私の独り言 2004年 

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心のままに思っていることを書いていこう。嬉しいことに喜び、悲しい事に嘆き、怒る事も忘れまい。一生懸命生きようと思う。

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kumiko@takahashi.comです。たくさんのメール待っています
7月 私の独り事
31日(木) 今日は朝5時半には隣の犬がくんくん言うのでそれ以降眠られなくなってしまった。あ〜〜あ。昨晩は眠られなかったので、睡眠時間はほとんどなかった。体がうまく動かない中、息子の弁当作りに励み、山から持ってきた汚れ物の洗濯はある空、洗濯を10キロの洗濯機を使って2回も回し・・・家事がこんなに溜まってしまって、朝から午後まで掛かってしまった。

勿論メールも25も届いていて、困ったものである。返事を書いたり、役所にデンw名をしたりしていたが、はっと気がついたら5時ごろ。息子達が何時に帰ってくるか分からないので、まずは久しぶりにサピオでトレーニングに行く事にした。汗を出すのは本当に気持ちがいいな。尾崎をワークマンに入れてロックを聴きながら快調にトレーニングにはげみましたよ。

帰りに買い物をして、s路レ空値上がりするというガソリンを振るタンクにして帰ってきたら結局8時半過ぎだった。それから夕食だったが、遅すぎですね。どうしたわけか、また体重が下がってしまったので、今回はお饅頭を2個も食べて体重を回復させた。食べながら糖尿病にはよくないなあと思いながらいた。
30(水) 今日は、朝からゆっくりした。なぜならば、仕事は持ってきていないから、昨日買った本を読んで過ごした。それから、2階に上がり、今まで整理していなかったくだらない本を、ブックオフで売り払うために少し箱に入れた。実際くだらない本をよく買ったものである。売ったら1260円だそうだ。きっと買った値段は其の10倍以上だっただろうにと思う。

夕方にいつもの穂の香の湯に出かけた。汗を流し、温泉につかりながら、日の高い内に入る温泉は贅沢だなあなんて一人ごちていた。夜7時過ぎに佐久を出たら、10時前には狭山まで戻ってきてしまった。息子は戻るならば電話してよ心構えがあるのだから何て言う。どんな心積もりがあるというのだろう。少しは掃除をしておくという事だったのだろうか。まあ、思っていたよりも家は散らかっていなかったので、よかったと思うけどもう複雑な心境です。メールのチェックをしたりしていたら、疲れきっていたけれど眠られなくて、2時半になってしまった。寝る。
29日(火) 今日は午前中に、母を連れて買い物へ。父ではどうも買い物がスムーズに行かないらしく、私が母の指名を受けて買い物に一緒に行った。母はまあ自分の思うようなものを買えたらしく、よかった。私は娘にリクルートスカートを買ってやった。もっと安いのを買いたかったけれど、仕方がないか。ともかく、今買わないと4日までの間に買い物をする暇がないかもしれないと思って買ってしまった。というのも、午後から娘は松原湖のバイブルキャンプに行く事になっていて、帰りが2日。3日は七夕祭りだし、彼女も忙しいのである。

午後は急いで昼食をいただいた後、急いで松原湖へ出発。4時には、松原湖に着いた。教会の友達の娘さんがこのキャンプの主事さんの妻になっていて、本当に驚いた。娘も毎年来ているキャンプなので問題はないと思うが、万一発作が起きた場合などの事もあるので、カウンセラーさんによくよく頼んで帰ってきた。

別荘に泊まろうとしたら、鍵を持ってきていないのに気づき、友達に預けてあった鍵を持ってきてもらった。別荘はしばらく行っていないので、草ぼうぼうだった。スーパーから買ってきた鳥釜飯で夕食。あんまり静かで、屋根がぎしぎし言うのがなんだか怖くて仕方がない。明かりをあっちこっちにつけたまま、本を読んでいたがなんだか闇が深くて誰かがそばにいるような気配に思えて、明日帰る事にする。本当は仕事を別荘でしようと思っていたが、参考書類を持っていないしで、出来ない。
28日(月) 今日は、午前中、新潟で有名な大和(デパート)にでかけた。なんだか品揃えが野暮ったく見えた。昨日、三越に行ったせいもある。こちらは、中高年を意識したデパートなのかもしれないが、なんだか寂しかった。きっと、古街の衰退を考えれば、デパートもここらへんからの撤退もありうる。新潟の繁華街に閑古鳥が鳴いていた。

楽しい時はあっという間で、3時には出るといっていたのだけれど、4時になってやっと腰を上げて、直江津の父母の元へ。車で高速に入ろうとして、車レーンを間違い、一般道へ。仕方がないなあ、と走った。のんびり田んぼの道を走るのも良いかなとも思ったが、時間が掛かるからさてどうしようと思ったら、ようやく標識が出てきて関越に乗ることが出来た。3時間掛かるかなあと思ったが、なんと1時間半で直江津へ。

今晩もおいしい刺身をいただいた。直江津はお祭りの最中だから、町中が浮き足立っていた。一年に一度、大人も子どもも、年よりも若いものも楽しめばいいさと思う。でも、弟の飲み方はいただけない。高橋はどっちかというと酒がのめないし、よい酒でない。やめればいいのにね。人の事はいえないか。私はほとんど外でお酒を飲まないようにしているけれど・・・・・・
27日(日) 今日は珍しく遅くまで寝ていた。それは、昨晩睡眠時間が3,4時間だったことや、長旅で疲れたこと、新潟が涼しい事、隣の犬が鳴かないことなどたくさんの理由があった。気持ちよく寝られて、今日は仕事もせずにゆっくりしようと思うので、気分はのんびり。朝風呂に入れてもらい、朝ごはんをお昼ごろいただき、85歳のおばに世話を焼いてもらえる幸せに浸った。

ご飯を食べた後に、丸大と三越のデパートめぐりに出かけた。丸大はジャスコになったので、品物はそこそこのものが、そこそこの値段で売っていた。夏用のズボンを買った。三越は、何か素敵なものがあったら買いたかったけれど、値段が折り合わずに何も変えなかった。私のほしいと思ったポロシャツは半額セールで2万円以上。とっても手が出ない。いつか好きなものを値段も考えずに買えるときが来るのだろうかと思う。

夕食は弟がきて、おいしい刺身を一緒した。話す事は子供達の将来の事。弟の子どもも高3で進路が大変である。うちの大4と高3の進路も決まっていない。自分のあのころを思えば、進路を決める事がとても難しいのは理解できる。困ったな。
26日(土) 今日は、朝、家事に励み、支払いに行き、お金を引き出した。今日から新潟に行くので、多少冷蔵庫に食べ物を詰め込んで、残りの男達が夕食が食べられるようにした。とにかく、夫に息子の制服を買いに行くように話しをしたのち、昼食を食べて、娘と一緒に新潟へ出発。

途中、眠くなって上里により、赤城高原、谷川岳によって新潟まで一心不乱に走った。土曜日の2時過ぎに出たせいで、車の数が少なくて、とても気持ちよく走られた。特に、新潟県に入ったとたんに車の数が特に少なくなった。高速道路の両脇は田んぼが広がっていて、遠くの山も美しく、新潟県は良いなあと思う。

7時ごろ新潟について、おばさんのご馳走を頂いて寝る。2日間が忙しかったので、ビールをコップに1敗飲んだら、眠くて仕方がなくなった。それに新潟は涼しくて、気持ちがよい。
25日(金) 今日は、朝からまたまた忙しかった。10時半から全員協議会。その後、建設委員会協議会。昼食後、裁判員制度の勉強会。急いで帰ってきて、ご飯の準備をしたのち、飯能の魚民へ。アメリカンフットボールの父母会の懇親会。飲んだ後(私は今回は運転手なのでウーロン茶)シダックスでカラオケ。先生を送って帰ってきたら朝2時半だった。今日も疲れ果てた。
24日(木) 今日は、忙しい日だった。まず、萩山の神経精神センターへ娘と一緒に出かけた。いつもどおり3ヶ月の薬をもらって帰ってきた。急いで帰ってきたが、12時過ぎ、ご飯を食べて着替えてから、学校へ。学校ではハローワークの役人、学校の先生、私と娘の4者会議。就職戦線が始まる。大分ネガティブな話しをされて、少し落ち込んだ。娘にリクルートスーツを買ってやらなければならない。

帰ってから、急いで着替えて、ご飯の支度をして、今度は文京区役所へ出かけた。6時半からフェミニスト議員連盟の世話人会。夜9時過ぎまで。その後、ご飯を食べて、10時半過ぎに帰ってきたが、家についたら12時前だった。疲れ果てて寝た。
23日(水) 今日は、あさから掃除に励んだ。いつも片付けないところを少し頑張って片付けた。午後から、家庭訪問があったからである。こんな事でもないと、最近は片付けない。多少の緊張はいいことかも。

午後は、3時からある人たちにパステルであった。話しの内容はオフレコ。書けません。5時ごろ、お話しを終え、私はトレーニングへ。この時間が一番人が少ない感じだ。6時過ぎには、誰もいなくなった。夕ご飯時だからだろう。私は、7時前にサピオを出て、帰宅。帰ったらご飯がなかったので、冷麦と冷奴と餃子とサラダという夏の定番で夕食を終えた。

夜は、フェミ議の仕事を少しづつして、夜中まで本を読んでいたら、夫が地震だという。テレビを見たら、かなり大きな地震がまた東北地方にあったようだ。このごろとても暑いし、地球は温暖化しているのを実感している。今まではそんなに危機感がなかったけれど、私の孫の時代はどうなるだろうと心配だ。まだ、孫もいないのにそんな心配をする必要はない?!ですって。でも、いつか孫が出来るかもしれないから、今から心配しています。偉いでしょ。(まあ、えらくない!ですって・・・)私みたいな能天気ですら、心配するような気候なんだもの。

少なくとも、熱中症にならないように、冷蔵庫には冷たい水と氷を確保してあります。
22日(火) 今日は、朝からHPを更新していた。午後には疲れてしまった。それでも3時過ぎには役所へ。車を運転してはっとした。ガソリンが底を付いていた。ガススタンドまで持つかとはらはらして行った。とにかく、下水の話しを聞き、道路の事で高齢者が車椅子が動かせられない道路に歩道のようなものをつけてもらうことが出来、なんか嬉しくなって帰ってきた。とちゅう、相談室がどうなっているのかをのぞいたり、商工課に立ち寄ったりしながら帰ってきた。

夜は、仕事もあったのだが、疲れすぎて寝た。隣の犬が夜中も朝も変な声で鳴くので寝不足なのだ。静かにさせられないものなのか。
21日(月) 今日は、朝から車で横浜に行った。昨晩、直江津の父から電話がかかり、横浜のおばさんが脳梗塞で入院しているということで、父は見舞いにいけないから、私達に行ってほしいという事だった。ジムさんも行く事を快く承知してくれたので、娘も連れて出かけた。お見舞いは勿論包んだけれど、子どものいない人なので、何か食べ物を買っていこうと思ったけれど、どんな状況なのか分からないから、買い物が難しい。噛めるのか、塩辛いものは血圧にさわるかもしれないなどと、いろいろ考えた挙句、また、狭山PAによって、お茶ロールケーキを買って持っていった。これは口に入れておけば溶けるだろうし、塩も入っていないから血圧にも響かないだろう。

お昼過ぎに病院に着いたのだが、1時までは入れてくれないので、近くで食事をして、またスーパーによって、プリンだ、ヨーグルトだ、ジョアだ、と買いこんで病室へ。思ったよりは元気だった。でも、84歳だもの、力がなくなってしまっていた。会ったら、涙を流して喜んでくれた。ジムさんとはハグをしていた。娘が大きくなって驚いていた。ジャステンもジェレマイアも連れて行きたかったが、息子達はそれぞれに忙しくて行くのは無理だった。

91歳のおじさんが途中やってきたが、耳が遠くて認知症も入っているようだった。私のことを忘れていた。おばさんは退院したらどうするのだろう。今は要支援1だというが、介助がなければ生きていけまい。ご飯を作るにしても、買い物も出来ないだろうに。84歳と91歳のカップルの自立は不可能だろう。ショートステーかケアハウスかに入れればよいのにと思うけれど、グループホームに行けば、一人15万円は掛かるから、2人で30万円は払いきれないと思う。今後、どうするのだろう。従姉がきて、ケアマネージャーと話しをするといっていたが、さてどうするのか。養子の息子は、脳出血で入院している。嫁さんは其の看病のため仕事を止めている。経済状態がどうなっていくのかと本当に心配なのである。

帰りは、中華街にでて、1時間買い物をして帰ってきた。もっと、長くいれば入れたのだろうけれど、駐車料金が高いので、さっさと帰ってきた。中華街は楽しい町だけれど、夫はなんだかブスッとしていた。買うものがないのだから、つまらないよね。中国人の友達のためにピータンを買って帰ってきた。私は好きでないけれど、中国人は大好きだ。きっとたくあんのように、臭いとしか思えないのを私達日本人が好きなのと、同じ感じかなあと思った。

高速を東京経由でとばしたら、2時間で、狭山に帰ってきてしまった。行きに圏央道経由16号で横浜に行ったが、休みのせいで東京が混雑していなかったから、かえって早くに戻れた。
20日(日) 朝は、女性の議会進出状況を市川房枝記念会の事務局長久保さんから講義があった。そのご、自殺防止条例を制定した平塚市の女性議員から報告。お話しがうまくて聞き入ってしまった。30代前半のジャーナリスト上がりの一人会派の女性。話しを聞きながら、前に狭山市議会でも自殺を取り上げた議員がいたなって思ったけれど、彼には条例を作り上げるなんて出来ないのだろうなと思った。もちろん、この議案は議員提出議案だった。

羨ましいなと思った事は、議会の法務担当がいて、其の方は再雇用の方らしいが、法務担当を長くなさっていて、条例を作ったり条文の整理をするのに慣れている方という事だった。狭山市では誰がそういう人か、私には顔が見えない。また、事務局長のバックアップが素晴らしかったようだ。うちの事務局長も私が彼女と同じような条例を議員提出議案として出そうとする時には(今その気にはなってはいませんが)、平塚の事務局長のような強い味方になってくれるのだろうか。どうだろう。

其の上、議長も見識があり、頑張れというだけでなく、条例が出来た後、県内議長会で取り上げたそうである。今回の講演者は私の友達が市議会議長をしており、その議長会でこういう議員提出議案が出来たという事を聞き、実行委員会でそれを取り上げる事にしたのだ。事務局に条例を作り上げる補佐をする職員がいて、議長、事務局長は全面的にバックアップし、それぞれの会派が条例案を練り上げ、条例化できた。勿論、彼女の強い意志がそれを可能にしたわけだけれど。議員提出議案はいつも議会の内部のためのものになりがちだったり、意見書や決議は議会としての意思の表明に終わっていた。執行部に予算をつけて事業をするようにという条例の意味は大きく、それはそれは考えなくてはならないと思った。

午後は、私の司会の財政が厳しい中にあっての行政サービスという講義を小阪にしていただいた。最後は、お叱りが多くなり、「議会」が議会とカッコがなくなるように努力すべきという事だった。メモを見ないとよく覚えていないが、議会がきちんとチェックしないから、「事業のたな卸し」なんてことを外注するようになるんだというのを覚えている。

あとは、一人づつ決意表明をした。4時前に研修をおえた。たくさん知識が詰め込まれて、今は消化不良の感じ。

帰りは、狭山PAを視察のためにいつもは降りる狭山をとおりこして入間で降りた。狭山PAは小さいけれどお上品な感じで好感。お土産に、夕食用にカレーとカツどんを買って帰ってきた。昨晩は、友達と話を朝の2時半までしたので、さすがに力尽きた。夕食に、お土産を出したら、喜ばれた。
19日(土) 今日は、朝荷物を作って、嵐山の国立女性会館へ。市川房枝記念会の夏季研修。研修生30人。ボランティアそのほかで47人という事だった。見慣れた顔に合えてよかった。本当に、夏季研修を企画してよかったと思った。

午後は東大の神野先生の講義。目からうろこ。例えば、国債は元金償還をしなくてもよいのだそうです。へ〜〜〜〜。地方が発行する債券とは違うのだそうです。利息は永遠に払う事になるそうですが。どうしてですかと聞いたら、「そういうもんです。利息を払っていればいいのです。」ということ。それに、利息を払う相手が日銀では、払ったものが国庫に入ってくることになるので、国債とは国のために日銀が輪転機を回してお金を刷ることの意味らしい。は〜〜〜〜。永遠に利息がはいってくる(理論上は60年間)国債を持ちたいのかどうか、自分でも頭に????が付いて、よく理解できなかった。だから、国の借金なんか、外債でなく、内債の場合全然心配ないのだそうだ。財務省での主税局と理財局の矛盾した発言、金がないという事と、日本は健全財政であるという事の矛盾はそこらへんにあるらしい。

ところで、目からうろこの2つ目は大阪府の橋本知事についてであった。神野先生によると、破綻もしていないのに、破綻していると言いふらしている橋本知事はおかしいという事になる。私も聞いていて、神野先生のいう事に納得した。借金をしているほうが、借金取りの論理で、県民からサービスを取り上げるのはいかがか。破綻防止のために、破綻した時以上の負担をしてどうするのかということだ。文化費用を削って、何のための行政か。文化費用を賄うために借金をしたのだから、借金の利払いをしていられるんであれば、文化を継続させればよくて、それをやめたら、借金の意味がなくなる。うまくかけないけれど、借金がいけないのではなく、借金を返す事ばかりを考えていては、行政そのものの理由すら見えなくなっていく。大阪府なんかに住みたくないものね。サービスが悪すぎるもの。借金をなくしたからと言って、よい政治家とはいえないんだぜ、サービスが悪かったらね、という事。

夕食まで神野先生を囲みお話しをした。あまり講義に引き込まれたので、メモすら最後は取らなかった。あ〜〜あ。

夜、8時からは2部にわかれて勉強会をした。私はジェンダーバッシングについてに出た。なぜ、あんなにヒステリックなバッシングをしているかというのが、私には理解できないのだ。だって、女性がはたらく社会は当たり前だし、家族を養うのが男性だけでは今どき無理なのに、なぜ専業主婦になる事を強いるのだろう。だれだって、夫を奴隷のごとく働かして、自分はのうのうとしているならば、そんなに楽しい事はない。60過ぎの女性で、夫の収入がよい人は今でも専業主婦だ。

どんな事が女らしいのか、私にはそれもよく理解できないのだ。女性は女性らしくといっても、バリバリ働いている私は十分女らしいと思うけれど、男と対等である事は女性らしくないのか?!私は母だし、女性だし、妻である。夫は、父であり、男性であり、私の夫である。女らしさってなんだろう。分からないなあ。バッシングしてどんな日本を作り出したいのかが、よく分からない。昔に戻れないのに、戻りたいといっても、産業構造はITとサービスが主流で、女性の力なくてどうするの?

別姓は家族を破壊するというが、家の場合、破壊されていない。別姓でない人が、離婚している。これも、変だ。DV防止法が家族を破壊するというが、暴力で破壊された家族だからこそ、暴力の防止がいるのだ。これも、変。なんだか、バッシングってどうも何を言いたいのか理解できない。それに血道をあげている人たちがいることの意味が不明なんだなあ。
18日(金) 今日は、朝は起き上がれなかった。夜中3時半ごろ狭山病院に行き、点滴を打ってもらった。7時近くに家に戻った。ふらふらだった。脱水症状が出ていた。それで、朝にあった狭山パーキングエリア(PA)のオープニングセレモニーには出かけられなかった。実は午後には、聖望学園音楽部の練習を聞きに行こうと思っていたが、それもパス。とにかく、明日に向けて静養。
17日(木) 今日は、また視察。今日は「あずみ苑入間川」と「見晴らしの家」それぞれに特色がある。待機者がいるはずなのに、なかなか満床出なかったりする。これは、なぜだろう。やはり施設へという事のバリアがあるのだろう。施設へ家族をやる方も行く方も大変である。

デイサービス。特に認知症のある方のデイサービスに人が集まらない。9時4時という時間が中途半端なのだという事らしい。洋服を着せて、出すには手も係り、時間も掛かる。それならば、家に入れば良いのにという事になってしまうようだ。デイサービスに行ったところで、時間が中途半端なので、パートにも出かけられないという事らしい。時間外の預かりのような事が必要とされるのだろう。

娘にネットニュースの配りを頼んだ。自分は、視察後、お手紙配り。ある方の所で、お父さんがもう特別養護老人ホームに入ってしまったという話をきいた。今まで、夫の影に隠れていた方だったのに、なんだか生き生きしていらっしゃった。ふ〜〜〜ん。娘さんの障害が大変だという話しを聞いたが、今までどこへも生かせなかったという事。今は週に1回デイサービスへ行っているという事だったけれど、其の娘さんが嫌がるとか。でも、80過ぎたお母さんにはおしもの世話を365日しているのは大変だと思う。娘は親が良いんだろうけれど、お母さんは一生死ぬまで面倒を見てあげるだろうけれど、其の後どうするのかという事だ。話しを聞きながら、明日はわが身だと思っている。

夜中、吐く、下痢をくだすで3時間苦しみ、仕方なく夫に狭山病院に連れて行ってもらった。点滴で吐き気止めを入れてもらい、何とか吐き気は止まった。七転八倒の苦しみだった。久しぶりに刺激の強い韓国料理を食べたのが、引き金かな。とどめは、夕食のキムチが身体に負担が掛かりすぎたのかもしれない。何しろ胆嚢手術をしたぐらい、胆石が出来やすいので、肝臓に負担の掛からない食べ物をとっているべきだったのだ。
16日(水) 今日は、あさから視察。グループホームの視察を中心に行う。始めは「愛の家」。昨年7月から始まった。普通の家のはずなんだけれど、だんだん小規模施設って感じになっている。新しい施設だからきれいだけれど。ただ、この施設を経営している会社は多くの施設を経営しているので、とてもノウハウがあるし、利用者や家族には分かりやすいパンフレットを作っていた。それに、玄関に不服申し立てのポスターがはってあって、嫌な事があったら文句を言っても良いんだなあと感動をした。こんなポスターを玄関に貼るという事はほとんどどの施設でもないからである。

午後は、「あったかホーム」へ経営者が変わったようで、まだどことなくギクシャクしていた。施設はとてもよい所にある。静かだし。利用者さんたちはのんびり生活していた。時々、わくわくするような事を取り入れると良いのにと思った。

今どこに行っても、お風呂が個別になってしまっていた。確かに入りやすいけれど、大きなお風呂に入りたいという人もいるだろうに。それが楽しみという人もいるだろうに。日本はどうしてすぐ一方から他方へと流行で施設を作るのだろう。

夜はサピオへ。昨日サピオへ行かなかったら、体がなまっているという感じだった。人汗かいて、すっきりした。
15日(火) 今日は、あさ家で仕事をしていたら、ある方のメールを読み、お会いする事にした。パステルで。いろいろな話を聞いたが、自分で調査も必要かもしれないと思った。施設に関して言えば、開かれていないというのが、実感である。これ以上詳しくいえない。

その後、お手紙配りに出かけた。雨が降り始めたので、帰ってきたら、娘が洗濯物を取り込んでいてくれた。よかった。
14日(月) 今日は、朝から養護学校のPTA理事会が開催された。地区委員会でお願いしていた「たかはしべんコンサート」について、地区委員会の予算が足りないので審議してもらった。他の地区委員さんも会議に出席なさって、理事会でお願いしたところ、コンサートに必要なお金が捻出されそうでよかった。

午後、其のコンサートの話し合いと、サマーカーニバルの話し合いをして戻ってきたら、1時を過ぎていた。食事をしてから、息子とスーツを買いにカルフールへ。この前、割引券をもらったので、それを使いやすいスーツを買った。あれこれ、見て回ったが、結局カルフールの安いスーツに決めた。夏のスーツがなかったので、このリクルートスーツがあればこの夏は越えられる。安いスーツだ。息子には、自分で稼ぐようになったら、高いよいスーツを買いなさいと言った。夫にはこんな安いスーツを買ったことがない。それに、家の夫は日本人の体型に合わないから、ほとんどあちこち縫い直してもらわなければならない。とにかく、お兄ちゃんの就活支援はこのぐらいかな。

其の後、役所に行き、娘のための申請手続きをした。

夜は、ご飯を食べた後、サピオへ。汗をかくのが楽しい。
13日(日) 今日はお休みの日。仕事をしない日に。した。朝は、息子に弁当を作ってやった。朝から揚げ物は嫌だけれど、暑いとどうしても揚げ物でなければ怖くて持たせられない。それと、巨大おにぎり。

礼拝後、パステルで食事。娘とプールへと思ったが、プールは込んでいては入れなかったので、私だけトレーニングへ。帰ってきて、家事に励み(洗濯物がたくさんあった)、夕ご飯を作り、その後は篤姫を見てからは、コンピューターで仕事。仕事をしない日のつもりだったのに、結局は夜中まで仕事してしまった。
12日(土) 今日は、朝ばたばたしていたが、10時過ぎに航空公園にある所沢球場へ野球の観戦に出かけた。聖望高校が負けた。3時間以上も掛かった熱戦だった。大井高校にとっては。聖望にしてみれば、あっけなく8点を逆転され、さよならゲーム。途中から勝つ気がしないゲームだった。何かが足りなかった。皆分かっていた。それは、本気で勝つ気がなかったゲームだった。春の甲子園の準決勝で、このチームはモーチベーションを失っていた。後の試合は試合でなかった。燃え尽きてしまったチームだった。何でこうなってしまったんだろう。如何して闘争心を失ってしまったんだろう。何が、歯車を狂わしてしまったんだろう。どうして監督はチームの闘争心を蘇らせる事ができなかったんだろう。

監督はチームを春以降、壊す事が出来なかった。また、同じメンバーを強くする事が出来なかった。大塚は泣いていたが、他のメンバーは泣くに泣けない辛いゲームだった。悔しい、辛いというのを通り越していたかのように見えた。燃え尽きていた。あんな炎天下のゲームだったのに、生徒(選手)は青白い顔をしていた。虚脱状態というのではない感じがした。ニコニコする余裕すらない試合。掛け合う声すら聞こえなかった。1試合勝てば、何とかなったかもしれないが、じりじりと押されて踏ん張る事のできないチーム。監督も含め、きっとすごい落ち込みだろうと想像する。昨年の1回戦負けとは、大違いの負け方なのである。

甲子園に行って勝つことの難しさを知った。そして、今回負けることの簡単な事を知った。闘争心がないのに、勝負をしては負ける。本気に勝つ気がなければ試合をしてはいけない。死に物狂いで勝負する。闘争心のなくなるのはどうしてだろう。満足するためか。それとも自分に負けて、前を向けなくなるのか。どうしたら自分に鞭を当て、闘争心を鼓舞できるのか。大きな壁にもう一度挑戦する勇気をどうしたら持ち続けられるのか。

これは聖望だけの問題ではなく、私の問題でもある。誠実に議会に取り組んでいても、何かが違うと思い始めたとき、私は1からスタートしなおす事にした。まだ、私にはそれをする勇気が残っていた。この気持ちがなくなったときから、マンネリが始まり、私は堕落していく。そう思った。改革をする、向かい合う、困難に立ち向かう、この思いがなくなった時、私の政治生命は終わるのだろう。市の福祉を角から角まで視察して回っている。まだ、見えていないのではないかと他市をみたり、勉強も続けている。自分で議会レポートを額に汗して配るべきじゃないかと、来週からまた始めるつもりだ。辞めるその日まで、手を抜かない。この気力がなくなったとき、辞める。聖望学園の高校野球は私のたくさん教えてくれる。その意味で、岡本監督には、心から感謝申し上げたい。

午後、少し遅れたが女性のための政治スクールのために麹町まで出かけた。環境問題の勉強会であった。環境省の審議官に里山での財務省の競売について、文句を言ってきた。「狭山市ですね」というから、法で網掛けした所や其の周辺の財務省の土地を民間に売ってしまわないほしいと要望したのだ。計画的に買収しているが、突発的に財務省から「買いませんか」と言って、右から左へ2,3億円が出てくるわけでない。そうでしょ。環境省が網掛けしたのだから、環境省が財務省と掛け合うべきです。こんな事は、議員が勉強会でこそ言えるのであって、首長が環境省の審議官を呼びつけて言えることではないでしょう。東京の勉強会に行ってよい事は、国の役人と話しをする機会を得る事である。

夜は、8時から、尾崎が出るというのでBSを見ていた。尾崎のは結局最後に放送された。文句がある。尾崎のよさを10代の代弁者とだけしか評価するのはいかがなものか。彼のよさは、人間の苦悩を歌った其の点にあり、愛へのあふれんばかりの渇望が私達の共感を得ているのではないかと思う。NHKは表層的な尾崎しか見ていない。
11日(金) 今日は原稿を完成させた。そして、印刷。またまた、途中で浦和駅と書くべき所をさいたま駅と書いた失敗を見つけた。今回も失敗は続く。嫌になる。人に校正を頼まなかったせいである。こんな時に、スタッフがいればよいのにと思ってしまう。残念。読んでも読んでも間違いに気づかない。如何して、印刷すると間違いに気づくのだろう。

午後、娘がかえってきて、封筒詰めを手伝ってもらい、5時過ぎたけれど郵便局に運んだ。半分は自分で配ろうと思う。月曜から。何でも自分でしていると本当に大変。でも、汗をかく事が大切なのだろうと思う。娘と作業をしながら、娘も就職したら、きちんと仕事が出来なければならないのだからと、半分は彼女と実習をしている気分である。

夜は、サピオへは行かなかった。体がだるいし。のんびり。
10日(木) 今日は朝からまた原稿書き。でも、終わらない。電話を掛けたり、掛かってきたりという事で、1件30分なんていうのもあるから。で、原稿はもう少しで終わる。直しが大変で、校正をどうしようかなどと思ったり、している。フェミニスト議員連盟の編集委員をしているでの、そちらの校正もあり、この日のうちに他の委員さんの所にファイルを添付して校正を頼んだ。これも終わっていない。

コンピューターの前からちっとも動けない。でも、2時半過ぎに養護学校へ。地区委員会のコンサートを考えているのだが、ちょっとお金が掛かるので、PTAの理事会で特別会計からの支出をお願いしなければならないという事もあり、教師も含めてミーティング。

帰りに役所により、娘の事で書類を作り、コーヒーを飲んで帰ってきた。パステルの事も課長と話しをしたが、みのりに移譲するにはタイミングが悪すぎるということだった。私もよく理解できる。臨時総会でなぜこの時に移譲しなければならにのかと執行部に詰め寄ったのに、強行採決したのだ。少し、私の話を聞けばよいのにと思ったが、まあ違う考えがまかり通ったのだから、民主主義のルールとして私には何も言う事がないとしか言えなくなった。でも、でもなのである。

夜サピオへ。ジムが一杯で、水泳をした。足が攣って仕方がなくて、歩いたが、1時間も歩くと今度は足首が痛んだ。運動をしているんだけれど、ジムの運動と水泳では使う筋肉が違うのかもしれない。水泳を終えると体がだるかった。ジムの汗をかいた後の爽快感の方がすきだな。
9日(水) 今日も頑張って原稿を書いた。でも、遅々として進まない。でも、一応2、3ページは終えた。後4ページ目。視察の記録を書いているが、たくさん視察をし、いろいろ勉強したなあと思う。書き始めると書くことがあるのだが、あまり差し支えのあることは書けない。でも、良いところだけ書くのも本質を見ていないことになるので、さじ加減が難しいという事なのである。

夕方近くなって書いていてあきてしまい、早めに今日はすき焼きもどきを作り、ご飯にしようとしたら、子供達は寝ていて仕方ないので、六時半過ぎに一人サピオへ。2時間近くトレーニングに励み、其の足で、カルフールへ。またまた、1万3千円。今回はお米も買ったから仕方がないか。10キロ2480円のご飯を食べているのだが、水を多くしようが、浸している時間を多くしようが、まずい。わかめご飯も飽きたし、鮭飯ももう嫌だし、マーガリンライスももういいし、今回は奮発して秋田こまち(3400円)を買った。考えてみれば、パンに500円も使うのよりも安いわけで、毎日食べるご飯ぐらい、おいしいなあと思って食べたくなった。私なんか、一日1杯しか食べないのに、あのまずいご飯じゃ、何のために働いているのさという事である。

2時間近くカルフールにいたので、ついでにブックオフにより、尾崎のCDでめぼしいものが出ているかと探したが、ない。ほとんど買ってしまっていて、私がほしいのはかなりマニヤックなものなので、そうそうあるものでない。でも、チェックは欠かしません。尾崎のシングルはほとんど持っていませんので、あげますよという人はください。
8日(火) カウンターが動きませんねえ。どうしたのでしょうか。いくつまで行っているのかと思っています。誰も見えていないでしょうね。

今日は、朝から原稿書き。終わらない。直しては書き、直しては書き。で、4時過ぎに夕食の肉じゃがを作り、5時にサピオにトレーニングに出かけた。この2日間、ジムに行っていないので体がなまったというか、腰痛が出ている。コルセットをつけているが、立ち上がる時には痛い。コンピューターの前で格闘をしているせいだろうか。書けない時は、他の事をすればいいのだろうけれど、どこかに行く勇気もなく、性懲りとなくコンピューターの前にいて、ウェブを除いてみたりしながら、自分をだましだまし書く気になったり、文章が浮かんでくるのを待っている。どうも一人で仕事をすることになってからは締め切りもあいまいだから、気合の入り方が違うのかもしれない。質は落とさないつもりでいるが、どうだろう。

7時からふれあい市民懇談会があるというので、サピオからシャワーもせずに帰ってきて大急ぎで着替えをして、水富公民館へ。大勢の職員幹部と一般職員(こちらは一般席にいた)と自治会長さんや民生委員さんたち。それと、市議会議員は私だけ。目立たないように後ろに座った。行政の事はよく知っているつもりでも、こんな会に出ると時々新鮮な驚きがある。難しいなあと思うこともある。詳しくは言えないが・・・
7日(月) 今日は、朝から原稿を書き始めた。とはいえ、途中で今日はお手伝いさんが来ない日だと気がつき、洗濯やら食器洗いやらをした。午後も、頑張って書いていたけれど、遅々として進まず。

3時過ぎ5時からの市川房枝記念会の夏季研修実行委員会へ出席のため家を出た。後2週間で夏季研修であり、参加者も40人となった。7時半ごろまで会議をしてその後散会。私はいつものように南口の紀伊国屋書店によって帰ってきた。夕食をどこかでしようと思ったけれど、一人で入れる店も分からず、急いで帰ってきた。帰ってきておなかがすきすぎていて、子供達が作ったご飯をかき込んだ。身体に良くないなあ。
6日(日) 今日は朝お兄ちゃんの採用試験の弁当作り。昨晩作ったハンバーグに火を通したり、のり弁当を作ったりした。この4年間近く、教員になるためにお兄ちゃんは頑張ってきた。私から見ても、初志徹貫。少なくとも努力した事は間違いない。挫けなかったところは、親として評価している。親の方がくじけそうになった。例えば、就職試験を受けてほしかったし・・・試験の結果はどうなるか分からないけれど、彼のガッツはどの世界でも通じる事だろうと思っている。決めた事や夢に向かって最後まで挑戦する事は素晴らしい事ではないか。

教会に行って戻り、食事をして、あるメールの返信を待っていた。ほんとうは午後から河口湖まで行きたいと考えていた。しかし、返信が来ない。其の方の住所が分からないから、結局行けなかった。心から残念だ。

午後は、お兄ちゃんを迎えに行き、ユニクロで靴下などを買い、その後夫婦でお茶をしに出かけた。柏原のレマン。ケーキにもう一工夫あれば良いのにと思った。デコレーションのセンスかな。味は悪くない。毎週、夫婦でデートをしている。来週はどこに行こうかなんて言っている。日帰り温泉でも良いかな。今だってお金がない時期だけれど、あと10年たってお金に余裕が出来たとしても、2人で遊べるかどうかなんて分からない。同じものを見たり、聞いたりして感動をともにしたい。結婚前だって、コンサートに行ったり、ミュージカルを見たり、映画に行ったり、楽しく過ごした。ようやく、子どもも大きくなってお金こそ足りない時代だけれど、夫婦で心を通わせる時間があったもよいと思う。

サピオは行かず、篤姫をみた。ちょっと、うるうるした。ジムと2人で「可愛いねえ」と宮崎葵を見ながら言っている。着物が素晴らしい。大奥では大人になっても中振り袖を着ていたのだろうかと思う。そう?
5日(土) 今日は暇のはず。本当は山の別荘に行きたかった。でも行かないので、仕事をした。原稿書き。何を書いているかというと、後援会ニュース。大抵、私の考えとか視察について書く。レポートと重複しない内容にしなければならないから、大変なのである。今回はB4で出す事にしているから、たくさん書かなければならない。沖縄ツアーはもう書き終えたから、何をどう書こうかと迷っている。

午後も引き続き、仕事。結局1ページ目を終え、後の割り振りを考えておしまい。疲れきって、横になった。

夕ご飯を早めに食べて、7時半過ぎにサピオへ。夫に「運動をしなさい」と言ってサピオに連れ出した。娘も一緒に。夫と娘はプールへ。私はジムへ。
4日(金) 今日は、朝から原稿書きを始めた。あっという間に11時半。新聞屋にレポートをもって行かなければならない日。この時間を逃すと大変。という事で、新聞屋さんまで車を飛ばした。久しぶりに私が届けたら、「スタッフの方は元気ですか」と聞かれた。初めて行ったところでは、「ご本人ですか」などと確認された。本当に、私は何様だったんだろうと思った。「自分で原稿を書いているんですか。」と聞かれることもあった。「当たり前でしょう。議会の事はスタッフにはわからないもの」というと、いぶかしげだった。私の議会レポートから手作り感が亡くなっていたのかなあと思った。始めと今とで何処も変えていなかったんだけれど。もうひとつは、字が小さすぎて見えないよという事。私も解っているけれど、書きたいことがたくさんあって、なかなか減らせないのだ。困った事ですね。

役所によって、資料を確認してから帰ってきた。県庁に電話をして、DV基本計画について話を聞いた。県の計画は出来たので、市町村に関しては今後頑張ってもらいますという事だった。狭山市もきちんとした計画を作らねばならない。下手したら、殺人になる可能性のある怖いDV。狭山市にだって今まで何件もあったことだから。

夕方、早めにご飯を食べてサピオへ。汗を流すのは気持ちがいい。
3日(木) 今日は、朝からお金をまた下ろして、郵便局や銀行に支払いに行った。税金もあるし、駐車場代もあるし。如何してこんなに支払いがあり、ちょっとした支払いに時間をかけなければならないのだろうと思う。結局、お昼ごろまで掛かった。昼食を作っていると息子が試験のせいか早く帰ってきた。

午後は、ネットワークニュースの原稿を書こうと努力をした。本当は、先日の女性スクールの報告書も描かなければならないわけだけれど、それは後回し。1ページ目の題を考えていたら、昨年議会レポートに使った青年に夢をという感じのと同じようになり、考え込んだ。青年が夢をもてない時代になった事。派遣の問題。一番悲しいのは貧困の固定化。貧困が貧困を作り出す。外国人のお金が掛かるから学校に行かせないというのは、親がお金がないからということ。学歴がなかったら、小学校も出ていない人に仕事が見つかるか。中卒ですら、就職に困難があり、フリーターにしかなれない時代なのにだ。4人に1人はワーキングプアーで、そういう男性が増えている。

昔の保育所の親はかなり収入があった。自営業、看護婦、教員、公務員などの子どもが多かった。そのせいもあったのか、お兄ちゃんの時は保育所の遠足といえば、バスをチャーターして遊びに出かけた。今は、そんな余裕のある親が保育所に子どもを預けているのではない。2人でやっと家計が賄えるという家庭が増えている。両親がアルバイトであるという家庭もある。

平和な時代が続くと階層の固定化がすすんでいくのだろうか。学歴はまるでお金で買うようなものになった。教育はもう売り買いの時代だ。良い教育を望めば、私立へという風潮すらある。確かに、お兄ちゃん(公立高校)と下の息子(私立高校)の進学への取り組みの違いは顕著である。子どもの能力がよほど優れていなければ、低所得家庭からの脱却は非常に難しいだろう。そもそも、ワーキングプアーの男性の結婚願望はあったとしても、実際結婚する男性の少なさを見ると、低所得家庭の再生産すらなくなって、人口減少が加速するだけなのかもしれない。

口当たりの良い「青年に夢を」という題にするか、「貧困の固定化」などというネガティブな題にするか迷っている。それにしても、私のアンテナの高い事。前々から言って来たのにと思う反面、市議会議員レベルでは社会の構造にメスは入れられないなあという思いも大きい。だからと言って、国会議員になれるわけでもないし。市議会議員としては、公立学校などでの親の負担を少なくする努力を言うぐらいしかないのかな。それと、青少年の正規雇用への応援。

夕方、カルフールに買い物へ。今日は銀行のついでにあれこれ買ってきたので、そうそう買い物もないだろうと思ったけれど、結局は1万円をはるかに超える買い物となってしまった。サピオへは行かなかった。
2日(水) このごろ、カウンターが良く働いていない。77777を通り過ぎないと良いけど。大丈夫かな。

今日は、朝からレポートの印刷に掛かっていた。途中、事務所が熱くなってしまい、夕方娘が帰ってきてからまた印刷をした。途中で大きな間違いに気がついた。全く、しらゆりとひめゆりを間違ってしまうなんて・・・しらゆりの塔というのもあるのである。でも、行ったほうはひめゆりの塔。大間違いである。何べんも読み返しても、思い込んでいたので誤りが見えない。困ったものである。8000枚も印刷すみだったから、次号で訂正しよう。これを忘れないと良いが・・・・

1時過ぎから、スタッフが来た。2人は事務所を辞めた。私は理由を聞くこともせずに、辞める事を受け入れた。事務所は縮小して週に1回しかきてもらわない事にしていたし、忙しかったり、体調が悪くて会えないことも多かった。意思の疎通もなかなかとれなかった。

私の問題が大きかった。私はこのごろ壁にぶつかっているような閉塞感に囚われていた。何かを変えたかった。事務所はパーフェクトだった。私が一言言えばあっという間に実現していた。レポートは私の原稿が上がれば3日目には新聞社に配達されていた。会計も、催しも私が一言お願いすれば、自分の手を動かさずともあっという間に正確に出来ていた。これで何が問題といえるか。全然問題はない。彼女達が辞めるのは、決して状態が酷かったからでなく、私がこれでよいのかと迷いの道に入ってしまい、抜け出せなかったからだ。議員の始めのころのような手作り感が私の手から抜け落ちて、それが私を焦らせた。事務所に何があるかわからなくなっていた。どこにあるかわからず、一々スタッフに聞かなければ見つけられない書類。

さまざまな事が昨年からあり、体重も議員を始めたころに落とした。ひもじい思いもしてダイエットした。なんだか、事務所もスリムにしたくなった。初心に帰って始めたくなった。失敗したり、手紙出し忘れたりするかもしれない、会計はしたこともないのだから如何して良いか解らない。でも、自分が政治活動をしている実感がほしくなった。

今まで、議会で手抜きなんかした事は一度もない。自分の言うべき事、自分が主張すべき事、したい事は、身体を張って言い続けた。問責を受けても引かなかった。住民投票条例の反対も私一人だった。1対26、1対23の場合だって何回もあった。でも、私は覚悟を決め、家族が可哀想にも被害を受けたり、白い目で見られても仕方がないと、あきらめながら議員をしてきた。格好のいいことだけを言うのは、自分で恥ずかしかった。(だから、今回のような正論を言うのは本当はいやだ。正論は人を傷つけるからね。)だから、声を出せない人の声を耳を澄ましながら、議会で取り上げてきた。嘘をついたり、解らない事を知ったかぶった事もない。誠実に誠実にと思いながら議員をしてきた。

それが、事務所では私が一言言えばなんでもできる体制。夫は素晴らしいというし、私もそう思った。それをこれで良いのかと思うのは、私のわがままだ。でも、一度そう思うと壊したくなるのが私の悪いところだ。1から始めようと思うのは、贅沢な事なのだ。でも、シンプルになりたくなった。何も出来なくて、困っても良いんじゃないかと思った。確かに今回自分でレポートを作ると、3日で出来たのが、2週間掛かっている。何べん原稿を読んでも直すところだらけ。それでまた直すところが出てくる。訂正もお詫びもしなければならない。そして、事務所で一人で作業するのは孤独だ。でも、これが私の議会レポートなんだろう。私が書き、私が印刷し、そして私が市民に届ける。文字通り、私が。とにかくできるところまで、一人でやってみよう。もし、誰かに助けてもらわなければならないのだったら、其の時は其の時のことだ。

今までのスタッフには感謝の一言である。言いたい事がたくさんあっただろうに、全部飲み込んで辞めて行った。自分達が悪いわけでないのにと思っていると思う。久美子が理不尽だと非難されても仕方がない。なぜ、自分から辞めてくれと言わないんだと言うかもしれない。でも、弁解として言えば、週1回の体制の中で、私が自分の政治活動の実感を取り戻せば、またもとのような事務所にして違和感がなくなるかもしれないと思ったのだ。それに、絆があり、それを自分から断ち切れなかった。彼らたちにどんなに助けられてきただろう。物理的にだけでなく、精神的にもである。問責の時には、「訴訟を起こしましょう」と言ってくれて、選挙があるので裁判するのをやめたこともあった。スタッフの気持ちが私に寄り添っていたのをどんなに嬉しく思っていただろう。それを自分からは切れなかった。私の気持ちの整理がついたら、また元に戻れる事を願っていた。我ままといわれれば、其のとおり。だからこそ、辞めますという言葉を受け入れるしかなかった。

2人が去っても、不思議と寂しくない。それは、絆って物理的に切れても心理的にそんなに切れるものでないからである。一緒に8年間も仕事をしてきたのに、明日から口もきくのもいやだとか、忘れ去ってしまうとかいうものでない。少なくとも自分がそうだから、情は切れないと思っている。私は議員のくせに八方美人にはなれない。しかし、付き合った人人とは深い付き合いだ。仕事は一緒にすることがなくなっても、彼女達が私の議員生活の証人である。私が真面目に議員生活をしてきたのを一番知っているのは彼女達だ。また、私が8年間の彼女達の生活のそば近くにいたのも事実なんだし、そういう意味では、能天気かもしれないけれど、私は彼女達の友達であり続けると思う。だから、喪失感がとても少ない。きっとどこかであっても、私は彼女達と話しが出来る感じでいる。

そう思いながらも、涙が出るのはなぜだろう。
1日(火) 今日は、昨日でたボーナスを引き下ろして、保険料を払おうとして残金を見たらなんと、7万円しか入っていなかった。え〜〜〜〜!!!昨日ボーナスが出たところなのに。先日、実家にお金を送ったのでそれでボーナス分がなくなってしまっていた。そのうえ、支払いもあったのだろう。2日目にして見事に空っぽの私の貯金。仕方がないので、夫の貯金を下ろして保険料を払った。あんなに楽しみにしていたボーナスも、夫の分もほぼローンへ消えた。働けど働けどお金が掛かる昨今である。2人で働いてこうだ。後から定期を解約して他の支払いもしなければならない。

という事で、お金を引き出したり、通帳を作りに郵便局へ行って保険料を支払ったり、手間だけがかかり、すべてが終わったのが、3時過ぎだった。なんだか疲れて、少し横になってから役所へ出かけた。書類を出して、其の足で新宿区役所へ。6時半から、フェミニスト議員連盟の世話役会があり、アファーのことなどもあったので出席。帰ってきたら結局11時過ぎだった。動いたら返ってからだが楽になった。

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