尾崎豊論 熱が冷めるまで 戻る

尾崎豊の曲は難解であることは有名だ。
彼の生き方をなかなか理解できなかった事、彼に振り回されて苦しんだ周りの人が多い事も知られている。
しかし、彼が非常に多くの人人に愛されている事も周知の事で、今でも私のような多くのファンがいる。
最近尾崎の曲を知るようになって以来、尾崎豊ってどんな人だったのかと言う好奇心がわいている。
それは、私(心象の中のことと言われるかもしれない)が非常な苦難を味わっていた時に、彼の曲を知り
尾崎がもがき苦しみながら人生を送りつつも(それが彼自身の資質に寄るという大人の声もあるが)
しかし、その中でも前向きに勇気を持って、壁を、状況を乗り越えようとしていた事に共感を感じるからであった。

青臭い彼の曲を聴きながら、大人として、尾崎がそれを乗り越えた姿を見たいとはじめは思っていた。
青年の孤独な心に大人としてどうアプローチするべきかを考えた。
私は2人の男の子の母親だから。

「僕が僕であるために、勝ち続けなきゃならない」
はじめこれを聞いた時には、尾崎は疲れる人生を送っていたのだなと思った。
「卒業」を聞いた時には、胸が痛くなった。「卒業」しなくても自分の場所は見つかるのにと思った。
いや、「卒業」を考えることなく「大人の社会」にどっぷりつかっていれば楽なのにという思いだ。
尾崎豊はかわいそうな奴だなと思った。

しかし、聞いているうちに尾崎の曲が私の胸に突き刺さり始めた。
私は今自分が自分であるために、闘っているか。
1昨年までは、合併のため、西口開発推進のため、政治課題のために身体を張っていた。政治生命を掛けていた。
昨秋、私はいくつかの与えられた試練の中で、傷ついて苦しみに囚われていた。
闘う意欲もなかなか湧かない、自分を哀れみたくて、孤独で仕方がなかった。


青臭く見えた曲が非常に新鮮に聞こえ始めた。
妥協をしたり、闘い乗り越える事に躊躇している自分がはっきり見え始めた。
自分は「限りある人生をもっと前向きに生きなければならない」という鼓舞される思いが湧いてきた。
かわいそうな尾崎ではなく、尾崎は頑張っているんだという思いに変わった。


本もcdもdvdも尾崎関係のものを読破したし、辛くて読めなくても集めた。
尾崎の姿が見え始めた時、尾崎は頑張って生きた事を知った。
それと、尾崎の曲を彼の人生とシンクロさせながら聞くようになった。
「はまる」という事はこういう事なのだと始めて知った。追っかけをする人の気持ちも理解できた。
尾崎狂いはまだ終わっていない。車のcdは尾崎のアルバムだ。聞きながら自分の考えに沈みこむことも多い。
少しずつ考えた事を書き連ねた。読んでみてください。



月日 思ったことなど
 2011・2・19 先週BSJAPANで尾崎豊の 特集があった。私はサンディさんのカラオケに行った時に取材を受けたが、あまりにも変な事を言っていたから、どうせカットよと思っていた。ところが30秒ほど移ってしまっていた。そうしたら、思いがけない人からメールが来て、彼女もファンだったみたい。

昨日、役所に行ったら、ばったりと支援者にあったら、そんな話が出た。BSJAPANなんてかなりマイナーな局だから見ている人はそんなにいないと思い込んでいたら、ファンは見ているんですね。驚きました。
   ホモに偏見がないからかな。
私はこの本が好きです。
悲しいけれど、美しく、
理不尽だけれど、うなずいてしまう、
暴力的だけれど、仕方がなく
きれいなものは汚れていて

まだ、全部読みきっていないけれど、
なんだか、日本人の1/3がこんなじりじりした思いでいるんじゃないかって考えてしまう。

モンテクリスト伯の言葉って言うのが引用されていて、
もう、絶望以上のないときの言葉だけれど、
 
まて、そして希望せよ

何を待って、何を希望しよう。
若い人のための小説だから、きっと夢が続くけれど、
ひとつひとつしわが増えていく私達、
記憶をなくしていく両親たち、

待っていて、希望する。

希望するものを持っていたいなあと若者じゃない読み方でこの本を読んでいる。

栗本薫さんも56歳で逝ってしまった。
こんなものを書いているんだもの、長生きできないよなあって思ってしまう。
ちまちま生きたった行き着くところはどこか分からないけれど、
ちまちま生きられる事に本当に感謝しようと思う。
   アリとキリギリスの話があってね。少し面白かったんだけれど、
アリだってアリにうまれたかったわけでもないし、キリギリスだって好きでキリギリスをしているわけでない。尾崎なんてアリを軽蔑し、でもアリを尊敬し、憧憬するキリギリスみたいな男だったと思うね。
でも、転がっちゃってどこまでも行ってしまうのだよ、しぇりー!!!

自分がなぜ尾崎の痛さに惹かれるかって考えると性分だってしか言えない。
こんな幸せな人が尾崎の痛さと自分の何かが共鳴するんだからさ。
   社会通念ねえ。

亡くなった栗本薫さんの古い本だけれど
「終わりのないラブソング」っていう本を読んでいる。2巻目をね。
まあホモの事も書いてあるから、社会通念がしっかりして
ホモなんてと思う人には何だけれど、少年院に入っている主人公が言う。
2巻目にね、71P。
いったいいつから、人の行く道はこんなに別れてゆくのだろう。
いったいなぜある人はうまくやる事ができてあるやつはできず、
あるものは初めから落伍者であることが決められてゆくような、
そんな違いはいつ、どこにいる、誰がきめて、こうしてできてくるものなのだろう。
という文がある。

尾崎の音楽ってそれを探していたように思うんだね。

まあさ、人はいろいろな環境で生きているわけだから、
分からない事があり、理不尽で、言葉を捜してもだめな事もあるわけで。
社会通念がないのかもしれないね。まず、諦めている部分も多いし・・・
   
そして、社会を785や6や7や8よりも社会を知っているじゃないかと思う。

だからこそ、尾崎を評価するのよ。
ちまちま、コツコツ、行儀よく生きなければ、居場所のないような閉塞した社会。
こんな中で、誰が息が出来るのよ。
尾崎の場合だっておんなじだった。
私も昔は管理教育で尾崎みたいな生徒と対峙した事もあった。
教師もしたからね。
そんな子の方が、不器用な生き方しか出来ない生徒で、可愛かったけれどね。
真面目に行儀よく出来ない子ども達にはそれなりに理由もあった・・・

今の世の中、はっきり言って自己責任で片付けられないような社会情勢だわよ。
それを唯々諾々と受け入れて、しょぼくれているなんて、
そうせざるを得ないのは、可哀想過ぎますよ。若い子も年よりも同じだ。

せっせと働けるアリであるには、真面目で行儀良い子でなければならないし、
それなりにラッキーで幸福な人だろうと思う。
キリギリスが幸せで、アリが幸せじゃないとか、
その逆とかって、あまりにも表面的な見方だと私は思うんだわ。
その幸福さに胡坐をかいて、人の事を見下し、共感も同感も出来ない人は、
尾崎のあの絶望的な気持ちを理解できないんじゃないかと思う。

私は何も不道徳がいいとか、法律を破ればいいとか言っているんじゃない。
底辺で、ぎりぎりで生きている人たちへの哀れみも含めた
尾崎の共感的な感性、又、自分を落としながら作った音楽、
這い上がろうとした生き方の辛さを感じられない人が
どうして尾崎を理解して、ファンになっているのかが分からない。

確かに、尾崎の歌をポジティブな面だけを剥ぎ取って聞くことも出来るだろう。
でも、私にはその下にある悲しい思いのほうが、強く聞こえるんだよね。

そんな尾崎が権利と法律をを振りかざして、
ファンを恫喝するような言動をするかなあと思うだけ。

私は、あなた達が思うほど子どもじゃないよ。
人生を多少見たからこそ、尾崎の痛さや優しさがわかるのよ。
   道徳的で法律遵守で右向け右といえば、絶対左を見ない。
毎日、電車に揺られて会社に通い、サラリーマンが一番だと思う。
盗んだバイクで走り出したりはしない。
夜の校舎窓ガラス壊して回る事なんかない。
そんな日本だと、まるで北朝鮮みたいだね。

馬鹿なやつが法を犯し、
アウトサイダーになって、社会からずれ落ちていく。
ちまちま学校に行っても、職はない。
愛のない街にホームレスは溢れ帰り、誰も胸を痛めない。
そんな世の中だものね。

誰かに道徳を説かれたりするのもうんざりだわ。
自分達には夢も希望も将来もないのさって言いたくもなる。
そんな人たちが街に溢れ帰っている。ちがう?

お行儀のよい、道徳的で、社会規範に忠実な人たちで、
そういう人生しか認めない人たちが、
尾崎のファンで、尾崎を理解できるのが私には不可解だなあ。

普通、尾崎なんかを否定するだろうに。ガがガみたいにね。
   確かにね、尾崎ファンって少し変かも知れない。
尾崎だって、変な人だったと思う。
既存のルールにきちんとしたがって生きていたわけでないよ、彼はね。
タバコを14歳じゃ吸っていけないよね、尾崎がしていたみたいにね。
さまざまなものを盗んでバンドを作ったって尾崎は言っている。
立証されれば犯罪だ。
そんな尾崎だって事を大半の尾崎ファンは知っている。
でも、好きなんだよね。辞められないよね、ファンだって事。

尾崎のちりちりした感性って、いわゆる道徳的な範疇をあっという間にはみ出す。
自分達はちまちま生きていて、お利口にお行儀良く生きていても、
尾崎の振幅が大きく、時には振り切れてしまう事すら、納得できる。
自分の変わりに傷ついて、自分の代わりに吼えていてくれるような感じだ。

どうして、道徳を振りかざす人に尾崎が理解できるのか分からない。

尾崎を出して悪いけれど、尾崎本人はmこんな音源を商売にしなければ、
悪いという事はないと思うね。
音の悪い音楽が聞きたくなければ、きかなくてもよいし、
著作権のある人が不愉快だというならば、消されるだろう。
でも、尾崎のコンサートなどは、公式の法的で立派な音源だけでなかったのだから、
それをアップしても、普通の人がとやかく言う必要がある?
おおように、聞き逃してくれればいいのに。

新しい尾崎を発見したようで、また、再認識したようで、
音源のみの尾崎を涙を流してきいたのよ、私はね。
7月16日
2010年 
 16日に久しぶりにユタチャン会をした。

まずは、wednesday の尾崎のバラードを聞きながら、食事。
サンディさんのところの娘さんが最近結婚なさったから、
ハワイでの結婚の様子を写真やら、DVDで見せていただいた。
まるでモデルさんのようにきれいだった。
良い家庭が築けることを祈ろう。
初めがお互いに文化ギャップで大変だ。
でも、それを乗り切り、子どもが出来るとまた違う。
幸せにと心から祈る。

次にはマイケルのブカレストとthis is it をみた。
ブカレストのマイケルの踊りはシャープで、
歌っていても息も上がっていない。すごい、コンサートである。

This is it はほぼ完成品。でも、やはりマイケルは力を抜いており、
歌唱に円熟さは感じるけれど、30歳のときのキレはなかった。
でも、きっとすごいものを見せてくれたんだろうと、思った。
もったいないなあ、あんな時に亡くなるなんて・・・

私達ユタチャン会のメンバーは、「こんなところがマイケルと同じなんだよね」
なんて言い合った。すなわち、ツワー直前の死。

とにかく、人生は有限である。
悔いのない人生を送ろう。
自分に納得できる人生を送られるチャンスがあるならば
前向きに生きていこうと思う。

尾崎がどんな風にいきて、どんなに苦しかったかは分からない。
迷惑をかけとおして、結局ちゃらんぽらんな男だったかもしれない。
でも、彼の歌のメッセージは若い時から死ぬまで、
「現実は大変だけれど、一生懸命生きようよ」
と言うことだったと思う。

それに、「祈るしかない生き物よ」って歌っているけれど、
最後に祈ることができる、希望を託すことが出来る「神」がいる。
いちばん頼りになる祈りがある。
それが、彼のメッセージのように思う。

私もどんどん老けていく。でも、命ある限り、
祈るしか出来なくなるときまで、がんばって生きようと思う。
昨日、XJAPANのCDを借りようとツタヤに行ったが、借りるのが嫌になって、
フジコさんのピアノとビリージョエルとジャニスジョップリン、ジャクソンブラウンのCDを借りてきた。目的はXを借りるつもりだったのに何で全く違うものを借りる気になったのかというと、
やはり、あまりXに興味が湧かないということだった。

「好きな音楽を好きに聴けばいいさ。」ということなのだ。
Xの研究をする元気と聞きたい楽曲が見当たらなかった事。
standing sexとかって聞きたいっておもわなかったし、
ジェラシーのジャケも手にとってききたいと思うようではなかった。。。
そうさ、人生は好きなようにするためにあるさ。。。というので、嫌なものには手をださないということにした。

きっと、素晴らしいところもXにはアルだろうけれど、探し出したいと思わないなら、それでもいいかな。そんな風に思った。で、なぜなんだろうと思うと、
やはり、歌詞の違いで、聞いていても面白いと感じられないのだ。
考えてみると、わたし、スターワーズ、あまり好きじゃない。スペースカーボーイムービーは
夫は好きだけれど、私、パスしていたもんなあ。

今日、朝にBSで美空ひばりの特集をしていて、
悲しい酒を聞いた。うん、うん、分かると思うんだけれど、やはり私は嫌だなとも思う。
人間の一生を取り出して語るのは「愛、燦燦」の小椋桂だった。そうだよなとも思った。
で、尾崎とどこが違うんだろうかなと考えた。
尾崎はきっと悲しい酒をどの位飲んだか分からないほどじゃないかなあ。
飲み潰れたって話をよんだこともあるし・・・
でも、彼は「よいどれ」って歌っているけれど、若いときの歌だから厭世感なんか
これっぽっちもかんじられない。

立ち止まったり、立ち竦んだりするけれど、悲しい気持ちはパッシングして追い抜いちゃう。
結局、彼は「僕は僕であるために勝ち続けなきゃならない」ってところが底辺にある感じがする。彼は今日すら打ち抜こうとしていた。マシンガンをもって、闘おうとしていた。
須藤さんが、尾崎は結局優等生ですからといっていたが、分かるような気がする。
そして、元優等生の私や多くの人たちは、尾崎の“今がどん底でも頑張っていこうという思い”が
尾崎の歌の底流あるのを聞いているんだろう。

演歌は好きでない。じめじめしている演歌だけじゃないのに、聞きたいと思わない。
これは私見で後で考えを変えるかもしれないが、
演歌を好きになれないのは、演歌というものは“庶民”のものだからかもしれない。
私も“庶民”なのだが、“庶民”がなんだか社会から隔離された、切り離された下の階層としてあるような感じ。
しかし、尾崎の“僕”や“俺”って、”庶民”ではなくて、市民権をもっている個人って感じがする。
うまくいえないなあ。

尾崎は、共同条理の原理の嘘を喝破した上で、“僕がある”って言っていると思う。
庶民というのは共同条理の原理中の最たるものかもしれないから、権力者から作り上げられた幻想の階層だ。

小理屈をのべてすみませんが、そんなこんなで尾崎が好きだ。

5月5日 素敵なツーショット。今の私の待ちうけはこの写真です。イケメンと私。
5月5日
ちょっと許せないって言う人いますか。ちょっと、キスのまねごをを・・・
10月14日 最近買ったものは、メモリアルブック。前に読んでいたのですけれど、ブックオで500円で買いました。
それと、2冊の薄い写真集。この分だと尾崎用本棚を買わなければなりません。100冊近くなったもの。

さて、最近「人生は自分が思うとおりにするためにある」(正確な言葉を覚えていません、ごめん)
とかって尾崎が言った言葉を思い出しています。
わがままかな、人を傷つけてばかりだ、なとと思う時が多くて、どうも思いは内向きです。
1STアルバム(傷つけた人人に)という曲を作った尾崎。
分かっていて、そこからの出発の尾崎の感受性に胸が本当に痛くなる。
私は、尾崎よりも何倍も生きているけれど、17歳の尾崎と思いが同じで、
そして、結局人生は自分が思うようにいきるため・・・・
なんて思う。神様に許してもらいながら、自分にあった行き方をしていくほかない、
たとえ人を傷つける事があったとしても・・・・
勿論、尾崎のように、のどにナイフではないけれど、心にナイフをつきつけながら生きていく。
苦しいけれど、これも生きる糧かもしれないと思いながら。
9月24日 最近ニコニコ動画に請っていて、いろいろなものを見ています。
須藤さんが出演したラジオ録音を聞きました。尾崎は何で逝っちゃったんだよって思います。
尾崎の声を聞きながら、かわいらしい声だなあ、癒されるなあって思いました。

尾崎の歌を聴いていて、地球上の皆が幸せに感じる一瞬があると良いなあと言ったことを思い出しました。彼はそれを本気で言っていると思うのだけれ ど、そういう思いがあるからこそ、個人的なことも普遍性をもったのかなとおもうんですよね。私がなくて、自分をすべての人に開いているというか・・

愛すべき者すべてに、彼は歌っているんだもの。それは、今で若者が言う神ってものでしょうね。
愛すべき者すべてに自分は歌えるか。愛すべき者すべてに自分を与えられるか。
愛すべき者すべてに自分をさらけ出し、自分の言葉で語りかけれらる勇気があるか。

私は、尾崎に嵌まっていつまで朝昼晩尾崎が続くのだろうか。
尾崎の発見はいつまでも続くような気がする。
9月17日 池ちんのしている大勝軒15夜にラーメンを食べに行ってきた。おいしかった。其の後、中野のブロードウェイで、cdや本も買い込んだ。この分でいくと尾崎よう本棚が必要になってしまう。まあ、いいか。
8月26日 約束の日 尾崎豊 を買った。センスは良いかな。尾崎自身がとても素敵な写真しかとらせなかったので、彼の生前の写真で作られた本はかなりセンスよく出来ている。
尾崎のような天才の周りには、しのぎを削ったように、才能のある人たちが集まったんだなあと思う。
そして、其の力と迫力に周りの方が先に参ってしまったという事かな。

死ぬまで尾崎はセンスのよさがなくなることが無かったように思う。
研ぎ澄まされたようなわびしい顔の最後の写真は、この本には載っていないが、
美しい顔立ちと赤い色の中で本当に一人ぼっちという風情だものね。
それにしても、尾崎の作る世界は一流だと思う。被写体としてもすごいなあと思う。
透明で穢れを感じさせない清潔感。清涼感。それなのに、
最期のときに下着一枚で体中擦過傷だらけっだったという。
ここに違和感をどうしても感じてしまう。
8月22日 DVD The Night を買いました。尾崎を歌っている人。尾崎の歌で自分を歌っている人。
いろいろな歌手が尾崎の楽曲を歌っていたけれど、
尾崎が乗り移っているって言う人はいませんでした。
尾崎の世界を彷彿させる人もいなかったし・・・

須藤さんがたくさん出ていたけれど、少し須藤さんにも違和感をもったり・・・
須藤さんは尾崎の楽曲で遊んでいるような気がした。
須藤さんは頭のよい人であり、いろいろな事を実行できるすごい人なんだと思うけれど、
尾崎との感性にすごい隔たりがあるように思えるのだけれど・・・
とにかく、私は尾崎の歌は誰が歌ってもよいけれど、
尾崎が歌った尾崎の歌が一番心にしみるように思える。
8月13日 Mr.childrenのgiftを聞きました。私のような、尾崎オタクには正に尾崎を歌っているように聞こえました。

地平線の向こうに行くとまた地平線が見える。尾崎は10代を越えると20代が見えてきて、まだ20代を生きていない尾崎には何を歌っていけば分からなかった。地平線だけが見えていた。
手に握り締めていてぐちゃぐちゃになったgiftはまるで自分の夢のようで、人にあげられても色すら区別つかない。

人の歌を聞きながら尾崎を思っているなんて、尾崎病(?!)重病だね。尾崎にオリンピックの歌を歌わせたら、僕僕のような歌詞を作るのかなあ。どうしても栄光への架け橋なんて曲にはならないよね。
8月9日 私もお墓まで15分。 でも、なんだか尾崎はあそこにいないような気がする。

フラグメント 尾崎豊 読了 尾崎論なのか、尾崎の伝記なのか分からない冗漫な本。
それ以上でもないし、それ以下でもない。

鬼頭さんの本も斜めによんだ。2003年に描いた本。なんだが自己陶酔しているような本だ。 1992年に書いた本をわざわざ2倍に膨らませて、其の上お涙頂戴。 須藤さんがあとづけを書いていたけれど、あの2人は尾崎戦士だったという気持ちなのかな。 この本、尾崎を持ち上げているのか、侮蔑しているのか理解不能。

大楽さんでなくて自分がそばにいれば、こうならなかったのにというのが、言外にあって気分わるい。しかし、、尾崎を見捨てたのは鬼頭さんだって言うのにね。 尾崎のわがままについていけなかった自分を責めているのかと思えば、 結局そういう風にも言っていない。暗にただただ大楽さんを攻めているのかと思う。 でも、リタイアした人がよくゆうよ、って白ける。 たら、ればの連続。僕が尾崎をころしたですなんて、よく言えるよ。

僕が悪かったなんて言える立場なの?って思う。後味の悪い、いやみたらしい人だと思う。 でも世間的には泣くになけなかった大楽さんのほうがバッシングされてしまうんだよね。 この本は図書館で借りて読んだ。買わなくてよかった。

福永美恵子という人の尾崎についての本も読んだ。
この人は、尾崎とどういう関係にあって、尾崎を書いたのか理解できない。
尾崎の伝記を書きたかったのか、写真は豊富に入っていたけれど。 でも、尾崎豊を育てるのは、親として本当に大変だっただろうなと母親の私は思った。 尾崎は、いろいろ問題を抱えていたから、寄り添う母親は運命共同体として 苦しかっただろうなとつくづく思った。親を困らせるのが、親の愛情確認だったんだろうとは思うけれど。 男の子を2人持つ母親の私には、尾崎を見ていると息子の育て方を考えさせられる。 とにかく、この本は?????という感じの本だ。 買ってまでもほしい本でなかったので図書館で借りた。

珍しく悪口をかいてしまった。これこそ後味悪くてごめん。
8月7日夜 今久しぶりに no one is to bla,me を聞いている。
涙が止まらない。この前聞いた時はこんな風に悲しくなかったのに。
この中のどの曲も尾崎追悼だ。どの曲も悲しみに満ち満ちている。
悲しみって、しみ出てくるものなんだね。
西本さんも、あの時にあの編曲しか出来なかったんだろうね。

自由すぎるアレンジに嫌いだったこのアルバムが なんとなく「尾崎帰ってきてくれよ〜〜」って泣いているように聞こえる。
ダンスホールのすすり泣くようなギターが悲しい。滝本さんのドラムが切ない。
音楽ってやはり思いがなければ、ただの音なんだと思う。

そして、人生も思いがなければ、通じ合う情がなければ 心の砂漠。そんなことを思いながら、最後の曲を聴いています。 ブルースハーブが悲しい曲だ。西本さん、ピアノをそんな風に弾くのをやめてよと思う。
でも、あの時の悲しみは、この曲をこういう風にしか引けなくしたんだろうね。
尾崎に会いたいなあ、皆尾崎を愛しているよって、言ってあげたい。
8月7日 最近尾崎の声が聞きたくなって、インタビューをよんでいる。 藤沢映子さんとの10代のころのインタビューなんだけれど、深いなあと思う。 「10代を終えたらどんな歌を書くの)という藤沢さんの問いに、尾崎は人間の歌を・・などという。 これを逃げと取る人もいるかもしれないけれど、尾崎は社会人とかそういう枠でなく、 人間の歌を書いていきたかったというのは、尾崎らしいと思うし、其の視点は良いなあと私は思う。

pati・patiの1988年ごろのバックナンバーを4冊ほど買いました。 其の中で、尾崎は特集のテーマを疑問と設定して、落合さん、藤沢さんなどに寄稿してもらっています。 落合さんはマイナスの疑問とプラスの疑問、自分を破滅させる疑問と変えていく疑問それは提言に結びつくという事を言っています。尾崎が「疑問」を特集の命題にしたのも、尾崎らしいし、 それがロックンローラーの原点だという思いがよく分かりました。

Memorial photo book これは借りて読んでいるのだけれど、 尾崎が泣きながら録音したCDが入っていて、痛いなあと思う。 孤独をひしひしと感じる真面目な尾崎・・・ なんちゃって・・なんていいながらも、真面目に悩んでいたんだろうなと思う。

尾崎は歌っていることが生きていることって言っているけれど、尾崎にとってはそうだったんだと思う。 ロックオンで斉藤まことさんが歌わないでも良いから生きていてほしいと追悼しているけれど、 この人は最後まで尾崎を理解していなかったんだなあと思う。だから、 10代最後の代々木のステージをぼろくそに言ったんだろうな。
歌わない尾崎なんて、尾崎自身が生きている意味はないと思ったと思う。

死んでも歌っている尾崎はすごいと思う。
8月4日 forever 買ってしまいました。ブックオフで2000円。ちょっと高かったけれど、無いとほしくなってしまうから仕方がない。Maiden Voyage で懲りたから、本当はもっと安くなるまで買いたくなかったのだけれど、手にとって見たら離せなくなってしまった。これで写真集はコンプリートした。

やはり写真は加工していないスナップ写真が良いなあ。尾崎が自然に笑ったり、おどけたりしている写真がすきだなあ。

それにしても田島さんの写真では、どうしてあんなに尾崎が透明に感じられるのだろう。田島さんは尾崎の何を見ていたのだろう。尾崎の魂のとてもきれいなところだけかなあ。不思議な写真だ。
8月3日 CDを買いました。ピアノで尾崎の曲を演奏しているJewel(スペルわすれた・・・・)でした。
尾崎の曲は誰が何を弾いても、良いわ。歌詞がないととても面白く聞こえる。
7月15日 最近、尾崎の誰かのクラクションがすきです。 メロディがよいのかなあ。詩にはあまり感じないのだけれど。

毎日はあまりにも さらけ出されて
街の素顔はこんなにも 悲しみに満ちている

大切なものをどこない忘れた気がする

一緒に探していたものなら あった気がする

今は、探していたものがあった気がしない。どんどん遠くに見失われていっているようだ。 それなのに、私は忘れ去られ、見失われた理念にしがみつき、 もの悲しい思いを胸に抱き、夢のかけらをしっかり握り締めたまま、 生きている感じだ。夢見がちな、おばさんだ。 夢見るころを過ぎたはずなのに、尾崎、 私も壁の前に立って、この壁を登ることにしているよ。 馬鹿だといわれても、仕方ないよ。 私は、時代遅れかもしれないけれど、理想や真実に挑戦しながら生きるよ。

建前だって言われても、良いんじゃないかと思っている。 私見たいな人間がいなければならないんだよ、きっとね。 でも、尾崎。生き憎いんだよ。 時々、尾崎から、勇気と力をもらわないでは。
6月15日 Maiden Voyage をボーナス払いで買いました。12000円だもの。
長い間、高いから買えなかったのだけれど、 他の本を全部買い揃えてしまうと、これだけないのが悔しいし、
それに、この本はブックオフにも本だらけにも売っていないので、 仕方なく新品をかったわけ。

それで、見てみて驚きました。素晴らしい装丁。 こんな豪華な本を今まで買ったことがなかった。
勿論、12000円の本なんかかったことがない、これがはじめて。 ところで、あまりにもページ数が少なくて、本当にびっくりしました。 ヒロ伊藤さんは超有名な写真家らしいけれど、1ページあたり、500円かな。
紙も良いけれど、これをかうのだったら、私の好きな林英彦さんや、 東郷さんの本を買えばよかった。

2センチ四方のシャツの切れがご大層に装丁されていた。 やはり実物みて、尾崎はこんな風に切り売りされていたんだなあと 悲しい思いだけでした。どうして、須藤さんこんなことをするのかなあ。 確かに、私のような物好きがいるからかな。 でも、私はそんな切れを求めたわけでないけれど。

私は尾崎のポートレートは見飽きました。だから、普段の尾崎を見てみたかった。 そんなカットは後ろの扉に乗っていたのに、きちんと印刷してなかった。 なぜだろう。私はもう、芸術対象としての尾崎よりも 尾崎が尾崎でいる写真の方が、尾崎が見られて好きだな。

ところで、尾崎の写真集をほとんど全部を持っている私は、写真家の目はすごいと思います。 すなわち、どの写真家の取っているあの寂しげな尾崎の表情は、尾崎の心象なのだという事です。 勿論、尾崎は被写体として演技らしきものを要求されたかもしれない。でも、写真て実像を映す。 自分が思っていること、隠している事を暴き出す。 尾崎は孤独でさびしかったんだな、心の奥底ではって。写真のそれもポートレートを見ながらそう思います。

ところで、foreverだけは持っていない。 今度の豪華本でがっかりしたので、アイソトープのクレジットの入ったこの本は ブックオフでも安くならなければ買うつもりは会いません。 本当にこの12000円にはあきれ、懲りました。
6月12日 最近、アルバム街路樹が気持ちにフィット。
なんでだろう。あんなに嫌いなアルバムだったのに。
とにかく、今でもフルオーケストラ、コーラスつきの街路樹はあまり好きじゃない。
なんだか、第9みたい。権威ある尾崎豊かの音楽なんて、いらないんだな。

秋葉原の事件があって、孤独を考えている。人間疎外を考えている。
尾崎は孤独を克服するのに、人の、特に女の人のぬくもりを求めすぎるというのが、 批評家の尾崎論なのだが、それで何が悪いんだろう。孤独や、人間疎外を 克服するのに、クーデターや政治活動に走れば評論家は喜んだのだろうか。 でも、尾崎はそういう風に人は行かず、孤独を抱えながら、自責に身を焼くという。

今の人たち、特にオタクたちってそうじゃない。自分の評価がとても低かったり、 わざとオレ様をしてみたりする。そして、ひとに関心を持たないかのようにふるまう。 もっと、ドライになにも感じないのかもしれないと思っていたけれど、 そうじゃなかったんだね。何かに熱中している振りをしていても、何かが 人間でない限り、むなしいんだね。結局、テレビと話しは出来ないんだ。 携帯はお友達になれないんだ。

尾崎が人に救いをもとめ、女性に救いを求め、神様に救いを求めたのは、 きわめて健全だったんじゃないかと思う。 尾崎の歌を、オタクの人たちに聞いてもらい、元気になり、 孤独の地獄の底から這い上がってきてもらいたいと思う。 尾崎は、一度底からはいあがってきたんだせーーーといっていたよね、バースツアーで。
5月31日 今日もクロスタワーに行きました。5月31日。息子が17歳になった日。

尾崎の3年後輩の人に会いました。
彼女が言うには、 このところの夕日は本当にきれいです。 尾崎先輩は青学で人気がありました。 O先生(尾崎の担任)は皆に嫌われていました。 先生は大会社の社長の娘で、小学校から青学でしたから、 尾崎先輩を扱いにくかったのでしょう。という事でした。

ふ〜〜〜ん。家の子どももミッションスクールの高校2年生。
内部生と外部生って呼び方もある。 尾崎みたいな学生は内部生はいなかったんだろうね。 きっと内部生は要領もよかったんだろうし・・・・
5月22日 尾崎健一さんにお会いしました。誠実な方にお見受けしました。
田舎から出てきた人で、自然を愛し、短歌をつくり、尺八を吹き、たい道を極めた端正な紳士でした。
きっとこの方は尾崎のお兄さんのような人で、 尾崎豊さんはお母さんに性分が似ていたのだろうと思いました。 何で、このような家庭でこのような父を持つ子どもの尾崎豊が 芸能界の中できちんと生き抜くことが出来なかったのだろうかといぶかしく思いました。 芸能界そのものが億万という巨大な利権の巣窟で 其の仕組みが分からないでは、なかなか生きていく事すら難しいのだろうと想像しました。

お父様にお会いでき、尾崎豊の顔中がしわの笑顔の写真に対面し、 尾崎を思う時にはいつも悲しかったのですが、すこし暖かな思いでいられます。 写真周りの気がゆるやかだった・・・清く暖かな霊を感じられて嬉しく思いました。 お母さんと豊くんでゆっくりとした永久の中をただよっているのでしょう。 でも、かれはこの世からはまだまだ離れてはいないように感じました。 今日は、仏前で本当に穏やかな気を感じて、私も本当に温まりました。
4月30日 27日、お墓に行きました。田舎の山の中にある霊園。 何であんなところにお墓を作ったのだろう。
出きれば、朝霞か、豊島区のどこかに作れなかったのだろうか。 街で生まれ、街で育ち、街でつまずき、街を愛し、 街に這い蹲り、街で恋をし、街から離れられなかった尾崎を あんな辺鄙なところにおしこめちゃって。。。
死んでからも、尾崎は可哀想だと思いました
4月24日 24日。明日は25日。人がいなくなった時に、お墓に行こうと思います。
明日じゃないけれど。
尾崎を息子のように感じる。
時には、自分のむすこより、分かりやすく思える。尾崎の痛みすら感じられる。
17年前に、天才がむしりとられるように、命をなくしたのを悼まないではいられない
4月22日 ソニーに尾崎の展示会に行ってきました。
展示物の少なさに、寂しさを感じました。
ルイードのコンサートを見て、涙が出て困りました。
クロスタワーへ行ってきました。
3月15日に行ってきました。とても貧弱でした。チリというか埃まみれでした。
なんだか、尾崎が可哀想になってね。
埃まみれになって、祈っている尾崎のレリーフは、私には悲しかった。

スタバでサンドウィッチを買って、ビルの間の曇り空を見上げながら、
forget-me-notを口ずさみました。尾崎も寂しかったんだろうなと思いながら
ベンチに座っていました。

帰り道にもう一度歌碑をみて、さようならをいいました。
seventeen's mapの歌詞をみながら、息子を思っていました。
うちの16歳の息子はどんな地図をかきながら生きているんだろう。
尾崎と同じにうずうずしているんだろうか。

渋谷駅に戻りながら、街で生きていく重さを感じました。
若い子達の夢くずを踏んで歩いているような気がしました。
でも、その夢くずも実は何十年か前に私が捨てた夢なのかもしれませんね。

私の願い
私も須藤さんの真意が分からない時がある。
グりーンはまるで尾崎の熱意を後世へ伝えたくないような出来で、尾崎の魂を忘れたかのようだった・・・
あのCDを聞いて愕然としました。ブルーの宇多田ヒカルは良かったけれど。

ギターを売るならば、ミュージアムを作ってほしかった。印税は今だって入っているんでしょ。
その額は家族で使えないほどでしょ。維持管理できるのではないの?
シャツの切り刻みはまるで尾崎を切り刻んだように辛い思いになりました。酷い。

尾崎を見出したのは須藤さんではないでしょ。ルイードのコンサートを聴いても
感動もしなかったって本に書いてあった・・・・藤沢さんの本に。
ソニーの人が見出した。勿論須藤さんは多く係わったかもしれないけれど、
最後は尾崎から切られてしまった。尾崎が頼んだときに一緒に仕事をしてくれなかった。

尾崎が死ねば自分の思い通りだから、自分で事務所を開き
尾崎の歌を出し続けている。勿論、それで、尾崎の歌は生き延びているのかもしれない。
でも、私は尾崎のファンだから、尾崎が作ったアルバム6枚だけでも、
尾崎は永遠に残ると思っているんだ。

須藤さん、お願いだからあまりコマーシャルな方法で尾崎を売り物にしないで。
彼は、もう何もしなくても伝説の人になっているから。

須藤さんに望む事は、今ある音源で、例えばコンサートなどで
コンプリート版をきちんと製作してほしいという事なんです。

COREにしても、セレクトされた映像だけだった。このコンプリート版がほしい。
秋田のもあるそうだし、本当言えば、郡山のも、インタビューは後にして
コンサートをきちんとつなげてほしい。まだまだ、映像も音源もありそうです。

私も確かに尾崎が生きている間は、子育てに忙しくて、尾崎は若い子の音楽と
決め付けて聞かなかった。しかし、今尾崎を発見したものとしては、
佐藤輝さんが編集した、彼の恣意のPVや
須藤さんの恣意でのベスト版もなんかではなく、
生のというか、尾崎の声を直にたくさん聞きたいと思うんです。

私は尾崎のものを1年に一回、2回、お金儲けのためであろうと、なかろうと
須藤さんがお力を出されている事は理解するけれど、くどいようでも
その方向性が今一理解できないところがあります。

尾崎の残した音源を、コンサートをBSの番組としてではなく、
ちゃんとDVDやCDにしてほしいと願います。

また、切り刻んだシャツは、尾崎がコンサートでオーディエンスに投げた夢のように、
真実が育まれているように、
シャツの破片をもっている人たちの間で、
尾崎が信じていた愛を育み、
裏切られても信じる支えとなり、
奪われても与える力となり、
寂しくとも分け合う心をもち、
悲しくとも微笑む勇気を与える
小さくとも大きな意味を持つものであってほしいと願います。


私が尾崎についてや、尾崎のインタビューをかなり読んで感じるのは、尾崎はかなりクールなところがあったという事。
鬼頭さんはじめ、須藤さんや多くの人と絶縁した。
勿論、彼がとち狂ったと言う人もいるけれど、
私は、彼が自分に寄り添ってくれる人と最終的に仕事がしたかったんだろうと思う。
その中に須藤さんは入っていなかった。須藤さんは尾崎に背を向けたものね。
尾崎は自分を歌い、須藤さんは尾崎を商品にするのがお仕事。
尾崎は須藤さんにもっと自分に寄り添ってもらいたかったんだろうけれど、
最後に結局一人ですべて、自分ですることになった。
でも、須藤さんに頼らずにも、アルバムができて、本当に良かったね、尾崎。

須藤さんと尾崎の記事を読むと二人の考えのずれが初めからあり、
今、尾崎がなくなってからは須藤さんのプロデュースの仕方では
尾崎が望む方向からずれが大きくなったように感じます。

きっと尾崎ならば・・・って思う事が多いのですけれど、尾崎はなくなったのだから仕方がありませんね。

後世に彼のアーツを残すならば、朝霞市に掛け合って、朝霞市に彼のミュージアムを
作ってもらう事かな。尾崎は、朝霞なんかよりも、新宿や渋谷を望むだろうけれど。

そうして、ファンがもがいていれば、こんな鬱積した思いが、
いつしか、切り刻んだシャツの破片を、尾崎がモザイクみたいだと言ったように
また”絆”でつなぎ合わせる事もできるかもしれない。



尾崎と宗教
  尾崎は宗教が好きだったと言うのは定説だね。

  で、彼のうちのS学会に関しての哲学と言うか、宗教色はどの曲に出ているのだろう。
  仏教についてよく知らないから、見えない。知っている人教えてください。

  贖罪、告白、証と言う言葉は、見事にクリスチャンの言葉だし、
  祈祷というのは神道にもあるだろうけれど、祈りと言うのはクリスチャンの考えでしょ。
  私は、多くの曲の中に、彼が罪の許しを請うている響きを感じるし、
  罪ある存在として生きていく事の決意も聞こえてくるけれども、最後は許される事を望まなかったように思う。
  宗教から足を洗おうとしていたかのように感じる。

  明日を撃ち抜き、自分を撃ちぬける事ができると考えるのは、
  贖罪や許しをあきらめたのではないか。

  彼は長い間、贖罪されること、
  すなわち罪を許される安心感を求めていたのだろうけれど、
  最終的には自分で明日を撃ち抜くこと、自分を撃ち抜く事にしたのではないかと思う。
  要するに、誰かによって自分の人生を総括できない、自分の罪ある存在をきれいにしてもらえない、
  逆に言えば、許しを受けられない自分や、すなわち神の存在を信じる事のできない自分、
  非常に孤独な自分を受け入れたのではないかと思う。

  そこに清清しさがあると思う。(個人的には神の許しを得てほしかったと思うんだけど
  「放熱への証」を聞いて「諦観」を感じる。
  お母さんが亡くなられたあと、それでも自分は生きていくことをどう自分に折り合いをつけるというときに、
  キリスト教の神から結局足をそむけて、そのままの自分で明日を撃ちぬくしかないと思ったのだろうと思う。

  私はクリスチャンだから言うのだけれど、
  モルモン教のような戒律主義の異端な宗教に出会った事で、
  残念ながら尾崎は救われなかったんじゃないかと思う。
  柴田さんの本の中でも、酒もタバコも絶って教会に通ったが、
  駄目だったという事が書いてあった。

  モルモン教のような戒律は罪を暴くし、人を裁くからね。
  尾崎はキリスト教の許しに期待しただろうが、イエス様を知らなかったんだと思う。
  神を求めても、沈黙する神を信じる事が出来なかったんだと思う。
  尾崎のたくさんの祈りの写真を見ていると、
  尾崎は信じたかったんだと思うけれどね。

  だから、S美の所に戻るしかなかったのだろうね。
  そして、始めからやり直し。でも、それは茨の冠を被り、
  十字架に自分をつけるような毎日だったと思う。可哀想に・・・

  彼は救われない自分からの出発を誓ったばっかりだった。
  クリスチャンの私としては、彼が本当の神、イエス様に出会えなかった事は
  本当に残念です。彼は心から許される事を求めていたのに・・・
    
青山学院はプロテスタントのメソジスト派の学院。
どうして、ここで救われなかったのかと、
いや自主退学させるほど追い詰めたのかと心が痛みます。
カトリックの方がまだ潔癖でない点があるけれど、
プロテスタントは潔癖で、自分分かっていてする罪を許さないし、
神への冒涜するような言葉はご法度(そのころの尾崎がしそうな事だけど)・・・・

ところで私もプロテスタント。夫はメソジスト。
尾崎は本当に許しを求めていたよね、
救いを求めていたよね、
祈っていたよね。救われ、許しを実感できていたならば、心から嬉しいけど・・・

彼が信仰に至っていたならば、クリスチャンになっていたら嬉しいけど、
そうであれば、彼は自殺したのではなくて、やはり誰かの手によってあやめられたことになる。
クリスチャンにとって神から与えら得た命を捨てる事は罪だから。
実際、悪魔の力は恐ろしい。


須藤さんに関して

  須藤さんに関して言えば、尾崎の死んだ後のアルバム、特にブルー(宇多田は素晴  らしいが)、グリーンの歌手の選定、その人たちの尾崎の歌の解釈には首をひねる。  まるで死んだ尾崎を否定しているかのようだ。須藤さんは、尾崎が嫌いになったのだ  ろうか。尾崎を殺したくなったのだろうか。尾崎が重くって仕方が無いのだろうか。で  は、尾崎から手を引けばいいのに。

  最近の文書の中で読んだのだが、尾崎は「人間やめますかとはどういうことですか」  と聞いた時に、須藤さんは「死ぬことだよ」答えたそうだが、脈絡の無いその記述の   意味が理解できなかった。人間をやめた尾崎は果たして死んだのだろうか。須藤さ   んは尾崎を殺したくなったのだろうか。須藤さんがアルバムなんかを製作しなくなった  ら、尾崎はもう死に絶えてしまうのだろうか。

  私のように、尾崎の生きていた間は尾崎を聞く事もなかったような世代が、今心の痛  みを抱えたままで尾崎に慰められているが、須藤さんが尾崎を見放した時、尾崎は   死ぬのだろうか。人間は2度死ぬと言われる。肉体が滅びる時。それから、その人が  人の思いから消えるとき。尾崎の作ったものが、いつしか人から消えていくのだろう   か。一斉を風靡した演歌歌手が亡くなると同時に忘れ去られていくように・・・・


須藤さんは<<共同条理の原理の嘘》をアルキメデスの原理でもよいし・・などと
尾崎に言っていて、尾崎はそれに抵抗しているってのが尾崎豊覚書に書いてあった。

尾崎は「《共同条理の原理=暗黙の了解》というのは嘘なんだ」と言うよりは
人間関係の中で作られたもっと具体的なものを嘘と言ったのではないかと思う。
さっきの須藤さんへの答えとして、尾崎は
「アウフヘーベンの嘘」ぐらいにして
と言っている。2つの矛盾したもの、または連続したものの変化が新しいものを生み出すと言うアウトへーベンは嘘だというわけでしょ。これは、新しい次元が高次なものでもないという事かとも思う。

そうすると、きっと私が暗黙の了解の意味をよく分かっていないのかもしれないけれど、
ただ、「皆が思っている事・暗黙の了解には矛盾・嘘がある」という理解は少し平板かなと思う。

共同体そのものが幻想である。例えば国なり地方自治体が、住民の作り上げた物であるというのは大いなる幻想であって、権力機構は、国民の意思で作られたのだといって誤魔化して入る事を隠蔽するものだと言うことだったのではないかと思う。

少なくとも、尾崎は芸能界の中での大きな力によって、翻弄されていたのだから
その権力との必死の闘いそのものについては、体験していただろうし、憎んでもいただろう。だから、私は「共同条理の原理の嘘」を「世間一般の常識には嘘があるよ」と言うだけの意味には取れないな。

平板に言えば、個人を押さえつける権力の嘘、民主主義としての体制の嘘、
優しい顔をして人を踏みにじんでも平気でいる人人の嘘とでも言えるかなと思う。
それでも、個人としてはすべての幻想の中で、幻想は嘘だとも知っていても、
一番の幻想、愛にはみなひざまづいてしまうのよね。宗教かなあ。

戻る