、文化の香りがほしい。西口には期待をしたい。文化にお金を掛けてほしいと痛切に願う。
7日(金)
68500カウント
今日はまた委員会審査。午前中に委員会は終わった。その後、協議会。西口関連で、橋上駅舎のこと、下水道では鵜の木の雨水幹線のことなど。

お昼を食べて帰宅。珍しく2時に家に着いたら、なんとスタッフがまだ残っており、あれやこれや。今、嵌まっている尾崎豊のことを話したりもした。

私は、10月に古本屋に言った時、オザキ関係の本を見つけ、先月CD「BLUE A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI」を買い、宇多田ヒカルが歌う「I LOVE YOU」を聞いたのが始まりだった。宇多田ヒカルという人の歌唱力は、前々から知っていて「FIRST LOVE」を聞いて涙が出たことがあった。それは、夜遅くのスーパーであった。一人、人の誰もいない震撼としたスーパーのアレイで感激して立ちすくんだことがあった。今度聞いた「TLOVE YOU」もそれに劣らず素晴らしいものだった。議会に用事で行く車の中でCDを鳴らしていたのだが、涙が止まらなかった。せつなさ、痛さが皮膚を通して、心の中まで入ってきて、歌の中の若いカップルと一緒に泣いてしまった。

ちょうど、貧困の勉強をしていて先の見えない若者を調査して本を読んだ直後だった。だから、尾崎の歌を聞くと、若者への気持ちが文字面だけでなく、思いとして、苦しさとして、切なさとして、痛みとして、なさせなさととして、たまらなさとして、さまざまな思いとして私の感情をひどくゆすぶった。本当を言えば、そのころは私的にも非常な精神状態に陥らされることがあったせいもあった。自分の気持ちを分析し始めたりすると辛すぎて、尾崎の痛みを感じて代償にしていたのかもしれない。

尾崎のパーフォーマンスをUチューブで見た。尾崎の歌う「卒業」「僕が僕であるために」「I LOVE YOU」「15の夜」も涙が止まらなかった。痛々しかった。いろいろな年でのバージョンで見たが、どれもどれも彼の思いがストレートで、メッセージと言うのではなく、彼の苦しさの叫びのように聞こえた。とても新鮮で、私の胸を打った。私が彼の音楽を知らなかったのは、彼のデビューが私がアメリカにいたころであったせいだった。彼は私より14歳も年下で、そのころの私は彼の世代を遠く過ぎ、日本に帰国した1985年以降、ささやかな家庭を築くことに専心しており、尾崎の音楽は私の生活に交わることがなかった。

私は尾崎豊そのものに興味を持った。そして、彼が26歳で死んだことを知った。本当に搾取され、しゃぶりつくされ、踏みにじられ、それでも頑張って歌い続けたのだと言うのが分かった。覚せい剤を使い、殺されたのではないかという疑惑もあるのが分かった。私は彼が最後に作ったアルバムの中で“はぐくむ”という言葉を聴き、彼は自殺するつもりは、全くなくて、息子を育みながら暖めながら、新しい自分に、愛に、人生を生きたかったのではないかと感じた。そういう意味で、若いころのパーフォーマンスを見ると早く死んだ天才が可哀想で仕方がなかった。彼には未来があったのに。なんという才能への冒涜。

尾崎は天才だと私は思う。詩の鋭さは、彼を永遠のアーチストにするだろうと思う。勿論、楽曲も素晴らしい。写真も文章も、時代や自分を見る目も、尾崎は天才だ。彼以上の何かが彼を支配し、彼はそれを表現した。その価値が分からない人が回りに多く、ビジネスとして彼を消費し、彼の才能をお金にかえた。否、それは彼が表現したことを一般化し、大衆化し、普遍化する際にはこの世の中では絶対に必要な過程かもしれない。しかし、尾崎はその中でもみくちゃにされて、傷つき、猜疑心に囚われ、愛に絶望し、裏切りに憤り、繊細な心を頑なにしていく。それでも彼はポジティブに生きようとした。作品を飲まず食わず眠りもせず創った。

私はティーンエージのころの彼の作品は大好きだ。でも、最晩年の「放熱の証」はとてもとても好きだ。愛が深まり、絶望から一筋の光を見ているような大人の尾崎がいる。彼はこれからだったのにと思う。いま、尾崎の曲を聴きながらこれを書いている。私はジョンレノンも好きだ。彼のCDを集めた。けれど、今回の尾崎豊のように、彼のすべてのCDを集め、彼に関する写真集を集め、評論や追悼文を集め、ウェブで彼について徹底的に検索しつくしたことは他のアーチストにしたことがない。

尾崎の音楽を昔流行った若い人の音楽と言うのではなく、56歳になった大人になった自分の姿を彼の音楽を通して、鏡をのぞくように考えた。それは、彼の音楽が天才的な何かを含んでいたからだろう。17歳の子どものいう事が自分を鞭打つなんて思いもしないで尾崎を聞き始めたのに、彼の純粋なところを見ると、自分がいつしか愚かで汚れていて変に妥協していたことがあからさまに分かった。「僕が僕であるために勝たなければいけない」いうフレーズを始めて聞いたとき、この生き方は辛い生きかただし、もっとゆったり自分を受け入れていけばよいのにと思ったのだが、堕落している自分を思い浮かべると、やはり自分に勝って、社会の垢に勝って、まっすぐに生きる生き方を忘れてはならないと思った。

尾崎は天才だし、きっと自分でも分からないものが自分の中に住んでいたことがとても辛かっただろうと思うが、一面とても羨ましい。今、彼がティーンエージャーの時に悩んでいたことを、私には20年しかないかもしれないスパンの中でもう一度問いかえし、残された時間が少ないだけにまっすぐに生きていたいと思う。神様の祝福が私の上にあることを知っている。御心が私に分かり、招命が私にきちんとしたヴィジョンとなり、まっすぐにそれに向かって駆け抜けられるように、祈らなけばならないと思う。尾崎には神がいなかった。私には神がいることが本当に救いである。

夜、クリスマスコンサート。貧弱。音楽にも感動しなかった。その後、いろんな民族の会のクリスマスパーティーへ。その後、ジャステンの誕生日なので、久しぶりに私が焼いたケーキでハッピーバースディをした。彼は23歳になった。
6日(木) 今日は委員会審査。午前中は視察。11時ぐらいから具体的に審査に入った。一箇所、道路認定の箇所が少し議論になったが、私はそんなに議論をするべきかと思った。住民の方々がいろいろな思いを持っているのを、市はよく汲み取っている。私ならば、木で鼻をくくるようなことをスルかもしれないけれど、道路課長は優しいなあと思う。

結局、委員会は2時半過ぎまで

委員会後、ふと緊張が解けた。一般質問のあれやこれやから開放された思いがわきあがってきた。途中でに古本屋により、家に帰ってきた。身体が何処もかしこも凝っているのに気がついた。自分にご褒美をと、入間の湯に行き、マッサージを受けた。肩がとても凝っていたそうで、今日は硬いと言うのではなく、筋のようなものがありましたとのこと。いつも受けているマッサージの方が今日もいて、よかった。

このごろどうも涙もろい。なぜ、すぐに胸が一杯になってしまうのだろう。心が弱っているのだろうか。なぜ?!痛さを感じない、辛さは感じない、ただただ楽しく嬉しいことだけを思い浮かべられる人になれるか。無理だろうなあ。
5日(水) 今日は私の一般質問のある日だった。2番目、「爽やかに」という声が掛かったのだが、テーマが貧困では爽やかになりようがない。そもそも、このテーマを取り上げた時から、いやこれがあまりにも悲しくて取り上げることにしたのだが、どうかしてあげられるか考えると、実際の所、徒労感の方が先になる。それに、青年に関して言えば、こういう問題が出てくるのは分かっていたから、もう何年も前から言い続けてきたことだった・・・・・

でも、人は日のあたるところが好きで、暗い行き場のないことは嫌なわけだ。それに、青年問題を考えていると、今回は体調の問題もあったのだろうが、自分の青春の孤独を思い出したりして自己憐憫に陥ったり、息子たちの将来を心配したりと心が休まらなかった。それと、友達の息子や娘たちの顔が浮かんできた。

質問は散々だった。胸が詰まってね。

第2質問をする時間がなかったのだけれど、第2質問をした所で答弁が変わるわけでもないので・・・他のスタイルで提言だけを話すような質問のしかたがあるけれど、これは私のスタイルで仕方ないかな。一生懸命悩み、苦しんだ質問だった。辛かった。
4日(火) 今日は一般質問2日目。なんと午前中で終わった。午後は、原稿を推敲した。今回は7稿目をオリジナルにした。始めの原稿よりも短くしようと努力をしたが、ここは削れない、ここは言わなければならないことだ、などと思っていると、結局16ポイントで19ページになってしまった。読んでみると34分だった。これではオンステージだ。でも、後の答弁が2,3を除いて、ほとんどが成果なく終わるのだから、少なく青年や母子家庭の母や障害者やホームレスのために、声を出していけばよいと思った。

くどいかもしれない。この質問のスタイルでいいかどうかも分からない。疲れすぎて評価できない。どうせ、明日になれば、自己嫌悪だろうけれど、もうこれでよいとしよう。
3日(月) 今日は一般質問1日目。6人だから、午後まで掛かった。この日はヒアリング。夜9時半ごろまで。今回は、私の原稿が遅かったからヒアリングも今日になってしまった。もっと早く早くヒヤリングをすればよかったのにと思う。でも、原稿が出来ていないのに、忙しい役人さんにつき合わせるのはわがままだし。

ヒアリングで分かったことは、私が始めから諦観していたようだった。要するに、ほとんどの提言は公平と公正というきれいで冷たい言葉のもと、却下という事である。こんなに、提言のほとんどが実現しないのに、一般質問をすることがあるのかと思う。「難しいのです」という。そうか?私が悲しそうに、思いが一杯で議会の図書館付近を歩いていたら、事務局の人が「とにかく声を出していることが大切です。いつか聞いてもらえるかもしれないから」と一言声を掛けてくれた。ようやく気を取り直して、ヒアリングをやり続けることが出来た。

貧困という事が実感できない人たちには、私のいう事の意味も絶望の中にいる青年の悲しさも共感できないだろうし、それを行政の仕事として展開することに戸惑うだろう。それに、どこに手を伸ばし、何をして揚げられるかという事なのだ。ばらばらで孤独に挫折を抱えながら、とにかく日々のパイトに明け暮れている青年に、明日きっともっと良い日が来ると信じさせてあげるための始めの一歩はどこからなのか・・・・この日本で、今非正規雇用の3割の青年に、明日の希望を語ることは酷なことなんだろうか。

ワーキングプアの母子家庭は、いつか貧困からたちあがられるのか?障害者に自立の道が本当に与えられるのか。ホームレスは温かい場所で暮らせるようになるのか。きっと、そのうちの何人かは、夢の実現が可能かもしれない。ただ、ほとんどの人はむくわなれないだろうけれど。
2日(日) 今日は昨日と同じように、朝から原稿を書いていた。母子家庭、障害者を書いた。母子家庭はがんばっている。頑張らなければ生きていけない。頑張ればそこから逃げ出せるかと言うと、もう不可能。今度は子どもたちが貧困の鎖に縛られてしまう。貧困が一過性だったことの思い出を持っている多くの大人。でも、いま、そこから出ることの出来ない、まるで貼り付けられてしまったような人たちが出てきていて、数が増え続けている。

これは正に人件費削減のため、非正規雇用の労働者が多用されているからだ。パート、アルバイト、派遣。このひずみは経験のない女性や青年に襲い掛かる。そして、見えない大きいピンで彼らを貧困に磔(はりつけ)る。

午後遅く、ヤオコー前で演説した。今書いている原稿のことを心を込めて演説した。多くの人が手を振り、おじいさんからおばさんまでが声援を送ってくれた。私が出来ることは、こんなように風に向かって話すだけなのかと思うと空しいが、一人でも共感を示してもらうと、もしかしたら、これは必要なことなんだろうかと勇気つけられる。たった一つの手を振ってくれる動作でも、心のどこかで流している涙がこぼれでるのが止まる。ありがとう。
1日(土) 今日は原稿を書き続けた。本当に泣きながら、原稿を書いた。青年の絶望を思うと、辛くなる。こんな一般質問で彼らに何がしてやれるか、実はほとんど何も出来ない。でも、私のできることは、きっとこんなことしかない。いつか、いつか私が提言する施策が狭山市でもおこなわれ、少しでも彼らの絶望に光を当てられるかもしれない。少なくとも、今の私は青年を冷笑的に見るのではなく、青年たちの状況に寄り添える気がする。

夜、サピオにいき、身体を動かした。

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