私の独り言 2004年 

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心のままに思っていることを書いていこう。嬉しいことに喜び、悲しい事に嘆き、怒る事も忘れまい。一生懸命生きようと思う。

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10月 私の独り事
29日(水)から11月3日(月) 中国の友好都市、杭州へ親善旅行へ行った。これについては他に書く。2008年杭州親善旅行記をご覧ください。
28日(火) 今日は朝、実習説明会だと思って養護学校へ行ったら、午後からだというのでまた戻り、家事をしてから午後養護学校に行った。実習の説明会だった。彼女は今度、デイサービスで実習する事になっている。小学校の時に看護婦さんになりたいと言っていた。それは本当に無理な話だが、おじいさんやおばあさんのお世話を他の方々とやるのは出来ると思う。彼女は優しい娘だからきっとお年寄りに喜ばれると思っている。

その後、急いでカルフールに出かけた。買い物のつもりだったが、婦人服やに行き、旅行にもって行きやすそうな服を選んだ。体重が減ったので、身体に合う服がないのだ。こんな時でないと買わないと思って、何着か安いものを買った。新しい服なんて久しぶりだったから、少し嬉しかった。夫のジャケット1枚分にもならないが、それで十分だ。

その後、夕方から娘と学校の先生と私で実習先にご挨拶に伺った。丁寧に実習についての心構えなどを教えていただいた。きっとうまく出来ると思うが、相手の方がどのくらい知的障害についてご理解があるのかわからない点が少し不安である。娘は一見健常者と変わらないのでかえって難しい。日本語が伝わらない事や、早合点をすることも多いのである。まあ、親はいつも心配しがちである。
27日(月) 今日は朝から養護学校の理事会だった。いつものとおりだったが、校長挨拶で新しい養護学校に狭山市だけが2分割されて国道16号から東の児童生徒はそちらに通うようになるという事だった。説明会が11月4日にある。

午後は忙しくフェミ議のアファーの原稿をチェックした。時間が掛かったし、一応ファイルはすべて印刷所に送った。今時はすべてをメールでやり取りするから送信は瞬時なのだが、何本も送信し、其の上画像の添付などがあると、思いのほか時間が掛かった。

結局、ファイルとしては20本ほど送ったのだが、仕事を終えるには夕食後、夜まで掛かった。
26日(日) 今日は礼拝の日。教会で聖霊についての勉強。本当に難しいところだけれど、信じる心が大切なのである。信じられるというのも恵みだから、聖霊の働きがなければそれすらも与えられない。

午後は、伯父さんのところへ。人工透析を始めたという。大変な事だ。週に3回も透析に行き、3時間もベッドに横たわらなければならないそうである。可哀想に。でも、割と元気そうで良かった。本をまたネットで買ってあげた。あげたというけれど、おばさんのクレジットカードなんだから、コンピューターを操作してあげたというべきか。4冊4円。中古の本で、アマゾンで注文した。勿論郵送費が掛かるけれど、それだって4冊で1冊分のお金。おじさんに何か楽しみを揚げたかった。家の親戚は本を読むのが趣味だから(私も含めて)、本さえあれば幸せである。

お昼をご馳走になって、行っただけで喜ばれて、だから行くのだけれどよかった。88歳だもの、「私のことをわからなくなったら来ないからね」といったら、まだ大丈夫だから来いなんていっていた。まだまだ頭はしっかりしている。

帰ってくる途中で古本屋により、業務スーパーでしこたま買い込んだ(また1万円以上だ)。これで冷凍庫は一杯になった。帰りは万燈祭りの終わりに引っかかり渋滞で帰ってきたら5時を回っていた。急いで夕ご飯を作り食べさせたが、驚くなかれ米がなかった。だから、素麺を作り食べた。あっという間に10キロの米がなくなる。

7時に夫のジャケットを買いにマルヒロデパートに行った。閉店が7時半で、値段が手ごろのものを買ってきた。自分のジャケットに4万円もするものは買わないけれど、息子には1万円のスーツなんか買うけれど、夫が安物を着ているのはどうしても嫌で少し見栄を張ってしまう。値段なんかわかるわけもないけれど、安物を着せると夫の価値まで下がるような気がしてね。まあ、愛しているという事だと思うけれど。それに、値段が張ったのはカットもよいように感じるのは気のせいかなあ。きっと縫製もよいかも。それにマルヒロだったら、変なものを売ってもいないだろうし、もしおかしかったら持っていけばいいんだから。これが老舗に行く人の気持ちだから、どうかそれをむげにしないでほしい。今は安い所はたくさんあるけど、少し高くてもデパートに行くのは老舗への信頼があるからだ。

私はその足でサピオへ。夫は米を買いにカルフールへ。中国行きのために下着などを買い求めたみたい。カルフールは10時半までだから、家のように忙しい人たちには行きやすいところだし、お値段は本当にお手ごろ。10時に夫がサピオに迎えに来てくれて帰ってきて、二人で篤姫を見た。次から次への人が死んでいって、篤姫は一人ぼっちになっていく。其のところで自分の場所を見出し、作り出して生きていく。したたかというか、けなげというか、女は自分の人生を夫の添え物として流されるだけでしかなくて可哀想に感じてしまう。全部が事実ではないだろうけれど、先もわかるだけに暗い気持ちだ。さっさと明治維新になって、鰻を勝海舟と一緒に食べに出歩いた時になればいいのに。私は勝海舟の信奉者だから、勝の出番があるときが嬉しい。

その後、コンピューターのメールチェックをしてから寝る。今日も1時を過ぎた。
25日(土) 今日は、朝早く起きて、新宿へ。市川房枝記念会の企画運営委員会があった。しかし、少し早く行き過ぎたので、皇居見学の下見をもう一度した。パレスホテルで食事をするが、その場所を確認した。素晴らしい場所というわけではないが、皇居に近いからまあよいか。

市川さんでの話し合いは長々と続き、3時過ぎに終えた。それで、委員達と食事に行ったが食事に二千円もかけなければまともなものも食べられないとは。今の私にはカレーライスが受け付けられない胃の状態である。ラーメンも重過ぎるし。

食事をした後、急いで入間市へ。万燈祭りへ。いろんな民族の会が出点していた。朝から働いていたが、私は新宿で会議があり、夜8時までの仕事だから最後ぐらいはと急いだのだ。本当に最後で、売り切れていた。でも、いつものようにダンスをしたりして楽しんできた。帰ったら、9時半。結局今日も疲れ果ててしまった。一日中歩き回って、じっとしていたのは会議の間だけだった。
24日(金) 今日は疲れ果てていた。毎日毎日、仕事があり、それは勿論として、フェミ議の広報の仕事(金には全くならないけど、女性問題は私の使命である。)をしていると、時間があっと言う間に消えていく。昨日、寝たのは2時過ぎだった。もう、今日は起き上がるのも辛くて、息子には学食で食事をしてもらった。彼はあれほど学食での食事を夢見ていたのに、現実には同じ食事で飽きたとかで、私の弁当を持って行く。それはそれで私は気合を込めて作っているし、子どものために何かするのは楽しいのである。でも、今日はさすがに、起き上がれなった。

というのも、今日は外での仕事がなかったから、自分を甘やかす事が出来た。でも、外に出なかっただけで、する仕事は山になっている。読みたい本も多いし。すこし、ゆっくり考える時間が必要だが、其の時間がなかなか取れない。夜、サピオへ行った。体の切れが悪い。
23日(木) 今日は朝娘を連れて、萩山の病院まで行った。今回初めて娘一人で病院から家に戻した。過保護で電車に一人で乗せることもなかった。私が生きている間は私が何とかしてやれる。でも、私がいなくなったら、3ヶ月にいっぺんずつ誰が薬を取りに行き、半年にいっぺんずつ娘を診察に連れて行くのだろう。彼女が自分で出来るようにさせなければならない。時間も月日の概念のない彼女。少なくとも自分で電車に乗っていくべき所に着くことを覚えさせなければ。これからは、手帳を作らせてスケジュール管理を覚えさせなければならない。少し、焦りすぎているかもしれないが、高校3年生の彼女が出来て当たり前の事のはずなのだ・・・

娘を置いて一人で帰ってきて、役所で食事をした。その後、アミーにより、そして事務局で資料をひと当たり見てから帰ってきた。今日は市民相談日にしていた。家で市民からの電話を待っていたが何の応答もないので、ひとしきり皇居見学のための登録事務に掛かった。其の間、たくさんの人とお電話。久しぶりの方々と長電話をした。で、なんだか嬉しくなった。きっとこういう事が必要だったのかもしれない。今、時々反省と満足の気持ちが行き交う。去年だったら、「お願いね」と言っていたらすべてがセットされて、私は当日に行くだけだったんだと思う。それは簡単で面倒くささもなく、もっと勉強できたり、もっと原稿を書いたり、視察をしたかもしれない。本当に、やってられませんよ、コンピューターをうまく使いこなすのは大変です。

今回の見学会は人もそんなに集まらなかった・・・でも、もしかしてそれで良いかもしれないと思ってはいる。これが身の丈。私の精一杯の姿なのだろう。私が市長を目指すのであれば、これでよい分けない。県会議員を目指すにはこんな身の処し方ではいけない。でも、私は市民の生活を見つめる市議会議員。こんなものでしょ、私は。これでいいのだ。ね。(誰に言い聞かせているんだろうね)

夕ご飯を娘と一緒に作り、早めにご飯を食べて、サピオへ。帰ってきたら夫が夕食を食べていた。二人でワインを飲んで、ゆっくりしている。
22日(水) 今日は朝全員協議会。議会はストレスだけを蓄積させる。もう、議長のやり方にはついていけません。私はもっともっと彼を買っていた。見る目がないのだといわれればそれで仕方がない。しかし、少なくとも人の話を聞くべきだ。きいてから判断すべきだ。

後で、彼が「私はあなたの意見を封じたのではありません」と言っていたのだが、少なくとも発言は封じたわね。私が何を言いたかったのかも判らず、発言させなかったのだから。執行部の前であんな事をしていたら、執行部に舐められるんだよ。あの際、副市長の態度すら、私には傲慢に見えました。あなたが発言する場所ではないでしょうが。まあ、議長は判っていてやったんだろうから、彼の底を知ったという感じです。

午後2時過ぎまで、建設委員会協議会。まあ、これも私に言わせれば、「議会を馬鹿にしているんじゃないですか」といいたくなるような事。公告が終わってから、「こういう公告をいたしました。市民は皆さんご存知ですから、議会にもお話ししておきます。」という報告。ああ、そうですかといえばいいんですかね。今後は、事後報告の事が多くなるだろう。事業認可変更なんて、単なる紙の上の事ぐらいのことで、後で議会に、委員会に報告する程度の軽いものなんですかね。私には理解できませんよね、街づくり推進部、西口開発事務所の考えは。

もっと前に、「機構はこのような変更を考えているようです。その際、事業金額が変わるような事はありません」と情報を議会に入れておくことは不可能だったんですか。委員長に其の事を聞いたら、委員長ですら何も知らなかったという。何をかいわんや。この前の起工式の時には私達建設委員はお呼びも掛かりませんでしたからね。あれだけ、私としては政治生命をかけた事業にですよ。西口開発なんて、議会がそっぽを向いたら、できるような事業ではないはずですがね。もう、ここまで来たら、報告なんてしないほうがやかましくなくて良いとでも思っているんですかね、街づくり推進部は。わかりませんね、彼らの考える事は。

朝の全員協議会の報告で、私が発言したかったのは、こういう事もひとつなのである。一枚の紙で先決事案の報告が終わる狭山市。他の市では議場できっちり報告し質疑までする事案なんですよ、少なくとも全協のあの事例は。まあ、発言すらさせない全員協議会。個人で取り上げるべき事と、議員のいる前で取り上げる事とがあるでしょ。何でもかんでも個人でと言いますが、私が個人的に調べる事をしてないなんて、他の議員さんは思っていないでしょ。私が取り上げる事はある程度考えがあることなのだ。全く、もう。少しは傾聴しようと思わないですかね。やかましいぐらいの議員がいなかったら、議会はなにだという事になるのです。

とにかく、帰ってからは、疲れ果ててしまい、夕食後、すぐに寝ることにする。考えてみれば、昨夜寝たのは1時半。起きたのが六時半では寝た気もしないし、疲れていらいらしていても無理はない。それに、議会。仕事とはいえ、ストレスが溜まる。それは議会の役割が理解できるようになったこの頃は昔よりもさまざま考えるから、もっとストレスが溜まるような気がする。あ〜〜〜あ。
21日(火) 今日は朝、皇居見学のためにコンピューターで登録したり、友達に電話したりした。忙しくてあっという間に12時過ぎ。ご飯を食べて、役所へ、29日から上海、杭州へ行くがその説明会である。飛行券が来た。楽しみにしているが、食べ物が心配なのである。アレルギーがあるので。

役所で書類を作り、病院に寄り、ヤオコーで買い物して帰ってきたら、5時過ぎ。食事を一人で取った。子供達はまだ帰ってきていないし、娘はテレビで見たいところがあるそうである。それで、早々に食事を取って、尾崎豊をバックミュージックにして、この日記を書いている。もうじきサピオに運動に行こうと思っている。少し太り気味かなと思って、最近サピオに通っているとまた体重は元に戻ってきた。

私の尾崎病はまだまだ続いていている。今、優しい声色の尾崎のOH MY LITTLE GIRLを聴いている。音源はアルバム。優しく綺麗なバージョンだ。あったこともない尾崎。見たこともない尾崎。私の息子のような尾崎がアルバムの中で恋を愛を歌っている。私に取ってみれば、尾崎のこの可愛い声で歌う歌を聴いて、尾崎はOH MY LITTLE SWEET BOY って感じだ。10代の尾崎の歌を聴くと、本当に可愛い息子のような思いだ。尾崎の歌詞はきらめく星達のようだ。それも冬の寒い空に青く瞬いている孤独に震えているような星達のような言葉の数々。彼のシャープな言葉は彼が身を切って書いていた証だね。尾崎は本当に天才だとつくづく思う。支離滅裂だね。
20日(月) 今日は朝から忙しくコンピューターにへばりついて、仕事をしていたが、10時過ぎ入間市の福祉センターへ。養護学校の高等部の交わりに出かけた。今年は3年生だからいろいろ知りたいことがある。就職の事、性のこと。本当に忙しい。食事も出て、2時におわった。

私はその後、ビラ配りに出かけた。議会レポートが残っていたので、配りに行ったのである。ある団地で配っていると、政治ビラは配るなという事だった。議会だよりは公式なものだからよいが、政治家の物はいらないという。なんだかなあ。私は自分の報酬をつかい、市民のためにサービスだと思って、今は娘と一生懸命印刷したり、折ったり、配ったりしている。作り、配るためには、膨大な時間を使い、身を削っている。それはやはり市民に私の声を届けるのが使命ではないかと思うからだ。公式の議会だよりのほとんどの質疑が私によってなされているのだから、何も私のレポートは不必要ではないかと思うかもしれない。が、議会が公式に言えることと、議員が個人の責任で出す議会レポートの内容は違う。いろいろな政治の意見を耳にするチャンスがビラにあるというのに、それを拒否する市民。大本営発表の情報だけに集約されたら、事実を見極められなくなるんですよ。

なんともやりきれない思いがした。大きな団地で情報がコントロールする意味はなんなんだろう。ビラが邪魔。だったら、読んだ後、リサイクルすればいい。本当に、官製の情報だけで十分だと思ったら怖いのにね。私は、議会レポートはHPにアップはしていない。紙ベースの情報も大切だと思うからである。紙のほうがじっくり読んでくれる人が多いような気がしているのだ。けれど、こんな団地が増えてくれば、私は議会レポートもホームページに乗せなければならないように思う。でも、それを誰がどのくらい見てくれるんだろう。どうして、私の議会レポートのように質の高い情報を拒否するのだろう。なんだか、閉塞し内向きになってきている市民が怖い。

えっ、考えすぎだって。そうかな。そうかな。

夜は、少しのんびりした。友達と1時間も長電話した。いろいろな情報があるものだ。それはそれで仕方がないなあ。
19日(日) 今日は朝礼拝に行く前に郵便局に出かけて、郵便を出した。その後、礼拝。礼拝後、北朝鮮の話が出て、拉致被害者の救済のために制裁を加えるべきかどうかという話になった。私は制裁を続けても救済にならないと言った。甘ちゃんといわれても、私は北朝鮮で飢えている人がいれば手を差し伸べるべきだと思う。北朝鮮の脅威を言い過ぎる。軍隊が100万人いても武器はなく、人の命を盾に防衛するのが関の山の北朝鮮に、何を恐れるのか。物をあげることのない国に誰が尻尾を振るのか。冷たくしていたら、温かい事を忘れる。日本の制裁が聴くのは日本が何かを与えた後の事。それだって、制裁が後に来るとわかっていたら、貰うのは貰うけれど言う事なんか聴かないという風になるんだよ。

人や国と付き合う時は、相手が強行であればあるほど、こちらは柔らかく出るべきである。日本は武器を持って侵略した歴史がある限り、世界中の人は日本を一皮向けば北朝鮮やアルカイダと同じように見るのだ。徹底して、軍事国家と同じ轍は踏まない事を国際的に信じてもらうには、低い姿勢が必要なのである。これは、勝海舟がアジアと提携してという事を言っている事の延長だ。

最近中国が生意気だとか韓国は傲慢だとか、反日教育が嫌日教育でけしからんとか言う人が増えてきている。しかし、なぜそういう教育がなされるのかを謙虚に日本は知る必要がある。私は生まれていなかったが、60年前の事を母から嫌というほど聞いている。戦争の時のことだ。父は辛すぎて戦争を語れない。もしかして、父は兵隊として人を殺したのかもしれない。死んだ伯父は中国から帰ってきた職業軍人だったが、彼は子どもがもてなかった。親戚は中国で悪い事をしてきたから、子どもがもてない身体になったんだと言っていた。

前にも言ったが、あのアメリカの市民戦争ですら、いまだにアメリカでは曾おじいさんの話しとして語り継がれているのだ。1886年の戦争をだ。だから、高々60年前の遺恨が消える事はない。アメリカの世界貿易ビルが崩壊している時に真珠湾攻撃を思い出すとテレビでは言っていた。アメリカ人にとって、未だに日本人はアルカイダと同じような感じなのかと暗然とした思いがしたものだ。

日本を世界で対等な国へという政治家がいる。歴史は皆違う。対等な国に、普通な国になるというのは、軍事力をつければいいのかと言うと違う。日本の国是は国連主導の平和主義である事を示す事でようやく普通の国になれることを政治家は知っておくべきだと思う。
18日(土) 今日は朝からネットニュースの校正とネットニュースの印刷。あいさつ文の原稿作成と印刷。ラベル印刷と、ネットニュース、議会レポート、挨拶分の封筒詰めを行った。途中、校正を支援者がしていただくようにメールで原稿を送った。今時は、メールがあるのでとても便利になった。しかし、数字などに関してはやはり読み合わせてもらわないといけなかった。この前も、読みあわせで数字の間違いがあった。

はたまた途中で息子の学園祭に出かけて、ファッションショーでとりを飾った息子の姿を、夫はビデオで私はカメラでとっていた。実は、彼は4年生だからこれで最後の学園祭。ウエディングドレスの可愛い女の子と出てきた。胸が一杯になった。いつか息子も結婚するんだなあという思いだ。勿論、当たり前かもしれないがなんだか寂しいような思いがした。

其の後で、彼女にあったが優しそうな良い娘さんに見えた。続いてくれればよいけれど。「顔なんか問題じゃないよ、心だよ」って言っていたんだが、かわいらしい女性だった。息子の彼女に嫉妬する母親がいるという話を聞くが、私はそんな感じではなく、「よろしくお願いしますね」って思った。今、息子は大変な時期にいるが、寄り添っていてくれる彼女に感謝というものなのである。

夜もネットニュースを折ったり、封筒を処理したりと忙しくて、あっという間に1時になった。
17日(金) 今日は朝から仕事にかかり、11時半になってサピオへ弁当を取りに行った。午後から息子の学校で保護者会があり、其の前にクラス会を使用ではないかという事だった。年は37歳から私のような57歳までのおばさんの集まりだが、うちのクラスは出席率が最高で19人中13人が出席だった。担任の先生がスライドショーを作ってくれていてそれを楽しみに見るのがクラス会。子どもの様子を見ながらわいわい親が楽しんだ。こんなクラス会は聖望でなければもてないし、担任が若いからこそビデオやスライドショーを作ってくれるのだろうと思う。親たちもざっくばらんで和気藹々である。3時間ほどの長丁場のクラス会なのに、あっという間に時間がたったという感じで、大急ぎで片付けて、全体会に出た。

もう高校2年生も後期に入ると進路の先生の気合が違ってくる。なんだか進路を具体的に決めなければならにらしいが、実際の所どこが良いのか私にはさっぱりわからない。いつものとおり息子に選ばせるしかないが、志を高くしてほしいと願っている。妥協というか自分に甘い息子達を見ていると、「私も高校時代はそうだったよなあ」と自省の思いで一杯だ。しっかり目標が与えられればいいのだけれどと思う。それに、子供達は勉強もしないしなあ。

サピオに弁当箱を返してから戻ったら、六時半。ご飯を作り、今度はサピオのジムに運動に行った。体重は喘息のステロイドを用い始めたら増え気味で、其の上運動不足がたたって足が攣り始めた。身体は温存するだけでは駄目で適度に運動して叱咤激励してやらなければ萎えていくだけのような気がする。腹筋も一時外から筋が見えていたが、少し緩んだ。また、運動を頑張ろうと思う。
16日(木) 今日は朝から原稿書きに心がけたが、また「日本の一番長い日」を読んでしまった。面白くて辞められなかった。天皇よりも国体維持が必要である。裕仁は天皇の一人であるから、国体護持のためには裕仁を切り捨てても構わない・・・・と、ここまで青年将校たちは思い巡らせる。軍隊の誰もが国民の命に思いが行かない。読みながら、はらはらしたが、それ以上にあきれ返ってしまった。天皇と鈴木首相の固い終戦への思いがなかったら、終戦に至らずだっただろう。そして、国民の大半は死んでしまったに違いない。。。
15日(水) 今日は朝9時半までに北浦和に行かなければならないので早く起きて、娘を連れて出かけた。県の障害者就労支援センターである。ここでいろいろ検査を受けた。出来たような出来なかったような。就職に結びつけばよいのだけれど。

急いで帰ってきたのだが、家にたどり着いたら2時近かった。娘は急いで学校へ。私は原稿書きにいそしんだ。

夜はサピオへ。久しぶりに汗を流して気持ちよかった。最近は原稿やらメールやら編集やらで夜が忙しすぎてなかなかサピオへ行かなかった。それに喘息が起きていて苦しいのである。は〜〜〜。
14日(火) 今日は朝早くおきて息子の弁当作り、睡眠不足。

9時半には視察のために出かけた。デイサービスの視察。まず、狭山台の“茶々”。次に陽だまり館。茶々は10人規模の小さなデイサービス。陽だまり館は25人という中規模。午後からはまず、ファミリア。定員10人のデイサービス。最後は富士見にあるハピネス狭山に行った。ここは40人規模の大きなデイサービスだった。どの施設の職員も介護を必要とする高齢者のお世話を一生懸命していた。とても施設の方々が熱いので嬉しかった。いろいろな今後のサービスへの展望などのお話しを聞いた。とにかく小規模多機能型の施設が飯能と所沢にありそうなので見てみたいと思った。また新しい老健施設をまだ視察していないので近いうちに視察させていただこうと思う。

今回、密かに驚いた事は、デイサービスがこれほど多くなったのにもかかわらず、需要がまだあることである。まるで保育所が足りないように、デイサービスもどんどん出来ていて、それでいて人数が充足している。お断りはしていないそうだが、あまり軽度の人はなんとなくお断りに近い状態もありそうである。何処もとても多い登録者を抱えている。しかし、デイサービスが9時半から4時までとは短すぎやしないか。帰ってから、一人ぼっちで家で息子や娘が帰ってくるのを待つ老人も多いそうである。認知症が入っていたら家に一人で置くことすらも怖い。それなのに、延長をしてもらえても5時半だったり、6時だったりだ。今、保育所でも七時まで預かっていてくれるところもあるというのに。

この点がとても心配に思えた。7時や8時まで預かるとしたら、1時間千円でも一人のパートさんをつけると人件費分しか出ない。高熱水費もかかるし、施設が延長を嫌がるのも分からないでもない。それに、何かあったときのお泊り。例えば、葬式などの時、おじいちゃんだけを置いてどうしたらよいか。ショートステイよりも行きつけのデイサービスで何とかできればよいけれど・・・・・という話になる。で、介護保険外で自費で何とかしてくれるところもあり、出来ないところもあった。それで、小規模多機能型の老人福祉施設は理想だけれど、どうして狭山市には出来ないのかって話になってしまうのである。今の保険制度で小規模多機能施設なんか経営が成り立たないという。まあ、少し研究してみたいと思う。

ある施設長が、儲けなくてもよいのだから社協がやれば良いのにという話しをしていた。本当にそうだ。もうデイサービスは民間に任して、小規模多機能型施設をサピオに作ればいいのだ。やってもらえば良いのに。だって、家賃を払わないでデイサービスをしているのは社協だけだ。コンなのはおかしいよ。それならば、小規模多機能型、これをしてほしい。現場を見ているといろいろな問題点が見えてくるし、素晴らしい運営もあるのが分かるし、いろいろな施設でさまざまな取り組みをしているのも分かる。やはり現場を見てみないことには、北島ではないが“なんもいえね〜〜〜”って思う。見て歩いてよかった。今後も続ける。
13日(月) 珍しく寝坊。布団の中でうだうだ。とても幸せな瞬間だった。それでも、10時にはおき、久しぶりに布団を干した。その後、ありあわせの朝食をして、また読書。昨晩は部屋がかび臭くて眠れなかったので、かびた窓枠を拭き取った。午後には、栗を拾いに出て、その後、庭の木を切ったり片付けたり。夫は枯れた桜の木を切ったが中は空洞だったそうだ。風が強ければ倒れるかもしれなかった。

なんだか、取りとめもなく1日が終わったけれど、とても癒された。もっと別荘にこれればよいのだけれど、次はいつこれるか分からない。時間を作り出そう。あまり早く帰ると渋滞に巻き込まれるというので、食事を佐久の杏亭でして9時過ぎに佐久を出発。途中、やはり渋滞があったりして、狭山には結局12時ごろに到着した。メールが届いていたりして、結局寝るのは2時になってしまった。
12日(日) 今日は午前中に礼拝。本当に久しぶりに教会へ。新鮮で嬉しかった。心が洗われるかな。少しおしゃべりして、ブックオフによって帰ってきた。

家で家事をしていたらもう4時過ぎ。夫が帰ってきて、それから別荘へ行った。家を出たら火事で、黒い煙が入間川のサティーの方から出てきて心配した。議員が其の付近に住んでいたから、彼のうちかもしれないと思った。でも、私が行っても何の役に立つわけでない。自重して行かなかった。後で、7時過ぎに鎮火したというメールが入ってきた。大きな火事だったんだと思った。

渋滞を見ながらあっという間に佐久に付いた。で、買い物をしていたらもうじき8時。別荘に行ってもテレビはない。家の夫は篤姫のファンで見たいという。それで、いつもの穂の香の湯で見ることにして、惣菜を買った。なんだか悲しい篤姫の物語を見た後、お風呂へ。少し熱い温泉にのんびり浸かった。

佐久の別荘に着き、娘と夫とゲームをしているとあっという間に1時近くなり、其の後少し読書。

「人生はきっと自分のしたいことのためにあるんだと思う」という尾崎の言葉が夜ふと浮かんだ。実は、礼拝でイエス様を賛美しながら、私はたくさんの人を傷つけながら生きてきたという思いで一杯だった。申し訳ないと思った。いつまでたってもパーフェクトになれない。イエス様、ごめんなさいという思いだった。あの人も、この人も傷つけたと顔が見えて、申し訳なさで一杯でいた。それで、其の人たちにもどうしたらよいのだろうと考えた。傷つけないように生きていたらよかったのだろうかとも思った。でも、結局、人のための人生をいきるのは私には辛すぎると思えてならなかった。我ままに思えるかもしれないが、「人生はきっと自分のしたいことのためにあるんだと思う」。

私は、人の期待に沿うような生き方が出来ない。したくない。自分が自分でないような行き方も出来ない。人を搾取したくない。偉ぶりたくない。見下したくない。等身大の自分でいたい。自分が自分であるという生き方が私の“自分のしたいこと”である。ごめん、そのために人を傷つける事になるかもしれないけれど、期待してくれる人には申し訳ないけれど、私が私であることが私のしたいことだから、許してください。今私は小さく羽を畳んで休んでいたい。時には、えさを探しに飛ばなければならない。でも、私は鷹ではなくて、鳩でしかない。すずめでも良いかもしれないが、私はいつもさえずる力もなくて、時々ぽっぽーとなくだけだ。で、今、私はそんな風に生きていたい。
11日(土) 今日も風邪は抜けず、咳が出たりしている。少しアレルギーもあるかもしれない。だから、少し安静。コンピューターの前で、仕事。ゆっくり、忙しくしている。事務仕事があるのに、少しも進んでいないし、原稿も完成させなければならない。
10日(金) 実際すべき事はたくさんあるにもかかわらず、また、養護学校のコンサートにも行きたかったが体が動かなかった。でも、今日は寝るほどには至らず、コンピューターの前で原稿を書いていた。メールの受信が始まったと思ったら、ウィルスがいるとかで怖くてメールを動かせない。本当に不便。夫に見てもらわなければならない。

夜、夕ご飯を食べてから、カルフールに娘と出かけた。何しろ、一週間近く買い物をしなかったら、何もなくなってしまった。とにかく、米。米さえあればと思っているが、冷凍庫の肉もなく、野菜はインゲンのみ。あれやこれや買い求めたらまた2万円を突破。この前まで、1万円突破で困ったと思っていたが、家の胃袋はどうした事か。

株安が続いている。もう底値に近いと思う。10万円でもあれば、よい株を買うべきときかもしれない。ここでお教えしますが、株の底の底は6千円だと昔聞いた事がありました。今は外資が株を売却して自分の決算に当てているから売りが多いのでしょうが、それが終われば上がります。ですから、今かあと1ヶ月のうちに買っておけば、2年後には6割あっぷも嘘ではありませんよ。大抵、私の予想は当たります。ね、財政課長。でも、自分で実践しないのがいけないかなあ。
9日(木) 今日は、朝からコンピューターでメールを受信できないので四苦八苦した。夫に直して貰おうとしたが、サーバーがおかしいので無理。仕方がないので新しいアカウントを作った。あ〜〜〜あ。

午後は、尾崎ルームへ行く。どんなものがあるか楽しみである。と、書いたがこの約束は残念ながらキャンセルとなった。私が視察のうちにメールが入っていたようだったが、何しろメールが読めないから困ったものなのである。本当に残念でした。

この1ヶ月日曜日もなく、土曜日には行事が入り、其の上週日も忙しくしたら、体力が弱まっているのだろうか、風邪を引いたようで、午後からとにかく横になりたくなって、寝てしまった。気力と体力とが比例しないようになってしまった。やる事ややりたい事ややるべき事はいやっと言うほどあるにもかかわらず、身体を動かせなくなってしまった。息子が「疲れたんだよ」と言っていたが本当に体力を消耗してしまった。
8日(水) 3日目。萩市。景観条例に関して。ここは全国でも有名な町のひとつだが、歴史の保存の仕方が下手でなんだかがっかりした。素晴らしいのは、30億円で立てたという博物館だけだった。もっと街並みを保存できないのか。いくつかの屋敷は買い上げていたらしいが、そのほかの場所は正に朽ち果ててしまいそうだった。もったいないなあ。
7日(火) 2日目。長門市。駅前開発と公園。公園の遊具が楽しそうだった。狭山市にもほしい。午後に、金子みすずさんの記念館に寄った。金子さんの記念館を中心とした街づくりは発展途上という感じ。
6日(月) 視察第1日目。宇部市。駅前開発。街にたくさんの彫塑があり、築後50年の古い庁舎の前に素晴らしい彫塑が立ててあった。ぼろは着てても心は錦だ。
5日(日) 今日は、地区の体育祭だが、また子どものアメフトの試合が立教新座であるので出かけた。ナント今日は試合が10時からなので、8時ごろには家を出なければならない。子どもは7時前の電車に乗るというので、駅まで送った。弁当を作ったりしたので、実際睡眠時間4時間。

今回も負けた。でも、今回の負け方は精一杯やって負けたのだから仕方がない。自分の実力を出し切ったが、残念ながら相手がこちらより勝っていたという事である。先週のように、同じぐらいの実力ながら気持ちが圧倒されていて負けたというのではなかった。そういう意味では負けたけれど、どこか清清しかった。それに今回はもう試合をしないで良いので、少し楽だ。本当のことを言えば、先週は勝ちたかった。そして、歴史に名前を刻みたかった。埼玉栄は悪いチームではない。ある意味堂々としたところがある。徳春のほうが気持ちにムラがあり、勝てる相手だったけれど、こちらの方が気持ちが舞い上がっていて平常心からは遠かった。

気持ちだけの問題ではない。日本人の精神論はいつも技術などの面をふっ飛ばさせるが体力の作り方、それと技術、作戦力、総合的にレベルをアップしないと聖望学園のアメフトはまた春で一回戦負けである。しっかり、これから練習してほしいが、選手に分かるかな。

という事で、立教の試合、優勝決定戦まで見て帰ってきた。立教は立派に勝った。それだけだ。

夜、昨夜寝ていない私は疲れ果てて、明日の視察の容易もそこそこに寝る。
4日(土) 今日は、本当のことを言っていろいろな事が重なっていた。でも、私が始めにしたのは、印刷を完了させる事。次にそれを新聞社に持っていくことだった。いろいろ新聞社を回り、ようやく養護学校のピカピカ祭りへ。忙しくて困る。最後に子どもがまとめを述べるというので、最後まで残っていた。夕方、いつものとおり、カツ丼をつくり、食べさせた。もう、忙しくて何がなんだか分からない。夜中に寝ようと思ったら1時過ぎていたが、この時間では明日早く起きてカツ丼なんか作れないだろうと、カツ丼をこの時間から作り始めた。
3日(金) 今日、印刷にすぐに取り掛かればよかったのに役所に書類を出しに行ったのがいけなかった。それで、印刷が夜の11時になっても終わらない。あ〜〜あ。明日、続行だ。
2日(木) 今日は朝から原稿の校正に取り掛かった。ボランティアの方が原稿を見てくれた。文章のフローは手入れするはわかりやすい。しかし、漢字の使い方が適切かとか、言葉使いなど本職でないので頭を抱え込む事が多かった。は〜〜〜。仕方がない。

校正したのを直していたら、ナント9時近くになった。疲れた。後は明日。そうそう、夫が上海に一緒に行く事になった。嬉しい。書類作りなどをしていたら、2時近くなった。ちょっと、杜甫と李白の勉強もコンピューターでした事によるけれど。それにしても、中国訪問は楽しみである。
1日(水) 久しぶりにのんびりかと思いきや、HPの直しもあり、なかなか暇な一日はない。原稿もあるしと思う。そのうちお見舞いに行く約束を思い出した。12時にサピオで待ち合わせをして、昼食をとり、病院へ。47歳で脳内出血を起こしたPTAの友人のお見舞いだった。症状はここでは書けないけれど、今後の生活は大変だろうなと思った。でも、生きていてくれるだけでも家族には良いのかもしれないぐらいの事だったようだ。まだまだ若いからリハビリでもっともっと良くなるかもしれない。そう祈っている。

夕方帰ってきて、仕事をと思ったのだけれど、夫と一緒に10時過ぎから遊んでしまった。私がテレビを見るのは非常に珍しいのだが、リーマンブラザーズの破産以降、どうしてもアメリカの経済状況のテレビには夫と釘付けだ。まあ、こういうのを遊びとは言わないか。公的資金の注入に良い顔をしないアメリカ人の思いもよく分かる。だって、CEOだっけ、社員はともかく社長などの利益配分は並みの金額じゃない。よい時は自分のポケットに金を詰め込み、悪い時は税金で補填なんか許されないという庶民の思いは理解できる。でも、ほっとけば其の庶民のポケットにも何も入ってこなくなるという恐ろしいのが金融恐慌だ。

日本円がもしかしたら100円を切るかもしれないと財政課長にいつか言ったが、嫌な予想をしたものだ。当たるかもしれない。まあ、今年の経済予想は私だけでなく誰も上方にはしていなかっただろうが、もっと大変になるかはアメリカの舵取り次第だろう。日本が変にアメリカの尻拭いを始めるとこちらも大変になるだろう。だが、バブルはじけたときに手放した資産をとり戻すには良い時期なのだから、冷静に判断すればよいと思う。言うのは簡単。狭山市としては国債で利回りの良いものが出てくる可能性が高いから、アンテナを高くしてよいものを的確につかみ、運用をしていくことだ。議会でも言ったが、国債を中心に。下手の社債は怖い。どこかでリーマンの社債を持っていて焦げ付いたとか。会計責任者はとにかくこういう時はおいしいものがたくさん出されるはずだが、国債(日本の)を中心に運用をお願いしたい。

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