私の独り言 2004年 

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心のままに思っていることを書いていこう。嬉しいことに喜び、悲しい事に嘆き、怒る事も忘れまい。一生懸命生きようと思う。

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5月 私の独り事
31日(日) 今日は朝礼拝。

礼拝後、ミューズへ。イングリッド フジコ ヘミングさんのコンサートがあって、当日券が買えるというので並んで買った。まあまあの席だった。13500円。高いけれど、オーケストラもついたベートーベンの皇帝をひくのだから、そのぐらいは仕方がないのかなあ。オーケストラは普通のオーケストラだった。可もなく不可もなくという感じ。私はプロじゃないから好きなように聴くだけで、素晴らしい演奏だったのかもしれないけれど、私にはあまり響かなかった。ただ、富士子さんのピアノは別だった。皇帝をあんなふうに弾くのを始めて聞いた。オーケストラも驚いていたようだった。ベートーベンの作品の素晴らしさがオーケストラをまるで違うものにしたのか、フジコさんのマジックがオーケストラを変えたのか分からない。

フジコさんの音楽はどこかに痛みを感じさせる。尾崎の持っている繊細さを感じさせる音楽だ。だから、尾崎のファンのようなファンがフジコさんについて回る。繊細さといっても、フジコさんはバンバンとピアノを弾くので繊細さの意味が違う。尾崎もがんがん歌うが繊細なのである。音楽ってこういう風にあるべきというものではないんだと実感する。音楽は自分の人生を切り取って見せる事なんだろうと思う。でも、自分をさらけ出す事は、神ではないのでよさも悪さもすべてさらけ出すには痛みを伴う。芸術家というのはたいした職業ではあるなあ。フジコさんのも尾崎の音楽もどっちにしても好き嫌いがはっきりする音楽だ。それは、それぞれの人生をどう見るかというその点にあるのだろう。

夜、息子の18歳の誕生日。誕生会をした。夫がケーキを焼いてくれた。幸せな家族だ。お兄ちゃんのガールフレンドも来て、楽しく過ごした。8時過ぎ、私はトレーニングに飛んで行った。
30日(土) 午前中、アメフト部のお母さんと6日の総会について話し合った。勿論、私達の話はあちこちに飛んで、朝食をバーミアンでとり、お腹がすいてお昼もそこで済ました。なんと4時間も話し合っていた。結論は、子供達は良いか悪いか分からないが、勉強では絶対学ぶ事のないものを部活動から学んだという事。それに、大切な大切な友達を得た事も素晴らしい事だった。

その代わり、勉強はどんどん下降線だった。思い切り部活をして、夜9時半に帰ってきて疲れきって勉強どころでなかった。親も仕方がないとして目をつぶっていた。本人も成績にそんなに執着もなかった。すべてが部活を終えた後という事だった。で、終わったので勉強してほしいと願っている。本人も勉強をしなければと思い出したようだ。どこまで、成績が伸びるかは分からないけれど、最後の最後まで頑張ることが必要だと思う。

2時過ぎにかえってきてから、少し家事をしていたら、息子が帰ってきて息子と一緒に池袋の予備校へ。用事を済ましてから、息子はラーメンを食べに行った。この頃の彼のシュミはラーメンを食べ歩くことだ。私はジュンク堂と西武の本屋を見て帰ってきた。帰ってから、夫に私は池袋に行こうが、新宿に行こうが、銀座にいこうが結局洋服なんか見ようとも思わない。ただ、本屋で本を見て歩くのが好きで何か気にいった本は買いたくなる。新本でなくても、中古本でも構わない。最近は尾崎関係の本やCD,DVDなんかも見て歩くようになっている。楽しみが、趣味があると孤独じゃない。孤独が全然怖くない。現実逃避にならないようにしなければならないけれど。
29日(金) 今日は原稿を書いていた。午後遅く、書くのに飽きて外に出かけたくなったので、議会へ。役所で書類も必要だったし。

おなかがすいたので喫茶でサンドイッチを食べた後に、また議会の図書館に行き、一問一答をしている多摩市議会や入間市議会にいる友達の一般質問を読んだ。あんな風に出来るだろうか。きちんと言いたいことを考えなければ、出来ないんだろうと思う。私はああいえばこういうという頭の回転がない。何を何の目的のために質問するか、その趣旨だけをきちんとできるようにしなければ。不安だ。

夜、トレーニングをサボった。夫は娘と映画を見に行ったが、私はスペース映画が好きでないのでパス。それに人殺しというか殺し合いをする映画も嫌い。夫に「アメリカはインディアンを悪者に出来なくなったから、今度は悪い宇宙人と戦うことにしたんだわ。」と言ったら、夫は「日本人は怪獣を作って殺しているんじゃないか」と言われた。そういえば、そうだね。人は何かと戦いたいのか。仮想敵がないと一致できないのか。私は、「愛し合う事が大切なんじゃないの。」と夫に言った。夫は私の好きなロマンティックな映画より、スペース物のほうがワクワクするらしい。

夫の留守に息子と一緒に、予備校と勉強について話した。彼は受験生。これからが勝負なのである。
28日(木) 今日は何をしていたのだろうかという日。家事はしました。そして、コンピューター前にもいました。本も読みました。が、原稿がかけない。書かない。しっかり書きはじめなかればとおもう。何しろ、こちらの発言時間がたった35分しかない。だから、質問は、「なぜですか。どうしてですか。何でそうなるんですか。」というわけも分からない短い問いだらけになるはずなのである。まあ、それの方が分かりがいいという事もあるかもしれないけれど、話の深まりはなくなるんでしょうねえ。やってみなければ分からない。とにかく原稿を揚げましょう。

夜これからトレーニングに行く。
27日(水) 今日は、朝のんびりと家事をしようと思ってはいたが、育成会の総会があったので出席。言いたい事は山ほどあるが、全部言い切らず、一応最後の言葉は飲み込んで帰ってきた。福祉団体だというのに、本当にあこぎな事が出来ると思う。それをなんとも思わないのだから、同じ事を子供達にされたとしても抗議なんか出来ないんだろうな。酷い!

午後は、一般質問を書くために控え室で頑張った。何しろ私はウインドウズのXPで仕事をしているのだが、議会のコンピューターがなんとVISTAに変えられてしまったので、勝手が違ってやり憎いこと、やり憎いこと。そのうえ、フラッピーも使えなくなって、なんだか不便なのだ。とにかく、5時前に通告書を提出。15番だそうだ。17人が通告したそうだから、3日間を6,6,5人が一般質問する。通告書も詳しく書けというお達しなので詳しく書いたら、書きすぎとか言われて、書きすぎた分は第一質問を外れて行う事にした。請う、ご期待?!

帰ってきる前にヤオコーによって買い物。ゆっくり夕食を作っていたら、夫が帰ってきた。水曜日は一応ノー残業デイではある。でも、大抵中間管理職は残業をする。でも、少し早く帰ってきたので、娘の自転車を治してあげていた。夜、今日はトレーニングに行かないつもりなので、夫とビールで乾杯。(車に乗るときにはお酒は飲めないでしょ。だから、トレーニングに行く時は飲まない。)
26日(火) 今日は、朝から家事をしていたら議会から電話で市民と会うことにしていたのを忘れていた事に気がついた。急いで議会に行って市民の話を聞いた。

税法上の問題。白色、青色申告する際に配偶者の給与が経費として計上されない事に問題があるのではないかという事である。大抵、世帯主が男性で女性は配偶者として、最大85万円の控除の対象にしかならないなんて前近代的である。夫婦で行っている事業であるならば、収入は折半でそれぞれが税金を払う方式がベスト。また、それをするのであれば、きちんと労働時間などの決めも必要である。寝たきり老人すら家内労働者として50万円の控除なんて抜け道になったら駄目だ。それにしても、息子達も一緒に働いている場合はかなり悲惨に思える。まあ、きちんとしたかったら法人格を取って企業として行うべきなのかもしれない。

午後は、一般質問の事をあれこれ考えていた。どうして時間がこうも掛かるのだろうかと思うのだが、結局考えるだけで終わった。夜、遅くなったが市民体育館でトレーニング。
25日(月) 今日は、議会。朝9時からのはずだが、いつものように遅れて、全協もあったりして、始まりがなんと11時半だった。ボーナスを0.2か月分少なくするという人事院勧告を実施するという事だった。その後、議員も削減を決めた。結局議会が終わったのは3時を過ぎていた。

私は朝寒気がして仕方がなかった。そのうちに熱くなって汗が出たりした。帰ってきて、ベッドに入った。少し元気になった。後でまた入間の湯にサウナに入りに行こうと思う。
24日(日) 今日はフェミニスト議員連盟の総会。その後、勉強会。その後、懇親会。帰ってきたのは、10時半。疲れました。
23日(土) 今日は午前中はオアシスの総会。午後は聖望学園のPTA総会。夕方からの懇親会をパス。夕食を食べた後、私はサピオでトレーニング。その後、夫と入間の湯へ。岩風呂に入ったり、サウナに入ったり、夜中に2人で帰ってきた。
22日(金) 今日は、朝会計をきちんとノートに写し、午後に浦和まで提出に行った。遅くなってしまった。初めて自分で会計をしたが、杜撰な自分に嫌になる。私は事務員は出来ません。

夜、里親会の総会。今は総会シーズンなのである。
21日(木) 今日は朝から会計を頑張っていた。そして終わった。エクセルをずいぶん使えるようになってきた。それでも、まだまだ、書式が綺麗にならなかったりする。なんだか、一日があっという間に終わってしまった。
20日(水) 今日は、朝うちにいて、11時半に息子のMRIの結果を聞きに石心会へ行った。ご心配なく。何処も悪いところはなかった。あの頭の痛さは98%は原因不明なのだそうだ。偏頭痛の薬と普通の頭痛薬を貰ってきた。薬で治る頭痛には薬を使ってもいいのだそうだ。しょっちゅう頭痛薬を飲んでいるのを見るのはいやだし、どこか副作用がないのかと心配でもある。しかし、しょうがない。偏頭痛に関しては、起したら見ているのも辛い状態だ。真っ青な顔をして、薬を飲んで吐き気に耐えているのだ。起きなければいいなあ、これだけは。薬の使い方が難しいそうだ。

午後は、役所に行き、調べてもらったものを貰ってきた。狭山市の調査係は本当に有能で、この3年間、調査を頼むと思っていることがきちんとされて出てくる。他の市でも私の友達の議員はさまざまな調査をしてもらっているようだが、狭山市の調査のレベルはお世辞でなくて立派だと思う。私は事務局についてあれこれ書くことが多いが、事務局自体が間違っているというのではなく、議会の事務局への係わり方に問題があるというのが多い。まあ、事務局長が議長ときちんと話し合い、自分達の仕事についての見識をきちんと持つことが大切かもしれない。このてん、事務局長が議長に対して物を言うというのが難しい事を考えれば、「はい、はい」としかいえないのだということも想像できるけれどね。

珍しく教育委員会議を傍聴した。1年に1回は行くようにしている。会議録の請求をした。今回の会議を見て、ある委員がきちんと質問し、意見を言うのに驚いたし、よいことだと思った。今までは報告事項に対して何の意見も質問も出さないような教育委員会議しか傍聴していなかった。教育長、委員長は別として、他の委員がきちんと発言しないでは、会議そのものの意義すらなくなる。だから、新しく選任された女性委員、きちんと発言してほしかった。私の反対を押しのけてすら選任されたのだから、あの長かった会議の中で一言の質問、意見を言ってほしかったものだ。それとも、ご発言があったにもかかわらず、私が聞き逃したのだったのか。

この会議の中で、インフルエンザ対策の話が出た。16日から20日にかけて、3つの中学校が関西方面に修学旅行に行った。後の健康観察が大切である。出来れば、行った生徒は3日ほど部活をさせないぐらいの事をしてもいいのではないかと思う。7日間が潜伏期間だったら、7日間は1,2年生とあまり接触させないほうがいいのかなと思う。なった時、タミフルは聞くけれどやはりタミフルの副作用も心配だしね。感染を阻止するつもりが必要だと思う。勿論、修学旅行中に感染していなければそれでいいわけだが。

今回傍聴してみて、やはり情報を売るためには公開されている会議には傍聴すべきであると感じた。福祉審議会はいつだろう。傍聴しよう。

夜、トレーニングにも行かず、さっさとお刺身とご飯をたべて、ワインを飲んで寝る。ちょっと飲みすぎだけれど、夜に仕事をしないと決めたらなんだかゆったりとした気分である。
19日(火) 今日は、一日中家にいて仕事。事務仕事に事欠かない。いろいろ考えながら仕事。

最近の自分について考え始めている。多少、欝の傾向があって、人に何か言われたりすると落ち込む。自分の性癖というか性格というかそんな事やら、外聞やら体裁やらを過大に思ってしまう訳での落ち込みだ。ずいぶん長いことこの病というか状態が続いている。最近、少しづつよくなってきている感じがしている。苦さってしまうだけでなく、乗り越えるために嫌な事にようやく対峙できる感じがしてきた。自分を甘やかしていたが、そうでもしないと崩れそうな自分がいて、危ういので自分をだましだまし支えていた部分があった。孤独が好きで、この1年間は一人ぼっちになりたくてたまらなかった。そして、一人でいてもちっとも困らないし、寂しくもない。

自分の仕事の整理を今週中にして、6月からは新しい出発を考え始めた。新年度初めての一般質問があるのだ。議会活動はともかくとして、後援会活動はほぼ中止している。今の体制では動かす事は出来ない。市民活動への参加だが、狭山市の市民活動はどうしても市とリンクしたものが多く、市とリンクしないものへの参加を考える時期が来ていると思えるようになった。しかし、何があるのだろうか。少し研究して皆蹴れ場と思う。出来れば、福祉オンブスを立ち上げたいなあ。障害者福祉でいろいろな事を伺っている。虐待とはいえないかもしれないが、手薄な状態での施設は目が届かないという事事態がもうネグレクトに当たるかもしれない。小さな会でも立ち上げられたらいいなあ。どうしよう。

この前、市川房枝さんの所で多くの市議会議員にあって、それも無所属の議員さんに会ってみて、本当に地道な活動に頭が下がる。ようやく私も自分の道を少し整理して、動いてみようという活力をいただいた。頑張ろう。

夜は市民体育館でトレーニング。新しい機械がとても使い勝手がいい。サピオは込みすぎているし、機械が時々故障して使えないし、機械の種類も少ない。狭いところだから仕方がないのだろう。だから、市民体育館に行く。ただ、市民体育館の駐車場が狭く、暗いのが嫌だなあ。それと、汗の処理。サピオはすごい清潔にしている。あそこほどにするには、ジムに常駐の人がいなければならないから難しいのかもしれないが、とにかく定期的にみて、綺麗だろうがどうだろうが、拭くことを願う。一度、体育館の人はサピオを見に行けばいいのにと思う。
18日(月) 今日は、一日中、コンピューターにかじりついていた。HPを書いたのだが、かなり長い文になった。ほぼ、5時間は掛かっている。午前中は、一体何をしていたんだろうという感じで、何一つ手がつかなかった。

やる事はあるが、忙しくて忙しくて。

夜サピオでトレーニング。
17日(日) 午前中は礼拝。本当に久しぶりだった。メッセージがありがたかった。イエス様を思った。十字架を思った。讃美歌が心に突き刺さった。神様ありがとう。礼拝後、尾崎のお墓へ。掃除をして、霊園の緑をそよぐ風が気持ちよかった。お花が上がっていた。勿論、尾崎の好きなゆりの花も。

昼食を食べて、古本屋によったら、なんと3時前。急いで帰宅。こんな時は渋滞。息子を連れて石心会へ。MRIを撮った。なんともないといいが・・・息子は心配して何かあったら教えてほしいそうだ。とにかく何もないことを祈ろう。

帰ってきてすぐにカルフールへ。買いたいものがあったのだ。時にはカルフールに行かないと変えないものがある。嗜好品、コーヒーなんかはアレじゃなければいやというのもあるし、輸入品でほしいものもある。この前、夫にアメリカからたくさん食料品を買い込んでもらったが、ヨーロッパのものは買えなかった。

子どもに食事の準備を頼んで、私はアファーの最終校正へ。結局10時近くになった。途中で夕食の準備を結局手伝ったりしたから時間が掛かった。もう印刷所が徹夜で印刷して明日事務局へ発送してくれるそうだからよかった。とにかく、市川さんやフェミ議や全国の女性議員のためのお手伝いが続く。首都圏にいる議員の役目だろうと思っている。
16日(土) 今日は、朝から市川房枝記念会の「市川房枝生誕115年周年記念事業」のリレートークが午前中にあった。昨日は私も参加したが、今日は他の議員が中心となってのトーク。残念ながら、私が婦選会館に着いたのがお昼を回っていたので食事を皆とし、その後、「“いつか来た道”−市川房枝の戦前・戦後」と題する記念フォーラムに参加した。

市川房枝さんについてはその生涯をどう評価するかで大いに評価が割れる。私のように、物心ついた時から市川房枝さんが政治家であった人と、昭和の前期を生き、市川さんがどのように戦争中に軍事政権と係わったかを知っている人では距離のとり方が違う。彼女は3年間も戦争協力者として米国からパージの対象者とされた。すなわち、公職追放されていたのだ。戦時中、特に1937年以降、市川房枝さんは他の有名な女性活動家とは別の生き方をした。すなわち、軍事政権下で女性の生活改善(!!!!????)と女性の地位向上(!!!!????)に尽くそうとした。平和活動から、女性の参政権獲得運動からも手を引いたというか、引かざるを得なかったが、彼女はお国のために女性がなすべき事を率先してやる時に、女性の地位の改善が出来ると思ったようである。多くの審議会委員や理事を務めた。大政翼賛会の理事もした。大日本言論報告会理事もした。婦人時局研究会を率いた。婦人時局懇話会のメンバーであり、夫人義勇軍構想もあったようだ。石原莞爾の唱える「東亜新秩序の建設」を和平の実現と捕らえ、その際に邪魔をする中国政府の蒋介石を倒す事をよしとしていくのである。

天皇制に疑問を持たなかったのも市川房枝の世代としては当たり前だったのかもしれない。国の大事な時に女性もそれの責任を担うべきだと軍事政権を受け入れたようだ。その点が後々問題となる。本人はその点をどう思っていたかが知りたいと思うが、自分が積極的に戦争に加担したという認識はその後もなかったようである。現実主義者の市川さんは、体制内でいかに女性を生かすかを考えていたのかも知れない。事実、彼女が率いた婦人時局研究会のメンバーが後に戦後の婦人運動を支えたとも言われている。

確かに87歳まで生きた市川房枝さんの人生を見れば、短い間でも狂った体制に翻弄されたという面もあるだろう。それで、すべての市川房枝さんの功績が無くなるわけでもないだろう。金権体質とははるかに離れたところにいただろう。無党派という事で、女性問題の要になりえたからこそ、売春防止法も出来たのだろう。市川さんが戦後政治家として女性達の大きな力となったのは事実だ。それを評価するべきだ。

しかし、どうして他の活動家のようにあの狂ったとしか言いようもない時代に逼塞した生活を送らなかったのだろうか。戦争協力などせずに送ってほしかったなあというのが私の思いである。戦後パージされるまでの2年間、彼女は巷の寵児のように講演をして歩く。首相の月給が3千円のころ2800円も稼いでいたというのだからすごいものである。これをどう理解するか。変わり身の早い人だというか、彼女の本質的に活躍できる場が与えられたのだと取るか。

人間誰しも間違いがある。それに対する反省はどのようだったのかと考える。きっと市川さんも考えただろう。どんな事を考えたのだろうか。彼女の合理性は間違ったところをただし、反戦平和、女性問題に突き進んでいくわけだ。確かに一貫した女性観はあったと思う。女性の政治参加に対する思いがあったからこそ、軍事政権下でも女性運動のために利用しようというしたたかな面があったのだろう。タダタダ、戦争を座してみていたわけでなく、戦争に勝つための努力をした。市川さんが女性として只ひとりの理事だった会が大政翼賛会だけでなくいくつもあるし、彼女の戦争協力に批判的だった人を引き摺り下ろしたという話もある。やはり、彼女はパージされるべきひとだったし、パージされて出直す必要があったと思う。ここだけを大きく見てはいけないと思うが、人は間違いをした後どうするべきか、その対処の仕方をも市川さんは教えてくれる。彼女の処し方がよかったというわけでなく思えるのが残念である。

夜はオザカラへ。
15日(金) 今日は午前中に議会事務局へ。13日に議会に行った時に、代表者会、議運が臨時的に開かれるというのを聞いていたので、出かけた。午後から、市川房枝さんの所で記念行事があり、リレートークの一員だから時間があまりなかったが、とても大事な事を話し合うのだからと1分でもいいから傍聴しようと思ったのだ。

まず、議会での私のスタンスを言おう。私は無所属議員、つまり会派に属していない。すなわち、自分ひとりで動いているという事で、議会でも常任委員しかしていない。他の特別委員会、議会運営委員会、代表シャ会には参加していない。狭山市は議員が他の委員会に出席しても傍聴者扱いで発言させない。員外委員として認める事が合ったためしもない。代表者会にいたっては傍聴もさせない。常任委員会は基本的には議会開催中が多いが他の委員会は閉会中も多いが、それがいつどこでもたれるかを事務局は無所属議員に教える事もない。決まった時点で出来ればHPで流してほしいものだが、今回に関して言えば調査担当に開会が知らされていたかも不明だ。だから、13日に議長から開催を知らされるまで、私は何をいつどこで議論しているのかすら分からなかった。

はっきり言って、6月議会から一問一答式の一般質問になる事すら私は知らなかった。事務局は私のような無所属議員に議運で何を話し、どんな動きをしているかなどを報告する義務はないのであるから、私が情報もなく何も知らなくても仕方がないのだろう。今日、一問一答え形式にするための申し合わせ事項と留意点について、代表者会が開かれ議運で話し合いがもたれたわけだ。私は、代表者会の短い報告を事務次長から受けたが、留意点を読んでのけぞるほど驚いた。時間がなかったから、報告を受けた後にすぐ議運の傍聴に行ったが議論の深まりが足りない。いや、私が一番思ったところはどの議員も追及しなかった。

下に私がのけぞった文を書くのでよく見てほしい。そして、この点をちょうど午後から市川房枝記念会でいろいろな議員にあったので聴いたら、みんな驚いてしまった。

●具体的に記載されていない通告書は、その時点で事務局より指導
→再度、具体的に記載した時点で提出する
 判断基準 :要旨が具体的でなく、広範囲で広く捉えられるような記載は不適格
                       (複数の事務局職員により判断)

ここまでで、何か変じゃないかと思わなかったら、議員として不適切かもしれない。まず、通告書を事務局が点検し、指導する議会があるのか。指導するとは何か。事務局の仕事のひとつが「議員を指導すること」にある議会とは一体どんなな議会なのだろうか。いや、通告する、発言する事に関してその内容も含め形式もアルだろうが口出しできる権利を事務局はなぜ持ちうるのだろう。議会の補佐として事務局があるのに、補佐が議会を指導する?まず、他の市の議員さんに笑われた点はここにあった。

指導した挙句、狭山市議会では不適格なものを直して通告書を再度提出するという事は、通告書を受け取らない権利を事務局に付与する事だ。議長ですら通告した発言をむげに取り下げる事もできないのに、通告すらさせない権限を議会事務局に付与するという事は、議会の基本的な権利、発言の自由の制限を事務局が判断してもよいことになる。こんなむちゃくちゃな話をなぜ、議運で話し合いもせず通すのか理解不能だ。

たかが通告書の形式をチェックするだけというなかれ、事務局は不適格な通告書を複数の事務局職員で判断し、通告させないという事が可能になるのだ。おかしいじゃないか。再提出は可能です?!冗談じゃない。公職選挙法に則り、選挙によって市民の付託を得ている議員の発言を、どういう権利があるか不明だが、職員が適格かどうか審査し、適当でないならば指導し、そして、通告を受け取らず、再提出させる!!!

発言ではなく、形式を直すのですというのは、間違っている。要旨が具体的でなく、広範囲に思えるかどうかなんて主観による。具体的かどうかなんて正に内容のチェックと同じなんだ。そして、「よく分かりませんから、受け取りません」なんて事務局が言うようになっちゃあ狭山市議会は死んだも同じだね。議長ですら断れない通告を議会事務局が断るのが出来るんだから。通告を受け取らないなんて考えられない権限だ。事務局が議員の発言制限をすると同じだ。狭山市の民主主義は複数の事務局職員の手に渡ってしまうという事だ。

議会、特に地方議会は憲法によって保証されている議会だ。その議会は選挙で選ばれた議員で構成され、住民のための生活に資するために議決機関として役割を持つ。今までだって、今だって付託の重さがずっしりと議員を縛りつけている。そして、議会での発言がその仕事のすべてであると私は思っている。誰が何を言おうが住民のためでアルならば、発言をしなければならないと思う。時には懲罰動議も出た事もあった。一部の人間が私のいう事を聞きたくなかったんじゃないかと思う。それでも、ハラをくくって発言した。発言は権利であり、議員の義務である。そんなに重いものを、事務の補佐である事務局員が不適格かどうか判断するなんていう議会がどこにあるのか。通告させないで再提出させるなんて議会を見たこともない。あるとしたら、議会が議会として機能しているか、その議会の水準はどうか、、2元代表制の議会としてきちんと執行部と対峙できているか知りたいものだ。

→判断つきにくい場合は保留とし、議長の判断により対応

だそうだ。保留する権限を事務局に与えるのをなんとも思わない狭山市議会。議長の判断は議運で図るという話は出たが、形式が具体的でないから通告書を受け取らないという判断を議運がするのか。いまだかって、通告したものを受け取らなかったという事例は古今東西というか狭山市議会始まって以来一度もなかっただろう。こんなひどい留意点というか、申し合わせをするのを代表者会でも、議運でも問題にしないのはなぜだろう。一度、私はこの過程を通って高橋ブラクソン久美子の通告を保留とされ、議長判断をしてもらうのもよいかもしれないと思っている。その際、通告を却下した場合には、裁判で争う事になるだろうが、仕方がない。たとえ、私が負けたからといってそこで議会と事務局、議員の発言と発言の自由のことが喚起されればそれでよいのかもしれない。

先ほどから言っている様に、いくつかの市議会議員に聞いたら、あきれられていた内容だ。ある市の議長にも尋ねたが、毅然として言った。「議会内の事は議員が決めるのであって、事務局にさせるなんて恥ずかしい事だ。」前代未聞だろうが、通告をさせない決定をする議運だったり、議会だったりするのもアリかもしれないが、それは議会が議会として対応すべき事であり、議会事務局に権限を持たせるというのは狭山市議会の劣化を示しているんじゃないかと思う。辛らつだけれど、私にこの協議の過程が報告もされず、議運も代表者会も参加できず、発言の機会すらないのだから、この場できちんと自分の意見を表明するのが私の義務だと思うから、書いておく。

午後は、市川房枝生誕115周年記念事業の現職議員のリレートークを行った。勿論私も「女性と政治センター」の企画運営委員として出席、リレートークに加わった。私は全国の女性議員や女性のために少しでも役に立ちたいと思っている。フェミ議の世話人をしているのも、広報担当をしているのもその責務を考えているからである。狭山市議会ではごまめの歯軋りのような日々が続いている。そんなのが嫌だったら会派にでも入ればいいじゃないかといわれそうだが、入りたい会派もなし、首長とは距離も持っていたいとなると、野党とか与党とか言われる人たちと一緒に活動するのは嫌だ。市川房枝さん譲りの無所属となる。よい点もあるし、悪い点もある。それは仕方がないと思っている。

いつものように紀伊国屋にいって本をひとわたり見てから帰ってきた。娘がご飯を作っていてくれた。疲れた。
14日(木) 今日は、朝から頑張って又会計の事。本当に際限なく時間を取っているが出来ない。頑張ろう。

一日中家にいて、お手伝いさんがお勝手をしてくれているが、どうしてこうも時間がたつのが早いのだろう。あっという間に夜だ。全く。
13日(水) 今日は、昨日の書類を議会に持って行った。議長と少しはなしをして、6月議会から一問一答式の一般質問になると聞いて驚いた。すべて、議論が尽くされているらしい事にも驚いた。無所属議員の情報量の少なさはいかがなものか。議会で何が起こっているか、何がどう議論されているか全く知る事の出来ない私なのだが、私がいけないのか。どこでどうやったら情報を得られるのか。議会内のことだもの、私が知るべき内容ではないのか。決まってからああだこうだと言っても仕方がないだろう。

すべて、私はしりませんでした。皆さんが決めたんです。どんな事を決めたにしても私には責任ありませんよという立場を取るには本当によいポジションだろう。共産党さんよりも批判できるポジションにいるのかもしれない。そのためにこそ、私は無所属でいるのかもしれない。孤立無援で孤独だけれど、その自由度で仕事をしていくメリットを使わなければ、市民のお役に立てず、自分の存在意義もないかもしれない。そんなことを考えながら、帰ってきた。

夜、市民体育館へトレーニングへ。
12日(火) 毎日、スケジュールを白紙にしてあるのに、どうしてこんなに忙しいのだろう。今日は、お手伝いさんに嘆いたら、「そりゃ2人のスタッフがやっていたことを自分ひとりでしようというのだから、忙しくて当たり前ですよ」と言われた。そうなんだよね。それで、頑張ってもちっともはかどらない。

会計もある。本当に何がどうなっているのか。エクセルも少しずつ使えるようになって入るが、まだまだ理解できていない。書類の作り直しをしたけれど、大丈夫だろうか。後で議会に持っていくつもり。
11日(月) 今日は息子がさすがに学校を欠席した。痙攣を起すとその後、筋肉痛が酷いと言う。それに、頭痛。息子の頭痛は私の頭痛の種だ。特に、アメフトを始めてからというもの、頭痛が治らない。いつもいつもバッファリンをもって学校へ行くというのはどういうものだ。昨日の痙攣も脊髄に問題がないかと夫は心配をした。お医者さんはとにかく脱水症状と熱中症といったが、グランドにいたドクターは精密検査をしてもらうべきですねと言う。それで、今日は石心会の狭山病院に連れて行きたかったのだが、電話がつながらない。

しょうがないので、病院まで出かけ予約で一杯の所を無理やりお願いして、先生にお話しをして、MRIの予約を入れていただく事にした。癲癇の発作とは違うがあんな痙攣は生まれて始めてみたような酷いものだった。癲癇発作は1時間も続かない。なんともないといいが・・・ドクターによると頭痛はほとんど気質的に問題がないときに起きるようで、「大丈夫でしょう」という話なのだが、検査をするまで心配である。結局、午前中、病院関係の事で終わった。

お昼ごはんを子どもに食べさせたらもう1時半。すこし、ゆっくりしたいと横になって、はっと気がついたら銀行へ行く用事と夫の定額給付金の申請を思い出して、書類をかき集めて銀行へ。銀行がまた、病院同様時間が掛かる。いくつかの用事を済ませたらあっという間に、五時前。急いで役所のロビーの所で夫のための申請を終えた。ぎりぎりに入るお客は嫌だろうなあと思ったが、明日にまで伸ばしたくなかった。

その後、6階の定額給付金のプロジェクトチームを覗きにいったのだが、すごいオペレーションだ。こんな、お金は出すけど、自治事務で自分達で勝手に支給しろなんていう補助金はいかがなものか。それに、全国で出しているのだから、狭山市はしないなどといえない補助金なんか自治事務といえるのか。変だよね。もう、6割が申請したというが、今後の4割がいつまでに申請されるやら。これからの方が大変だ。1件たりとも無くしたり、出さなかったり出来ない。本当にご苦労様なのだ。派遣社員が働いている。出来る限り派遣を使いたくなかったのだが、人を集めるのが大変らしく、登録をしてある派遣業者に人を集めてもらったらしい。女性ばかりだそうだ。この頃の派遣切りにあっているのは、男性ばかりがクローズアップされているが、実は女性の数のほうが圧倒的に多い。この、1ヶ月とか2ヶ月の派遣の労働者の賃金はどうなっているんだろう。

帰ってこようとおもったが、子供達が夕ご飯の準備をしてくれるというので、私は市民体育館へ。最近はサピオが込みすぎていて、ちょっと嫌になった。それで、新しい機械が入った市民体育館へ河岸を変えてみた。機械のせいか、こちらの方が消費カロリーが少ないのが気になるが、汗だくだくになるのは同じだし、シャワーもあるからこちらでもよいかと思っている。良いところだから、もっと宣伝をすべきだと思う。只、1時間かそこらに一度はトレーニングルームにだれか職員が来て、汗まみれになった床を拭いてほしい。人の体液がそこそこにあるのは不潔だ。その点は、サピオはきちんとしている。それと、女性が夜にいないのはどうしてだろう。サピオのよさは女性職員が多いことだ。私のような女性にはうれしい。
10日(日) 今日は朝からまた立教新座高校へ。息子のアメフト部の最後の試合の応援に行ったわけだ。この前遅くなったので、朝8時過ぎに出かけたのに、なんと道を間違えてしまい、着いたのはかなり直前。でも、何とか間に合った。

試合は10対6で負けた。悔しいと言えば悔しくて、いや大変に悔しい。ただ、勝つ試合をしなかった。子供達は自分達の完全燃焼のための試合だったのだ。3位でも4位でもよかった。この2年間の思いをぶつけるような試合がしたかった。監督もそれが分かっていてくれて3年生は自分達で試合を組み立てて好きなように闘い負けた。選手一人ひとりを見れば、もうぼろぼろだった。キャプテンは両膝がはれ上がっていて、ドクターに見せればドクターストップ物だったと思う。あの子もこの子もこれがアメフト最後の試合だった。体を痛めていて、大学に行ってアメフトが出来る状態ではないだろう。家の息子にしてもそうだった。

息子は体を使い切って試合をした。試合中からの痙攣が両足におよんで、試合後1時間半も直らなかった。胸にまで痙攣が来たときに危ないと言うので救急車を呼んだ。歩くことも立つ事も座る事も出来ないで、顔を真っ青にして苦しんだ。救急車で運ばれた病院で点滴を1リットル入れた。熱中症と脱水症状。すごい速さで水とイオンの入ったIVが流された。見る見るうちに顔に赤みが出てきて、見る見るうちに痙攣が直り始めた。熱中症って症状は知っているけれど、こんなにむごたらしい状態になるとは思いも寄らなかった。早くに病院に連れてきてやればよかった。

顧問の先生は精神的に弱いから熱中症になると言うような事を言ったが、実際の所は試合中の水の量が足りなかったんだろう。35度の中でほぼ1時間の試合。緊張もしていたけれど、試合に全部出ると言う状態で、あのヘルメットと防具でラインマンをしていた。そのうえ、最後の試合だから気合が入りすぎて、あたりもいつも以上だった。いつも精神のことばかり言う私だが、身体的なことをあまりにも精神主義で片付けられるのはちょっと違うかなと思う。試合中にはもっと水を入れる改善が必要だろう。

病院に3時間ほどいて帰ってきた。見舞いに来た先生に「子離れしなければならない」と言われたが、私は子離れしすぎているような親だと思うんだけれど。ただ、日本の家庭感とアメリカの家庭感が違うのかもしれないと思う。アメリカ人は家庭を大切に思う。家族の喜びは一緒に共有するし苦しみもだ。日本のほうがその点個人主義的なものが多いのではないかと思う。子どものゲームにおじいさんも含めて全員で観戦するなんてアメリカじゃ普通のことだもの。私は全然駄目だが、夫は母の誕生日には花を欠かさず贈っている。親離れが出来ていないというのではない。思いをかたちにするわけで、思いを持つことが悪い事でもなんでもないというのだ。その父も母も夫が私と結婚するに当たり、何一つ文句も言わず、息子のチョイスを祝福してくれただけである。

個人の尊重に関してのスタンスはアメリカ人と日本人は違う。日本人は人の行動に不必要なほど人に干渉をしたり、考えを述べたりするが、貴方が何を考えても貴方の責任でどうぞ、という距離のとり方を日本人はまねてもいいのではないかと思う。

帰ってきてから、疲れ果ててしまった。息子を家においてから、智光山植物園のローズガーデンに行った。ちょっと、違う空気を吸わなければやれないと思ったのだ。ちょうど、バラのころだし。しかし、1週間早かったようだ。来週にはどれも満開になるだろう。植物園のハーブガーデンの方に足を運んだ。もう少し、きちんと手入れが出来ないものか。なくなった植物が多いし、雑草が気になった。新しく指定管理者となる会社へのモニターをしっかりしてほしいものである。

最近行ってないのでトレーニングに行きたかったが、疲れ果ててたので、行かない。
9日(土) 午前中は、アファーの校正済みのものをデザイナーの所へ送るために、もう一度見直し、編集した。ようやく、午後2時ごろすべてを送信できた。それから急いで聖望のPTA役員会に出かけた。まあ、総会の予行練習のようなもので、これは聖望だけのものだろうな。なんだか、不透明な学校だが、それが私立というものなのかなあ。学校とPTAの距離のとり方が公立と全然違う。子供達が幸せに学校生活を送れる手助けをするのがPTAや後援会さ。

帰りにアメフト部の知り合いのお母さんと帰ってきた。明日、3年生にとって最後の試合が待っている。帰り、飯能のマルヒロによったので、勿論カツを買って帰ってきた。夜も、明日の朝もカツを食べてもらいます。そして、明日は勝つ。息子は今の所大学ではアメフトをやらないといっているので、これでアメフトをするのも最後になるのかもしれない。息子は部活でいろんなことを学んだ事だろう。私もアメフトを介して息子とずいぶん渡り合ったものだが、それの一つ一つは息子には覚えていなくてもどこか考えの基本となってほしいと願っている。勉強をしない口実にアメフト、部活があったけれど、私は勉強以上に大切なものを部活によって学んだし、得たのではないかと思う。息子の生涯の友達だってきっとアメフト部の同級生になるのではないかと思っている。良かった、彼が部活を全うできて。

買い物して帰ってきたら、7時近くになっていた。結局、夕食をしたら、トレーニングにいく時間がなくなった。それで、このページを書いている。あすまた早く起きなければならないので、今日は早く寝ることにする。
8日(金) 今日もなお、アファーの原稿の編集。校正がきたのを又編集しなおしている。時々、嫌になってしまうが、仕方がない。息子が忘れ物をしたとかで届けに行ったりと忙しくて仕方がない。

午後からこれで何とか最終稿にしたいと願っているが、また、校正されたものが来るかもしれないと、一時コンピューターを落として、出来ている報告書を役所に持って行った。議会事務局であれこれ話し込んだ後に、商工課に。商工課で景気の話をしてきたが、株が上がっている事などの話題が出た。実体経済が上がっている実感がないのに、株だけ上がっていると言うのは、お金が余っている人たちが株で遊んでいる証拠。本当は、そんなことをスルのであれば、実体経済に投資してくれればいいのに。使い道が分からないあまったお金がまたぞろ経済をおもちゃにするのだ。不健全だね。

話は、閉塞感に行った。不況が人を不安にする。今日努めている会社が明日どうなるか分からないのだから本当に不安だ。ボーナスの話が出たが、本当にボーナスが出るのか、出るのは公務員だけじゃないかと心配だ。

今日こそと思って、夜にサピオへ。汗がだらだら出て、本当に気持ちがよかった。
7日(木) 今日朝からアファーの原稿の校正に取り掛かった。出来る限り、予定を入れないようにしているが、外に出かけるだけじゃない。報告書を書き上げたと思ったら、このアファーの締め切りが15日で校正に書けた後、入稿をしなければならない。一応こちらで編集して、書き直してもらうべき所は、又送り返し、その後、他の人に校正してもらい、やっと入稿となる。校正をしてもらっているうちに、写真を送信してみるが、一応は写真はどのようなものがあるかもチェック。すべて使われるわけではないが、送るだけ送る。

ほっとしていると、校正が帰ってきたりするので、それを又編集しなおしたりする。12ページぶんある。原稿を書いてもらう人だけで15,6人はいて、リード文が必要なものには、私が無記名でリーボ文を書き入れたりしている。全く、忙しい。

夜、サピオや市民体育館に行こうとしたら、お休み。仕方がなく、いるまの湯へ。今日は、指圧を頼んだ。毎日,コンピューターのまえで、書類とにらめっこじゃ肩も腰も痛くなって当たり前。万歩計を見たら、全然歩いていない。足はむくむ。不健康極まりないね。

娘が初任給を貰ってきた。とても、とても嬉しそうで、見ているほうも嬉しい。ちゃんと食費を入れてくれる。貯金もさせなければならない。
6日(水) 今日で休みは終わりのはず。でも、私には休みという感じがない。昨日は確かに休んだが、今日は朝から家事をしたり、最後の報告書をまとめたり、このHPをアップしたりしている。時々、息子の体調を見たりしているが、ようやく息子の熱が下がったみたいだ。一日中彼はぶらぶらしていたが、タミフルを飲むとやはり少しそわそわするらしい。夜に妄想みたいなものを見るよと息子が言うが、20代の息子ならばそれに対応できるのだろうが、少年だと変になってしまうのだろう。でも、タミフルは効くけれど、少し怖いと思う。

夜に夫が別荘から帰ってきた。雨に降られた3日間だったらしいが、そのために家にいてゆっくり出来たという事だった。狭山の雨とは違い、山の雨は木々の葉っぱに落ちて、ざわざわと音がする。自然の音はそれだけでも癒しになる。私は行き詰ると狭山を抜け出して別荘に行ったものだ。この10年間、私は別荘でぼ〜〜〜と本を読んで過ごしてどんなに慰められただろう。とても贅沢だと分かっている。まだ、別荘のローンが残っている。別荘を作らなければ、私達はどんなに生活が楽だったか分からないだろう。でも、精神が行き詰る時に、狭山と言う日常から人一人いない山の中に逃げ出せる事はどんなにホッとした事だっただろうか。私は神様を信じているが、本当にこんな生活を与えてくださっている神様に感謝しているのだ。

夫は、今回とても癒されたと言っているが、それだけ経済不況が激しく、民間企業に勤めている夫は大変な思いでいるのだろうと思っている。この不況が一日も早く終わる事を願っている。狭山市では、引き締めながらも使う事業にはお金を使っている。皆がお金を引き締めてしまうと経済が一層駄目になるからだ。バブルはいけないけれど、皆が必要なものを買える景気がほしいと願う。誰しも同じように思っているだろう。
5日(火) 今日は、朝からどの服を着ようかとうきうき。ミッシングボーイズの千秋楽を観に行くのだ。勿論、尾崎Tシャツはもって行きます。11時に赤坂見附で待ち合わせなので、9時半前に家を出てバスに乗った。息子の発熱が心配だったが、彼はタミフルを飲んで寝ているしかない。飲み物、食べ物をきちんとしてきたし、したの息子が面倒見るから良いよと快く出しくれた。

お昼のサンドイッチを食べて、劇場へ。今回はあまり良い席ではなかったが、返って後ろの席なのですべての情景が見えてそれはそれでよかったと思う。今回も太一君のファンがたくさんいた。そして、千秋楽だからすべての席が売れ切れていたようだった。今回もプロデューサー須藤さんが落ち着かなさそうに劇場にいて、あちこちで遭遇。尾崎豊のプロダクションをほとんど手がけておられる方だが、私が見たところではとても誠実な方に見える。尾崎のファンは須藤さんについてはあれこれ言う人もいるが、今まで尾崎が忘れはてられないのは、勿論尾崎の楽曲が普遍性にとみ、メロディーも素晴らしく、上品で、人の心をつかむ何かがアルせいであるのだが、それを理解して尾崎家と手を結んで尾崎のための企画を次々(毎年)行ってくれているのは須藤さんなのである。

ジョンレノンを有名にしたのは、彼自身の力とオノヨーコの力。尾崎豊を廃れないものにしたのは、尾崎の力と須藤さんの力だと思っている。須藤さんが企画してくれるから、私達(ミーハーかもしれないけれど)は尾崎のさまざまな事を楽しむ事ができ、また、尾崎のよさを知るという事になる。出来れば、記念館をどこかに、いや狭山市の商工館の一室にでも作ってほしいと思う。すこし、狭山市もお金を出さねばならないかもしれないが、決してマイナスにならない。よく尾崎を聞けば、本当に上品な音楽なんですよ。歌詞を読んでほしいなあ。

劇についての批評はここではしないが、これがミュージカルと言うのであれば、やはり良い歌手をそろえるべきだろうと思う。主役級の役者が歌を歌えないんじゃそれでミュージカルとはいえないな。まあ、このくらいにして、今日のスペシャルゲストに私達尾崎ファンはため息をついた。裕哉君(尾崎の息子)だったのだ。一同、し〜〜〜んとして、彼の歌に聞き入ってしまった。こんな時は前の席が良かったなあと思うのだから現金。とにかく顔は良く見えなかったけれど、一生懸命歌い、けれん見なく、誠実な歌い振りに、尾崎豊を見たかのように思えた。最後、ヒロク〜〜〜ンと叫んでしまった。お父さんの分まで幸せになって、自分の思ったように生きていってほしいなと思う。歌手になりたかったら、なればいいし、その際にはステージを見に行こうと思う。ここが、尾崎ファンのファンたる所以ですけれど。

終わってから、原宿に出て尾崎展を見た。他の友達とも合流して、尾崎の事を語り合い、食事にまで出かけて又裕哉君のことで大盛り上がり。私達尾崎ファンは時間を忘れて尾崎を語れるんだなあ。それに、叔母さん族は同じ思いなので、気楽なのである。

食事の後、時間を見たら、まだ六時半。中野のブロードウエイに古本を買いに行き、2冊かって帰ってきた。楽しかったけれど、疲れました。
4日(月) 今日は昨日のアメフトの試合を見に行って、外で一所懸命応援したために、疲れが出た。それなのに、お兄ちゃんは土曜日から熱を出していて、抗生物質を飲ませて寝させていたが熱が下がらない。これはインフルエンザだと急患センターに連れて行った。まさにB型インフルエンザだったらしく、タミフルを貰って帰ってきた。熱は8度ぐらいだが、3日も発熱をしていると体が

家事をしていたが、午後からは夫が娘と別荘に出かけた。いつもは私も行くのだが、今年は明日尾崎のミッシングボーイズの千秋楽を見に行くつもりなので、一緒に行かなかった。最近ちっとも別荘に行っていないから、少しは家の状態を見に行く必要がある。夫は、ちょっとゆっくりしたいと出かけた。

夜は、市立体育館でトレーニング。新しい機械がなかなか難しくて、300キロカロリーを消費するのに、1時間掛けてもできない。まだ、機械操作の仕方が悪いから、効果的な運動にならないんだろう。
3日(日) 今日は息子のアメフトの試合のため、立教新座高校へ。試合は負けた。負けた試合は何試合もしているが、これほど後味の悪い負け試合はない。負け試合については、誰もがあの時ああすればよかったのにとか、結果論でいえるんだけれど、まあ、あれこれ言うのはここではしない。途中で昼食をして帰ってきたが、結局家に着いたのは4時近くになった。

息子の試合がもう1試合ある。消化試合のようなものだが、来週はもっと楽しく試合が出来ると良いなあと思う。負けて楽しいとか、負けて悔しくない試合はないが、負けて後味の悪いのだけは嫌だなあ。とにかく、高校生活最後の試合なのだから、スカッとした試合をしてほしい。
2日(土) 今日は朝からHPを書いたり、報告書を又書いたりと忙しく過ごした。忙しくない日なんてない。

夕方、夫が帰ってきた。それで、川越まで迎えに行った。新型インフルエンザのせいでなかなか飛行機から出れなかったそうだ。彼は異常がなくてすぐに帰れたが、熱のあった12人は他の部屋に連れて行かれたようだった。まあ、疲れてはいたが元気で帰ってきてよかった。帰りにカルフールに寄った。途中で火災報知機がなった。それなのに、多くの人は平気でショッピングをしていた。私達は急いでお会計をして出た。途中で誤報だとアナウンスがあったが、あんな対応で良いのかと心配した。

夜、いるまの湯に行った。
1日(金) 今日は、息子に弁当を持たして学校に出し、後の子供達は仕事へ。私は家事をしていたが、息子が出張に出かけるというので、稲荷山公園駅まで送っていった。帰りにごみをおきに第2環境センターへ。いつ行っても綺麗に片付いていて、工場とはこうあるべしと思う。匂いも今回は酷くなくてよかった。

その足で博物館に。ちょうど館長がいて、博物館の催しを説明してもらった。昭和展をしていた。この前までの生活が展覧会になるんだから。昭和は遠くなりにけりである。常設展もみた。ここは改良の余地がありすぎる。展示場の半分は遺跡から取り出したものだ。もっと、近代、現代の歴史があってもいいんじゃないか。昭和だって、戦後だって歴史になっているんだから。常設展示を変えられないのは、お金の問題なのだろうか。変えようとすれば、あらゆる調査などをしなければならない。この博物館も毎回の展示におわれ、結局足元の事しか出来なくなっているのだろうか。リピーターのない博物館。それは展示がいつも変わらない殻という事もあるが、それ以上に来館者に感動が与えられないからかもしれないし、来館者が参加できるものがないからかもしれない。ひとつ目玉があってもいいかも知れない。

私は、博物館にひっそりと尾崎豊のコーナーを作ってほしいと思うのだが。いつもは人は来ないかもしれないけれど、4月はいつも人で一杯になりそうに思う。ジョンレノンミュージアムが埼玉アリーナにあるんだから、埼玉県の尾崎が狭山に展示されていてもいいのではないの。

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