私の独り言 2004年 

バックナンバーもご覧ください。(2001年8月から現在まで)

心のままに思っていることを書いていこう。嬉しいことに喜び、悲しい事に嘆き、怒る事も忘れまい。一生懸命生きようと思う。

“私の独り言”を読んの感想、皆さんの暮らしのこと、何でもメールして下さい。
すぐにはお返事できないかも知れないけれど、全部に目を、通します。

私のメールアドレスは
kumiko@takahashi.comです。たくさんのメール待っています
4月 私の独り事
5月1日(金) 今日は、息子に弁当を持たして学校に出し、後の子供達は仕事へ。私は家事をしていたが、息子が出張に出かけるというので、稲荷山公園駅まで送っていった。帰りにごみをおきに第2環境センターへ。いつ行っても綺麗に片付いていて、工場とはこうあるべしと思う。匂いも今回は酷くなくてよかった。

その足で博物館に。ちょうど館長がいて、博物館の催しを説明してもらった。昭和展をしていた。この前までの生活が展覧会になるんだから。昭和は遠くなりにけりである。常設展もみた。ここは改良の余地がありすぎる。展示場の半分は遺跡から取り出したものだ。もっと、近代、現代の歴史があってもいいんじゃないか。昭和だって、戦後だって歴史になっているんだから。常設展示を変えられないのは、お金の問題なのだろうか。変えようとすれば、あらゆる調査などをしなければならない。この博物館も毎回の展示におわれ、結局足元の事しか出来なくなっているのだろうか。リピーターのない博物館。それは展示がいつも変わらない殻という事もあるが、それ以上に来館者に感動が与えられないからかもしれないし、来館者が参加できるものがないからかもしれない。ひとつ目玉があってもいいかも知れない。

私は、博物館にひっそりと尾崎豊のコーナーを作ってほしいと思うのだが。いつもは人は来ないかもしれないけれど、4月はいつも人で一杯になりそうに思う。ジョンレノンミュージアムが埼玉アリーナにあるんだから、埼玉県の尾崎が狭山に展示されていてもいいのではないの。
30日(木) 今日は、出来る限り全報告書の提出をと頑張ったのだが、結局いくつかを残してしまった。それでも、出せるものは早くにと頑張って報告書を出しに午後から出かけた。

そこで、議長からのお咎めがあり、素直にわびた。文書にして、言い訳を渡してきた。その文書を書きながら、欝という事もさておいて、自分がどうだったかを振り返ってみた。この10年の自分を振り返り、何かに追われているような生活だったという事を感じた。勿論、3児の母親で、主婦でありながら、議員をしているのは忙しいなんて当たり前なのだ。特に、議員としての仕事は週末もあり、そのうえ、私は全国レベルの市川房枝記念会やフェミニスト議員連盟のこともしているから、時間がないなんて当たり前なのだ。

3ヶ月ごとの議会と言うのは、議会が年間20日ですむと思っている人もいるかもしれないが、そうではない。3ヶ月ごとに、議会に追いかけられているという感じなのである。一般質問のためには年間計画を立てて勉強会に行かなければならないし、議案書は特に3月9月議会では2週間にわたってそれだけを見ているように、にらめっこである。質問しようという事になれば、夕食を食べている間にも電話がかかってくるという状態なのだ。視察もあり、研修もあり、そのための打ち合わせもある。議会が終われば議会レポートの作成も時間が掛かる。ホッとしている閑がない。前へ、前へというスケジュールをこなすだけという日々になってしまう。今までは事務のお手伝いさんがいたが、去年からはそれもない。一度立ち止まろうなどと思う閑がなかった。後ろを振り向いている余裕がどこにもなかった。報告書を書く時間がなかったという事ではない。

なぜ書けなかったかと思う時に、欝だけではなかったんだと思った。毎日を精力的にこなすのはいいが、それだけで一杯一杯なのだ。毎日から零れ落ちたものを拾っている余裕がない。例えば、報告書。自分の中で視察がおわり、研修内容が租借されたとなると、次のことに思いが移ってしまい、コンピューターの前に座っても、本当に抜け殻のようになっていて書き出せなかったのだ。思い返すことすら出来なかった。することが次々にあって、立ち止まれなかった。これが、本当の事だったんだと気がついた。

私は仕事を精査して、仕事の仕方を変えなければならないのではないかと思うに至った。今までは出来なかった事は人に頼んでやってもらうこともあった。でも、今は自分で仕事を手作りで行いたいという思いがある。だったら、仕事の量を調節するしかない。家にいて事務仕事をするのがまるで遊んでいて、外を飛び回っている事がよいという感じがしていた。これも考えを変えなければならないのだろう。人を頼んでいないのだから、家でする仕事をもっと大切にしなければ。一つ一つの仕事を丁寧にしよう。スローライフなんて私の辞書にないことをめざしてできるわけないかもしれないけれど、挑戦してみるのもいいのかもしれない。とにかく、仕事の調節を考える事にしようと思う。

夜は、市民体育館でトレーニング。
29日(水) 昨夜というか、今朝まで話し込んでいたから、今日は娘も出勤、息子は部活だったけれど、お弁当は各自でという事になってしまった。おきていようかと朝6時半まで頑張ったが、そこでもう眠った。

それでも結局9時半には起きて、家事をし、午後は役所に行った。小さなお茶祭りをしていた。前に比べると本当に小さな小さな催し。それなのに、思っている以上に人がきていた。ちょうど花鉢を無料で配布する時間だったからかもしれない。私は津南の椎茸を買い、花鉢を買って帰ってきた。役所の中では煎茶のお手前があり、いただいたが狭山茶は少し渋いけれどコクがあっておいしかった。2せんまでいただいたが、やはり始めに入れたお茶が数倍おいしかった。良い伝統ですね、お茶は。

帰ってきて、又疲れが出て横になった。夜もごろごろしていた。いい年して徹夜でおしゃべりをするなんてことをしたためか、体力が・・・・それにしてもあの方の魅力と言うのが何か分かった気がした。さまざまな事を話したのに、知っていても言うべきでない事はきちんと話さなかったのは大人ですね。勿論、いう事が出来ないだろうと思うことには私も突っ込まなかったし。
28日(火) 今日も報告書を書いていた。一年のまとめをしているようだ。本当にこれで良いのかって言われれば良くないに決まっていて、でも、ようやく事実と向かい合うことが出来ている感じがする。

夜サピオへ。サピオで知っている人に会い、ファミレスへ。話をきいていたら、朝になってしまった。夜を徹して話をするなんて、何年振りだろう。お話しが興味深くて、あれこれ聞いてしまった。役所の中の話も合った。小さな世界だからいろいろアルだろうが、仕事だけはしっかりしてね。人事は分からないねえ、という話も出た。まあ、そのとおりだが、その場所で一人ひとりが頑張ってもらわなければ。それに、自分が得意な事でなくても、人は化けるという事があって、思いがけずすごい仕事をする人もいる。「Kさんは部下には評判悪かったけれど、真剣に良い仕事をしたねえ」と二人して評価した人がいた。彼は今は他の部署にいて、少し気を落としているようだが、腐らず頑張ってほしい。そんなこんなで役所の噂話に終始してしまったが、結論としては首長が変われば人事で変わるのは仕方がないこと。でも、その中でも有能な人はそれぞれの部署で何らかの仕事を残しているという事であった。

ただ、世渡りの上手な人はいるね。そういう人に惑わされず、有能な人を使いこなすのが上司の役目なのだろう。ただ、自分が人を使ってみて思うのは、やはりイエスマンを回りにおきたくなっていくのは仕方がないことだという事。自分の思いのとおりに仕事をしてくれる人でなければ、意味がないものね。仕事が進まないもの。次の仕事を指示するまでもなく、動いてくれるような人を有能と言うのだろうけれど、やはりそういう人を使いたいもの。上司に苦言だけを述べているような人では仕事が進まないよね。それと、評価は他人が刷る事だわね。自分での評価が高くても他人が評価しないこともある。そんな時、腐らない事かなあ。自己満足って大切な事だから、自分をほめてあげる訓練も必要なのかもしれない。
27日(月) 今日は、先日から書いていた報告書の2つ目を書き上げていた。夕方には出来上がったので、2つとも役所に持って行った。その後で、家に戻り、夕食を作り、娘と食べた後、サピオへ。なんとシンプルな一日だっただろう。でも、仕事に集中できているのは、尾崎様のおかげです。今まで、仕事以外で発散するところがなく、常に常に仕事の事を考え、自分を責め、悩み・・を繰り返していた。今頃、報告書を書いているのも実は昨年中はかなり欝状態で、仕事がうまくこなせなかったからである。仕事をするのに自分に鞭打っていた。家にいると何をする元気もなくてぼおっとして、コンピューターに向かっても原稿の一字が出てこなかった。だから、外に出て視察やら研修に明け暮れた。ほぼ1週間何も手がつかないで、くだらない本を読み続けていた時もあった。

で、73,5キログラムまで行った体重が54.5キロまで半年もしない内に減ってしまった。ご飯を食べたいとおもわなくなったし、勿論ダイエットもしたが食べ物に興味もなかった。更年期の欝が嫌な事に重なって、どうしようもなくなったんだと思う。何にも興味が持てなくて、考えると嫌になるので、必至に考えまいとくだらない本をよんだり、オザキ関係の本を集めたりしていた。話す言葉に困ると言うのが初めて分かった。何をどう話しても、どうしてもうまく説明できない状態だった。自分の言葉を失った気がした。ようやく、体が良くなったと思うのはきっと尾崎の誕生日ぐらいからだっただろう。昨年の11月下旬。でも、その後、健診で胃にポリープがある事が分かり、すこしまた落ち込み、癌ではないと分かったのが、今年の初めだったから、本格的に気持ちが上向きになったのは今年に入ってからである。現金なもので体重も増え始めた。怖いね。

自分に拍車を掛ける、鞭を入れるっていうのは、自分の体調が整わなければ、特に気分がきちんとしていなければ無理だっていう事だ。そのてん、この頃は頑張っています。そして、遊びの方もできるようになったのは、ようやく自分を許す事が出来るようになったのだ。定期的に趣味を持つのは今でも無理だけれど、これからは少し時間を遊びに使おう。それは、仕事にもプラスになるし、市民を裏切ったり、税金でいただいている報酬にたいして決して後ろめいた事ではあるまいと思うようにしている。ほんと、税金をいただいている仕事をしていると24時間、365日市民に奉仕しなければならないと思うから、遊ぶことすら罪悪に思えて・・・・・公人はこんなことを考えて生活しています。私は、と言うべきかな。
26日(日) 今日は朝から急いで池袋へ。昨日は尾崎の記念日だったが、今日はファンがライブをすると言うがそれが朝からあるので(きっと会場を借りるのに安い時間帯などだろう)予約を入れていたのだった。そのうえ、その後アフターパーティも知り合いが出ると言うので私も参加。いつもの熟年叔母さん隊が乗り乗りでコンサートを聴き、その後尾崎への愛の興奮でおしゃべりしまくった。

私達の熟年叔母さん隊はかなり地味な方で、かなり派手な叔母さん隊もいて、「きっと私達よりもお年よ」なんていいながらも、あんな派手な人たちが尾崎のどこに惹かれるのかなあと思った。そこが、私の引っ込み思案の所でよほど親しくないと話せない。ド派手な格好をしていても尾崎が大好きと言う人はいるはずで、格好で判断してはいけないけど、あの派手さにひいてしまってお話しできなかった。でも、考えれば尾崎はベルサーチをきて超派手大好き男だったから、ああいう叔母さんに好かれたのも判る気もする。

私なんか地味と言うよりもお値段3千円の尾崎のTシャツきてライブに行ったもんね。ブランド関係ないもんね。尾崎命でいったのに、誰も尾崎のTなんか着ている人なし。いやたった一人、私の知人が私と同じように、尾崎ルックしていた。あの〜〜〜、その人を見て、え〜〜〜って思ったから、私の周りの人は私を見て、え〜〜〜!!!!なにあの人、いい年してと思ったに違いない。でも、そこは貴方、政治家の端くれ(?)ですよ私は、ありとあらゆるパーフォーマンスなんて芸人以上でなければどうしますか。という事で、私は今回も(実はこの前のミュージカルにも着て行った。きっと1000人中私だけだったと思う。)オザキのTだったのですよ。勿論、足の長さだけはオザキに負けるけれど、後の美貌はお化粧で何とか・・・・

アフターバーティーが終わり、地味叔母さん隊は喫茶店へ。コーヒー一杯で2時間ぐらい粘り、またオザキのお話。良くぞ、よくぞ飽きないものだと感心しますね。私達は昨日から、この2日間はオザキの日と決めていたから、まあいいか。そこでも派手おばさんの話が出て、「あの人たち、帰るときにライブの歌手にちゅーしたのよ、まったくねえ、あの叔母さん」とか言いながら、「顰蹙よね」なんて、自分達がさもお上品のように言い合っていたが、オザキTシャツの私としてはどっちもどっちかもしれないと少し冷静になった。

夜10時過ぎに帰ってきたが私が出る前に作って行ったチリがあまりなくなっていない。聞いたら、息子も娘もデートだったとか。一番下の息子だけが私のを食べたらしい。おかあさんもたまに夜に遊びに出るようになったけれど、社会人の息子も娘もそれぞれ夜まで忙しくなっている。自分で働いたお金で遊ぶのは仕方がないか。
25日(土) 今日は、朝から夫がアメリカの父のご機嫌伺いに行く事になっていたので、忙しかった。昨夜、HPで川越駅から成田までのバスがちょうどいい時間にあることが分かったので、車で送っていった。その後、古本屋により、何冊か娯楽本を買った。私は尾崎豊関係の本のコレクターである。安い本を見つけて嬉しかった。

その後、急いで尾崎の墓へ。ところが川越からだと思ったより時間が掛かった。16号が渋滞なのである。特に入間市に入ったら動かなくなった。きっとアウトレットモールの関係だろう。それで遠回りして、小手指まで行った。小手指から西武球場へも大渋滞。きっと野球の試合があったに違いない。ナント2時間近く掛かって川越から狭山湖霊園まで行った。雨の中、ご苦労な事です。自分でもお馬鹿だなあ、いつも来ているんだから何も雨の中、2時間も掛けていくことないのにと思ったが、そこはそこ。ファンの心理は、今日お墓に行きたくなってしまったのである。去年は、2,3日あとの日曜日に行ったかな。

お墓には黄色い素晴らしいブーケがあり、大型の日よけパラソルが線香台の上に掲げられていた。きっと12時6分。尾崎が亡くなったといわれた時間にたくさんの人が集まったんだろう、線香がたくさんとぼっていた。私が行ったときにも、10人以上の人がお墓の周辺におり、何人かづつ人が来てはおまいりし、去っていった。若い女性が泣きながらお花を供えているのをみて、胸が一杯になった。男性のファンも多いのが尾崎らしいよね。半々。男女を問わず、年齢を問わず、尾崎は愛されている。すごい歌手である。最近は尾崎のことを見ることも増えて嬉しい。

こんばんはひとつレポートを書き上げてから寝る。
24日(金) 今日は朝から臨時議会。いくつか議案が執行部から提出されていた。それについての質疑が思ったよりも時間が掛かった。それもあり、議会が長引いた。というのは、午後は議長が辞表を提出したので、人事議会となったからである。

もちろん、私は会派に属さないから人事では何にも関与しない。とにかく、今年からまた2年間は建設委員としてやっていく事になった。共産党さんが変わったので、今年は3常任委員会に女性が入ることになった。これはこれで良いだろう。一つ一つ手続きを踏んで役を決めていくので時間が掛かる。

中川浩さんがこんなことをしているのは「馬鹿馬鹿しい。時間の無駄だ」と大声で言っていた。民間ならばこんな風でないだろうと。市長をはじめ部長まで引き止めておくのはと無駄だというのだ。確かに、時間は掛かる。そして、民間のやり方とは違うだろう。しかし、こういう手順が決まったのにはそれなりの歴史的な背景がある。もし、変えるならば話し合いをしながら変えていくべきなのだ。民間の効率一辺倒のやり方が本当にいいのだろうか。確かにそれも良いが、今現在問題を抱えているのは効率一辺倒の民間社会を作った結果ではなかったか。伝統伝統という人は嫌いだけれど、何の理屈もなく潰そうとする人も嫌いだな。我慢が出来ないのは、子どもだ。

議会は市長が召集する。だから、最後まで市長がいるのは当たり前だ。自分が召集して、自分の議案が終われば議員を残してさっさと帰るなんて事があって良い訳がない。だから、召集権を議長が握ればいいのだ。今回もおしのぎが出た。暫時休憩が多々あって、終わったのが結局7時過ぎていた。その後、行革特別委員会があったのだから、その人たちは何時に帰ったことやら。

私は、おしのぎのおにぎりを2個食べて、サピオへトレーニングに出かけた。少し太り気味だから、動きたくなった。汗を書いたが気持ちよかった。
23日(木) 今日は、忙しく報告書を書き、ひとつ仕上げた。夫を駅に送りに行ったついでに提出。その後、動物園にこの前お支払いしなかった動物園のストラップの代金を払いに行った。久しぶりの動物園。大好きな動物園。いつも綺麗な動物園。狭山市の誇りだ。今日も中を見せてもらい、黒鳥の子どもを見たり、馬にご挨拶したり、鶏達の声を楽しんだり、おしどりや他の鳥の美しさを感嘆したり、真鶴の子どもの誕生を願ったり、オウムのご機嫌を取ったり、ありとあらゆる楽しみを感じながら一周した。だけど、夕方の動物園は、大きな黒いカラスに覆われ怖いようだ。カーカーとなくからす。それも大型だ。可愛くないカラス。

私は新潟生まれだから、朱鷺が狭山の動物園に来るといいなあと思う。大型ケージを作り、朱鷺の放し飼いをする。綺麗な朱鷺が悠々とケージの中を飛びかう。夢かなあ。いいなあ。ケージのお金が出ないかなあ。提案してみよう。

その後、市民体育館のトレーニングルームに行き、トレーニング。新しい器具が入ったのでチェックをしにいったのだ。よい機械が大量に投入されていた。いつものサピオの機械とは違うので勝手がよく分からない。部屋にいた職員に聞きながら使った。何だろう、どうも使い勝手がサピオの方がいい。女性がいないせいか、殺風景な体育館。7時過ぎまで頑張ったのだが、あまり人が来ていなかった。今までは、本当の意味のトレーニングルームで筋力増強などが主目的だったが、今後は体力維持のためのトレーニング場になっていく事だろうと思う。メタボ対策。

ヤオコーによって帰って来た。安い半額のものを大量に買い込んで恥ずかしいが、何しろ家は食べるから、あっという間に1万円になってしまう、たとえ半額セールのものをかいこんでも・・・

夜夕食を食べていたら、役所から電話がかかった。昨日のヒアリングで質問するといっていたところ。答弁書を書いているらしい。こんなに遅くまで仕事をさせていると思うと申し訳ない気がする。私はご飯をたべているのにと思う。そこまで気を使うことないのにね。ごめんなさい、でも市民のために聞くべき事は聴かなければならないと思う。
22日(水) 今日は、朝9時半からヒアリング。24日に臨時議会が開かれるので、議案についてのヒアリング。朝殻初めて、あっという間に1時半近く。急いで家に戻った。だって、今日は行政相談の日。お電話をお待ちした。その間、夕食を作った。なにしろ、5時から又ヒアリングだッ宝である。急いで役所に戻りヒアリングを7時過ぎまで。

帰ってきたら綺麗なブーケ(花束)があった。今日は私の誕生日だったからである。夫が、ゆりの花のたくさん入った綺麗なブーケだった。お花を貰うのはとても嬉しい。特別な感じがする。年に2回だけだしね。(誕生日とバレンタレインデイ)

そのうち、ケーキも買ってきて、親子5人で小さなパーティーをした。家ではバースディパーティーをしないなんて事はない。まいとし、それぞれのためにケーキを作ったり買ったりしてパーティーをする。私は家族のためにケーキを焼くが自分のために焼くのは嫌で、結局夫が不二家かどこかでケーキを買ってくる。ケーキをまえにして、一年の無事を感謝し、今後の祝福を願い、家族のために祈り、そしてろうそくの火を吹き消す。ことしは、少し年を取りすぎてしまうような気持ちがするが、これだけは時に逆らえない。還暦なんかになったらどんな気持ちかなあなんて思いながら誕生パーティーをすごした。
21日(火) 今日は、報告書に取り組んだ。なかなか、終わらない。4時過ぎには、それを書くのもやめて新宿区役所に行った。区役所の議会の会議室で全国フェミニスト議員連盟の世話人会があった。アファー編集長としては次号のページ割やら筆ぴつ者のことの報告も必要だった。まあ、一応予定通りにさせてもらう。来年度も編集長の作業をすることになる。すこし、大変感がでている。何しろ事務量が相当なのである。でも、誰もこのことをするとはいわない。さすがに皆はこの大変さを知っているんだなあ。うかつに私は引き受けたんだなあ。とにかく、物を書くのが好きな私だから編集はいいのだが、会議が大変で、いろいろな考えの人がいる中で自己主張していくことの難しさを感じている。議員達は個性的だから。

今回は会議の後、食事も一緒にせずに帰ってきたが、やはり家に戻れば11時近くだった。
20日(月) 今日は会計を終わりにするため、根性を込めて仕事に励んだ。とにかく、規則どおり、領収書の写しをとり、表を作り、必要な書類を感性避けた。午後には、書類を持って役所に行った。きちんとしてあるし、たとえ高速で研修にいったとしても領収書が見つからないものは請求しなかった。紙類やコピー機だって政務調査費では1銭もいただかない。すべて自己負担である。まあ、いいさ。

遅らせていた報告書を真剣に書こうと誓った。で、書き始めているが、昨日の疲れが出て気力がどこかに飛んでしまった。とにかく会計がさき。役所の帰りにヤオコーによって帰ってきた。
19日(日) 今日は朝6時半に起きた。息子のアメフトの試合が12時から徳春のグランドであるからである。本当は弁当を作ってやろうとしたのだが、昨日明け方とっていた尾崎のmissing boyのビデを観ながら朝ごはんやらを用意したら、時間がなくなり、そそくさと7時半ごろ双柳グランドへ。荷物を他の車に詰め込むのを手伝い。出陣。

子供達はバスで出かけたが、私達夫婦は友達の車に乗せてもらった。昨日の尾崎のことといい、この試合のことといい、私は気合が3日前ぐらいから入っていて、アドレナリンが出っ放しの状態。負けると思うな。タダタダ勝つ事しか考えてはいけないと子どもに言い聞かせていた。夫なんか勝つことを前提に旅行を調整していたりしたのだ。この一週間、息子の心にも部活にもいろんなことがあったようだが、そのたびに逃げてはいけない、試合に前向きになるように言い聞かせてきたのだ。実際、緊張が高まると日ごろなんでもないことが大変な事件になったりする。それを乗り越えて生きていく、そのための訓練として部活は貴重な経験を積まさせてくれる。

結果から書けば、14対7で勝った。練習試合でボロ負けした浦学に勝てた。逆転勝ちだった。始めにあっさり点を許してどうなる事かと思ったが、きちんと点を取り返し、後半に1タッチダウンで逆転した。子供達は相手を恐れもしなかったし、あわてる事もなかったし、堂々と戦って苦労して勝った。タッチダウンまで数ヤードという事が何べんもあった。そんな時でも、きちんと集中していた。3年の息子達だけでなく、2年生も頑張った。息子が終わってから、2年生が頑張ってくれてうれしかったといっていた。最後に良いチームワークが出来て本当によかったと思う。

「最後まであきらめるな、何があってもあきらめるな」とくじけそうな息子に何べん言っただろうか。練習試合に負けたからと言って、本番の出場回数は聖望の生徒の方が多い。キャリアがそれだけあるのだから、後は心の問題だと、くりかえした。しかし、息子は「心の問題ですめば練習なんかいらない」などと言っていて、「お母さんはウザイ」と聞き耳を持たないようだった。しかし、いろいろな言動から私の言葉が耳に届いていたみたいだった。顧問の先生も大変だっただろうが、子どもがきちんとしていて良かっただろう。一試合づつ勝っていくことを念頭に闘ってほしいと思う。取り分けてスターがいる聖望アメフト部ではなく、皆地味な選手だ。それなのに、シード校になり、一歩前に進むことが出来た。息子には人生の中で忘れられない1日となるだろう。

私達夫婦にも嬉しい思い出になる。こどもに感謝するのはこんなときだ。生まれてきてくれて、ありがとう。今日はおにいちゃんが彼女とともに応援に来てくれた。彼女も勝って喜んでいた。私は、疲れて夕食も作らず寝る。娘と彼女が何か作ってくれるらしい。本当にくたびれた。
18日(土) 今日は朝からうきうきというか、すでに気合が入っていた。尾崎のMissing boyを見に行くことになっていたからである。この日のために尾崎のサインが入ったTシャツまで購入すみ。2時に友達と待ち合わせを赤坂見附でした。尾崎が生前取ったビデオや写真集の場所が赤坂にあるというので、出かけたのだ。歩道橋の上で尾崎と同じような格好で写真を撮ったりして、おばさんご一行はまんぞくした。近くにファミレスがあり、食事をしたりコーヒーを飲んだりしながら尾崎談義。

この後、赤坂ACTシアターに行った。開場まえだったから、ポスターの前で写真を撮ったりしていたらすぐに開場。とにかく友達が前から4番目という席を取ってくれていたから、本当に臨場感のある公演を見ることができた。初日の公演だから、花がずらっと並んでいて、その名前をみることも楽しかった。蘭の花が何鉢も届けられていて、私の3回の選挙に届けられたお花はカーネーションが一鉢だったなあなんて思ってみていた。(少し、ひがんでいるわね。でも、私を選んでくれた人はきっと蘭なんかに日ごろかかわりのない本当の庶民というか私の生活実態からかけ離れていない人なんだと思う。だから、この違いが嬉しく思えたりした。理解してもらえるだろうか。)

公演そのものは素晴らしかった。もしかして、中村あゆみさんが尾崎の乗り移ったかのような歌唱で歌っていたので満足しただけかもしれない。尾崎が生きていたら、ああいう公演を繰り返したんだろうと思う。は〜〜、残念だわ。とにかく、尾崎は自分を変えずに自分のスタンスのまま逝ってしまった。本人にとって幸せだったのか、不幸せだったのか分からないけれど、私達ファンにはたまらなく不幸な事だ。

あんな天才歌手というかアーチストはそうそう出現しないだろう。難しい歌詞の理解に躓くかもしれないが、それだからこそ何度も読んでも、何回同じ曲を聞いてもはっとする思いがある。悼みを痛みを感じながら曲を聴くのだが、それが自分への慰めや傷を癒す事になるのはどうしたものだろう。この2年間、中国やイタリアにまで尾崎を持って行った。いつ聞いても、どこで聞いても、どの曲を聴いても尾崎の曲の素晴らしさがあせる事ないのは、彼の曲の普遍的な思い、「どんな状況でも人を愛したい、真実を育んでいたい」という強い思いに共感するからである。もっとリラックスしていれば良いのにと思うが、弱い自分がいるからこそ、「僕が僕であるために、勝ち続けなきゃならない」という始めからのメッセージを忘れられないのだと思う。

公演後、皆でお茶をしたので帰ってきたのは12時半を過ぎてしまった。その後、ちょっとコンピューターで報告をしたりしたので、寝たのは2時半になった。明日があるので、無理に寝る。
17日(金) 今日は朝から忙しく会計をしていたが、やっと終わりかと思うと違っていて、また最初からやり直したりして、結局役所で終わりにしようと思ったのだけれど、役所のコンピューターがヴィスタに変わっていて、エクセルのやり方が今一使いこなせず、ハラがたったので、帰ってきてやることにした。と、その時はそう思ったのだが、午後7時から市民体育館でトレーニング機器の講習を予約していたので、あたふたと夕食の準備などをしていたし、お兄ちゃんの就職歓迎会があるとかで連れて行ったりしたので、あっという間に7じになり、急いで体育館へ。という事で、会計は来週の仕事になった。

器具の講習はよかった。筋肉トレーニングが多いので、20日以降は有酸素系のトレーニングマシーンをもっと導入するそうで、サピオよりも機械の使い勝手が良いかもしれない。只、ここは単なるおばさんやおじさんが体力維持のために行ってもいいのかなあなんて思う。サピオよりも実践的なトレーニング場のような気がするからである。20日以降、どうなるのか楽しみだから、また行く事にする。

二つ気になる事があった。ひとつは夜に指定管理会社の女性がいないことであった。女性も市民体育館を利用していたし、女性に何かがあったときにはやはり女性の手が必要だろう。特に、シャワールームもあり、着替えをしているところに男性が入ってくるのは嫌だな。その点、サピオは女性の掃除のひとが何時間置きかで掃除に気ながら、様子を点検しているのはいいと思う。それでも、ロッカールームで盗難があったりするのだ。市民体育館の夜にも女性の職員をと思う。

もうひとつは、駐車場のことである。体育館の駐車場は10台も止められない。それなのに、障害者用の駐車スペースが3台もあるので、尚スペースがない。それで、早い時間はテニス場や動物園に止めるのだが、テニス場は9時半に施錠されるというので、遅い場合は停められない。それで、動物園の駐車場という事になるのだが、行くまでの間、暗いので女性はビビッてしまう。回りが畑だし・・・・もう少し明るくしてほしいと願う。

私はアリーナを30分ほど歩いて帰ってきた。いつもはサピオのマシーンで傾斜をつけて20分120キロカロリーを消費するのだが、それよりは楽だったのは平らなところを歩いたからだろう。いつもは汗まみれになるのに、少ししか汗をかかなかった。もっと頑張ればよかったかな。
16日(木) 今日も朝からアファーのことで午前中が潰れてしまった。電話を掛けると結局長電話になってしまう。でも頑張っている。紙面がきちんと詰まるようにと思っているのだが・・・

午後も一生懸命書類つくりに励んでいる。何しろ全くしたことのないことをしているわけで、「できた」と思い印刷すると間違いや、どうしたのか枠の細さや太さがまちまちだったり、消えていたりする。直したら、また他のところが変になったりするから、もういや。コンピューターの導入の時には、ペーパーレスの時代が来るといわれてたが、それは嘘ばっかりだった。使う紙の枚数の多いこと多いこと。反古紙のやまである、家の事務所は。リサイクルしても持ったいない。

夜、指が硬直して動かないし、痛いしで仕事を止めてサピオへ。今日もたくさんの人。トレーニングの機械を待つだけでも大変である。今日は400カロリーを消費したが、帰ってきてワインを3倍も飲んでしまったので、結局太るかなあ。
15日(水) 午前中はメール関係で終わる。アファーの原稿依頼をしているが概ね良い返事がもらえていて嬉しい。それにしても、時間の掛かる作業でメールではらちが明かないので電話を掛けるが、人がつかまらず焦ってしまう事もある。確かに私だって今の所忙しく書類の整理やらアファーの編集のための作業で家にいることが続いているが、いつもならば外を飛び歩いている。それを考えれば議員という忙しい人たちが家にいなくても仕方がない。携帯電話がないともう仕事すら出来なくなっている。

午後は相談事ででかけ、帰ってきてすぐにまた仕事。書類の整理は続く。

夜はご飯を作って食べさせてからサピオへ。久しぶりのサピオで、汗を流して気持ちがいい。それにしても最近のトレーニングルームは人で一杯である。若い人がよくトレーニングに励んでいる。勿論、私が行く時間は夜が多いのでお年寄りがいる時間でないからである。

それにしても、いつもいつもどれか機械が故障している。何台もある機械なら順番待ちしていればいいのだが、一台しかない機械が故障しているとトレーニングが出来ない。どの機械も少なくとも2台ずつあると良いなあと思う。この頃は安いせいもあり、たくさんの人が来るようになって故障も多くなってしまったが、故障を直すためにたとえ使用料をあげてもいいように思う。200円じゃなくても良いのではないか。さもなければ何で高齢者に値段を半額にするのか理解できない。プールやトレーニングルームの使用料は子どもを除いてすべて同じでも良いように思う。そして、その分を機械の修理代にまわしてほしいものである。
14日(火) 今日は午前中メールのチェック。メールだって20も30も入っている中で、必要なメールに返信をしていかなければならないし、返信の返信が届くとそれに又返信。午前中掛かったが、原稿依頼関係を一応終える。

昼ごはんを急いで食べて、新宿の市川房枝記念会の女性と政治センターの企画運営委員会に出かけた。夏の合宿の案がまとまった。良かった。その後、5月15日、16日の市川房枝生誕115周年記念会の話もすすみ、結局リレートークという事になった。とにかく忙しい。5時近く会議は終わり、いつものごとく紀伊国屋書店によって、帰宅。急いでみたけれど、帰ってきたのは7時前だった。

残念ながら、ご飯も炊いてなくて仕方がないので残りご飯でチャーハンを作っている時に、友達からのカウンセリングの電話。1時間以上話をしていた。手のうちようがないのかなあ。親は悲しい生き物だ。祈るしかないといういつもの解決策で申し訳ないと思う。でも、私はこれが一番効き目のある解決策だと確信がある。信仰のある人は能天気で申し訳ないが、神様が結局よくしてくださると信じるしかないと思うのだ。

その後、又メールのチェック、HPの更新をしている。手の腱鞘炎は酷くなっているようで曲がった指がまっすぐするとき痛んでくる。
13日(月) 今日は朝からまたまた会計。混乱の極みだ。どうしよう。お昼に少しお手伝いさんとイタリアの旅行話をして、その後、又会計。どうしてこうも訳が分からないのか。間違いを直してばかりいる。は〜〜〜。書類を何べん書き直してはまた間違いを見出すという感じだ。嫌になってしまう。でも、ギブアップせず、領収書とにらめっこである。

夜は、アファーの編集長となり、原稿の以来のメールを打ち続けた。5月5日発行予定だから、まあ大変だ。早くお願いしないと原稿が上がらない。どうしよう。コンピューターの打ちすぎで手が腱鞘炎になっている。
12日(日) 今日は午前中、礼拝。イースターである。イエス様の復活の日。夫は早朝祈祷会から始まって教会学校だ、礼拝だと朝早くから忙しいそう。私はおっとり刀で出かける準備を始めたが、イタリアから教会に持っていくお土産をどこに置いたか分からなくなってしまった。それで、探し回っているうちにようやく見つけ、遅れたけれど出かけた。珍しく車も少なく、信号にもあまり引っかからずに教会へ。神様が導いてくださったのかな。いつものように素晴らしい説教だった。神様の蘇りなんて哲学的で難しすぎるが、私はイエス様がこの世を離れ又信仰の対象として世に生まれ変わった日と思っている。そして、私のような信仰者がイエス様におすがりして生きている、イエス様が私とともに生きていてくれることを始めた日ではないかと思う。復活なさったイエス様は何千年も常に生きて私達と一緒してくださるのだろうと思う。

午後はお寿司が出て、ケーキも出たし、私達のイタリアお土産も出て、楽しくおなか一杯になるまで食べたり、お話しをしたりした。先週はアッシジで礼拝だったわけで、久しぶりにこの教会に来た。来週は息子の事で、その次の週は私の用事で教会にいけない。けれど、牧師にもお話ししたが、教会を忘れる事はない。イタリア旅行中も教会について友達と語り合ったし、説教が素晴らしいことに感謝をしていると確認しあった。忙しすぎていけないこともあるが、だからこそ教会を忘れず心に思い出している。

その後、尾崎のお墓によって、少しお墓をお掃除して帰ってきた。いつものようにたくさんお花が上がっていて、きっと土曜日に多くの方々が尾崎のお墓にお参りしたのだなあと思った。いつも思うが、何でこうも尾崎のお墓に行きたくなるか分からない。実はイタリアにウオークマンを持って行って尾崎の歌を聴いたが、若い尾崎の歌声があまりにも生生しくて最後まで聞けず、帰りの飛行機までしまいこんでしまった。声が聞こえるのに、本人はこの世にいないというのはなんともやりきれないことだ。

古本屋により、業務スーパーで安い食料を買い込み帰宅。その後、久しぶりにサピオへ。汗を流して、すっきりした。
11日(土) 今日は、朝に友達が会計の事で入力してくれたフロッピーをもってきてくれたので、その後はずっと会計について処理をしていた。昼食後もあれやこれやとコンピューターの前で頑張った。ほとんど一日中していたが、終わらない。レシートの見つからないものもあるし、頑張っているが大変だ。

今までほぼ十年友達が事務をしてくれていたので任せていたから、ひとりで会計処理をするのは本当に大変なのである。あ〜〜〜。まだまだ先が見えない。困ったものである。だれか助けてください。狭山市で入力と会計をやってあげようという人いませんか。

夜、疲れが出た。それでもHPを待っている人がいると思い、頑張ってアップした。そうこうしているうちに、目がさえてきてこれは眠られなくなると思い、お風呂に入って休む事にする。時差ぼけがまだまだ直らない。
10日(金) 今日はほとんど寝た気がしないが、幼稚園の入園式にお招きされていたので、出かけた。小さな子の小さな入園式。可愛い可愛い入園式。まるで赤ちゃんがだんだん一人前になるのだ楽しい。

終わった後、すぐに役所に。新年度がはじまって初めて出かける。議会事務局を始めに、すべての所を回った。内示の時点で移動はわかっているのだが、顔を見ないと誰がどこの部署にいるのかは分からない。ちょっとづつ話をしたりしていたら、帰りは結局夕方になってしまった。ご飯を作りながら、さまざまな事を考えていた。でも、体力はこれまでで、食後、バクスイした。
8日・9日 8日の朝空港に行き、昼頃の飛行機に乗り、帰国。結局、飛行機は14時間遅れだった。

着いたら9日の朝。高速バスで帰ってきた。所沢からは電車で入間市駅へ。だって、荷物が多くてエレベーターのない狭山市駅になんか返れない。バリアフリーにはやくなってほしいね。

午後は、眠っちゃいけないと思ったが、飛行機の中で一睡も出来なかった私はバクスイ。夜、夕食に起きたが、その後、今度は寝付けず、HPを直したり、本を読んだり。寝たのは、明け方だった。
7日(火) 午前中、コロッセオに行った。入るのに1時間ぐらい掛かった。ここでも日本語のガイドを借りて見学した。そして、その説明に愕然とした。このスタジアムでは11000頭のライオン、ひょう、かばなどの動物と10000人の人を戦わせ、すべてが死んだそうだ。また、健闘士を戦わせ、一方が他方を殺すまで試合をさせたそうで、奴隷が自由になるために健闘士になったりしたそうだ。一生懸命闘った者が負けて死にそうになった場合命乞いが許される事もあったそうだが、大抵は一方が殺され、死んだのを確認するために焼きこてを死体に当てて、死んだ振りをさせなかったそうである。十字架が絶っていたが、ネロなどの皇帝がキリスト教徒をライオンなどに食い殺されるのを見ていたのでその鎮魂のために立てたという。は〜〜。「なんとも言えねえ」である。付いていけない。

コンスタンティヌスの凱旋門をとおりぬけ、パラティーノの丘、ファロ・ロマーノへ。紀元前6世紀の街並みである。すごいなあ。よく残してあるものである。そして、その文明の素晴らしさ。日本は紀元前6世紀なんか、きっと狩猟か、田んぼを作っている弥生時代ですからね。よかったね、隣がローマ帝国じゃなくて。こんな文明を持っている国には征服されて、日本人は皆ローマの奴隷になっちゃうよ。

疲れて帰ってきた。そして、出発の準備がすべて終わった時に、添乗員から驚きの発表。帰国できない。飛行機が来ない。乗る予定の飛行機に病人がでて、東京に引き返してしまったので、乗る飛行機がない。明日までローマで待たなければならない。というので、私達は今度はJALが用意したホテルに行き、食事をして、明日を待つことにした。今回はとても安いツアーだったので、このホテルが一番よいクラスのホテルだったのは皮肉かな。
6日(月) 疲れ果ててしまったけれど、ローマの自由時間。友達は疲れ果ててしまったので、スローな観光をするらしい。私は、8時半から行動を開始し、バチカン博物館とサンピエトロ寺院に行った。待つこと1時間、それから3時間近くかけてバチカン博物館を診て回った。あまりにも物が多くてきっとどれもが耳目を引くもの過ぎて、頭は飽和状態になった。只只、ラファエロの間のすごいフレスコ画。システィーナ礼拝堂にあるミケランジェロの「最後の審判」には畏敬の念をもった。アレをもって、すごいといわない人はないだろう。圧倒される。で、私がここで「だから何よ」なんていったらヒンシュクものかな。

とにもかくにも、あのすごいゴージャスさには圧倒され、金ぴかぴかさとすべてが大きい事に目を見張らずにはいられない。が、だから何。何でこんなことをするんだろう。まあ、こういう事で美しいものがのこるのであれば良いのか。富の集積は、他の面から見れば奪われた人たちからの奪ったものの集積でもある。自分達の権力と財力を誇示する事が目的であったという説明だったが、ローマ法王の、バチカンの、ローマンカトリックの権力と財力はどこから来たのだろう。あ〜〜、こんなことを考えず、タダタダ美しさをエンジョイすれば良いのか。

でも、私には出来なかった・・・・・金銀や大きな絵や像などで自分を飾る宗教なんて、大嫌いだ。

サンピエトロ寺院は世界で一番大きな聖堂である。確かに大きく、ミケランジェロのピアタだけでなく、大きな装飾に凝った美術品の山だった。たてものそのものが大理石なんだからすごいものだ。そして、中心はイエス様でなくてピーター。ペテロ。ペテロをお祭りしているのだから。駄目だよね、立派なものをみてもちっとも心が動かない。免罪符でお金を庶民から巻き上げて作った寺だというが、それだけであるまい。十字軍でもアラブ諸国からいろいろ奪略しただろうし。楽しめないし、イエス様が喜んでいるとも思えない。

この国はカトリックでキリスト教だというが、本当にカトリックはキリスト教かと疑問に思う。そもそも、サンピエトロ寺院だけでなく、サンタマリア寺院もとても多い。要するにマリアさんをお祭りしている寺院なのである。は〜〜?!!正面にマリアの絵や像(イエス様を抱いているものが多いが)、そして横の壁面に十字架に掛かっているイエス様。イエス様は添え物のようです。赤ん坊のイエス様を書いてどうするの?

確かに十字架は私達の信仰のシンボルではあるけれど、十字架にかけられたイエス様をあちこちで見ると違和感がいっぱいなのである。何でだろう。痛いのである。心が痛むのだ。イエス様がかわいそうなのだ。「私達のために十字架にかけられて、ありがとう」なんて軽々しくいえないのだ。早く十字架から下ろしてあげたいと思うのだ。いや、下ろされて、復活なさったじゃないか。何で哀れで可哀想で痛いイエス様をあんな風にあちこちに掲げられるのだろう。気持ちが分からない。イエス様の痛みを感じながら、自分の罪の深さを感じなさいというのであれば、神の救いとはなんだろう。罪は許されたんじゃないか。信仰問答になってしまうので、これはこの辺でやめるべきだろうが、私にはとても辛い教会めぐりだった。本当に贖罪の旅のような気がした。

午後は、サンタンジェロ城をとおり、ナボーナ広場を通り、サン・類似・ディ・フランチェー教会。パンテオンに。

疲れ果てた。
5日(日) フィレンツェからアッシジへ向かった。アッシジは聖フランチェスコの生誕の場所で、フランチェスコ修道会の総本山のあるところだった。私は大学時代に「ブラザーサンシスタームーン」という映画をみたことがあり、聖フランチェスコに少し興味を持っていた。清貧の聖人というイメージ。勿論良く知っているわけではないけれど。聖堂は山の上にあり、そこに至る道は田舎でムギが綺麗にうえてあり、山にはワインのブドウ畑やオリーブ畑があり、良い天気だったから風光明媚だった。

聖堂には棕櫚の日曜日だったから多くの参拝客が集っていた。儀式が行われていた。おなじみの賛美歌が流れ、クレド(信仰告白)もイタリア語で言っているのだろうが、きっと私達が言う使途信条のようなものだと思った。カトリックの人たちで、私達プロテスタントとは違うところが多いけれど同じ神を信じていると思いたい。せめて、フランチェスコやピーターやマリアではなく、イエス様を神様として受け入れた信仰であってほしいと願う。

しかし、あの清貧を旨として生きた聖フランチェスコ教会であっても、決して質素そのものとは見えなかった。それが、なんとなく悲しかった。聖人をあがめるのは、私の信条としてはお門違いという思いがあるのである。ごてごてした聖堂の中を見ながら、それは美しいフレスコ画なのだろうが、なんだかなあ。個人礼拝かなあという思いでしか見れないのである。このたびの中でいつも思ったが、信仰のない人のほうがすべてを美術品としてただ綺麗だの美しいだのと鑑賞できるだろうと思った。私は信仰が掛かっているので、どうも批判的に見てしまう。

お昼をドライブインで食べたあと、ローマに。ローマではまず、有名な3箇所を回った。まず、真実の口のあるサンタ・マリア・コスメディン教会、スペイン広場、トレビの泉へ行った。いわゆる観光。まあ、これでオードリーヘップバーンになったような気がするから不思議。ただ、映画と違うのは決定的に人が多い。そのうえ、車も通る。でも、スペイン広場の前ではガイドさんが「ここは人間優先ですから、車が待っているので構わずわたりましょう」と私達を誘導した。いつも車が通るのを待つ人間。本当は人間優先だわよ。それに、ヨーロッパに来るとアメリカ的なものが野暮に見える。信号なんか作ったのは、アメリカじゃないの?違う?

ローマ三菱で夫と息子にお土産を買ってあげた。またまた地味なネクタイ。私にはセンスがありません。
4日(土) フィレンツエで革製品が安いというので買い物をした後(ピンクのバッグを買ったし、靴も買った)、観光ガイドが付いていくつかの地点の説明を聞いた。ドウモにも入った。中は思ったよりも質素だった。外は何しろすごい建物だけれど。

その後、サンマルコ美術館へ行った。有名なアンジェリコの「受胎告知」等を見た。私はクリスチャンなので、マリア信仰にはついていけない。あらゆる教会にマリアが赤ん坊イエスを抱いた絵が描いてあったのは、はっきり言って????!!!!だ。また、この美術館は元は僧院だったところで一つ一つの部屋に十字架に掛かったイエス様が血をながして十字架で苦しんでいる絵が描かれていた。確かに彼は私達のために死んだのだが、それをあそこまで写実的に壁に書いた中で生活するその僧達を思うと想像を絶する。私は一晩だって寝れないだろうと思う。さもなければ、気が狂う。ここも、なんだかなあ。

その後、食事をした後、私はメジチ家の洗礼所の中を見学。ここも絢爛豪華。そして、午後2時半からウフィッツィ美術館へ。5時近くまで見た。何しろ、有名な作家の有名な作品ばかり。ポッティチェリのビーナスの誕生、レオナルドダヴィンチの受胎告知。ラファエロのヒワの聖母など、いたるところに有名な作家の有名な絵が掛かっていた。有名じゃない作家のものもたくさんあって、頭の中は混乱の極みだった。ちょっと見すぎた感じかなあ。

夜は、ツアーのほかの人を含めて食事。少し豪華な食事だった。まあ、ワインも飲んだので一人5千円ぐらいはしょうがない。でも、これが8日のツアで始めで最後の普通の食事になったとはその時は考えられなかった。結局女性2人できちんとしたレストランに行く事はなかった。
3日(金) ミラノを出発し、ベローナへ。ロメオとジュリエットの舞台となった町。そのモデルになった家が1200年からそのままに残っていた。かなり小さな粗末な家。貴族の家だったそうだが、昔は質素だったんだなあ。1200年とは鎌倉時代ぐらいかな。日本でもきっとその衣ロマンスはあっただろう。しかし、なんだかロマンスが不思議なようなロマンティックでない家だった。

ヴェローナ自体は古い街をそのまま保存してあるような街だった。狭い道。古いコロシウム。そして、ドオモ(その町の聖堂)。狭い街の古い家を改造して、店が立ち並んでいた。私はそこで安いバッグを買った。とても素敵な若いセールマンに「マダ〜〜ム」とかいわれて、お財布を見せられ、綺麗な若い男性のセールスマンのいいなりに買うつもりもなかったお財布も買ってしまった。なんだか、中年男性がデパートで若い女性のせールスウーマンの言いなりになる気持ちが分かった気がした。やはり、若いせースルマン(使っちゃいけないかもしれないが、イケメン)はそれだけで、消費者の購買意欲を増すかもしれない・・・・

その後、フィレンツエへ。素晴らしい大理石で出来たドウモの前で別れて買い物をした。明日のためのウフィッツィ美術館の予約もできて嬉しかった。酒屋によって、おいしいらしいトスカーナ地方のワインを買った。キアンティはパス。本当はマンローも買うつもりはなかったが、お薦めというので買った。まあ、いいか。赤1本、白2本。友達がお酒を買わないというので友達の分も買った。白1本。

お店に立ち寄って、とても高い味の付いたオリーブオイルを買った。サラダや料理に使う。きっと、夫も大好きだろう。
2日(木) ミラノ、ドウモを見学。ドウモの前のブックストアで買い物。宗教関係の必要品を大量に買い込んだ。娘の受洗祝いのネックレースとペンダントトップ。勿論、十字架のもの。スーパーに行ったり、買い物したりした後、「最後の晩餐」を見に行った。良くぞ、アメリカ軍の爆撃から逃れたものである。そのあと、スフォルツエスコ城の美術館へ。友達は何回もイタリアに来ているから、私のような初心者の相手はつまらないだろうなと思う。しかし、疲れきって、5時半にホテルに帰った。7時過ぎにおきだして、ピゼリアで食事。特においしいとも思わないピザだった。
1日(水) 今日は朝5時に起きて、まとめてあったスーツケースを持ち、5時半には所沢東口にいった。途中で道を間違い、遅れるかとヒヤヒヤしたが間に合い、6時10分の高速バスにのって成田へ。1時半のJALにのり、ミラノへ。

長い長い飛行機のたび。とにかく、6時間を過ぎてからは嫌になった。隣の人と話をしたりしながら、時間を持たせた。本を1冊読んだ。持って言ってよかった。一睡も出来なかった。ミラノに到着後、入国手続きなどを経て、ホテルには日本時間の朝4時ごろ付いた。

それでも7時間の時差があり、ミラノ時間は夜の9時過ぎだったが、眠くて爆睡。しかし、体がおきてしまい、2時、4時と目を覚ました。2時って日本時間の9時だもの目も覚める。

現在メール
があった県など: 大阪、岡山、福井、新潟、埼玉、神奈川、東京、アメリカ、稚内、登別、長野、広島

私のメールアドレスは
kumiko@takahashi.comです。たくさんのメール待っています。
バックナンバーへ