私の活動 2013年7月 

7月   
31日(水)  HP更新 おなじような原稿を書き続けている。後は、議会に出す報告書のみだ。

  口には出なかったので、単なるウィルス性風邪の発疹か?つらかった。
 30日(火) 夫が心配して病院に行くようにというので、石心会クリニックで皮膚科を受診。バイルス性の湿疹で手足口病のようなもの。普通大人は風邪の症状だそうだ。だから、うつしても風邪のようだというが、人にうつさないように自宅で安静にしている。その旨、議会事務局に届ける。委員会出席も、フェミ議の合宿も、七夕も、息子の後援会もすべてキャンセル。これは1週間から10日で直るという。熱が出ないだけましだが、咳が抜けない。嫌だわ。薬がないそうで、かゆみ止めのような対応だけだ。

子どもの病気に大人が掛かる事もあるというが、先のドイツ旅行で体力が消耗しきってしまった。
29日(月)  発疹が酷くなる。 HP更新 
28日(日)  礼拝 市川房枝記念会へ原稿を送信  手に発疹が出始める。
27日(土)  聖望学園高校野球応援(県営野球場) 脱水症状でダウン HP更新 フェミニスト議員連盟へ原稿を送信
26日(金)  すすむ会事務仕事 領収書等発送  スカイプミーティング
25日(木)  すすむ会事務仕事  
24日(水)  すすむ会事務仕事 
23日(火)  議会報告会 アメリカ・ドイツ視察報告会 
22日(月)  アメリカ・ドイツ視察報告会資料作成 
21日(日)  礼拝 (途中から体調不良、喘息が悪化) 午後は休息 
20日(土)  体調不良にて休息 
19日(金)  全員協議会欠席(体調不良) 総務経済委員会協議会 
18日(木)  午前中体調不良で休息  午後役所で帰国の挨拶 
17日(水)  ドイツから帰国 
16日(火)  ベルリン空港からミュンヘン経由で日本へ 
15日(月)  @BC 

また、ナチスの展示場を見た。Aの写真で手前の紳士は校長先生で、子どもに「ハイルヒットラー」と言ってはいけないと教えたとさらし者になっているところ。この後、フンボルト大学へ行き、焚書したところを見た。
Bは戦争で死んだ兵士の慰霊館の中心にあるモニュメント。死んだ成人男性を母親が抱いて嘆いている。
Cちょっとお茶目なゴミ箱。タバコを消して捨てられるし、犬の糞も袋に入れて捨てる事ができると書いてあった。

DEFG

Dブランデンブルグ門に行った。東西冷戦の頃はここは閉ざされ、両脇の門から出入りを許された。とにかく観光気分の全くない視察だ。この門が何年に作られたかも知らない。後で調べなければならない。
Eホロコースト博物館の上のモニュメント。大きさのさまざまな石が並べられていた。お棺の陳列に見えた。
Fそこここにナチスはダメだのポスター。この後ろにはユダヤ人で科学者の女性が強制連行され殺されたと書いてあった。
G女性企業支援センターに行って講義を聞いた。
14日(日)   ドレスデンの中心部。これはすべて東西ドイツが統一された後に再建されたもの。黒い色は昔からの砂岩のブロックで、白い部分は新しい石。爆撃された粉々になったブロックの内、使われそうなものを撮っておいて、修復に使ったそうだ。町並みも昔の教会やコンサートホールにマッチするように作られていた。

こんな歴史のある街において、私の関心が中心市街地の活性しか思い浮かばないのは職業病である。莫大な金を掛けて、思い切って行った修復作業も世界中から観光客を集めるようになっただけでもすごいことだ。
13日(土)  @AC

@はグルーネヴァルト駅。この駅から多くのユダヤ人が老若男女を問わずに強制収容所に送られていった。多くのユダヤ人は自分達が殺されるとも知らないで貨物列車に乗せられて輸送された。
A1941年の10月1251人のユダヤ人がロッツに貨物として輸送された。1045年の2月まで187回続いた。
Bはトルーマンハウス:ポツダム会議のためにトルーマンは1945年7月17日から8月2日まで滞在した。7月25日、トルーマンは広島、長崎に原子爆弾を投下する事を命令する署名をした。
Cこれはトルーマンハウスの前の、広島長崎広場にあるモニュメント。石は広島と長崎のもの。原爆で何十万人の人が死に、その後も多くの被災者が苦しんでいる事を記している。

DE ツエツィーリンホーフ宮殿とポツダム宣言のための会議をした部屋。
すでにこのときには、(ドイツは降伏していたので)ソ連の中国での日本との戦闘は決められていた。連合国も理解していた。ただ、ソ連が強大な勢力となるのを見て、トルーマンはけん制の意味をも含め日本に原爆を落とすことを決めた。原爆を落とさなくとも日本の降伏は分かっていたが、日本の意向等無視された。
12日(金)  @A B 

 @は抵抗博物館前で。ナチスが猛威を振るっていたドイツでも内部からの抵抗が始まった。1944年7月20日、軍人4人を中心にクーデターが試みられたが、失敗し、その日のうちに銃殺された。後ろの写真の軍人達。この像はその家の1人の夫人が立てたもの、手は縛られていた。私はその手を握って胸が一杯になった。失敗すれば殺されると分かっていたのに、実行する勇気。
 Aこれはクリスチャンの私としては掲げたくもないが、キリスト教会もヒットラーに迎合していた証。ある牧師が「障がい者が殺された時、自分のことでないと黙っていた。ユダヤ人が虐殺されても、自分のことでないと黙っていた。今度は自分の時(迫害される)が来たが、自分達のために誰も言ってくれる人はいなかった。」迫害されないように迎合していたが、ある時点からは教理と会わない行動を許す事ができなくなったという事だろう。それで教会も迫害されたのだが、その時には、もう遅かった。独裁体制は完成されていたのだから。

Bエコの村ブロドウィン訪問:100%再生可能エネルギーで電気を自給自足する予定。エコ庁舎は屋根をガラスにして、天井を開け閉めして光を調節していた。
Cブロドウィンの農場見学:ここもすべて100%再生可能エネルギーをもちい、循環農法を行っていた。目標は沢山の雇用を生み出すこと。
11日(木)   @A B

CD E F

@ベルリン、エネルギーエージェンシーで講義を聴く。
 A 「エネルギーを市民の手に」団体訪問
 B 町中にあるナチス弾劾のポスター。今年はナチスが全権委任法を通して80年、ベルリンの町中でナチスのした数々の残虐行為の批判をしていた。
 CT4作戦の碑文と碑 7月17日に民族順化のために障がい者を断種し始めた。それか80年。その後、安楽死を“生きているのも無駄”な障がい者、病弱者、高齢者に施した。大勢を殺すために、ディーゼルエンジンの排ガスを使い始めた。これは、のちのアウシュビッツなどでガスが使われるための実験にもなった。
DT4作戦のために亡くなった人の記念祭が行われたようで、お花がまだ飾ってあった。
Eベルリンの壁。こんなに薄い壁。左側はゲシュタボの施設があったところ。一部の地下拷問所を除いてすべてが壊されてあった。
F今年はナチスの全権掌握から80年というので、Fのようにその頃の写真が展示されていた。自分達が権力を握るためには反対者を抹殺していった歴史がアカラサマだ。1933年には何十人という反対者が殺された。
最後の写真は、国家社会主義ドイツ労働党(ナチス)が熱狂的に国民から迎え入れられているところ。このほか、大規模なナチスの集会の写真もあり、全体主義はヒットラーやその周辺だけが悪いのではなく、国民全員で反省すべき点は反省するべきだという事が明らかにされていた。
自民党は日本を取り戻そう」というスローガンだった。何を取り戻すのか。どこに戻っていくのか。ドイツの今年を見てみると、ドイツは絶対ナチの時代に戻す事はないと宣言しているかのようだった。日本も絶対に戦前の全体主義国家に戻してはいけない。
10日(水)      

 朝早く、赤の市役所へ。ここはベルリン市役所であり、ベルリン州役所でもある。埼玉県の県庁でこんな立派なところがあるかと思うが、ないだろう。
 ベルリン市は1市で1州である。ここで政務次官のLoperさんの女性問題についてのレクチャーがあった。残念ながら、彼女はドイツが日本やイタリアと同様に女性問題では後進国であるという認識が少なかった。
 なぜならば、政治が各党が自ら行っているクオタ制により、女性議員の数が日本以上に多いことに由来する。

 午後からは、ベルリン州の政治教育センターに出かけた。政治教育センターなんて日本では考えられないだろう。確かに公民館はあって各種講座もあるが、最近ではまるで趣味の講座だ。ここでは、歴史の検証を行い、政治課題についての勉強会等を、少年から青年まで女性も男性も来て学ぶ。勿論学校における政治教育も盛んである。歴史を真摯に直視し、それから否定すべき点を学び、人類の福祉に貢献するような施策を展開していく。こんなドイツの姿勢には、心から頭が下がる。 
9日(火)     
朝9時から市内バス等の公共交通機関を使い、勉強会へ。まずはキャビネットカフェにて、滞独40年の女性ジャーナリスト永井潤子さんのドイツ史と政治ガイダンス。

タンクのモニュメントのある解放広場や、ベルリンの壁を突破しようとして銃殺された市民の十字架の記念碑のあるところを通り、議員会館で緑の党連邦代議士 モニカ・ラツァルさんと女性政策などについて会談。

その後、ドイツ倫理委員会メンバーのミランダ・シュラーズ教授からドイツの脱原発政策について、講義を受ける。私は、この先生の講義のレポーターなので、メモをとりながら必死で聞いた。彼女はなんと高校の時好感留学生として来日し、その後慶応大学でドイツ語を学び、アメリカに帰ってから、学位をとったという方で、私達の講義は日本語で行われた。

    
8日(月)     
ドイツ連邦共和国視察 成田発、ハンブルグ経由、ベルリン市へ。
ハンブルグはルクトハンザの国際ハブ空港で大きかったが、ベルリン空港はとにかくローカル空港で驚いた。ヨーロッパはユーロ圏は自由だから、ベルリンから他のユーロの国に行くのも、ドメスティックという訳で、税関などもない。
7日(日)  礼拝 ドイツ渡航準備 
6日(土)  佐久の別荘でのんびり。草刈 タブレットで遊ぶ
5日(金)   「高橋ブラクソン久美子とすすむ会」ネットニュースの手配り 
タブレットの使い方の説明をドコモで聞く。
佐久の別荘へ。
4日(木)  ホンダ野球部応援(ホンダの練習場にて) 聖望で甲子園に行った選手が練習試合相手のセガサミー の中に3人もいた。嬉しくて写真を撮った。追っかけの伯母さんみたいって言われたけれど、聖望と聞くと無条件で応援したくなっちゃうんだよね。頑張れ、元聖望野球部員。 

タブレット(ドコモ アロー アンドロイド)を買った。ドイツに行くから、翻訳アプリもダウンロードしたし、MIXIもFACEBOOKもOKよ。マップもダウンロードしたので、迷子になっても自分の場所が分かるし、海外対応の携帯も掛けられるようになった。後スカイプの仕方を知るべきだなあ。
3日(水)  「高橋ブラクソン久美子とすすむ会」ネットニュース郵送  
フェミニスト議員連盟国際部ミーティング
2日(火)  事務仕事 挨拶文作成
1日(月)  「高橋ブラクソン久美子とすすむ会」ネットニュース作成  ユーロ購入