私の独り言 2004年 

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心のままに思っていることを書いていこう。嬉しいことに喜び、悲しい事に嘆き、怒る事も忘れまい。一生懸命生きようと思う。

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11月 私の独り事
30日(日) 午前中は礼拝。午後サピオに行きたかったけれど、体がだるくてそれにする仕事もたくさんあって、行くのを断念した。それで、午後からは洗濯を干して、昼食後HPを整理している。一般質問の第2質問やら、議案質疑の整理やら、まだしていない。今晩中にしなければならない。忙しくて、体と頭が2,3個あると良いなあと思う。
29日(土) 今日は、朝起きて息子を起して学校へ出そうとした。しかし彼は体調が悪くて起き上がれなかった。息子には頭が痛くなるという持病があるのだが、部活で疲れすぎると筋肉痛だけでなく頭が痛くなる。脳震盪を起した等という事もあり、彼の頭痛は昔から親の頭痛の種である。

私は10時半過ぎに長男に送ってもらって稲荷山公園駅へ。私は狭山湖霊園へ。尾崎のオフ会の人たちと一緒に尾崎のお墓へ。綺麗に花が飾られていた。今日は尾崎の誕生日でもあり、たくさんの花。それに線香。たくさんのファン。

その後、獅子で食事をした後、解散。私は、友達3人と一緒に尾崎ゆかりの場所に。なんで今更と思うし、どうして行きたいのかと聞かれればあまり理由なんかない。でも、尾崎の最後の日どんな風に歩いたか其の情景を見てみたかったのだ。酒場があるなあとか、この市場では誰も見られることなしに尾崎をぼこぼこにする事ができるなあとかって思いながら歩いた。少しの間尾崎ファンの人たちと少し話したりした。

30分ぐらいそこにいて、また歩いてココスって昔の尾崎の住んでいたマンションにあるファミレスに行った。私達は、尾崎の本を読みすぎるほど読んでいるので、ココスになる前のサンディ サンのとき、尾崎がお兄さんやマネジャーと話をしたり、マネージャーが尾崎を待っていた場所だったらしい。どこに尾崎は座っていたんだろうなんていいながら夕食を食べた。きっと目立ちにくいところだっただろう。足立区って下町にあるからなんとなく場末って感じがする。田舎って言うのではなく、場末。隅田川のほとりにマンションはあって、今はとてもたくさんマンションが立ち並んでいるのだが、何で尾崎がこんな所に住んだのだろうかと、なんだか納得できない場所だった。朝霞ののどかな住宅街と大違いなのである。

その後、渋谷のクロスタワーにいき、若い子と混じって10時近くまでいた。何本とギターを持って若い子たちが集まってきていて、9時過ぎからは皆で合唱した。は〜〜〜、私達は何でクロスタワーにまで行って、尾崎をしのぶのだろう。自分で自分に回答がない。途中で60歳をすぎた女性ファンにあった。彼女も尾崎を2年前に知ってからは尾崎のあとを追い求めているらしい。彼女だって何が自分をそこまで突き動かしているかなんて自分ですら判らないのだろう。

帰ってきたら、12時近くだった。お風呂に入って寝ようと思ったが、小説が面白くて2時になった。
28日(金) 今日は、朝から家事に励み、11時にヒアリングを予定していたので、役所へ。次から次へとヒアリングが続いた。午後4時ごろにサピオへ。忙しくて運動をしないので、太り気味である。

その後、急いで帰ってきてメールを確認したのちに、本年第一回目の忘年会へ。私は忘年会なんてあまり出る事はないのだが、今年は娘が高等部3年生で学校生活最後で、この子の最後のPTA役員だから出来る限り頑張って会議や懇親会に出るようにしている。

帰ってきたら、10時過ぎだ。きているファックスやらメールやらに目を通しているとあっという間に夜中を過ぎた。
27日(木) 今日は議会初日だった。9時開会なんてありえなかった。代表者会が延々1時間。秘密会で代表者と議長、副議長と事務局が入るだけ。私のような無所属のものは代表などがいるわけないので、後から事務局次長が代表者会の内容説明にくる。1時間の話し合いを10分間ぐらいで説明してくれるのだが、はしょりすぎて今一判らないところがある。空気なんて言葉があるが、会議の空気が伝わってこないで決定事項しかよく分からない。

私は17日に議運の委員長に次の申し入れをしていた。1つは全員協議会で議長に申し入れた事で、代表者会議に傍聴させてほしいという事だった。この前に市川房枝女性と政治センターのシンポの終わった後、代表者会に傍聴できないという話をしたら、他の議員さんは一同に驚いた。それで、これは議会の運営の事だから、議運の委員長に申し入れ、規則を改正するように議論してもらうべきだという話が出たのである。そこで、私は議運の委員長に申し入れたわけである。

その日のうちに、議長と議運の委員長と私で話し合い、議長がどうにかするという事になった。私は申し入れを両者にしたという事で、後は2人がどういう仕事の分担で申し入れを解決するか私には決定権はない。議長は、今回の代表者会議で話し合いをするように議題として持ち出したらしい。そして結論は、傍聴をさせないという事である。代表者会議は秘密会のままである。この会は決まった事は買いとめておくが、録音もしていないし議事録も取っていないし、代表者以外の議員は話し合いを聞くことすら出来ない。

開かれた議会が今標榜されていて、自治法も大きく改正されている。例えば、代表者会議や全員協議会も法律では条例制定によって常任委員会化できるのである。なぜ、そんな改正をしたかというと代表者会がまるで秘密会で議会の談合をしているかのように思われるし、事実そんなことをしている事もあるというである。だから、透明化しようというのだ。

そんな流れの中で、代表者会も全員評議会も狭山市議会もきちんと条例化することで市民への透明性を高める事を、議運の委員長に2つ目のこととして17日に申し入れた。けれども、狭山市議会はこれについてはかなり後ろ向きであり、先ほどの代表者会に傍聴を認めないと同時に、条例化に対しての話し合いをどこでどうするかも明らかにしていない。

午後まで、議案の説明に時間が掛かった。その後、ヒアリングが続いて、はっと気がついたら、夜9時半。帰ってきたら、子供達はありあわせのもので食事を終えていた。私も、本当に疲れ果ててしまった。
26日(水) 今日は午前中に養護学校の地区委員会がマクドナルドであった。2時半ごろまで掛かった。その後、家に戻って一般質問原稿を書き始めた。

夕食を終えた後も、原稿を書き続けた。12時近くなって、頭が働かなくなったので止めた。見返しも後日に回す。誤字脱字言い回しのおかしいところなどは、書いた日に見直しても見えないからである。
25日(火) 今日は朝から家事に励んだ。月末はお手伝いさんがいない。長い休みだったせいで、洗濯物が山盛りである。其の上、議会の準備も必要で本当に大変だ。

午後は第2環境センターで福祉審議会が開かれるという事で傍聴に行った。かなり突っ込んだ話しがされていて興味深かった。4時には教育委員会のヒアリング。時間一杯福祉審議会の話を聞いてから、役所に駆け込んだ。教育委員会ののち、次から次へとヒアリングが続いた。夕ご飯はパーティーの残り物と決めていたので、ご飯を作らなくてよいのでゆっくり話をした。

夜はサピオへ。
24日(月) 今日は、朝7時に目が覚めた。息子がアメフトの埼玉選抜の試験を受けるというので、弁当を作ってほしいとの事で、休みだからゆっくりしたいという思いが打ち砕かれた。3連休だったが、朝ゆっくり出来たのは、土曜日だけだった。土曜日だって、午前中にごみ出しをしなければと、せっせと片づけをしたから、この3連休は、仕事をしなかったけれど心忙しく過ごした。

その後、シャカリキになってパーティー準備をした。昨日のうちにアップルパイは焼いていたけれど、パンプキンパイは今日焼かなければならなかったし、キャロットもコールスローも作らなければならなかった。ピクルス、オリーブ、モルディドサラダ、クランベリーゼリーもあり、最後にはマッシュドポテトを作った。そういえば、フランスパンをトーストして、七面鳥とスタッフィンで締めくくり。いつものお料理です。

今回はあまり力が入らなかった。だから、人を招待もせず、娘がお友達を呼ぶというので家庭+彼女の友達という感じのパーティーのはずだった。ところが、朝になって全員キャンセルになった。娘はがっかりしていて可哀想だった。風邪が流行っているのかな。それで、今日は6人で食事になった。(お兄ちゃんの彼女が来た。夫がアメリカ人の私の友達も呼んだ)家庭的な感謝祭で、この20年来始めてという静かなパーティーとなった。静かだと寂しいのは、いつも大きなパーティーに慣れているせいだろうと思う。なにしろ、昔は50人のパーティーを開いていたのだからね。あのパワーはどこに行ったのだろうか。

夜は早々とパーティーもお開きになった。私は疲れて7時過ぎには横になろうとしたが、隣の犬が鳴いていて寝れる状態でないので、起き上がって介護保険の勉強を始めた。今は1時半。疲れが出てきたので、寝ます。

ところで、息子はなんと埼玉県のアメフトチームに選抜された。まさかと思ったが、やる気を買われたみたい。選抜されたのを彼はとても喜んでいたが、お母さんとしては埼玉県選抜プレーヤーというビッグネームの重圧を感じたりしている。ウザイと言われたが、息子には絶対名前に恥じるような行動をしてはいけないと言い聞かせた。この点が難しいところだ。1月11日の試合までに何べんか県選抜チームで練習もあるようである。体調、そのほかの管理、お母さんは大変だなあ。ちょっと、気が重い。
23日(日) 今日は、朝礼拝。その後、尾崎のお墓に行き、お掃除をしてあげようと思ったら、もうとても綺麗にお掃除がしてあって、線香も上がっていた。誰かがちゃんとお墓のお世話をしているみたい。私の出る幕はなかった。尾崎は死んでもすごいファンを持っていて驚く。

帰りに業務スーパーに行って、冷凍の肉などたくさんかって帰った。それでも、米を買い忘れてしまった。やはり1ヶ月30キロのお米を食べるね。帰りに古本屋によって帰ってきた。

午後遅く、ホームページの更新などをしていたら、夕方になってしまい、夕食のしたくをし、食事。其の後、パーティーの準備のために、アップルパイを今日焼いてしまおうと、りんごの皮むきをしていたら、あっという間に8時。急いで、サピオへ。帰ってきて、夫や娘とともにアップルパイを焼いた。時間が掛かるので、私は途中で寝た。夫が最後まで焼いていた。
22日(土) 今日は、疲れきっていた。どうしたのだろうか。家事をこなし、燃えないごみを環境センターにもって行き、其の足で埼玉牧場に買い物に行き、帰ってきた。午後からは少しゆっくりしたのだが、疲労感が取れない。きっと、今日だけスケジュールが開いたせいでもある。逆に、したいこともあったがやらなかったという事でもある。この何週間かは土日が忙しくて休みを取る事が出来なかったので、久しぶりの休みを取ったので、体と心が弛緩して疲れを覚えたのだろう。

何しろ、24日にサンクスギビングのパーティーを開くので、少しは家をどうにか片付けなければならないと思うのだ。娘も友達を招待するらしいから、部屋を片付けるように言って、収納箱を用意した。

夜は食事をした後にサピオへ。
21日(金) 今日は、朝から議案書の勉強をと思いながら子供達を学校に送り出した。早速、8時半過ぎに役所からの電話で、早く来るようにという意味の話。家事をお手伝いさんに任して出かけた。高齢者福祉課と話をし、昼食後は議案を勉強した。全く意味不明の言葉の羅列で、生まれて初めて聞くような団体があったりする。この世界は本当に大変で、勉強する意欲のない人は向かないと思う。其の点、意欲のある人には何十年と仕事をしても新しい発見があり、新しい制度が出来たりするから勉強のし甲斐はあるというものである。市民の方は年に20日議会に行けば市議会議員は出来ると思うかも知れないが、いやいやそんな事はありません。

最終は職員課の勉強で派遣や休暇の問題。休暇は裁判員制度が出来るためのものである。さて、市議会議員も裁判員になる可能性があるそうだが、議会中は無理だろう。狭山市からは280人ぐらいが候補者になるらしいが、凶悪犯罪を特に裁くらしいから裁判員になるのが本当に怖い。人を裁くにはそれなりに見識が必要だと思うけれど、裁判員をくじで決めていいのかなあ。心配です。

帰ってきたら、結局7時を過ぎていた。これからご飯を作るのは嫌になるが、仕方がない。夜は遅くなってサピオに出かけた。遅くなったが、カルフールへ買い物にいった。忙しい。
20日(木) 今日は朝HPを更新したりしていたが、お昼ごろになってお出かけ。尾崎のファンの人たちと少しお茶をした。

夜は新宿区役所でフェミニスト議員連盟の世話人会。さまざまな議案がでた。国際フォーラムを開くので、其の準備が忙しい。私はアファー59号の発行を追えばかりだが、もうアファー60号への取り組みを考えなければならない。国際フォーラムが1月24日なので次の2月号の発行は10日ほど遅れる予定である。あまり遅くなると3月議会に引っかかるので早めに原稿を依頼し、また、女性幹部職員の調査をしたいと思う。出きれば、各分野ごとの女性の進出の状況をを知りたいなあと思う。9時半の電車に飛び乗って帰ってきたが、結局家に着いたら11時を回っていた。
19日(水) 今日は、朝11時に政策企画課とミーティング。其の後、お昼をはさんで13時、14時半、15時半と次々にミーティング。帰りは結局6時。おなかがすきすぎたが、ミルクがないだの、あれがないだのと言うのでヤオコーによって帰ってきた。私はお昼が少なかったので、帰ってすぐにありもので夕食。その後、夕食を作った。子供達も夫も帰りが遅いから、用意が終わるのが7時過ぎでも構わない。

暴力には屈しない。すべての良識ある人人は暴力に対する闘いを続けていこう。声を上げていこう。
今日のニュースは厚生省の元役人達へのテロに対してがトップだった。田母神元空自幕僚長の発言にしろ、このテロにしろ、なんだか暴力で人を脅しつけようという風潮を感じる。卑怯者のやり口だ。独りよがりの考えや行いを正当化させてはいけない。戦前のような空気を作り上げてはいけない。良識ある人人は声を上げるのを怖がってはいけない。テロへの注意は必要だけれど、暴力によって政治が屈してしまったら相手の思う壺だ。それにしても、何で罪もない人を確信的に殺したのか。嫌だが、其の解明も犯人を特定し逮捕すると同時に行ってほしい。いつか朝日新聞の記者が惨殺されたが、メディアにもテロが掛かるだろう。どんな状況が来るかもしれないが、一人一人は力がなくとも、団結し連帯し継続している“しなやかな戦い”は負けることがない。暴力には負けまい。毅然と暴力反対の声を上げ続けよう。
18日(火) 今日は、朝9時に視察なので、7時半過ぎに車で東松山まで出かけた。やはりこういう施設は狭山市にも絶対必要だという思いを持った。視察後、役所に行き、通告した内容について、いくつかの部署で話し込んだ。帰ってきたのは2時半過ぎ。

少し休んでから、夕食作り。6時前にサピオへ。8時過ぎから西中野球の母の会で飲んだ。飲みたかったから、サピオで運動したのだ。350キロカロリー消費したのだが、紹興酒を3杯飲んだらもう450キロカロリーで明日は太るぜ。この頃、会食だ、飲み会だというのが続いている。もう少し立つと忘年会の時期である。どうしよう。
17日(月) 今日は、午前中に全員協議会だった。議案書も配られた。午後、高齢福祉課の課長に作ってもらった資料の説明をしてもらった。数字が出してもらったが、其の実情が見えてこなかったのだ。其のうちに、小規模多機能型の施設が私の考えている独身王子の介護リスクの手助けになるという思いが募り、HPで検索などをして調べ始めた。明日、東松山のことぶき苑を視察する事にした。

夜、サピオへ。久しぶりに運動に励んだ。
16日(日) 今日は、朝早くに市川房枝記念会に出かけた。午後に記念シンポジュウムがあるが、私はそのシンポジストの一人である。「政党か無所属か」という命題に対してのコメントをすることになっている。3,4日前にレジメを書き上げていた。まあ、それに従っていけば良いのだと思ってはいても、なんだかとても緊張していた。何しろ、全国から議員さんたちがやって来るのだから、どんな質疑応答になるかも分からない。其の上、基調講演があるにしても、時間が4時間もあるシンポジュウムなんて、市川房枝記念会でなかったらありえない。昨日のシンポもそうだが、本音トーク爆発のシンポなのである。

とにかく、シンポは無事終わった。久しぶりに会う議員さんも多く、同窓会的な感じがした。埼玉県において女性議員ネットをつくろうではないかという話が進み始めている。結局私が幹事をすることになるんだろうな。事務局を他の人に頼んだとしてもね。まあ、誰かが牽引をするべきだから仕方がないね。

夜は、初めて市川房枝「女性と政治センター」の企画運営委員達の会食会をした。少し、酒の入って勢いで、山口さんに市川先生の事などを伺った。女性としては、男女から大変モテタ方だったようだ。市川先生は体形もすらりとしていて格好良いものね。「市川先生はお化粧をなさったのでしょうか。」など馬鹿げた話を伺いもした。あまりなさらなかったみたい。ひじの抜けたスーツにあてをして着まわしていたという事である。松下幸之助さんに会いに行った話もでて、松下さんは市川さんを尊敬なさっていてたくさん寄付をしたという事であった。松下幸之助さんに会うことが出来たというのだから、市川房枝先生の偉大さもわかる感じだ。私達には財団トップに会うことなど、まあ不可能でしょうからね。

等など、ミーハー的に山口常務理事からさまざまな事を聞き出した。市川先生の素顔に触れたようで少し嬉しかった。「元始女性は太陽であった」といった平塚らいてふさんは市川先生と運動をともにしたことが多かったが、もう彼女は歴史になってしまい、誰も彼女の生前の話をしない。山口さんなどがなくなってしまったら、どなたが市川先生のことを個人的にお話ししてくださるのだろう。市川房枝も歴史に名前を残すだけになってしまうのだろうか。

そんなことを考えながら、女性問題の最大の課題はなんなんだろうかと考えた。男女平等指数などを国際的に比べれば日本は下位に属する。(138国中98位)女性が平等に機会を与えられているとは考えられない状況である。なぜ、女性の政治進出が遅れているのか。深く掘り下げるべきだと思う。なぜ、女性の平均賃金は男性の6割なのか。女性はドウあるべきか。家庭はドウあるべきか。男性と女性の関係はドウあるべきか。社会は女性にドウ係わるべきか。

私は女性の貧困を取り上げた事がある。社会の半分である女性が不幸であっては、男性にとっても幸福だとは私は思えない。男性が女性を支配する、女性を搾取する状況にある社会は健全といえない。私達女性議員はその矛盾をきちんと把握し社会に明確に問題点を示していく必要を痛感した1日だった。
15日(土) 今日は、朝から早稲田大学見学に行った。これは聖望学園の我クラスで早稲田大学を見学したいという希望が出たので実現させたものである。理科系クラスなので早稲田の理工学部の見学に行くべきだが、われわれの多くの保護者は早稲田受験をあまり真剣に思っている人はいないらしく(実はあこがれはあると思うんだけど、子どもの能力がついていかないのかも)、早稲田の文科系の所を見た。大隈講堂も時計台の中まで行ったし、演劇博物も中まで入ってみたし、ほとんどすべての学部(文系)の説明も聞いた。

説明してくれたのは法学部の1年生の学生さんだったが、頭がよいというのは説明を聞いていたり、質問に答える内容で判った。本当に一流の大学なのだ。5万人も学生がいるという事だったが、家の子は其のうちの一人にはなれないのだろう。何しろ、私の高校の同級生は東大の法学部に行き今は東京地裁で判事をしているが、彼は東大は合格しても早稲田の法学部は不合格だった。私立の大学は殊更難しいのだ。

午後は、早稲田の学食で食事をし、コーヒーを飲み、保護者でおしゃべりをした後、解散。私はその後代々木の市川房枝記念会の婦選会館のリニューアル記念事業に参加した。文書についてのシンポジュームがあったが、公文書がどんどん廃棄されていっていることに危機感を覚えた。マニアル通りに廃棄しなければ責任を取らなければならないという状況が出てきている。また、公文書公開条例を恐れるあまり、公文書を作成しないという言語道断な事例すらあるそうである。本末転倒だが、役人はそういう方向に走りがちなのである。公の場所での文書保管が出来ないであれば、私的に保存するしかなくて、そういう文書の保管が問題となるし、財源も掛かる。電気媒体や磁器媒体の保存も不確かだし、今後歴史資料として重要さを増す文書をドウ保存していくべきなのだろう。
14日(金) 今日は、朝から健康診断を受けようと思い、この前送ってもらった受診票を探した。ない。ない。ない。あると思っていたのが、違っていた。それで、どこを探してもない。しょうがないので、市役所で再々発行をおねがいして、入間川病院へ。石心会狭山病院はもう診断は終わりましたという事でしてもらえなかった。今日は血液検査、胸の肺がん検査と小水の検査のみ。それでも、終わったのは12時半。役所に戻り、食事をして、少し事務局でだべって、今度は健康保険センターへ乳がんと胃がんの検査のための葉書を貰いにいき、其の足でまた入間川病院へ。ここも、手間取り結局帰ってきたのは5時半だった。

今日は、息子が豚汁を作るというので指図をしてやり、ひじきを買ってきたのでひじきご飯にした。なんだか疲れたのでサピオにも行かず、コンピューターに向かっている。
13日(木) 今日は昨日のことがあり、疲れ果ててしまった。16日のシンポジュームでパネリストをするのでそのためのレジメを書いた。書き始めれば何とかなるが、書き出しが詰まってしまい、あれこれ本を読んだりしながら、結局書き始めたのは午後も遅く。はっと時計を見たら、3時。娘の実習先にお話を聞くことになっていて、急いで出かけた。彼女は優秀な実習生だったらしい。

夕方カルフールに買い物をして帰ってきた。明日、健康診断に行くので、早めにご飯をたべ、サピオにいき、早めに寝る事にする。といっても、12時になってしまった。今日のレジメはメールでコーティネーターに送った。
12日(水) 今日は朝緊張していてよく眠られなかった。皇居に後援会で行く事になっていたからである。おきて外を見たら、寒い日で雨まで降っているから、お年寄りには辛いだろうなと思った。8時に駅で待ち合わせなので、7時半前に家を出た。今回は自分が幹事の仕事をするので、念入りに下見をしたり、駅の出口を確認したりして、特急券も人数分を買い入れてきた。

特急に乗った時点で私は大変な事に気がついた。書類を入れたフォルダーを切符を買う際に置き忘れてしまったという事である。電車の中で冷や汗を書きながら駅に電話をし、書類を取りに帰ろうかと思ったが、10時にまでに桔梗門に行けそうもない。それで、もし、許可証の写しがない時に入れてもらえなかったらば、東御苑に行けばいいとして、直行する事に決めた。それが良い結論だった。

高田馬場で東西線に乗り換え大手町でおり、D2の出口で地上に上がった。上がったところは御成り通りで皇太子後成婚公園のまえ。銀杏の木々が黄色に色づき、お堀近辺は静まり返っていた。桔梗門にわたろうとしたところ、交通止めにあった。天皇皇后両陛下が今お出ましになるという事だった。待つこと数分。カメラで写真をとってもいいですという事だった。目の前を天皇陛下が手を振ってお出かけなさった。お年を召してなんだか小さくなっていた。小さく皆さんに手を振って、お出かけだった。初めて近く(数メーター先)でお顔を見た。スペインからの王様がいらっしゃっていたから、ご一緒にお出かけなさったんだろうと思った。後から調べたら、茨城県に行かれたそうで、この日の夜も宮殿で晩餐会だったそうだ。国賓がいらっしゃっているのだから、天皇陛下がおもてなしをなさるのは当然なのかもしれないけれど、お年を召しているので大変そうだ。

さて、皇居はこの前下見をしたが、其の時よりも人が多かったのか、さっと回って終わりという感じだった。今回は一番前にいたわけでないので、説明の人とおしゃべりをすることもだ出来なかった。ひとつ得た知識は、宮殿の前の広場の下に120台収納可能な駐車場があるとの事。昨日の晩餐会の時に、皆さんの車をどこに止めていたのかと疑問になったから聞いたら、駐車場は地下にあるとの事だった。そうか。

昼食はパレスホテルの下のハミングでいただいた。久しぶりにポークを食べたが、非常においしいという感じではなかった。もう、皆口がおごってしまった。たとえ一流のホテルで食事をしたとしても、感激して食べるという時代は終わった。

その後、大手門をとおり、東御苑を散策した。広い広いお庭。何人かでそぞろ歩きながら、松の廊下跡、天守閣跡、大奥跡などを見てから西の丸庭園を散策。一人じゃ飽きてこの前の下見には半分もあるかなかったが、今回は皆でああだこうだといいながらあるいたら、楽しくて途中で休むことなく、2時間近くあるいた。とても疲れたけれど、静かで落ち着いた場所でゆっくりしたので良い気晴らしになった。

帰りに池袋の本屋によって帰ってきたが、疲れ果てた。夜、息子が沖縄から戻った。4泊5日の修学旅行だったのだ。
11日(火) 今日は朝から事務仕事。する事は、山盛りあるがなかなかどれも終わる事がない。一日中何をしたのかと思うような日だ。

夕方からは友達のお舅さんがなくなったので、通夜に出かけた。この頃、本当にお葬式に出る事が多い。私は原則として個人的に知っている人でなければ行かない。この方にもお世話になった。家の息子はどうしてだか、おっかないおじいさんだといっていた方だった。遊びに行ったとき叱られたかな。それにしても、お嫁さんが私の選挙に来ていてくれても何にも怒る事がなかった。私は本当に恐縮に思っている。申し訳なくて、あったときには心からお礼を言ったものだった。でも、そんなときにも口数少なく、「ああ」ぐらいしか言わなかった。友達は100歳まで生きると思っていたのにと言っていた。82歳だったそうだけれど、もっと若く見えた。だって、いつも何かして働いたのだからね。

最近は心寂しく感じることが多い。介護しなければという年になったねえという事もなく、自らも介護や看護が要る年にあっという間になってしまうだろう。叔母から電話があり、もう老夫婦2人で暮らせないので、老人ホームに入るとのこと。早くよい所が見つかると良いけれど。あんなに賢いおばさんが老人ホーム化と思う。あんな家一杯の家財道具を片付ける気力もないだろうに、どうするつもりだろう。70歳代になったら、少しづつでも身辺整理が必要なのだなと思う。母に言ったら、母はもう衣類を除いて処理は終えたといっている。後は、葬式代があればよいとのことだった。私も仕事を終えた時点で身辺整理も考えなければならない。
10日(月) 今日は朝から地区委員会があった。たかはしべんさんのコンサートの事で話し合った。お昼まで掛かった。

午後は、事務仕事。ホームページで中国旅行記を書き終えた。

夜はサピオ。

私は、今も尚、昭和の前半についての文献を読み漁っている。そんな時、田母神前空幕長の議論である。更迭なんて甘い事を言うのではなく、私が総理大臣だった懲戒免職ものだね。あまりにも歴史観が貧弱で、日本が戦争したのは謀略でそうせざるを得なかったというのがメインだけれど、笑わしてはいけないよ。もし謀略で日本が戦争に陥ったとしたら(私はそんなものだとは思わないが)、謀略されるような国であったことについて反省をするべきだとおもうし、謀略で国政を誤るとしたらナント貧弱な政策意思しかないのだろうと思わざるを得ない。謀略はいつもあるだろうが、それ以上に戦争をしたくてならなかった陸軍があったのが問題で、それに追随するメディア、国民がいた。政治はそれを止める事が出来なかった。たとえ、天皇でも結局それに流されていった。

田母神前空幕長の議論があまりにも稚拙で笑ってしまう。陰謀・謀略によって日本は侵略してしまったというだが、それに対する自省はない。だって、皆が意地悪してそうさせたんだから、自分は悪くないんだよとでも言うようだ。それは、子どもの議論だろ。また、皆が侵略したのだから、日本だけが侵略国家ではないというのも笑う。始めは、中国と納得ずくで軍を進行させたといっておきながら、日本だけが侵略国家でないというのは、矛盾する。進行といいながら、それは侵略だと自ら言っている。誰が、どの国がしようが侵略はいけないという趨勢にそむき(ロンドン会議、パリ会議)、国連を脱退して侵略に進んでいった挙句の軍の責任はドウなのか。自分の考えだけで、すなわち国際状況も把握せずに、良く言うよと思う。

この田母神前空幕長はしっかり勉強したのかね。勉強してこの程度?軍の役割をドウ考えているのかと思う。アメリカ軍のような軍隊を日本は持つべきだというのだろうか。ばかばかしい。あんな金食い虫の非生産的な巨大な軍隊を持つような国には絶対日本はなってはいけない。それでなくても、アメリカからどの位兵器を交わされているか判らないのに、これ以上巨大な軍事力は要らない。アメリカのように世界の警察になってどうする?日本に求められている世界の役割は自ら戦争行為は行わず、国際紛争に軍事力は行使せず、平和の仲介者になるという事である。今まで、経済的に発展してきたのは軍事費をあまり使わなかったというよりは、他国に日本は憲法によって軍事力は行使しない事を宣言してきたからなのである。麻生首相はおじいさんの吉田元首相のなさった事をよくよく理解すべき。

自衛隊がこんな右翼ばかりでは日本の将来は暗い。自衛隊の幹部の総入れ替えをすべきではないかと思う。政府が政治家が誠実に国交をしようとしているのに、軍人がそれを脅かすような事はいかがなものか。戦前を思い出さずにはいられない。田母神前空幕長のいう事をもっともだという人がいるとしたら、それこそ問題である。彼の謀略史観は日本の政治を侮辱するものである。たとえ間違った政治であったとしても自ら選んだ道だったことを否定する事になる。日本人はそこまで阿呆じゃないですよ、田母神前空幕長様。

日本軍は開放軍だったというのも、笑止千万。昭和18年には、侵略した所を日本領土にしようなんて決定までしているんじゃないですか(5月31日、御前会議、「大東亜政略指導大綱」)。開放しようなんて考えはなくて、欧米のものを自分のものにしようとしただけでしょう。結果的に開放になったかもしれないけれど、意図したものではなく、侵略する事が目的で南シナに進行したのでしょ。もし、今アメリカの支配(駐留アメリカ軍は日本を支配していない。戦前の日本軍は韓国を併合し、満州に傀儡政権を立てたが、今のアメリカ軍の日本駐留とは政治形態、役割は全く違っているけれど、田母神前空幕長はそれの違いに気がつかない)を辞めさせるために例えばロシア軍が来たら、日本人はロシア人を解放軍だといって喜ぶのかね。誰が考えても、そうじゃないでしょ。アジアの人にとっては、A国の代わりに日本が支配しようとやってきたとしか考えられないのが普通でしょ。

一つ一つ田母神前空幕長の論文を論破できる。読みながら、ばかばかしいという思いと、だからなんなのさという気持ちでいっぱだ。こんな人が制服組のトップだったとは日本も情けなさ過ぎる。民間のやくざ見たいのと攣るんでいたとなればもっといただけない。清く、潔いのであれば美しいとかいえるけれど、子どもだましみたいな論文で300万円も貰うとは卑しいとしか思えない。

退職金を払ったのも悔しいけれど(泥棒に追い銭だ)、腐った魂の人間が日本の将来をだの、美しい日本だの、輝かしい歴史だのというのには辟易を通り越して、馬鹿も休み休み言えとしかいえない。後ろ向きになって、歴史を糊塗するのではなく、オバマさんのスピーチではないが、日本の行方について格調高く、かくあれかしという論文を書く自衛隊員がいないものか。今まで防衛大学で何を教えてきたのか。政治と軍人との線引きをどうしているのか。クーデター(2,26、1,15を想起するが)が起きるような不安はないのか。しっかり、政府には自衛隊をコントロールしておいてほしいと痛切に思った。

政府見解にたてつく自衛官は即罷免すべきである。言論の自由はある。自衛官を辞めて、好きな事を言えばいい。公務員は法遵守である。憲法が嫌いなのは自分の勝手だが、組織の中で、公にそれを言っちゃお仕舞いだろ。特に、公務員がね。田母神前空幕長の精神の稚拙さにはほとほと嫌気が差す。多くの公務員には迷惑この上ない人である。
9日(日) 今日は午前中礼拝。礼拝後、私は車で狭山湖霊園まで尾崎のお墓に行った。行ったからって何があるというのでない。11月29日は尾崎の43歳の誕生日なので、29日にファンが集まろうかという事なんだけれど、その前にお墓の様子を見たかった。綺麗に掃除がされお花も上がっていたし、私が行った直前に誰かが線香をたいていてまだ点った状態だった。あまりにも立派なお墓で尾崎も苦笑をしているだろうと思う。あれほど権威から遠い人間はいないのにね。何べんでも言うけれど、彼の楽曲(詩も旋律も)の素晴らしさは天才としかいえない。

お墓の帰りに夫から電話があり、一緒に大茶会に行こうというので博物館でデート。お茶をいっしょにいただき、買い物をし、3曲合奏を聴き、最後に生け花展を覗いた。いろいろな流派の立派な先生がお花を生けていらっしゃった。娘を知っている先生が「今日は娘さんはいらっしゃらないですか」と聞いてくれた。娘はかれこれ5年ほどお花を習っている。最近思うがお花の流派はなんであれ、生け花は芸術であり、最後はその人の人間性が出るんじゃないかと思うようになった。のびのびとした人はあくまでのびのびと活けるし、閉じこもった人は色彩も少なく外に向かっていくようなお花は活けられない。そんな風に思った。造形の美でもあり、色彩の美でもあるが、やはり創造物はそれを創造する人が出てくるのだ。

お茶はお抹茶の明松がとてもまろやかになっていて驚いた。おいしいし口当たりがとても良い。私はこれは素晴らしいシンポだと思った。ただ、洗練された明松ととも、前のなんだか薮きたのようなトロイ感じの味も趣があったなあと思う。(中学校から私はお茶をしていて、高校までの4年間お茶を習っていた。高校1年で私は茶歌舞伎で1等賞を取った事があるので、すこしお茶の味にうるさい。)

春の海をライブではじめて聴いた。尺八の音色に人の息遣いまで聞こえる。これもお正月のデパートのバックグランドミュージックとは大違い。こんな風に波が砕け、あんなふうに風が舞うのかと、演奏者達の表情を見ながら、平板な音楽とは違う自分達の音楽にしている演奏を感動を持って聴いた。日本の音楽も外国の音楽も人の心をうつ事は同じだ。花も、音楽も、お茶すらもすべてその人を表しているんだなあとつくづく思う。

夕方図書館から借りてきた夜回り先生の本を読んだ。昨日は「フリーター、漂泊」を読んだ。青少年の現状に心が痛む。自己責任という言葉が一時流行になったが、結局社会の仕組みがフリーターにしかならざるを得ない状況を作っていたのだと、今になって皆理解し始めている。格差が広がるからこそ、家がないからこそ、家庭が崩壊しているからこそ街に子どもが増える。また、優しい子ども、真面目で出口のない子どもだからこそ、リストカットや引きこもりになる。大人として何が出来るかと考えている。

夜、サピオに出かける。
8日(土) 今日は朝からバザーが2つ。みのり祭りに行き、友達とパンバイキングであった。私はバイキングといわれても食べきれないだろうから、コーヒーを2杯飲んだ。話をしてそれからバザーの残り物を買った。必要なものはないけれど、献金の出来ない私はひとつでも何かを買って協力したいと思う。クリスマスが来るのでポイセチアとサツマイモを買って帰ってきた。それときっと処分が困るだろうなと思い食器を。

続いて西中でもバザーをしていたので寄った。食べ物関係はもうおしまいだった。親父の会やOB会などの所も12時前には完売だったようだ。私はバザーでマグカップを買ってきた。たくさんあったマグカップだが、ひとつ割れ二つ割れしていつしかなくなっていく。だから、買ったら使うだろう。

午後は久しぶりに家にいた。ホームページで中国旅行記を書いていたが、なかなか終わらない。

夜サピオに運動に行った。夜は寒い。とうとう灯油を買ってストーブをつけ始めた。電気ストーブも出し、書斎で使っている。
7日(金) 今日は珍しく外に出ずにすむ日だった。それで、朝からアファーの校正やら、今まで溜まっていた手紙の開封、返事書きなど事務仕事に励んだ。ホームページを書き換えなければと思うが、まとまった時間が取れない。其のうちに、近所の犬がまた遠吠えを始めて、可哀想になってしまった。3時ごろになって、もうたまらなくなって図書館に本を返しに行き、帰りにバイゴーによってドッグフードを買ってきた。

娘にコップ一杯のドッグフードを持たせて犬に上げた。よその犬に食べ物を上げるのはいかがかと思うが、あのかわいそうな声を聞くと何とかしてあげたくなる。犬の飼い主は帰ってくるのが遅く犬が寂しがる。また、まともに散歩もさせていないせいか運動不足もあるのだと思う。うちの息子達はあの犬に構うなという。狂犬病の注射すらしてあるかどうかわからないという。本当に其のとおりなのだが、あの悲しそうな泣き声を聞くと何とかしてあげたくなるというものである。

夕方、夕ご飯を早めに食べたら、息子が修学旅行にお金がいるというのでヤオコーにお金を引き出しに行った。ヤオコーの方がドッグフードが安いのを見てちょっと残念だった。夜は、このホームページを書いて過ごしている。

もう、1時だ。少し前に、夫と二人、コンピューターでオバマ氏とマケイン氏の11月4日のスピーチを聞いた。オバマ氏のスピーチは美しくて涙が出た。マケインさんは公正な人だと思った。二人ともアメリカを愛し、アメリカ人を愛し、アメリカの理想を愛している。それが美しい。それに、オバマ夫人の選挙キャンペーンのスピーチも聞いたが、それも生活感あふれた素晴らしいスピーチだった。日本人はどうしてこういうスピーチをしないのかと思う。今度の一般質問もこのくらい格調高く行いたいと願っている。
6日(木) 今日も朝は息子の弁当を作った後、急いで笹井小学校に行き鉛筆販売。その後、皇居見学のための説明文を書き、ファックスした。これが時間がかかり、ナント午後まで。其の間に、アファーの原稿が届き、今度はこれを校正しなければならなかった。私一人で校正するのは無理なので、2人の人にファックスを回して校正を頼んだ。この電話賭けやらファックス送信やら受信やらで、結局一日中が終わってしまった。事務仕事があって、外に出るだけが仕事ではない。

とはいえ、外に出ないわけにも行かなかった。皇居見学に行く際の特急券の指定席を買いにサティのJTBに行った。ついでに買い物をして帰ってきた。

夕食後、疲れが取れなくて入間の湯へマッサージに出かけた。40分ほど肩や足をもんでもらった。中国から帰ってきて、ノンストップで仕事をしている。やることが山積みなのだ。一日ゆっくりしたいなあと思う。
5日(水) 今日は、朝7時半から笹井小学校へ行き、鉛筆販売をした。この前は水富小学校だった。まあ、よく売れたと思う。高い値段なのに福祉の思いで買ってくれるのだ。本当に暖かい気持ちにありがたくなる。「他で買えば、2本買えるよ」といいながらも買ってくれるのだから、感謝だ。子供達にまたお金を持たせてくれる親たちにも心からありがとうだ。販売中、イスから転げ落ちて尾てい骨を打って、もんどり返ってしまった。痛かった。

その後、家に戻りお金を引き出しに行き、ついでに安売りの野菜を買い込んできた。午後は、1時から老人健康施設 「愛」の視察をした。大生病院の付属の施設だ。施設は90%入居者がいた。それと10床はショートステイに使われているようである。病院付属の施設であるので安心感が多いと思う。でも、病院付属の施設なのでなんとなく病院のような味気なさもあった。すなわちここは最後までいられる住居ではない。だから、自分で持ち込めるものも箪笥ひとつ分のきるものぐらいである。テレビも1日200円で借りる事になる。なんだかとても単調な暮らしに思えた。テレビを見ながら、こっくりこっくりしている人もいた。私も年寄りになるとする事もなく日々を過ごす事になるのだろうかと思うと、ああはなりたくないなあと思ってしまう。出来るまでは、何か人のために出来る人間でいたいなあ。

1階がデイケアになっていた。午前中はリハビリをして、午後からはレクレーションだという。私は午後に行ったのだが、おじいさん達が将棋をしていたり、カラオケルームでカラオケをしている人もいた。そのご、フラダンスの先生が来てフラダンスをおばあさん達が踊っていた。自分の好きな事をしていいそうで、私ならばきっと本を読んでいるんだろうなあと思った。うえの老健にお住まいの方々も下で遊んでいた。80過ぎの方々だ。若い認知症の入った人もいるそうだ。施設は何処も立派で清潔で歩けれど、どうしてこうもどの施設も似たかよったかでつまらないのだろう。特に、生活臭のしない施設はどうもやりきれない。

夜サピオに運動に出かけた。体が重く、強い運動が出来なかった。どういうわけか汗も流れない。体調が今一なのである。
4日(火) 昨夜遅く、中国から戻った。身体も心もくたびれ果てたけれど、高校生の弁当作りを忘れてはいない。早く起きて、どか弁を作った。夫と息子を送り出してから、今日から実習の娘の用意を点検し、食事をさせて出かけさせた。その後、1週間近い旅行で洗濯が溜まっていたので、洗濯機を回し、スーツケースの中を片付けた。

たくさん買い物をしたのだが、一番のハイライトというか大きな買い物は、真綿布団を買ったことである。虫がつかず、アレルギーを起さない布団なんだそうだ。絹の布団で、中身は薄いけれど温かいらしい。早速、カバーに真綿を入れて、ベッドスプレイとして使うことにした。今までは良い物はお客布団にするという事なんかを考えたり、親に上げようと思ったりしたものだが、これからは自分達で使う。親は何万円もする布団に寝ている。私達はいつもは3800円の布団を着て寝ているが、もう身体に良い布団を着ても良い年ではないかと思うのだ。私は本当に貧乏性で、また子どもの教育費や食費、事務所の費用などに追われて、贅沢なんかちっとも出来ない。人様並のことをしても許されるだろうと思った。

午後は、新校説明会に養護学校に出かけた。これは本当に大変な事だと思う。なぜ、新校を作るのに高等養護学校にしなかったのかと思う。そうすると、高校生が大挙してきて、学校が一杯になるというので、普通の養護学校にしたというのが県の教育委員会の説明だ。狭山養護学校はナント今定員より50%も多く生徒がいるので、狭山養護学校から何クラスか動かさなければならなくなる。高校生は良いが、小学生や中学生は新しい学校に慣れるというのが、とても難しい子供達が多い。だから、親としては転校なんてとんでもないという事になる。また、高等部の生徒は自主通学が基本だから、狭山市駅から何度も乗り換えて学校へ通わなければならない新校へ通わせたくないのだ。新しい学校は高等養護学校にして、この地域の高等部生だけを集めれば、養護学校の学級減にもなる。240人定員の学校が作れるというのだったら、そうする事を親は望んでいるのにどうして県の教育委員会はそれが理解できないのか、不思議でならない。

たくさんの親が感情的な意見を述べていた。それはすべて理解できる事だった。教育委員会の人は後で一人ひとりにご理解をいただく時間を取るといっていたが、それは自分達は折れるつもりは一切なく、自分達で送り迎えすれば狭山養護に残っていいよというような話になるのだろうと皆が想像した。県の態度はこうも高慢なのかとあきれ返ってしまった。

そのご、議会事務局へ顔出しをした。いくつか資料請求や調査をお願いした。中国へ行っている間の事も聞いたが、何事もなかったようでよかった。

役所から帰ってきて、夕食を作った。疲れが出てきて、早く寝る事にする。
29日(水)から11月3日(月) 中国の友好都市、杭州へ親善旅行へ行った。これについては他に書く。2008年杭州親善旅行記をご覧ください。
28日(火) 今日は朝、実習説明会だと思って養護学校へ行ったら、午後からだというのでまた戻り、家事をしてから午後養護学校に行った。実習の説明会だった。彼女は今度、デイサービスで実習する事になっている。小学校の時に看護婦さんになりたいと言っていた。それは本当に無理な話だが、おじいさんやおばあさんのお世話を他の方々とやるのは出来ると思う。彼女は優しい娘だからきっとお年寄りに喜ばれると思っている。

その後、急いでカルフールに出かけた。買い物のつもりだったが、婦人服やに行き、旅行にもって行きやすそうな服を選んだ。体重が減ったので、身体に合う服がないのだ。こんな時でないと買わないと思って、何着か安いものを買った。新しい服なんて久しぶりだったから、少し嬉しかった。夫のジャケット1枚分にもならないが、それで十分だ。

その後、夕方から娘と学校の先生と私で実習先にご挨拶に伺った。丁寧に実習についての心構えなどを教えていただいた。きっとうまく出来ると思うが、相手の方がどのくらい知的障害についてご理解があるのかわからない点が少し不安である。娘は一見健常者と変わらないのでかえって難しい。日本語が伝わらない事や、早合点をすることも多いのである。まあ、親はいつも心配しがちである。

夜、そそくさと食事をした後に、北朝鮮に拉致された横田さんのお母さんの講演会に出かけた。北朝鮮のやった事は本当に許されない。横田さんの思いは本当に痛い。横田さんが北朝鮮の制裁などと言い出したら私はとても嫌だったが、そんな事は一切おっしゃらなかったので安心して聞いた。同じクリスチャンとして祈ることだけしか出来ない。嫌な事をされたら、嫌な事をしてかえすのではなく、もっともっと優しくなって心を開いていかなければと思う。

全然中国旅行の支度をしていないので、一晩かけて荷造りをする。
27日(月) 今日は朝から養護学校の理事会だった。いつものとおりだったが、校長挨拶で新しい養護学校に狭山市だけが2分割されて国道16号から東の児童生徒はそちらに通うようになるという事だった。説明会が11月4日にある。

午後は忙しくフェミ議のアファーの原稿をチェックした。時間が掛かったし、一応ファイルはすべて印刷所に送った。今時はすべてをメールでやり取りするから送信は瞬時なのだが、何本も送信し、其の上画像の添付などがあると、思いのほか時間が掛かった。

結局、ファイルとしては20本ほど送ったのだが、仕事を終えるには夕食後、夜まで掛かった。

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