私の独り言 2011年 

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心のままに思っていることを書いていこう。嬉しいことに喜び、悲しい事に嘆き、怒る事も忘れまい。一生懸命生きようと思う。

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 3月 私の独り言  2011 
31日(木)   朝から家事。事務仕事。単調な生活だけれど、仕事は山ほどある。疲れると同時に、ちょっと心配もある。人手が足りるのだろうか。

夜電話が掛かってきた。さいたま市議会議員のむらまつ順子さんから。明日彼女の出陣式に出かける。明日からは県議会議員選挙があり、出陣式に呼ばれているが、むらまつさんとは長い付き合いで、女性議員で、だから頼まれれば行く。
30日(水)   朝から家事、事務仕事。事務長が一人じゃ出来ないだろうから、頑張って私も仕事をしている。今までやった事のない仕事。でも、自分の選挙をしているんだなあと実感する。これまでの3回の選挙はこんな風に関わってこなかった。良かったな。
29日(火)   今日は、朝から家事、事務仕事。午後からは、外回り。少しはチラシを配るべきだと思うがなかなか出来ていない。ポストに他の議員さんのチラシが入っているとがっかりしてしまう。自分のもきちんと入れなければならない。

夜は、原稿を書き直していた。
 28日(月)  今日は朝から家事、事務仕事。それに、片づけをした。人が来るようになると、家がごたごたしているのが気になってしまう。それで、コンテナーを買ったり、枕を買ったりするために午後からニトリに行った。簡易ベッドも買った。人が何人泊まる事になるのか、分からないけれど、ありったけの布団と毛布を使う事になる。放射能が心配だけれど、少し布団を干したいと思っている。

夜、なんだか疲れてしまった。これじゃいけないのに。
27日(日)  今日は午前中は礼拝。最近は狭山市内の教会をあちこち巡っている。選挙があるせいだけれど、いろいろな教会でいろいろな説教を聴いていると、私の教会の牧師の説教は深いなあと思う。今日の教会の牧師はネヘミヤ書という旧約聖書から説教していた。少し知識が増えたな。

午後、狭山台北小学校跡の体育館にボランティアに行った。体育館で仕分けを手伝った。何人かが品物を持って着てきてくれた。それと何人かの被災者が品物を取りに来た。私は出来る限り多くの品物を被災者の方に渡したかった。だって、沢山ある品物を運ぶ場所がないのだから、今必要な狭山市に居る被災者の方に必要なだけ上げればいいのだ。狭山市に100世帯来たが、その人は着のみ着のままやってきたといっていた。下着を持っていき、上着も少し持っていった。残念ながら敷布団がなかった。南相馬町から放射能のために家を捨ててきたという母子家庭の母親がいた。食料も沢山きていたが、彼女にラーメンのひとつも持っていってもらえば良かったが、誰も上げるといわなかったので、彼女は持っていけなかった。高校生の男子と中学生の女子の母親だ。子ども達は際限なく食べるだろう。もっと気を利かせてあげればよかった。

何べんも言うが、狭山市にわざわざ来た被災者だもの、狭山に来て良かったといって帰ってもらいたいと思う。

被災者と接してみると、頂くのが大変悪いと思っていて(感謝しているのだ)、自分からあれほしいこれほしいとなかなか言えないようだ。ちょうど、その場にいる女性は私だけだったから女性用のパンティを探してあげる事も出来た。この場所はいつまで開けているのだろう。 被災者の人が物を取りにくるならばあげてほしいと思う。自分のものじゃなくて善意の市民からの物を取り分けてあげたのだけれど、被災者の方々に感謝されると心から良かったなあと思う。こういう場所にはお世話好きのおばさんがいて、いろいろ被災した人のお世話をするといいなと思う。役人さんはちょっと適任じゃないなあ。

4時近くまでボランティアをして、帰ってきた。

その後、チラシを少し撒いた。政治活動はこんなご時勢だから、あまり大々的には出来ないけれど、あまりに自粛自粛じゃ経済も何も回らない。本当に地道に活動を続けようと思っている。帰りにヤオコーに寄ったら、夫とばったり会った。帰ってきて食事。そして、このホームページをアップしている。
 26日(土) 今日は、本当に何もしたくなかった。1週間走りぬいたって感じがして、何にもしないでボーとしたくなった。でも、主婦は悲しい。洗濯物、皿洗いは待ってくれないし、お兄ちゃんは弟の引越しの手伝いに行くというので、朝からがたがたしていた。優しいお兄ちゃんなんだよね。彼女も連れて、今日別荘に行き、明日松本から長野へお引越し。

私は午後は実際このコンピューターの前で、ぼうっとしていた。ネットを読んでいた。原子力発電の怖さをまざまざと感じているので、ウランの核分裂や、プルトニウムについてだとか、そんな事を調べた。今後、今の状況がどう改善されるかだが、なんだか本当に絶望的になってしまう。日本人は今後30年で滅びるんじゃないかなんて考えてしまう。福島の原発近辺の人は早くに逃げれればいいけれど。国は無責任だと思う。自主退避しろってどういう意味よ。

夜は、夫と酒盛りをした。と言っても、ワインを飲んだだけだ。今夜は停電もないので、緊張もしなくて良い。でも、どこかで神経が張っている。そりゃそうさ。東京では、乳幼児に水道水をあげる事が出来なくなったり、他の地方でも放射能が多くなり制限されたりしている。東京で飲む水がなくなったら、人はどうやって生きればよいのだろうか。こんな鬱陶しいニュースに晒されていて、誰が明るい気持ちになれるというのか。
25日(金)  今日も朝から事務仕事。しかし、今日はお手伝いさんがいない月末だから、家事も私がしなければならない。掃除はパスできても、洗濯とお皿洗いは回ってくる。とにかく、仕事は次々にある。私は火曜日のケーブルテレビのための原稿つくりを始めた。作ったが、これでいいかどうかは問題である。自分で作ってみて、3期終わって私も市議会議員として成熟したものだと思う。特に「女性差別撤廃条約選択議定書の早期批准を求める意見書」を通したことに誇りを感じる。さまざまな意見を言ったが、議会でも決議も含めよく私の意見を聞いていただいた。長年議員をしている事で、他の議員から信頼を得たからである。

夕方まで頑張って、遅くなると停電になるというので、5時に仕事をやめ、ボランティアさんを送っていった。帰ってきて、食事を大急ぎで作ったが、その時に停電が始まり、蝋燭の中で食事。本当にいやだわね、停電というのは。8時半過ぎに電気がついたが、2時間ほどの停電なのに、本当に嫌な思いだ。
24日(木)  今日は朝から事務仕事。その上、家の片付けもある。午前中に友達がお風呂に入りに来た。

午後からは事務長も来て、ボランティアの友達も来て、準備仕事。私はラベル作り。その他、さまざまな事があって、困ります。選挙は大変だ。 
23日(水)  今日は朝水富小学校の卒業式。ご挨拶もあり、いつものように「雄雄しくあれ、強くあれ」「僕が僕であるために、勝ち続け泣けきゃならない」という言葉を子ども達に送った。きちんと子ども達に言葉が届いたように思う。珍しく卒業式で倒れた児童がいた。後で元気になっていてよかった。水富小学校の式は昔から変わらないで、丁寧である。くだらないという人もいるかもしれないが、私はこれでいいと思っている。 こういう集団訓練が被災した時に大きな力となる。外国がほめているそうだが、教育の賜物なのである。お話を聞く時に、きちんと起立させ、礼を終えると着席する。聖望高校のときは、卒業生は起立したまま、式辞や祝辞を聞いていた。緩い学校で、気をつけして話を聞いていたわけじゃなかったが、本来は身を正してお話を頂くという事が正しいのではないかと思う。しかし、水富小学校はきちんとしていて、私好みのお式である。

午後に帰ってきて、着替えてから仕事。どうしてこうも仕事があるのだろうか。

夕方まで友達に連絡をつけようとしていたが、夜やっと連絡が付いた。明日、お風呂を上げようと思う。本当は今日お風呂を上げたかったが、連絡が付かなかったから仕方がない。お風呂をあげるとは、何だという事だが、私の友達は市営住宅にいる人がいる。一人は車も運転しない。彼女はお風呂を持っていない。だから、いつもはサピオにお風呂に行く。ところが、サピオは震災のためお休み。その上、すべての老人福祉センターはお休み。また、市内循環バスもお休みである。だから、彼女はお風呂にいけない。この10日以上お風呂にはいっていなかったのだ。

狭山市は避難民を受け入れている。お風呂の事もきちんと考えてあげている。ところが一方で、避難民よりも劣悪な状況の市民がいる。これは真におかしいじゃないか。公のお風呂がないので、民間のお風呂に行ってくださいといっても、入間川の公衆浴場は廃止になった。大和の湯までどうやって行けばいいのだろう。建設部長と福祉部長に話をした。どうにかしてやってください。たった一人の問題じゃないと思いますよ。

夜、疲れて早く寝た。
22日(火)   今日は、朝に事務仕事をしていた。メールがたまると30という数になる。返事も大変である。午後、事務長が出てきたので、ミーティング。ポスター貼り要員が足りない。

夜、テレビを見たが、震災の話ばかりだ。状況はだんだん酷くなっている。

その後、明日の挨拶文を書き換えて、用意した。あっという間に夜中の2時だ。心をこめて挨拶文をしたためた。
21日(月)   今日は、朝からのんびりした。雨も降っていてチラシも配れない。昨日ブックオフで買ってきた本を読んだ。

お昼のあと、夫と娘と私でユナイテッドシネマで映画を見た。ディズニー映画だが、マンネリ化していた。あまり面白いとは思えない。追いかけっこのようなシーンが多くなり、物語を語りあげるというアニメーションが少なくなったなあ。その点、トトロとかは新鮮だ。暗い物語も嫌いだけれど、あまり単純なものも飽きた。

夜はお好み焼きをして、HPのアップをしている。尾崎のドラマが9時ごろからあるので、見てみようと思っている。昨日、テレビ東京での尾崎のドキュメントに私が出ていたそうだ。ああいうのを見る人もいるんだね。知る人ぞ知る。私は尾崎が好きなのだ。まだまだ、熱は冷めていない。
20日(日)   今日は朝礼拝。入曽キリスト教会にて。先生の説教が深い。よきサマリア人のところなのだが、隣人はキリストであり、介抱されているのは我々であるという。キリストのようになりなさいというが、まあ無理だわね。少しでも近づければいいとしよう。

久しぶりにブックオフによって帰ってきた。たまった家事をしていたら、あっという間に4時近く。急いでヤオコーに行き、募金活動をした。6時までの2時間に4人の議員で16万円集めた。義捐金をいただきながら、涙が出た。ありがたいし、日本人は暖かだ。小さな子、年寄り、女、男、金額は少なかろうと大きかろうとその心に感激した。いや、一万円を寄付できる人の心の寛容さにも、実のところ感動した。私のようなものは、一度にそんなに多く寄付できるだろうか。勿論、あちこちで寄付しているが、あちらで千円、こちらで三千円という具合にみみっちい。本当に豊かじゃない。だから、豊かな心持の人がいると、心から尊敬と感動を覚えるのだ。

帰ってから夕食後、夫と久しぶりに入間の湯へ。私も夫もマッサージをしてもらった。腰から足にかけて、もんでもらいながら、こんなに凝っていたのかと驚いた。まるで荷物を降ろしたように、背中が楽になった。そして、体に血が回ったようにぽかぽかした。気分が良くて、二人で飲もうかと、家の近くの飲み屋で飲んだ。ちょっと飲みすぎたかなあ。最後に演説をしたから、飲みすぎたに違いない。
19日(土)   今日は朝早くから印刷をしていた。議会レポートを午前中、それも10時過ぎに作り上げて、新聞社へ持っていった。月曜日に新聞折込になるはずである。

その後、役所に行った。役所で支援物資を受け付けていて、それの仕分けのボランティアに行った。2時間ぐらいしかできなかったが、次々来る荷物を分けた。紙おむつも子供用も大人用も沢山来たし、使い捨てコンロのボンベも、薬も、さまざまなものがきていた。大きなトラック2台があり、どのように品物を積んで届けるのだろうかと思った。倉庫に整理して必要なものを積むののベテランボランティアが要るそうだが、本当にきちんとしておかなければ、必要なものを取り出せないだろうと思う。沢山、割り箸も着ていたが、さてさてこういうものも必要ではあるが、必要の人に本当に届くだろうか。歯ブラシも歯磨き粉も、石鹸も・・・

1時ごろに市民会館へ。DVD鑑賞会を中止にしたが、もし間違ってくる人がいたらと思い出かけた。昨日も問い合わせの電話があり、今日も朝から問い合わせの電話があった。外部から5,6人問いあわせがあり、市川先生の偉大さを感じたところである。本当にこのDVD鑑賞会ができずに残念だった。だって、停電があるかどうかも判らなかったし、どこかであれば信号機が止まるので市民会館に来るまでの安全も考えると、中止にせざるを得なかった。いつか出来る時が来るといいなあ。

帰りにドコモにより、電話の事で話をしてから帰ってきた。

その後チラシ配りに出かけた。広瀬台のほうを配った。こんな所に家が建ったのかと思う。4年に一度だが、このように水富地区を歩くのは悪い事じゃない。夫も広瀬台には沢山新しい家がたったねと感慨にふけっていた。

今日は停電がなかった。つかの間のお休みのような感じである。
18日(金)  今日は朝9時20分から停電だというので、家事に勤しんだ。洗濯をして、お風呂を作り(洗濯はお風呂の水でしているので、お風呂の水を使った時は補充する)、食器洗い機に食器を入れた。ゴミを捨てるのを忘れたのが失敗。

10時から停電の中、水富幼稚園の修了式があり、9時半に出かけた。式は心温まるのもで、幼い子ども達やその親を見ていると和む。12時近くに帰宅。もう、停電だったが、幸いガスが使われるので、夫にスパゲティを造り、私はうどんを食べた。お兄ちゃんまで学校から戻り、又、娘も停電で仕事ができないとお昼に戻ってきた。

夫は今日は2時からの出勤である。昨日5時に出勤し、今日は朝3時ごろに戻ってきた。停電を避けるように、仕事の時間が決まっている。今日は何時に帰ってくるのだろう。 

こんな調子で日本はどうなっていくのだろうか。本当にこんな大規模な停電が必要なのだろうか。企業ごとに節電と企業ごとの操業計画で電気をしのげないのか。こんな事をしていて、日本の活力はどうなるんだろうか。菅政権の考えはあまりにも短絡的で、大きな視点にたっての行いじゃないような気がする。こんな事を考えるのは私だけではないだろう。

議会で義捐金を集める事になった。街頭募金をする。私はヤオコー前で20日午後4時からと、25日狭山市駅で朝6時半からと夕方5時半からである。寒いだろうな。それはそれでいい。議会は執行部とは違うやり方で被害者援助ができることが望ましい。執行部はそれなりに頑張るだろうし・・・議長もメッセージをホームページに載せるそうだ。これも良い考えだ。議会が独自に考え、議会総体として行う事が本当に素晴らしい事なのである。今後も、思想や思惑を超えて、議会・機関として世間にアピールする努力が必要であろう。

私は議会レポートを印刷始めた。かなりの枚数になるので印刷仕切るのは大変である。それに、このような時に発行するのにはいろいろな意見があるだろう。でも、私はできる限り普段どおり、普通どおりにしていたい。平常である事も必要なのである。非常な時に何をのんびりといわば言え。たとえ明日、原発が大爆発しようとも私は今日のことを今日しっかりやっていたい。やりたい。昨日までしていた事を、遣り通そうと思う。うまく言えないが、逃げるわけに行かないならば、やせ我慢といわれようと、平常を装うだけかもしれないけれど、いつもどおりである。

買い物に行った。ちょっと買いすぎかなあ。でも、停電が身に染みて、お湯を入れれば食べれるもの、レトルトカレーを買ってきた。いつもは食べないが、お兄ちゃんや娘は食べるだろう。毎日、食事が本当に負担に感じるようになった。
17日(木)   今日は朝から電話は次々掛かってくるし、連絡は午前中にしないと午後から第2グループの私達は停電になるので、忙しく過ごしている。

DVD「87歳の青春」鑑賞会中止のお知らせ
さて、狭山市平和を願う市民の会では19日午後に市川房枝さんの生涯を描いたDVD「87歳の青春」の鑑賞会を企画していた。しかし、これを中止せざるを得なくなった。停電で市内の信号はところどころ時間によって消えてしまう。市民会館も停電があり、実行不能になってしまった。いつまで、停電が続くか分からない。いつか、DVD鑑賞会が開く事ができることを願いながら、今回は中止をせざるを得ない。申し訳ありません。

それにしても、地震被害者への救援はどうなっているんだろうか。寒い中、灯油が切れたという。我が家ですら、灯油を節約し始めて、日中はつけないようにしている。いつ、灯油が買えるか分からないから、夜だけにしているのだ。停電でも使えるように、昔ながらのストーブを出してきているが、もったいないので早く寝るようにしている。
16日(水)  今日は、朝から家事をした。昨日、停電になるとご飯が作れない事がわかり、味噌汁と魚ぐらいは料理しておかなければならないと分かったからである。 ご飯も炊いておく。電気があるうちにすべき事は沢山ある。家族が4人だ。米を買い置きなどしてないから、1週間そこいらしか持たないと思う。後は乾麺等に頼らざるを得ないのだが、そのためのソースなどを考えても、家は1か月も食料は持たないだろう。今後、買えるものはかっておきたいという心理は分かる。冷凍庫が3時間ぐらいは持つというので、ある程度肉ぐらいは買っておきたいが、もうスーパーにないという話である。

アメリカのお母さんから電話があり、心配しているようだ。一番の心配は原子力発電所である。お母さんは逃げられるかと聞くが、私は市議会議員で、市民を置いて逃げられない。何もできなくても、そんな事はできない。どこかの町では町長が死んだし、家族が死んでも町を取り仕切っている首長たちも多い。夫は今日は朝5時に仕事に行った。昨日、コンピューターで仕事ができなくなったので、7時ぐらいに帰ってきた。そのせいで仕事を朝早くからしなければならないのだ。会社に近くてよかった。車で通っているが、ガソリンもまだ入っているし、少し安心である。データーリカバリーの仕事だから、こういう時はとても忙しくなる。阪神大震災の時もそうだった。

私は、今日の午後に停電が見込まれているので、コンピューターを使えるときにこのように書いている。コンピューターは使えても、ネットが使えなくなるのだ。情報が入らなくなる。それが一番答える。このまま、少しずつHPをアップする。
 15日(火)  今日は、朝から中学校の卒業式に行った。心温まる卒業式だった。自分の言葉でしゃべる、紋切りかたなじゃない答辞はとても良かった。それにしても、出てくる生徒が皆女性というのはどうしたことだ。男子はいないのか。こんなにしっかりしている女性なのに、どうして市議会に立候補しないのだろうか。若い女性の力をパワーダウンさせる社会の仕組みが変だと思う。合唱で男子の声がきれいに聞こえてきていて、素晴らしい合唱になった。

午後は、事務仕事。2時過ぎに息子を車に乗せて鷺宮に出かけた。鷺宮まで高速を使った。あまり車がいないから1時間で行き、4時ごろには戻ることができた。息子はバスで松本まで行く。電車はいつ通じるか分からないが、バスならば何とかだろう。今、放射能について本当に危険があるという。少なくとも、息子だけでも300キロ圏外に出したい。私達は、どうなったとしても・・・

夜、ヤオコーに買い物に行ったら、6時20分ごろ停電になった。暗い中で買い物をしようとしたけれど、非常灯も10分ぐらいで切れるからと、追い出された。牛乳も卵もなかった。インスタント製品もなく、お菓子があった。乾麺など買い置きがあるが、醤油などを買っておかなければと思う。

帰って夕食を作ろうと思ったけれど、蝋燭の明かりでは何もできなかった。水は出た。夫には炊いておいたご飯と、さっき買ってきたお刺身を食べてもらった。私は、パンを食べて終わり。こんなに不自由なのかと身に染みた。夜、8時前に寝たが、10時過ぎの大地震で起きてしまった。停電が終わった11時ごろ、息子か無事松本に着いたと知らせがあった。静岡のほうの地震は明日にならないとどういうことになっているか分からない。
14日(月) 今日は 議会最終日。私は、緊急質問をした。地震についてである。議会として、何も質問もせず、粛々と議会を閉じるというわけには行かない。答弁は精一杯この事態に備えますという事だった。まあ、本気に精一杯この事態に備えてほしい。市役所はできる限りあけるらしいが、それもどうなるか分からない状態のようだ。停電があっては、どうしようもないじゃないか。

議会は結局は午後まで続いた。いつもは選挙前の時だから、次も会えるように頑張りましょうなどと言い合うのだが、今回はそんな事よりも地震のことのほうが心配で、そそくさと皆で引き上げた。帰りに買い物をしようと思ったが、事務所が開いていることもあり、そそくさと帰って来た。停電がなくてよかった。蝋燭などを用意した。

息子が松本に帰りたいというが、明日は電車が動かないらしい。仕方がないので、新宿近辺まで送ることにする。それで、心配になったのがガソリン。それで夜中にガソリンスタンドの開いているところを見つけて、買いに行った。結局内にある3台分の車のガソリンを入れた。寝たのが夜の2時だった。
13日(日)   今日は礼拝はいのちの樹教会へ。林さんが説教をするというので、聞きに行った。いろいろ駄目だしをしたかったが、時間がなかった。きちんと駄目だしをしてあげると良い説教をできるようになると思う。きちんとした作文だったが、心には届かないだろうと思う。それは、あまりにもきれいな表面ごとで聖書を捉えていたからである。人生ともっともっと結びつけて、感じる説教になればよいと思う。

お昼からは、あいさつ文やら、議会レポートの原稿を書き続けた。いろいろ考えて、今週の初めに郵送を終えたい。

毎日、被害の映像がものすごくて、テレビに釘付けになりそうだ。でも、見ていると胸が痛くなって、見続けられない。ビフォーアフターじゃないが、11日にみた被災地の状況が明らかになるに従い、この地震のすごさに驚く。買占めが始まったようで、ガソリンスタンドが休業したりしている。生鮮食料品も心配である。
12日(土)   今日は、朝からテレビに釘付けである。何もできない。呆然と見つめるだけである。

仕事は原稿書き。書いた原稿を印刷し、たたんでいる。

夜は、里親会と聖望OB親の会が重なってしまった。まず、里親会に行き、委託された子どもが多いのに驚いたし、嬉しかった。聖望OB親の会では、親が10人ぐらい集まった。地震で子どもが帰宅難民になった話が出た。昨日の今日だから、いろんな話が出る。まあ、良かったのかな。ただ、浪人している子ども達の現状が分からないのが、残念だった。入試そのものがなくなったところもあるらしく、センター試験の成績で決めるところもあるみたいで、大変だと思う。それでも、親は楽しく語らい、子ども達は次の部屋でおしゃべりをしていたようだ。まあ、良かったかな。
11日(金)   今日は朝早くに役所へ。昨日中川浩さんが決議を出すというので、書いてあげたのだがそれについて、どうしようかと話をしたかったので、8時半ごろ役所に着いた。中川さんがたとえば私が賛成議員になった時に、どのように総意をもって決議されるように、少なくとも多数をもって決議されるようにどうするかと聞いた。ところが、彼は「知らない」という。とにかく、議長に出して代表者会で話をしてもらい、そこで決まらなかったら、議案として出すという。すなわち、多数決で多数を取れるかどうかときいたら、彼はまた「そんな事分からないよ」ということだった。それじゃ、パーフォーマンスじゃないかと思った。

確かに私が昨夜ほぼ作った文面を直して決議文をつくってあり、それには私は賛成をするが、それを議会総体の意思決定にするには、もっともっと話し合わなければならない。この前の12月議会。私は妥協に妥協を重ね仕方がないと「決議」の受け入れた。まあ、それがある新聞では「議会が執行部に渇を入れた」と評価され、少し議会にとって良かったと思った。しかし、中川浩さんには議会が機関として意思を表す意味よりも、自分達が決議をあげる事に意義を感じているとしか思えない。

ほとんど根回しもなし、他の会派が話し合う暇もなしに、どのようにしてこのような政策提案決議が機関としてまとまるのだろうか。議会は総体として、政策提言をできるし、条例制定権もあるのだから議案としてあげて、執行部にそれをさせる事も可能だ。それを今後はする事を念頭において、議会を進めなければならないとおもう。しかし、今回のこのやり方。前日の10日に、私のところに夜に突然電話を掛けて、素案というあまりにも形にならない文を送りつけ、人に決議案の下書きをさせ、議会として皆がどう対応するかを考える時間も与えず、次に議会がないのだから、先送りもできない状態で、このような議案を提案する事の意味というのは何なんだろう。

議案の中身については、私が作ったようなものなんだからこの際話すのは止める。しかし、政策提言を議会総体で機関意思として決めるつもりでいるとしたら、中川さんのやり方はあまりにも稚拙なやり方ではないか。この前、中川さんは議員を21人に減らす議案を大島さんと出した。22人へという議案が出たのに対抗したのだった。その際、田中さんがそれで嫌になって、通らないのに同じような議案を提案するのは単なるパーフォーマンスじゃないかと一緒にやれないから賛成議員になるのを止めると言っていた。すなわち、勝てないとわかってやることの意味が何かという事なのである。

だめもとで出す議案の場合、それを出す意味は何なんだろう。この場合、自分の意見に賛成できない議員は腐っているとでもいいのかなあ。どんな風に彼は反対議員に対して言うのだろう。いろいろな意見があっていいさと言うかな。自分だけが正しくて、反対した議員はおかしいとでもいいのだろうか。そして、おかしい議員が多いから落とせばいいんだというのかな。自分だけがいつもいつも正しいんだよね。

なんだかあっという間に全員協議会が終わり、帰ってきた。夕方にまた役所に行って、賛成討論の通告をしようかと思いながら帰ってきた。

1時半ごろにポスター制作会社がやってきた。そして、話し合っていたところ、2時45分。すごい地震が来た。長い間ゆらゆら揺れた。テレビを見てひたすら、呆然とした。画面の向こうにおきていることがまるでホラー映画のようだった。CGで作ったかのように、津波が車を飲み込んでいく。「逃げて、逃げて」と言っても聞こえるわけではないが、画面のこちら側で叫んでいた。あの後の人たちのことを考える事すら怖い。テレビをずっとつけ続けた。
10日(木)   今日も、朝から事務仕事。私は原稿を書こうとしている。議会レポートの48号をできる限り早くに発行したい。それで急いでいる。友達に、見てもらって、校正をしている。なんだか、忙しくて落ち着いて仕事にならない。最近は本を読んでいる暇すらない。どういう事なんだろうか。
9日(水)  今日は、朝から事務仕事。雑用が多くて、何をしているのかと思うが、忙しさにまぎれてしまう。 夕方、娘と一緒にピラティスへ。運動は楽しい。
8日(火)  今日は、朝から法務局へ、供託金を供託に行った。帰ってきたらもうお昼を過ぎていた。少しずつ、選挙の準備を始めている。

今度の事務長は初めての経験だから大変だと思うが、私には手伝えない。
7日(月)   今日は、朝から原稿を書いたり、事務仕事を忙しくしている。朝、この頃良くあるが雪が降っていて、外は寒い。ボランティアの方が来ていて、暖かくして仕事に励んだ。毎日があっという間に終わっていく。すべき事がすべて終わりきれなくて、焦っている。
 6日(日) 今日は朝久しぶりにトレーニングへ。礼拝に出席したかったが、午後から渋谷でフェミニスト議員連盟の女性を議会へのイベントがあり、1時過ぎに出かけるには、礼拝が無理なようだったので、9時過ぎにサピオに出かけた。そして早い昼食を食べた後に、渋谷へ。

行ったら友達が見つからなかったので、右翼の演説を聞いていた。本当に同じような考えのところもあるんだなあと思う。憲法9条に関しては私と考えが違うが、日本が自立するべしという考えは同じである。日本の国民の利益を考える政治をしようとする考えにも同調できる。 とにかく右翼の人の演説でも、現実に日本が自立するには障害が立ち並んでいるという認識で、右翼としての解決法が示されなかったのは残念至極だった。愛国心などと言っていたが、その形成をどうするのかが問題で、今は己の利益だけを考え、公の利益を自らの利益とリンクして考えるという視点がない。すなわち皆ばらばら。この状態で、愛国心なんか育たないのである。

アメリカは日本を守らないという右翼の人の考えは正しい。リスクを負って、アメリカが中国やロシアを戦争をするものか。だから、日本の軍事化が必要なのか。そこである。私は、まずはアメリカは日本を守らないというところから出発すべきであると思う。だったら、アメリカ軍基地をどう捉えるのかである。まだまだ、占領されており、その占領代すら日本が持っている。もうこんな事止めましょう。アメリカ軍に日本から出て行ってもらいましょう。こういうところでは右翼も左翼も同じ土俵に乗るのである。右をずっと行くと左になるというのは、本当の話だなあ。

帰りは友達とお茶をし、その後でクロスタワーに行き、久しぶりに尾崎の歌碑を見た。少したたずんでいたが、残念ながら曇っていて夕日も見れなかった。尾崎の祈っている手をなぜて帰ってきた。帰りは新宿に出て、紀伊国屋で本を眺めて帰った。帰ってきたら、夫が夕食を作っていてくれた。なんだか東京に行くと疲れが出る。人が多いだけで疲れるんだなあ。

花粉は東京のほうが楽だった。飯能の杉が秩父おろしで飛んでくる狭山は花粉の量が東京と大違いなのだと思う。
5日(土)  今日は、朝、事務所の事務長さんと二人で候補者説明会に出かけた。23人の候補者と事務所の人が来て、説明を聞いた。まだまだ、来ない議員もいるのだろうか。現職の人が少なくて驚いたし、新人さんの多さにも驚いた。もしかしてこのまま選挙などに入って、現職14人、新人8人なんて議会になったら、まずは毎月研修会を開かなければならないと思う。今までの、議会改革の意味を分かってもらうために、また、国会とは違い地方議会は2元代表民主制であることを徹底理解してもらわなければならない。政局的な考えでは地方議会は進まない事を。

お昼過ぎに帰ってきて、昼食後、ホームページのアップに取り掛かったが、何しろ目が痛くて痒くて、顔もひりひりする。市販の目薬をさしてもだめなので、医者に行った。結局5千円。薬代が馬鹿みたいに高い。強い薬セレスタミンを貰ったが、飲む勇気がわかない。でも、結局喘息の薬を朝晩吸入しているんだから、使っても仕方がないかもしれない。眠くなるというが、私はそんな感じもあまりしないし。状況が悪くなったら、使うつもりである。去年は使わなくても良かったのに、今年は本当に以上だとしかいえない。

夕方からは1週間分のホームページを書いている。まだまだ、忘れていないから、認知症について心配はしないでよさそうである。しかし、毎日一生懸命働いていると、昨日の事がまるで1年も前のことのように思える。一日が過ぎるのが本当に早い。 
4日(金)   今日は委員会最終日。水道部関係。下水道が企業会計になり、新しい事が増える。本当は嫌だけれど、一般会計からの繰り入れも増える事になる。どうしてこうなるのかと思うが、仕方がないという。本当は、効率が良くなるので経費削減だといわれてきたのにである。おかしな、おかしな事だ。

それなのにだ。ここが味噌だが、水道の内部留保金はなんと20億円ほどになっている。埋蔵金は狭山市にもあるのだよ。国が特別会計にお金を隠してあるというが、実際そうなのだ。狭山市にも、基金や内部留保金が一般会計以外の会計の中に眠っている。これの動向もきちんと見ていく。さてさて私も会計についてもっともっと勉強しなければならないと思う。選挙後ね。

午前中に審査が終わった。お昼はうちで遅くに食べた。息子が理髪で散髪してきたみたいで、すっきりして帰ってきて、これから私の手伝いをしたのち、友達に会いに行くという。大宮でマージャンして帰りは11時ごろだという。何しに帰ってくるんだろう。親の顔を一度見れば、それで義理を果たしたというように、遊びに出かける。松本は田舎だから、こちらは楽しいんだろう。

子どもが出て行ったのを見届けてから、入間の湯へ。実は肩が凝って頭まで痛くなったので、マッサージに出かけた。明るいうちにお風呂にはいるのは、贅沢な事で、ようやく議会が一段落したので、自分に3時間のサボりを許した。マッサージしてもらいながら寝た。久しぶりな事だった。それだけ疲れていたんだ。

6時からは委員会の終了懇談会。昨年はどうしたかなと考えたら、私の場合、去年は夫の父が亡くなったので、アメリカに行っていて、懇親会に出なかった。退職する2部長、1次長の送別会も兼ね、また、今期で引退する尾崎さん、手島さんの送別会も兼ねてだった。私は、初めから最後まで席を動かず、手島さんなどとしゃべりこんでしまった。勿論、話は議会改革についてである。肩の凝りをほぐしてリラックスした挙句、またまた議会の改革について話し込んでいるようなのが、結局私。「最近の趣味は政治です。」と言ったら、役人さんにも議員さんにもあきれられた。それほど、私は今政治に夢中だ。政策論を戦わせるのも楽しくて仕方がない。だから、又選挙に出るわけだ。病こうもうにいるという感じ。2つの事をする時間も気持ちもない。政治が趣味で、仕事だなんて最高じゃない?!

帰ってきたら、8時半。疲れてぼおっとしていたら、息子から今日は帰らないという話。全く、あの子は何しに家に帰ってきたんだ。ねえ。
3日(木)   今日も委員会審査。建設部関係。時間は掛かりました。でも、3時半過ぎには一応審査は終わった。

終わった後に、議会便りの一般質問のところの原稿を書いた。帰りは、比較的早くてまだ明るかった。暗くならないうちに帰るなんてめずらしい。本当は水道部に行って予算の勉強会をしようかと思ったのだが、疲れていて何もしたくなかった。

息子が松本から帰ってきた。駅まで迎えに行った。元気そうで良かったなあ。夕ご飯をあわてて作って食べさせた。多少大人になったみたいで、「人に作ってもらって食べるのはおいしいなあ」なんて言った。一人暮らしは大変そうである。その後、お兄ちゃんが帰ってきて夕食したが、兄弟で遊びに出かけた。仲がいい事である。

息子は、成績はまあまあのようで、留年はしないそうだ。よかったね。夜、ベッドを作ってあげた。私が寝た後も、お兄ちゃんやお父さんと話しこんでいたみたいだった。私も末の息子が帰ってくると、少し頑張ってご飯を作る。だって、沢山食べてくれるから。

夫が11時半過ぎに帰ってきたので、迎えに狭山市駅東口に。やはり、西口に比べると寂れたって感じだわ。早くに駅中ショッピングセンターが出来ればいいのに。早々、5月25日にオープンします。タリーズもミスドも、ドトールも入るから、待望の喫茶、コーヒーショップはできるわね。書源も西口側に入るから、少し嬉しい。でも、本当は西口には大きなブックオフができてほしかったんだけれどね。残念です。駅の2階にはスーパーも入る。ところでこの商業ビルは笑みねじゃなくてemineってなるらしい。微笑んでほしんから、エミネだそうだ。親父ギャグかなあ。
2日(水)   今日は、委員会審査が始まった。街づくり関係。予算もあったが、午前中に審査は終わった。でも、その後に協議会などがあり、昼食の暇すらなかった。1時過ぎに昼食。

それにしても、環境委員会の廃棄物指針には、驚いた。言っている事は、産業廃棄物で分からないところがあれば県に聞いてくれという事。環境部は産業廃棄物(市が出す廃棄物のうち、燃えないもの関係)には関わりません、すべて各課で処理をしてください。というのだ。これが指針とは驚くじゃないか。本当は、「各課が出す産業廃棄物に関しては環境部がダブルチェックをします。へんな事があれば、県に問い合わせます。」その時の手順はこうなりますというのが、指針じゃないかと思う。あまりにも杜撰で、その上責任回避じゃないかと思う。委員会でこの指針について意見を言うのも私だけ。時々、他の議員は何を考えているのかと思う。

意見を聞きたいが、そもそも委員会や議会で委員同士が話し合う習慣がない。これが問題なのである。議員が話し合って、この前の決議じゃないけれど、意思を固め、執行部に議会として物を申すシステムを構築しなければならないだろう。毎回、決議を出すなどというのはいかがなものかという事だ。

午後は、議会便りのための原稿を書いた。まずは施政方針演説への質問についてを書いた。その後、財政課が来て、議会で請求した資料について、話し合った。とにかく、話をする事は楽しくて仕方がない。話さなければ分からない事が多いし、お話を聞いているうちに理解度も増す。ただ、、私の場合、、理解した事をきちんと覚えておく事が大切であり、時にはそれがうまくできないことが問題だ。正直なところ、忘れる事も多くなってきた。同じ事を繰り返して聞いたらごめんなさい。

夜はピラティス。運動はきもちがいい。
 1日(火)  今日は一般質問3日目。あれこれ人の話を聞くのも楽しい。この楽しさがなくなり、人の話を聞くのも嫌になれば、その時は議員を辞めなければならない時だろうと思う。政策論争をどうでも良いと思うようになれば、おしまいだ。商工課の課長が茶飴を持ってきてくれた。生姜が入ったのと、違うのと。それと御茶羊羹。私がお茶の食べ物にずっと凝っているのを知っていて、新狭山の横田園さんが作ったのを買ってきてくれた。生姜要りも美味しいけれど、やはり私はプレーンが好きだ。鵜の木の斉藤園さんの抹茶飴は飴に抹茶がまぶしてあり、甘くはないけれど美味しい。

この前、狭山市駅前の町田園さんで何かを買おうとしたら、静岡のお茶を使っていると聞いて買うのをやめた。やはり、狭山市では狭山茶でなければいけないわよね。

今日は議会が終わってから、建設部の勉強会をした。ここも勉強をするのは楽しいし、終わればいささかの達成感がある。でも、本当に疲れが出た。珍しく、ワインを飲んで寝た。最近は夜に仕事をしているので、お酒を飲めなかった。
2月  私の独り言  2011 
28日(月)    今日は私の一般質問の日。昨夜遅く、というか今朝、第2質問になるかも知れない事をメモして執行部に送っておいた。でも、私は第2質問以降は自分の考えの赴くように答弁を聞きながら、台本なしに行うので、まあ時間が来るまで質問した。しかし、時間が足りない。答弁が長いんだから。まあ、そういう質問をすれば仕方がないが。。。この前の栗原武さんの質問もそうだったが、やはり時間を区切るとしても議員の持ち時間を区切るほうが良いと思う。答弁は短くしてほしいといっても、あちらにも説明したい事もあるだろうし、発言も自由のはずなので、勝手に短くできない。

私は5番目だった。午後からだった。障碍者団体の人やいつもの人が一般質問の傍聴に来てくれた。結局時間が足りなくて、終わった後にいつもの鬱がやってきた。最後までコメントする時間がなかった。用意していた消防長なんかきっと「ああいえばこういう」という風に考えていたのに違いないが、質問しなかったのでつまらなかっただろう。残念だったね、安永さん。待っていてね、次の機会は絶対あるから・・・でも、あったときは又今回のように火事で死亡者が出た時か。そうしたら、ないほうがいいね。それにしても、議会できちんと確認を取りたかった事をいう事ができなかった。

もう、考えるのも嫌になっていたが、議会後は街づくりと予算の勉強会を入れていたので、きちんとやった。我ながら偉いなと思う。自分の好奇心は満たされ、頭は整理されて議会で聞くべきことを数点まとめた。これでよし。

夜はつかれて、そのまま寝た。特に昨晩は眠られなかったから、エネルギーが切れた。
27日(日) 今日は、新狭山の教会で礼拝をもった。その後、寿荘を訪れた。バスが来なくなるというので、その対応が大変そうだ。私は、その事については障害者団体に情報を流したが、高齢者施設には流さなかった。本当は交通防災課が利用者との話し合いをきちんとしてから、計画を立てるべきだったのだ。それなのに、まともの話し合いもなく、庁内会議できめた。それが問題だった。議会で説明があったときに、敏感にそれに反応したのは私だけだった。他の議員はほとんど無関心だった。今になって市民があわてているから、というが、そんな事は市民が大騒ぎする前に議員には分かっていたのだから、私と一緒に声をあげるべきだったのだ。

帰りにチラシをくばったのだが、花粉で目がかゆくて、目があけているのも困難になり、帰ってきた。市民会館では文化祭をしているのも分かったのだが、とにかく目が開いていられないので、帰ってきて、体と目を洗い、うちの中でじっとしていた。もう、本当に辛い季節だ。くしゃみをすると止まらない。

26日(土)  今日はなんと起きたのが、9時を回っていた。昨夜、珍しく本を読んでしまったから。それも夜中の12時から読んだから、終わったのが3時だった。

昨日から風が吹き、目がかゆく、くしゃみが出る。花粉症がよくなったと思ったのに、残念だ。いつもの通り、苦しい。ブランチをしてから、チラシ作りに励んだ。下書きを事務局長がしてくれていたので、それを直した。そして、2千部刷った。

その後、ホームページをアップ。スケジュール帳みてはっと気がついたときには遅すぎた。今日は「国際交流の集い」があったのに忘れていた。 アイリッシュダンスも見られるはずだったのに、忘れ果てていた。

というのは、心は「高橋ブラクソン久美子とすすむ会、会員とサポーターの集い」が会ったからである。「6,7人集まればいいよね。」といっていたけれど、それ以上に人が着てくれた。本当に嬉しかった。こんなに少なくて選挙になるのというだろうが、大丈夫。神様が付いているもの。市民の方はきっと私のようなしがらみのない市民だけに支えられた議員も必要なのだとわかってくれると思う。

2時間半ほどでお開き。私は今夜は飲まずに、会員さんを送っていく係りをした。心がほっとするような会で、私もお話もできてよかったと思う。

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