私の独り言 2004年

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心のままに思っていることを書いていこう。嬉しいことに喜び、悲しい事に嘆き、怒る事も忘れまい。一生懸命生きようと思う。

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5月 私の独り事
31日(土)
74300カウント
今日は、朝家事に励み、息子のためにケーキを焼いた。今日は息子の17歳の誕生日なのだ。その後、急いで渋谷へ。渋谷の勤労福祉会館でフェミニスト議員連盟の総会があった。総会後、DVシンポジュームもあり、大盛況であった。少し、打ち合わせもあり、4時過ぎに会館を出た。

渋谷に久しぶりに行ったのだが、なんだか様変わりしていて、忠犬ハチ公が何処にいるのかも分からなくなった。昔、横浜に住んでいる時はしょっちゅう渋谷にきたのに、それも30年も前の話だ。パルコの場所も忘れてしまい、うろうろした。

帰りにクロスタワーに寄った。雨が降っていた。私が尾崎のレリーフを見ていると、子どもを連れた女性がやはり尾崎の歌碑を見ていた。尾崎の青学の3年後輩だという女性。尾崎のファンで、コンサートにも4回行ったという。ここからの夕日はきれいなんですよ、といった。尾崎の担任の先生は、大会社の社長の娘で、尾崎のような生徒にてこずって何も出来なかったんだろうという事だった。小学校から青学だったそうだから、外部の学生の事を理解できなかったんだろうという。私も息子をミッションスクールに入れているから、その辺の状況は理解できる。尾崎さんは身を削って歌っていたんだよねって、尾崎のレリーフを触りながら、可哀想に可哀想にって言っていた。なんだか、涙が出そうでそそくさと帰ってきてしまった。

帰宅後、ケーキにデコレーションをし、お兄ちゃんが帰宅するのをまって、小さな誕生パーティーをした。その後、久しぶりに紅牛に行き、食事。お金が掛かるから、ほとんど外食をしないのだが、とにかく誕生日であるし、お兄ちゃんの時に来れなかったから、まあいいかという事になッた。それにしても、子供達のお腹一杯焼肉を食べさせるにはお金が掛かる。
30日(金) 今日は朝から体がだるくて仕方がなかった。やはり、ステロイドを抜き始めたのが、身体に来ていて応えるのだ。其の上、お兄ちゃんの風が移り喘息が始まった。これのために吸入のステロイドを入れ始めた。少し、楽になった。体力をつける必要を感じた。朝、家事を済ませ、少し横になった。銀行によってから役所に。

午後1時半から、職員課、消防とヒアリング。3時半からは契約課、企画課とヒアリング。少し議会事務局で話し込んだ後、帰宅。

帰りにヤオコーによって買い物をし、早めに夕食にした。本当はサピオに行きたかったけれど、体力に自信がなくていけなかった。
29日(木) 今日は、子どもを学校に送り、帰ってきて支度して大学病院へ。予約があったので、スムーズに行った。診察だけなので210円。こんなに安いのは公立大学病院だから出来ることかな。とにかく、完治したという事で、ステロイドを今日から飲まなくて良くなった。それで、飲まなかったが、体がだるくて仕方がない。今まで薬でステロイドを供給していたので、体がステロイドを作らなくなったのだそうで、これに慣れるまでちょっと時間が掛かるようである。頑張れ、体。早く必要なホルモンを、必要なだけ作りなさい!!!

という事で、身体をだましだまし、午後はやはり役所で仕事をした。そろそろ原稿を書かなければならないだろう。そういえば、いろいろな原稿が溜まってきた・・・・

しかし、夜はもう体が動かなくて、寒気までしてきたので、うがいをして寝る。
28日(水) 午前中は、家事。洗濯物は溜まるし、皿は一杯洗わなければならないし・・・・雨なので子どもを学校に送らなければならなかった。午後はやはり役所で調べ物。一般質問の通告は私が想像していたとおり、16人。それで、私の質問日は6月10日になった。

夜、夫とヤオコーに買い物に行った。忙しくて、買い物もおちおち出来ない。
27日(火) 今日は朝養護学校のお掃除。外回りだけ。とにかくお天気が良くてよかった。その後、サニーカーニバルの時のボランティアに関して、地区委員会と本部の話し合いがあった。あっという間に1時になり、急いで役所に行った。

議案書の勉強会。税金関係の話しを聞いた。市民に直接関係があることだから、議会で質問すべきだと思った。後で質問はまとめる。その後、国保、保育所の議案に関連して各部署に説明してもらった。夕方からは、自分の一般質問関係の資料をHPで集めた。今は本当に便利になったものだ。しかし、HPに書いてあることを事実として信じてよいものか。其の点、慎重にならざるを得ない。

一般質問は7番目に通告した。1.教育、2.契約、3.綱紀粛正について。
26日(月) 今日は午前中、天気が良いので洗濯をした。熱いほどの日。11時半から養護学校のPTAの高等部の懇親会。ピザハウスで釜焼きピッザを食べた。お話しを他のお母さん達として、有意義だった。何しろ高校3年生だから、就職進学などさまざまな話題が出た。はっと気がついたら、1時近く。急いで役所に。ところが、アポイントは明日だったのだ。あ〜〜〜あ。もっとゆっくり昼食を食べられたのに。

午後は、通告をどうしようかと考えながら、あっちで話し込み、こっちで人の仕事の邪魔をし、7番目の通告者になるのを待っていたが、5人しか通告していないので、結局通告しないで帰ってきた。あした、しよう。

夜、夕食後またサピオへ。トレーニングは癖になるほど気持ちがいい。体調がもどりつつあり、手加減しながら運動している。
25日(日)
74100カウント
今日は朝礼拝。午後は家事に追われた。というよりは、洗濯をたくさんした。その後、娘の部屋にカーテンをつって、片づけをした。そこで、大変なものを見つけ、娘にお説教をした。私は、一生懸命道徳も教え、イエス様の教えも説き、子育てをしてきたつもりだが、時々がっかりする事がある。具体的には娘のプライバシーにも係わるからはっきりとは書けないが、親として自信を失う。何べん言っても分からない。どんなに叱っても同じ誤りを繰り返す。いけないという事が理解できないわけでないのに、其のいけない事をする。どうしたら、真っ当に育つのだろうかと頭を抱える。

ジムさんが夜に帰ってきた。お迎えに行って、娘の事を話題にした。せっかくアメリカから帰ってきたのに、こんな話題で申し訳ないが、私の胸も一杯で、少し聞いてもらわなければどうにかなりそうだった。たくさんお土産を買ってきたが、私には食料品。これを食べるのは結局あなた(ジム)や息子なんですけれど・・・
24日(土) 今日は朝このHPをいじっていた。あっという間に11時近く。今日は聖望学園高校の総会の前に、旧の役員で会食があるので、急いで一心さんに出かけた。杉田さんというこのレストランのオーナーが1学年の学年委員会の代表だったのだ。そこで、最後に一心さんでおよばれだった。おいしいランチをいただいてあれこれ話しが弾み、あっという間に2時近く。その後、総会に出席した。

総会では私だけが2回ほど質問をした。総会であのような意見を言っておけば、いつか何かの波紋が帰って気安いだろうという考慮の上だ。今回はその後プリンスホテルであった懇親会をパスしてしまった。昼、夜という会食では体が持たない。すなわち、カロリーオーバーだし、知っている顔ばかりだから今更話す事もないしね。

夜久しぶりにサピオでトレーニング。あまり加重にならないように、ゆっくり運動したが、それでも汗をかいた。其の汗がとても気持ちが良くて、運動は良いなあという思いで帰ってきた。
23日(金) 今日は、朝子供達を出してから、ホームページの整理などをしていた。夫がまだアメリカから帰ってきていない。夫はいつも出勤が遅いので、朝が片付かないのだが、今は夫が留守なので朝が長い。ゆっくり新聞などを読める。これも明日までかな。

ところで、10時半からは全員協議会だった。執行部からの報告が一切なかった。どういうことだ。言いたい事などもたくさんあったのにもかかわらず、資料だけで終わり。其の後、建設委員会協議会であった。2件の報告。言いたい事は後で課長の所で言うさ。

其の後、消防長と懇談。部下の不始末について。彼も大変だが、私にも私の考えがある。妥協とかという事ではなく、まあ、今回の不始末から何を教訓として、どんな改善をしていくかという観点で物を申し上げた。消防長は其のポジションで精一杯誠実に仕事をする人だから、何事にも安心していられる。立場から言えば、私の言動は彼には迷惑かもしれないが、きっと彼は私のいう事の意味を私の立場からだったら仕方がないと理解はしていただけると思う。だから、胸をかりて見ようと思っている。

物事は正しい方向へ行くべきで、尾崎が言うには愛ある方向が正しい事だそうだ。愛ある方向とは、なあなあで済ますことではなさそうに思う。今の人たち、うちの子供たちもそうであるが、後先を考えなさ過ぎると思う。自分だけの事のように見えることでも、自分だけでなく、多くの人に係わり迷惑をかけることを想像だにしない。見つからなければ良いさというのは、誤りで、神様は(日本人はお天道様かも知れない)いつ、何処でも、何をしているのも、ご存知である。神を(世間を)侮ってはいけない。聖書には「顕にならないものはない」と言っている。神様はすべてを知っていて、裁く。

人のものを盗んで分からないわけがない。自分の仕事を考えたら、それが明らかになった時に自分の信頼だけでなく職全体の信頼を失墜させる事になってしまう。盗んだ額以上に、其の行為そのものがとてもダメージを与えるのだ。私にはとてもショッキングな事件だった。人間はすべて正義感のある人だけでないし、自分だって良い事だけでなく弱いところもある。だから、高々2,3千円を盗んだって、返せばよいだろうというかもしれない。でも、私には信頼している人がそんな軽い道徳で、あんな責任のある仕事をしていたのかと思うとショックなのだ。

そんな人に消防なんかしてほしくないと思うのは、きっと私だけではないと思う。その人に火事は消せるかもしれない。でも、火事場泥棒という言葉だってあるんだし、小さくとも泥棒をするような人に消火の現場にいてほしくない。だから、公金を盗んだんじゃなくとも、そんな人には消防士をやめてもらうより他はないとしか言い様がないだろう。

懲戒免職にするのは可哀想な事であろうか。盗んだ額が少ないから。公金じゃないから。まだ、若いからか。家庭があるから。お金をかえしたから。だから、消火をさせ続けても良いのだろうか。2,3ヶ月の停職で、職場復帰させて良いのか。でも、でも、私には彼への信頼を取り戻されない。一度罪を犯したものを許さないのは、狭い心なのだろうか。反省をしたら、それで良いよって私にはこの場合いえない。だって、ほんとの意味でこの人への信頼がなくなったら、何かあったらという心配がいつもいつも付きまとう。そして、それがもしかして、消火の現場で起きたらと思うとぞうっとする。彼は自分の小さく見える窃盗行為で職場の信頼を裏切り、そしてそれを知った私のような市民の信頼を裏切った。

彼は、自分の行為の結果を悔いているだろうが、彼の行為のために与えらたダメージを取り繕う人人のほうがもっともっと辛いだろう。それを彼はわかっているのだろうか。私だって、こんな正論を吐いていることすら、本当は苦しく思っているのだ。なあなあで、私が何も言わなければよいのだという弱い心が私にささやく。こんな年になれば、正論を吐くことは、時にはつばを天に向かって吐くようなもので、いづれ自分に帰ってくるかもしれないと恐れるものだ。だから、「見ざる聞かざる言わざる」が良いという事になる。言う人が馬鹿をみたり、ドンキホーテになったりする。でも、私は黙っていてはいけないのではないかと自分を叱ってしまう。

判断の時、自分がいやな道を通る事にしている。祈りながら。それにしても、罪を犯してしまった人間は、どう生きれば良いのか。私も罪びとであり、小さな罪を犯さないように大きな力で自分を押さえつけている気がする。其の力がふっとなくなる瞬間を自分に許さないようにしてはいても、神様の前で(法的に問題があることでなく、宗教的な意味であるが)罪を犯し続けている。自分の罪に向かいあい、それを克服するのは容易な事ではないが、少なくとも向かい合い悔い改め自分をどう新しくしていくかというビジョンを持つ必要があるだろう。其の過程こそが試練の時だが、試練を乗り越えることなくして再生はありえないのだろうと思う。この罪を犯した方が新しい場所で違う自分になって罪を犯さない人生を送っていってほしいものだと心から願っている。回復しようという傷口に塩を塗るような行為かもしれない私の意見を許してほしい。

午後は養護学校のボランティア講座。その後、娘を連れて買い物へ。自分のズボンも買ってきた。痩せて着る服がなくなっている。
22日(木)
74000カウント
今日は朝10時から「いろんな民族の会」の総会だったが、少し遅れようとしていたら、電話がかかってきて、11時の病院の予約を優先しろという事だった。だから、急いで防衛医大へ。今日は実は生体検査のために手術が予定されていた。だから、麻酔の事などや後の傷の事を考えると憂欝な気持ちだった。同意書をこの前、病院で書いておいた。

本当に気の進まないうちに防衛医大の先生の診察を受けた。先生が体を見てくださったら、手術の必要なしとの事。とても嬉しかった。薬がようやく効き始めているという事なのだ。ただ、お薬が強いので時々ぼおっとしたり、眠気が強くなりすぎたりする。困ったものである。

午後は手術がなくなって嬉しくなった。それで、午後遅く、カルフールのショッピングの後で、友達の新しい家へお祝いに行った。素敵なお家で、夢が一杯詰まっていた。目一杯おしゃべりして帰ってきた。もう彼女を知ってから20年近くなる。どの友達も古くからの友達になっている。
21日(水) 今日は朝5時半おきで娘の弁当を作った。7時までに登校し、熊谷の陸上競技場に出かけた。息子はいつもどおり、弁当。

8時過ぎに家を出た。今日は、尾崎豊さんのお父さん健一さんにお会いできる事になり、嬉しかった。朝霞の市議会議員に尾崎さんと知り合いの方がいて、取り持っていただいた。朝、10時という早い時間に伺った。私は尾崎豊フリークだから、写真で見たことのある尾崎さんのお家、写真で見たことのある仏前の大笑いしている尾崎豊の写真。それに、2階の尾崎の机とイス。どれもこれも、実感を伴なわないデジャブのような感じが付きまとった。この机で、イスをきしらせて勉強をしていて、下で其の音を聞いていましたとお父さんがお話しなさっていたが、イスに座ってみるとなんだか本当に切なかった。

しかし、仏前で祈りを捧げた時、暖かな気を感じた。座部布団が柔らかかったせいもあるかもしれないが、尾崎はあのうちのあの辺でかなり安らかにいるという気がした。お母さんもきっといるのだろう。死んだ時の話しを読んでいたので、健一さんの家の穏やかなただ住まいとを心から嬉しく思った。健一さんは浮ついたところがない、本当に誠実な方で、私の方がクリスチャンであること、青学で豊さんを救えなかった事をわびたが(そんなことをする立場でないのは分かっているが)、いえいえと非難することもなく、豊さんの死を受け止めていたようであった。

いい年のおばちゃんが豊君の曲で慰められているんですといったら、お父さんは豊の歌には人間の普遍の心が歌ってあるからでしょうと言っていた。それに、豊は曲は聞き手の中で完成すると言っていたそうで、こちらの心と共鳴できる人だけが分かりあえるのでしょうという事だった。それにしてもと私は、多くの人に共鳴できる曲を作るというのは天才でなければできない事ですとお父さんに言った。

普通の家庭、それも公務員の堅実な家庭に育ち、律儀で誠実なお父さん子として育て上げられた尾崎豊。だからこそ、社会とのギャップがあったのかもしれない。孤独な登校拒否児の尾崎。なぜ、一言親に自分の状況を話せなかったのだろうか。孤独がいやでなかったことにもよるかもしれない。一部仙人のようなお父さんを悲しませたくなかったのかなあ。2階のダンボールの中で豊君が寝ているのではないかと電話がかかり大騒動になりましたとお父さんは語っていた。私はお父さんに何も言えなかった。お父さんはいじめの原因を取り除いたら、豊は学校に行くようになりましたとお話をなさっていた。

尾崎は私の父と同じ年の親に育てられ、浦島太郎のように現実の中に投げ込まれ、見るもの聴くものが嘘で誠実でなくて打算的に見えたのだろうとなんだか尾崎の視点が見えたように思った。自分を取り戻されたのは、自分と社会との調和点を見つけ出せたのは、ようやくアイソトープを始めてからだったのだろうけれど、結局はすべては遅かったという事である。

古い音源もきっとあるだろう。アルバムにしてほしいと健一さんにお願いしたが、社長の考え次第という事だった。それと、机など少ないもので良いので、どこかに常設展示出来ないかと伺ったが、今の所は考えていないようであった。いつか、この机などが、人目につくところにひっそりと飾られて尾崎豊の音楽を聞く人の目に止まることがあればよいのにと思った。

ごごは、さいたま市の複合施設を視察。その後、6時から旧彩ネットの人と会食した。
20日(火)
73900カウント
今日は朝、雨が大降りだったので、娘の陸上大会は延期となった。娘と息子の弁当を2人分つくり、息子を聖望まで送っていった。午前中は片付け物をしたり、HPを整理したりしていた。しかし、午後になり役所に資料を集めにでかけ、3時半からは政策関係のレクチャーを聴いた。薬が効きすぎていて、ボーとなってご心配をおかけした。

帰ってきて、素麺を急いで作り、食事にした。久しぶりの素麺がうまくゆだったのでおいしかった。
19日(月) 今日は朝8時前に防衛医大の診察のために、家を出た。久しぶりの防衛医大でどうしていいか分からなかった。時間はあまりかからなかったが、結局受診したのは10時ごろ。薬を変えて、木曜日に生体検査、金曜日に診察とした。問題が何なのか。赤みの消えない肌、痒みが強く残っている事。私にとっては痒みが一番の問題なのだけれどね。

午後は、視察があり、笹井のあずみ苑さんを視察。ショートステイ、デイケアなどを見てきた。デイケアなんかに行きたくない人も多いのだろう。けれど、おばあちゃんやおじいちゃんが一人で家で留守番されていては、仕事にいけない若い夫婦が多いと思う。だから、年寄りもいやだけれど、協力してデイケアに行っているのだと思う。

ショートスティから帰りたいという年寄りがいた。家がいいのは誰にとってもそうなんだろうと思う。自由気ままだもの。でも、それをさせてあげられるのは、誰かの目があるとき。年を取ってしまえば言われるままに、ショートステイにでも行くより、これもしょうがないのだろう。お金は1ヶ月15万円ほど掛かるらしいが、3食食べてお風呂もついて洗濯までしてもらえるのでは仕方あるまい。

視察を終え、役所に戻り、あれこれ調べ物をしたり、話しを聞いたりしながら、次の一般質問のことを考えた。

夕方は早く夕食を済ませて、寝た。いや、寝ようとした。眠気が襲ってくると体が熱くなり、すさまじい痒みが襲ってくる。掻かないようにと思うと苦しくて、シャワーをしたりして痒みと闘った。最後は、もうギブアップで、痒いところをぼりぼり掻いてしまった。そうでないと、一晩中眠られないのだもの。
18日(日) 今日は朝、夫がアメリカ出張のため駅までおくり、其の足で教会に。

午後は、強い薬と痒みのためにまた家で寝ていた。途中おきてHPの更新をした。それにしても、このアレルギーはいやだなあ。あちこちが痒くてたまらない。薬をつけても直らず、痒くて掻けばそこからまた痒みが広がる。いやだなあ。

寝ようとしても、1時間ほど横になると体が温まり、痒みが強くなって眠れない。だから、起きていた方が楽なのだが、そうすると体力がなくなり・・・・あまりにも体重を落としすぎたかなあとは思うのだが、理想体重であり、内臓にはこの状態が一番負担がなさそうである。
17日(土) 今日は午前中に皮膚科の病院へ。とうとう、薬の効き目が先生の思うとおりでなさそうで、大学病院に紹介状を書かれた。防衛医大か埼玉医科大かといわれ、とりあえず、月曜日に防衛医大に行く事にした。しょうがない。

午後からは大学病院に行き検査をするという事のショックもあり、計画では女性のための政治スクールに行くつもりでいたが、体調不良で欠席した。寝たり起きたり、痒くて掻き毟ったり、夕方まで悶々として過ごした。こういう時は気分も落ち込む。

夕方、土砂降りの中を夫と本を返しに行き、サティーで買い物をして帰ってきた。久しぶりに、夕食をしっかり作り、食事。夫はアメリカ出張で明日から1週間留守になる。アメリカで食料品を買いこんでくれるように頼んだ。今までならば、夫が留守になるとここに書くことが出来なかった。でも、2人も屈強な若者が留守番をともにしてくれる状況なので、夫の留守をかくことができる。ちょっとしたことに、年を取った感じがする。
16日(金)
73800カウント
今日は、朝夫を駅まで送っていき、子どもを学校に出してから、頑張って私も東京へ。昼はまた歌舞伎をみて、夕方から市川房枝記念会の夏の合宿の計画作り。私は分科会の司会をすることにした。

其の後、ニューヨーク大学のゲルブ教授がアメリカ大統領選挙をジェンダーと人種の観点からの講義をした。いろいろ質疑があった。ヒラリーはメディアから嫌われているという事だったが、なぜなのか理由は示されなかった。女性より男性、若い、黒人が好まれたのだろうという事だった。ヒラリーに対する人格非難が酷く、同じ事を男性がしても、他の誰がしても非難の対象とならないのに、という事だった。このネガティブキャンペーンはどうした事だろう。

夜は10時過ぎに戻った。バーミアンで西中野球部母の会。もう疲れきっていたが、みんなの顔を見たら元気が出た。ありがとう。帰宅は深夜すぎ。
15日(木) 今日も朝起きてみたのは顔だった。体が痒くてよく眠られないけれど、お薬が聞き始めたような気がした。午前中、石心会でいつもの内科健診。血液検査の結果はかなりよかった。特に、肝臓関係の数値は素晴らしく改善していたし、糖尿関係もさがり、正常だった。心配はなかったが、3ヶ月後にまた受診する。

午後は、薬を飲んで休んでいた。薬のせいで眠気が出てくる。そして、うとうとすると今度は体が温まっていて痒みが酷くなり、体中をかきむしるという具合。時間が夢のようにすすむ。体の調子が悪いし、強い薬のせいで、気力も思考力もなく、本も字面だけを見ている感じがする。まあ、病気なんだから仕方がないさ・・・
14日(水) 今日も朝起きて一番に顔を見た。痒くて眠られなかったから、まずシャワーをして、身体を冷やした。体が温まると痒くなり、眠れなくなる。少し良いような気がする。しかし、とにかく痒い。

雨だから子どもを車で学校まで送り、その後家事をしていたら、薬のせいでねむけが出た。それでも、HPの更新など、いつもは家にいないのでできない事をゆっくり書斎でし、午後から1時間ほど眠った。実は午後から会議があったのだが、委員長さんに連絡して今回も会議を欠席した。

夕方、娘を連れてカルフールへ買い物へ行った。何しろ、食べ物が底をつき始めたのだ。結局1万円近くの食料を買いこんで帰ってきた。息子や夫のお迎えはおにいちゃんに頼んだ。少し動くとかゆみが増す。本当はトレーニングをしたいけれど、外に出る元気がなく、其の上、汗をかくとかゆみが増すような気がして出来ない。体がなまってしまいいやだなあ。
13日(火) 今日、朝起きて一番にした事は自分の顔を見ることだった。実は顔が痒くて眠られなかった。少しづつ脹れはひいてはいるように見えるのだが、体の方にもなんだかぶつぶつ出来ていて、それが赤くはれ上がってしまった。飛び火のようになってしまっている。子供達を学校にやってから、急いで病院へ行った。薬もなくなっていたし、予約もあった。

新しい薬をもらい、「これが効かなかったら大学病院にいってください」と引導を渡された。強いお薬だけれど、実際の所は自分の中の治癒力に掛かっているのかもしれないと思ってしまう。本当にアレルギーは怖い。

今日は、出なければならない会議があったが、欠席させてもらった。この顔で出るのはいやだったし、薬が効いていて横になりたくもなる。抗ヒスタミン剤は眠気を催すから。買い物にも行っていないから、冷凍庫のものはどんどんなくなっている。これも、冷凍庫掃除にはいいのかもしれない。でも、もうじき限界かな。

というわけで、お昼寝をしたり、夕食の支度をゆっくりしてみたりと安静に努めている。早く良くなりたいが、経験上この顔の赤みが取れるには3週間ぐらい掛かってしまうのよね。あ〜〜〜あ。
12日(月) 今日は朝「障害者を育てる親の会」の臨時総会。書くのも辛い。結局、親の会は事業、すなわち「はばたき弁当」と「喫茶バステル」から手を引く状況になった。弁当やはかなり多くの自治体で障害者が経営していて、最近は困難もある。大きな法人が経営した方が良いかもしれないので、何も言わなかった。

けれども、パステルは唯一新法に移行せずとも親の会が続けていこうと思えば続けられるの障害者の職場だった。私も行き詰っていた経営を立て直した自負もある。運営委員長として、毎日パステルに出勤という感じだった。市長にもお願いして、パステルのイメージアップもしたつもりである。今度はこの施設を法人に揚げるという事になれば、このパステルそのものの存在すらあやぶまれるのに、なぜ今そんな決定をするのかと思う。何べんも考えをかえるように言ったのだが、強行に自説を曲げない。今後続けていく人がいない、金銭的に成り立たないというのだ。まさか。私がやって出来たものを、昨年は他のマネジャーがうまくやった。10年後は分からなくても、後3年はやっていけるのに、今働いている障害者がかわいそうである。そもそも、パステルという職場がなくなるかもしれないのだ。本当にばかばかしく思う。それで、障害者の立場に立った親の会というものだろうか・・・・・

役所で昼食後、ビックマザーと第2つつじ野園を視察。酷いかぶれの顔でいきたくなかったが、前々からのお約束だから仕方がない。勿論、視察そのものは意義があり感じるところがおおかった。アレンジしてくれた役所には心から感謝します。これからもよろしく。

視察の報告に役所を歩いていたら、役所の部署のレイアウトが代わっている事にきがついた。そういえば、連休後初めて役所の中をみわたしたのかな。それで、7階から歩いて回った。環境部が7階ですからね。それに子育て関係が2階。相談室をチェックにいかなければばらない。なんだか変な感じだ。私が慣れるまでに時間が掛かりそうである。
11日(日)
73600カウント
今日は朝礼拝。ペンテコステだった。かぶれはどんどん酷くなって、左目が開かなくなってきた。薬を飲んでいるが効いているようには思えない。顔はむくんでいてお岩さん状態。それでも教会に行った。先週行かなかったから。

帰りは本屋によって買い物をしてから帰ってきた。昼食後、横になった。顔は熱を持ってジンジンしている。夜はコンピューターでひとり言を書いている。早く寝て明日少しでも回復している事を願っている。明日は視察も予定に入れているのに、この顔で行っていいものかと思う。移るものではないのだけれど、本当にみっともない。
10日(土) 今日は「高橋ブラクソン久美子とすすむ会」の第10回目のバザーだった。残念ながら朝から雨が降っていて、近くのサッカー場での練習もなかったし、お客さんが来てくれるか心配だった。朝早くにスタッフが出勤してくれて、何とかバサーの商品が出来た。値段付けも昨日に終わっており、ただただお客さんを待つのみ。私は朝にクッキーを焼いたが、焼きが足りずに粉っぽかった。ブラウンになるまで焼くべきだった。

10時半が開店だったが、10時には人が来ていた。買い物をしたいと言う人がいたが、やはり定刻からはじめ、定刻に終えた。売り上げは去年より良かったと思う。ほっ!多くの友達が手伝ってくれた。ありがたかった。お客さんも知っている人が大半で、もう義理で買って行ってくれているのが見え見えだった。それが嬉しい。本当に、多くの人のお力でバザーを10年間続ける事が出来た。

始めから今まで係わってくれた関口さんに心から感謝したい。毎年、それも10年間も赤飯をたいてくれた。餅つきをしてくれたこともあったし、おでんを作ってくれた事もあった。何年前かなあ、笹井ダムの自治会館でのバザーで結局最後に私一人が片づけしているのを見かねて掃除に来てくれたのも関口さんだったっけ。

この10年の中でさまざまな人がバザーに係わってくれたが、この間に疎通が無くなってしまった人もいて、思い出すとうれしいことだけでなくて悲しい思いもした。年を重ねるというのはこういうことなんだろう。前だけを見て生きているには、私も年を取ったという事かもしれないな。

とにかく、私が何も言わないでもスタッフがきちんと段取りをしてくれ、片付けにしてもほとんど私の手を煩わすことなく終わりそうだ。今年は特に私の体調が悪くアレルギーで顔は脹れ上がり、気分は低調でスタッフにはおんぶに抱っこ。私なんかいなくてもすみそうなのである。それでも、一応はバザー会場で来た方々と話しこみながら楽しんだ。夫も大変助けてくれたし、4時半には片付けも終わり鍵も返せたし、疲れすぎることなく終わった。いつもは力が入りすぎて倒れるかと思うのだが、なんだか今回はスムーズに終わった。何べんも言うが、私独りじゃ出来ない。係わってくれた多くの支援者、スタッフに心から感謝したい。バザーは今回でしばらくの間お休みしたいと思っている。
9日(金) 今日は朝からバザーの品物を運び込んで値段付けをした。友達が何人も来てくれたし、スタッフはたのもしいし、明日何とかなるだろうと思う。お昼も休まず頑張った。アレルギーはどんどん悪くなり、かゆみが増し、とうとう午後には医者に行った。強いお薬をもらったけれど、すぐによくなるというわけにも行かないようだ。あ〜〜〜あ。

明日はお天気が悪くなるそうで、残念である。
8日(木) 今日は、私自身もアレルギーにやられたようだ。きっと、竹の子。昨日竹の子を湯がいたが、竹の子を水につけるために手であげた。手を洗ったつもりだが、其の手でお化粧をしたので、皮膚がかぶれたのだろう。だんだん悪化している。

今日は朝からバザーの品物をもらいに行き、久しぶりに友達とおしゃべりをし、こんな機会でもないと話しもしないなあと貴重な機会に嬉しくなった。帰ってきて、今度は買い物に出かけた。飯能の業務スーパーでバザーのトン汁やらカレーの材料を買い込んだ。肉も野菜も安くてよかった。ついでに家の分まで買ったら、1万円があっという間になくなってしまった。たくさん買い込んだのだから仕方がない。

夜は、アレルギーもあるし、なんだか疲れきった。だから、サピオにトレーニングにも行かなかった。
7日(水) 今日は娘が沖縄に修学旅行に行く日。昨日からかぶれた顔をどうにかしようと悪あがきをしたが、病院でもどうにもならず、薬を飲んだり薬をつけていても直らない。昨晩、先生にお便りを書いた。手をかけていただくことになり申し訳ないとおもうけれど、仕方がない参加させてもらうことにした。あんなに楽しみにしていた修学旅行に行くなとは病院の先生もいえなかったし、私も娘にはいえなかった・・・

とにかく、娘は酷いはれた、かぶれた顔を大きな帽子に隠すようにして出発した。可哀想だった。できなくなった事もあるだろうけれど、できる事を楽しんできてほしいと願った。

お昼前は何日も家にいなかったから洗濯やら片付け物やらで忙しかった。午後から役所に行こうと思っていたが、昼食後、猛烈に眠くなって2時間昼寝をした。娘のこともあり、息子のこともあり、心労が重なった。はっと起きたら、3時半過ぎ、急いで新宿に出かけた。フェミニスト議員連盟の世話人会があった。総会前なので打ち合わせが大変だった。5時半から10時近くまで、3つのミーティングをこなした。帰ってきたら11時過ぎていた。忙しい。
6日(火) 朝起きて、パワーウォーキングへ。今日は1周だけ。あちこちで話し込みながらも頑張った。朝食後、また庭弄り。今日はアプローチのステップを新しい木に取り替えた。11時過ぎ、娘を起こしに行ったら、娘の顔が赤くはれ上がっていた。しまったと思ったときにはすでに手遅れ。昨年も別荘に来て、何かにかぶれたのだった。急いで、帰る支度をした。

2時過ぎ、帰っても医者は休みなのできっと佐久のお医者の方がかぶれの治療に慣れているだろうと、佐久総合病院に連れて行った。注射をしてもらい、薬をもらった。渋滞が少しあったけれど、そのまま帰ってきた。しかし、どんどん状況が悪くなった。夕食後、今度は入間市の豊岡第一病院に連れて行った。昨年被れた時にこちらに行ったからである。お医者さんの見立てでは、今出ている薬でよいとの事だった。あまりに状況が悪いので、悔やんだが本当に手遅れ。暗い気持ちで病院から帰ってきた。もう、娘を別荘に連れて行けないのかと思う。

特に、春は木の芽の芽吹く時で樹木に勢いがあるだけに、藪の中にはいろいろな植物がある。今回は彼女はたらの芽を取っていたのだが、其の回りには漆もあるし・・・落葉松がぐんぐん芽吹くのを見ているととても美しく感じるのだ。山桜も満開だった。
5日(月) 今日は朝、パワーウオーキング。今日は夫と二人して。食事の後に、庭の手入れをした。私は玄関へのアプローチの手すりに防腐剤を塗った。2度塗りすればよいのだけれど、まあ一度塗ればよいか。そもそも防腐の意味もあるのだが、蜂が着て困るので防虫の意味もある。夫は、アリが巣くっていて、家に侵入しているようだと蟻退治に乗り出した。娘はたらの芽取りに忙しかった。

午後遅く、いつもの杏亭にスパゲティを食べに行った。私はニョッキを食べた。新しいメニューだった。いつもおいしくいただけるし、値段も手ごろだ。その後、スーパーに行き、ブックオフで買い物をし、穂のかの湯へ。帰ってきたら、10時半を過ぎていた。それから、親子3人でゲームをした。
4日(日) 私達としては、珍しく教会に行かない日曜日。父がお米を買ってくれるというのでスーパーに行き、味噌もついでに買った。その後、母を連れて、犀潟にある「ハマナス」にお風呂に入りに行った。海岸線にある市の温泉施設だ。本当に温泉で、お湯が塩辛かった。目の見えない母の手を引きながらゆっくりお風呂に入り、其の後隣の市営のホテルで食事をした。食事の後は、夫と娘は海辺に行き貝殻集めをしたようだが、私と母は疲れてしまい、大広間でお昼ね。母は寝ていたが、私は2度目の温泉に入った。何度お風呂に入っても気持ちがいい。

夜、夕食後別荘に戻った。今回は渋滞もなく戻れた。
3日(土) 別荘に昨日遅く着いた。朝、遅くまで寝ていようとしたが、体が起きてしまい、お散歩へ。といっても、私なりのパワーウォーキング。別荘地内を2周した。汗をかき、気分もよく帰宅し、夫や娘を起こして食事。午後からは直江津に父母のご機嫌伺いへ。途中対面通行のところが込んでいて渋滞。黒姫を過ぎ妙高高原に入ると新潟県の空気を感じる。木々の若葉の色が新潟県って感じがするのだ。どうしてこんな気がするのかと思う。

父母とも私達の顔を見るのが嬉しかったようだ。弟夫婦が庭でバーベキュウをしてくれた。大きなうちは良いなあと少し羨ましかった。狭山のうちではそんなスペースもない。それに、家族があつまることも少なくなり、今回は別荘で親子3人でバーベキューをしてもつまらない。
2日(金) 今日は朝から忙しい。子どもも学校があるし・・・寝る時間を削っている。午前中はバザーの品物をそろえたりしているうちにあっという間にお昼ご飯になり、電話のかかってきた方の所に品物をいただきに行ったりしているうちに、夕方になってしまった。

夫は今日は仕事を休むなどと言っていたけれど、結局休めなくて、其の上、早く帰ってくるという言葉も反故になり、遅くに帰ってきた。夕食後、別荘に行く。
1日(木) 今日はメーデーの日。夫の会社は休みのはずだが、中間管理職の夫は出社。勿論、子供達は学校へ。だから、いつもと変わりなく1日が始まる。ゴールデンウィークはなんだかあるような感じがしない。午前中は、HPをアップしたりした。今日からお手伝いさんが来てくれてありがたい。でも、いつものように散らかしっぱなしで恥ずかしい事この上なし。

午後、バザーのチラシを撒きに行った。途中でバザー用品の寄付をもらったりして話し込んだりしていて、私はあまりチラシを撒けなかった。つつじ野、グリーンハイツに行ったが、グリーハイツでも元住民(私)は友達に会って懐かしく話し込んだ。こうやって、自分の足で歩いて地元に根を張る必要を感じる。最近はスタッフ任せですべてがスムーズに行っているが、なんだか初心を忘れているような気がしてならない。

バザー用品が集まらない。引き出物がなくなってしまったから、箱ものといわれるものの出品がほとんどなくなった。バザーは政治を市民のお金で、市民から私の政治活動のスポンサーになってもらってしたいという思いで始めたものだが、これに少し限界も感じ始めている。10年続けてきたが、理念は正しいのだろうけれど、市民にそれを理解してもらえているとは思えなくなった。一枚のシャツの寄付ですらありがたく思う気持ちは変わらないのだが、バザーの買い物に来る人はそんな理念なんかお構いなし。安いのが買えればいいだけって感じになってしまっている。なんだか、悲しい。政治に関心を持ってほしいって言うのも、バザーの理念の一つではあるけれど、久美子の支援者が何かをしているっていうだけで、ちっとも広がらない。

少しバテテしまっているのだろう。継続は力なりって言うが、市民派の政治活動を広めたいと思ったが、力不足をつくづく感じるこのごろだ。バザーは今回で終わりにしようと思い始めている。個人経営(!)の高橋ブラクソン久美子でいいのかもしれない。内向きになるのは良くないかもしれないが、少し力を蓄える必要を感じている。

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