私の活動 2014年1月から3月


3月  
 31日(月) さようなら、友達(と、私は勝手に思っている)。
期待する女性は辞めていく。本当に残念で仕方がない。新しい人生に幸ある事を願うのみだ。
宮本福祉子ども部長は再任用もせずに辞めてしまうそうだ。会えると思ってもなかなか会えなくなってしまうだろう。

私は彼にとてもお世話になった。家庭内の辛い時、頭を抱えて相談に何回も行った。彼も仕事だからと真剣にお付き合いしてくれて、私は心の中で何べんもなんべんも感謝した。夫も宮本さんにお世話になって感謝している。あのころ私は「男はつらいよ」をしょっちゅう見ていたのだが、宮本さんに「あれを見ると癒されますからねえ」といわれ、私自身あまりに辛くて「寅さん」に逃げていたのかとはっとさせられた事があった。

宮本さんだけでなく、あの時には多くの福祉部の方にご迷惑や心配をおかけしたが、宮本さんのお辞めになるに際して、関わってくださった方々(名前を挙げられないが・・・)に心から感謝を申し上げたい。本当に有難うございました。
 30日(日) 礼拝 挨拶文、ネットニュース印刷 
 

市川房枝記念会女性と政治センターで昨年来製作中の本が出来た。勿論私も寄稿した。4回行った選挙の総括である。1500円で発売している。本屋で取り寄せてもよいし、私も何冊か持っているので、私から購入も可能である。女性で議員になりたい人は是非読んでほしい。立候補したい人にはアドバイスもできる。

夕方、夫と二人で桜を見に入間川の土手へ行った。水仙も綺麗に咲いていた。
 
29日(土)  事務仕事 夫が印刷を手伝ってくれたので議会レポート印刷 挨拶文、ネットニュース作成
 28日(金) 昨晩遅くまで議会レポートを 作っていた。珍しく昼寝。コストコで買い物。
27日(木)  高齢者福祉勉強会 基準財政勉強会
さようなら、友達(と私はおもっている)。定年後も再雇用される人もいて、また来年度も役所で会える人もいる。
    事務仕事
 26日(水) 美容院 HP更新 事務仕事 
25日(火)  3時過ぎ役所の内定が出たので、役所へ。
さようなら、友達(と私は思っている)。定年前に辞めていく人が結構いて、将来を嘱望していたのにと、心から残念に思ってしまう。事務局長は同じ地区に住んでいるから、また会うだろう。本当にお疲れ様でした。
  事務仕事
24日(月)  皮膚科、整形外科受診  事務仕事
 23日(日) 佐久から狭山へ 
22日(土)  直江津から佐久へ
 (道の駅より妙高山を仰ぎみる)
 21日(金) 息子 卒業(院に進学) 私達は父の米寿のお祝いに直江津へ。
 
20日(木)  静養。HP更新。事務仕事 
19日(水)  3月議会閉会。 静養
さよなら、私のお友達よ。定年退職おめでとう。
今まで多くの友達(と、私は思っていたが相手はどうだっただろう)を見送った。意見の相違もあっただろうが、相手は一枚上。私をうざいと思っても、顔色変えず話に付き合ってくれた。(若干1名そうでない人もいたかなあ。さて誰でしょう。)
   
18日(火)  全員協議会。図書館。静養。 
17日(月)  静養。  
16日(日)  静養。解熱した。 息子長野に帰る。
15日(土)  静養。発熱のため受診。
14日(金)  静養。皮膚科受診 熱っぽい
13日(木)  自宅。HP更新。熱っぽい
12日(水)  退院。パッチテストを見る。背中の傷をくっつけたボンドに酷く反応しているらしい。今時は傷の痕を縫うことなく、ボンドでくっつけるそうだが、私のようなアレルギー体質の人間はそのボンドに反応して痒い痒い。赤く腫れ上がって、その上ボツボツが出来ているそうだ。自分の背中は見えないし、見たいとは思わないけれど。

長野から帰宅した息子に助けられて退院したが、体力がなくて、午後から珍しく午睡。家のベッドは電動ベッドでないので、フラットにしかならない。そのせいで傷跡の背中が痛んだ。完治まで時間が掛かるのだと悲しく思った。
11日(火)  手術痕の状況はかゆみがひと段落。明日には退院できそうだ。

安静。リハビリ。稲荷山公園の中腹、見学台、中央児童館と見て歩いた。中央児童館は本当に小さくなってしまった。前にあった児童館の漫画もちょっとしかなくて、うちの子供たちが中学生になっても読んでいた“明日のジョー”も並んでいなかった。狭山市の中央図書館の子供コーナーは充実しているけれど、以前あった中央児童館の漫画の数には負けただろう。 漫画ももう芸術。特に手塚おさむ、千葉てつや、藤子などの漫画は古典だろうと思う。どこかで、子ども達に見せてあげたい漫画だ。

パッチテストが痛いしかゆい。痛いのを通り越して皮膚を刺激しすぎている。もう、分かったから止めてほしい。
10日(月)  安静。リハビリ。稲荷山公園の中腹から見学台まで歩いた。春霞の中狭山市が一望に見えて少し感動した。

夜、手術痕のかぶれが酷くなり、何が原因か、皮膚科の先生が来て、パッチテスト。これが、時間がたつにつれかゆい。 
 9日(日) 安静。今日はリハビリもなく、単調な1日。議会だよりの原稿を書く。 
 8日(土) 安静。リハビリ。リハビリで稲荷山公園の中腹まで歩いた。眺望が綺麗だった。公園の裾野を少し歩いたが、梅が綺麗に咲いていた。もう、春ですね。 
7日(金)  安静。リハビリ。HP更新。お風呂(今日は遠くに富士山がみえた。眺望風呂という名にふさわしい) 。外出後、1日。疲れも取れて、早く退院したくてたまらない。家に帰れば、安静にしていられないだろうけれど、単調な入院生活に本当に飽きた。
6日(木)  安静。リハビリ。HP更新
 5日(水)  今日はあまりよく眠れなかった。朝、5時過ぎに起きてしまった。 着替えて、書類を確かめて、お化粧をして、朝食をたべて、あっという間に8時過ぎ。今日は雨だから、タクシーが来ないといけないと、少し早くにでた。

朝議長と面会し、私のために特別な事をしないでほしいと頼んだ。それでも、東山さんは親切だし、古谷さんは気が利くしで、ご迷惑を変えたことに間違いない。ありがとう。

事務局の人もとても親切で申し訳なかった。皆さん、ありがとう。

今日、私は自分として精一杯の事をしたつもりだ。それにしても人の話を1時間、椅子に腰掛けているのは辛かった。私は立って演説をしたが、10分立つというのは大変だった。でも、がんばった。一般質問を終えて早退し、タクシーを呼んで帰ってきたが、午後は疲れきってベッドに寝込んでしまった。退院して普通の生活をする自信はまだない。

よる、議会を見るのをパスした。自分の今日の一般質問をぐるぐる考えてしまい、眠れなくなった。偉そうに話したなあと自己嫌悪する。問題の提起はしたが、その解決には程遠かったなあと思う。とにかく、3人の部長が定年退職するので、3者に答弁してほしかった。これは達成だね。

そういえば、宮本さんも、向野さんも、粕谷さんも初めて会った15年前はペイペイだったわ。勿論天才は双葉よりかんばしというように、それぞれが有能に見えた。でも将来、部長になるとはその時には思わなかった。財政課長の岩野さんが細かい事はすべて向野さんにまかしていたから、向野さんはちょっと変わっていたわね。

3人とも出世したのは人間的に魅力があったからかもしれない。議会事務局長の古谷さんも今年定年だが、先の3人と共に個性的であり、4人ともよい意味でも悪い意味でも役人だ。何十年もの間、何人もの上司と市長の下、規則やら議員やらと付き合っているのだ。黒が白になるような事もあっただろうに、辞めずに役職を上り詰めたのは素晴らしい。定年後も、よろしくね。
 4日(火)  今日は朝から外を歩く練習と階段を登る練習をした。明日、議会に行くには外歩きと、何段かの階段を登らなければならないからだ。問題をクリアーした。杖を付いてタクシーで行けば、議会へ行くのに問題ない。

レントゲン検査と血液検査をした。その結果、朝のうちに、医者の外出許可もおりた。

午後は、一般質問の最終チェックをした。いくつかの答弁書がおそくなった。プリントアウトする時間がないので、明日朝議会事務室で貰う事にした。

なんと、介助付きではあるが、お風呂に入った。眺望風呂があるのだが、入ったら曇りだったので、雲しか見えなかった、なんと16日ぶりのお風呂だった。

議会と議会事務局にはご迷惑をおかけしたが、出来る限り私のために特別の事をしないでほしいと願っている。脊椎手術後2週間での外出など、この病院ではなかった事のようだ。でも、私は明日のために一所懸命リハビリをした。確かに痛みも残っているが、痛み止めが好く作用している。

夜は3月3日の収録の議会を見た。1時間ほどで終わった。なんと低調なんだと思う。栗原さんの図書館への質疑に興味をもった。半年間図書館を閉めるのであれば、すべての図書にITタグをつける作業を行い、自動貸し出し装置などを設置すべきだし、飯能で行っていたワイファイサービスやIT音楽貸し出しも出来るようにしておくべきだろう。そういう、新しい事にきちんと目を向けられる職員と市長ならびに市の幹部であるといいが。私の飯能図書館報告を政策企画に送るべきかもしれないな。 
  3日(月) 今日は歩く練習に励んだ。とにかく、杖で歩けなければ外出は出来ないと医者に言い渡されているから、絶対歩けるようにしなければならない。

午後は一般質問のまとめ。メールをしたり、忙しくなってしまった。

夜、28日の放送分をみた。施政方針演説への代表質問をケーブルテレビで聞いた。いくつか面白いと思う答弁があった。栗原さんの質問に対する答弁で、市長は将来の狭山市の人口減を認めた。土地利用転換についても積極的な答弁で好感をもった。

それに比べて、議案質疑は低調に思えた。マア、私がいなからだな、なんて思ってみている。委員会審議をみず、議員や会派の活動を知らないで議会だけを見れば、なんと楽な仕事かと誤解する市民も多いだろうと思う。広報をしっかりするべきである。
 2日(日) 最近は礼拝に行けてない。しかし、毎日アパルームというデボーションの本を読み、大頭眞一先生の書いた「聖書は物語るー1年12回で聖書を読む本ー」の何章かずつ読んでいる。これらの本を畏まって読んでいて、結局祈り始めてしまう。それも自分のことだ。右足に力をくださいという事。神経が癒えたり、ボルトを入れて常に痛みのある背中がよくなるようにだとかという事を祈る。

神様を信じるという事は、神様をいつも心の中に住まわせる事じゃないかと思っている。残念だが、困難や辛い事がある時のほうが、神様との交わりが深くなる。痛みがある時、どうかこの痛みをとってくださいと祈る。幸せの時の感謝の祈りよりも、深く必死で祈っている。キリスト教のよい処はお題目のように何万回唱えなければならないと言うことがないこと。同じ文句ではなく、心の奥から自分の言葉で神様に語りかけられる事。

今日も朝からどんよりとした日。雨は上がったようだ。これから少し仕事をしよう。 

午後に杖を付いて歩く訓練をした。まあ、病棟内はピョコピョコしながらも歩ける。とても嬉しい。これで、脚の痺れが取れたらよいのに。右足は依然としてしびれている。これはこれで受け入れなければならないのか。ちょっと、悲しい。
1日(土)  とうとう3月になってしまった。12月21日以来、病院生活のほうが家にいるより長くなった。今日は一般質問の原稿を修正したり、第2質問やらコメントを書いていた。

体調は良いのだが、スタミナに問題ありかな。背もたれなしに10分も座っていられない。歩きはまだ、4足歩行。でも自分の脚でありけるようになるのも近いと思う。手術は健康にダメージを与えるね。でも、あの状態を続け、後にもっと悪くなる事を考えたら、とてもそのままにしておけなかった。良くなる事だったら前にすすめだ。

しかし、そのままにしていたらどうだっただろう。今の決断を否定するのではないが、今後年齢が上がれば、治療しないで現状維持という選択肢のほうが良い場合もあるだろう。私に現状維持という決断が出来るだろうか。そんなことを考えている。
 2月  
 28日(金) 質疑1日目。議会に出られたらなとつくづく思う。インターネット中継を切に望む。

それにしても、昨日の説明を聞いていて、原稿の丸読みばかりで分かりづらかった。その中で、ゆっくり読み上げていて、かつぜつの良い岩田上下水道部長の話はl聞きやすかった。彼は社長の風格が出てきたね。議会は正に株主総会のようよ。

昨年に比べ10%増の当初予算。なぜ、こんなに膨らんだのか。まあ、理由の第一には消費税があるのかも知れない。でも、他には大きなプロジェクトがあるわけではない。重点施策を読んだし、市長の施政方針演説を読んでも、新しいまちづくりの息吹を感じない。総花的で身の丈サイズ、すなわち縮小に血道を上げるような予算だなあ。

入間中学校の統廃合。まあ、統廃合は良いけれど、ただ子どもの数で学校の数あわせをしているだけでいいのかって思う。統廃合して新しい何かが狭山市に付加され、住民が増えればいいけれど、そういう考えはどこにもなさそうだ。

第3次基本構想が終わりになる今年、まあ、過去をきちんと整理し、反省し、前に向かっていかなければならないと思う。それでも、なにか狭山市の発展に希望を感じられる物がほしいと願う。ワクワクするものがほしいなあ。
 27日(木) 議会休会。 明日本議会には出れないけれど、質疑事項を送った。6日に手術をしていたら、欠席しなかっただろうに。悔しい。

歩行器を使い、歩けるようになった。病棟内を3周し、理学療法士から、院内、日中の歩行器を用いた歩行を許された。お猿さんから人間へ復活し始めた。2足歩行はまだ無理で、歩行器と4足歩行中。

夜にテレビで議会を見た。時間が分からず、見たときには宮本部長が予算の説明をしていた。9時半に消灯になり、10時ごろまで自分の電灯を点けて話を聞いていたけれど、その後は周りの方のために電気を消した。テレビでもインターネットでもライブで放映してくれれば、良いのに。
26日(水)  議会2日目。

昨日のケーブルテレビを見ようと思ったが、 今日歩く練習をしたので、、疲れ果てて寝た。とにかく、メールがつながるので嬉しい。私のベッドから稲荷山給水棟の工事や、上諏訪線のために家を壊しているのが見えたりする。飛行機もヘリコプターも忙しく離発着している。役所が見えないのが残念だわ。議員を辞めたらつまらないだろうな。入院していても、あれこれ気を揉んでいる。
25日(火)   議会開会。気にしながら1日を過ごす。

 ベッド上での安静が続く。要するにトイレに行く以外は、ベッドから出れない。トイレへは車椅子を看護婦が押してくれる。

昔、ベッドで朝食を頂くってどんなに優雅かと思ったけれど、毎日ベッドで3食食べていても、ちっとも優雅とは思えない。目の前にあるカーテンと目の下の鵜の木の街を見ながらの1人ボッチの食事は味気ない。食事自体はおいしいのだけれどね。
24日(月)   6日目。本を読み、うつらうつらしていたら、部屋を替われという。一人部屋に5日もいた。とにかく背骨の手術をちょっと舐めていた。甘く見ていたなあ。痛いし動けないもの。何も出来ない患者は手が掛かるから、ナースステーションの近くね。

役所からのメールを読んでいるが、正に何を言っているのか分からないように答弁書を書くことにしているとしか思えない。
 23日(日)  5日目。議案書を読んだり、補正予算を見たりした。思ったような回復じゃない。

なぜ入曽の駐輪場の土地の買戻しをするんだろう。すなわち、あそこの駐車場を固定化していくという事だろうか。駐輪場にするとしたら、フライブルグ駅にあった自転車センターのように自転車ショップ、自転車修理、などの入った大型の駐輪場がよい。自転車使う欧州のようなまちづくりの拠点になるかもしれない。ちょっと洒落ていたしさ、フライブルグ中央駅の自転車センター。

しかしなあ、あそこは駅前広場にできないのかね。そうでもしないと、水野地区のミニ開発したところの高齢化に対する対策とならないんじゃないか。少なくとも駐車場と駐輪場をきちんとして、カフェでも出来ればいいんだけどなあ。ただ駐車場を作るだけって言うんじゃもったいない。

それと、買い戻しなのか。交付金関係や財務事情にどう関わるんだろう。何しろ大きな金額だから気になる。委員会で審査だなあ。 
 22日(土)  4日目。昨日から始まったお薬のせいで、少し眠気がある。もうじき昼食。昨夜は良く寝た。眠るごとに良くなるようだ。今日はHPを更新。そろそろ議案書を読めるようになっている。頑張るぞ。たとえ、質疑に加われなくても、自分の質問事項ははっきりさせようと思っている。 
 21日(金)
食事の時間に
読まないこと
 
3日目。辛さは日々うすれて行くようだが、私の関心は右足ひざから上がらない、脚の付け根部 が痛いという事。それで、午後から急にCTとMRIを撮る事にした。

結果から見ると、血がたまり筋肉を押しているんだろうという事だった。良かった。再手術なんて金輪際やなこった。血は筋肉かどこかに吸い込まれるそうだ。ま、時間薬に待とう。

リハをやるそうで、今日は車椅子でトイレに行くという訓練だった。正直、私には出来なかった。あの、硬い椅子では背骨が痛みすぎて1秒も座れなかった。リハの先生も分かってくれて、きょうのリハはなし。その代わり、ポータブルトイレにタオルを巻いてクッションの代わりを作ってくれた。

それで、今ではお小水の管はぬけてポータブルトイレで用が足せる。ちなみにウンチは4日ぶりにでた。可愛い塊が10個ほど。
 20日(木)  2日。不自由は1日目とかわらず。もうひたすら辛い。それなのに、リハビリが始まった。今日は運動能力を見るだけだそうだ。こんなチューブ人間にどんなリハビリも無理です。最期だったらすべてのチューブを取って痛くない中で死にたい。苦しいのが嫌なので、酸素もいるかな。そんなことを言っていたら死なないかも。

体に入っている管から血と体液が出ているが、半端ナク出ている。こんなのが体に貯まったら、たまったものじゃない。1日で100ミリほど出た。これが正常なのだろうか。

リハは車椅子に乗るというものだった。困難な事。そもそも起きるという行為がこんなに大変なのか。車椅子にクッションをおいてもらい背中をプロテクトした。それでも疲れて5分も乗っていられなかった。 
 19日(水)  術後1日目。痛い痛い痛い。何が痛いって、傷跡は痛い。体位交換を2時間に1回するといって、体を回すのだが、それが痛くてぎゃあ。辛いわね。体中に管がついていて、心臓はモニターされ。お小水は管理され、脚にはエアーポンプがついていて、その上,点滴。自由はない。

そのうえ、薬によって、頭の中はぐちゃぐちゃ。目を覚ますと、食事。食べたくなくともたべようとするが、ほぼ手づかみ。優しく、誰かが食べさせてくれうなんて無理。だって、私は手が不自由なわけじゃないからね。歩けないだけなんだから。
 18日(火)  手術当日。手術室って私がおぼえている中では、一番どおって事なかったのは、アメリカのルースランジェネラルホスピタル、綺麗で明るくこれこそ手術室と思ったのは、国立西埼玉中央病院。今回の病院では、麻酔を打ってもらいながら、点滴の入れ方が下手だなあとか、ここで手術するわけなどと考えた。実際は麻酔後、他の部屋で手術をうけたとおもいたい。ルースランジェネラルホスピタルと同等の感じの麻酔室でしたよ。

帰ってきたのも分からず、イタイイタイ痛い。
17日(月)  手術の準備 神経が参るほど緊張している。隣のベッドの人は転院。私は1日 窓際族。青空を見ながら大雪の影響を心配している。ソチオリンピックはつまらない。
 16日(日) 礼拝 青空 まだ路上の雪で渋滞 HP更新 入院 
15日(土)  外泊(家へ) 大雪 
14日(金)  外出(全員協議会 一般質問通告) 大雪 
13日(木)   入院 一般質問原稿作成 
 12日(水)  入院 通告書作成
 11日(火)  入院 通告書作成 
10日(月)  入院 会計事務 
 9日(日) 夕方病院へ 
8日(土)  外泊(家に帰るのに外泊とは。)大雪だというが、15センチの雪で大雪だって。私が経験した大雪は一晩で1メーター以上だった。

でも、暖かな部屋でオリンピックを見ながら、外の雪が積もるのを眺めていると、夫と二人幸せだなあと思う。
7日(金)  入院中
6日(木)  手術延期  18日に手術
 5日(水) 入院(手術準備)
 4日(火) セカンドオピニオンを聞きに行った。 
3日(月)  クリニック(椎間板ヘルニア) 
 2日(日) 礼拝 図書館 
1日(土)  協働フォーラム 博物館・美術展 
1月   
 31日(金)  総務経済委員会協議会 議員研修会

総務経済委員会協議会ではこの前の消防財産の無償譲与時の手続きの誤りをしないようにどのような対応策をするかについて報告があった。しかし、文書に責任がはっきりしない。誰がどこでどのように何をするかが明確でない。こんな文書を書くようでは、同じような大きな誤りをするのではないかと心から心配している。今回の事は人の命に関わるような誤りではなかったが、これが命に関わるような事であったらどうするのか。緊張感を持って事務に臨み、責任を持ってことに当たる必要がある。

私でも同じような誤りをするかもしれません。 しかし、違いがあるとしたら、もっと責任を感じ、恥じ入るんじゃないかと思う。しっかりして。お願いだから。
 30日(木)  教育委員会中学校統廃合報告、社会スポーツ団体の学校使用時の光熱費、鵜の木団地の空部屋説明会 
 29日(水) 事務仕事(後援会会計)
28日(火)  HP更新。天気がとても良いのに、家で仕事をしている。午後役所へ

 2階の書斎には陽が当たり、空の青さが目に入る。冬の    日、窓越しの日差しの暖かさにホッとしている。これで仕事   がなかったらなあ。
 ★冬の日の 日差しのぬくもり 楽しめず
     仕事のことを 考えており
 ★冬の日の 日差しに心 温まる
     仕事はいつも 頭を去らずも
27日(月)  報告書書き上げて送信。

録画していた“グラミー賞”を夫と見た。アメリカのショービジネスの凄さを知る。ビートルズも懐かしかったが、マイケル・ジャクソンがいないのはもっと寂しかった。ヨーコ・オノが移っていたが、ポールの才能に大きな影響を与えた事を世界は知るべきだと思う。彼女がいなかったら、イマージンはなかっただろう。
26日(日)  礼拝。HPの更新。夕焼けが美しい。最近は2階へ書斎を移した。 明るく暖かい。
25日(土)  飯能市立図書館の報告書を書き始めた。映画「小さいおうち」を見た。 
 24日(金) HPの更新。 昨日は元気だったのに、疲れ果てて寝た。
23日(木)  全員協議会。総務経済委員会。役所に久しぶりに行った。総合窓口が出来たので、ロビーで15分ほど眺めた。コンシェルジェが3人いて、優しく声を掛けてくれた。役所には市民が少なかったけれど、あまり混乱もないようだった。書く台が新しくなっていて、手元が明るくてよかった。なんだかもっと洗練されてほしかったが、ちょっと違った。千代田区の銀行のような感じをイメージとして持っていたせいかなあ。

委員会が終わってから、都市整備部が報告に来て、其の後水道部の報告を聞いた。部長へ新年の挨拶に行った。会わなかったのは市民部長と福祉子ども部長だけ。後で挨拶しよう。役所に行って知り合いが一杯いて、嬉しくなって5時過ぎまでいた。さすがに疲れた。
22日(水)  封入。郵送。
21日(火)  ラベル作り。封入。
 20日(月)   挨拶文、ネットニュース等の編集、書き直し。プリントアウト。封筒の印刷 車を運転した。出来てうれしかった。
 19日(日)   午後から退院した。実は昨日1階にベッドを作ってもらったけれど、寝心地が悪かった。それで2階に上がる練習をした。降りる練習もして何とか手すり(あって良かった。これがなかったら登れないし、降りられない)につかまって昇降できるようになった。それで、二階の寝室の自分のベッドで寝られるので、無事退院とした。

昼食夫と食べてから、荷物を解いた。さすがに一ヵ月も入院しているとさまざまな物がいくつ物バッグに入れられていた。足元に置くと転んでしまうので、中身はどうであっても、通り道に何かを置かないようにした。玄関外の2段の階段だが、近くに雨どいがあり、これが手すりの変わりになるのに感謝した。本当は手すりをつけるべきだろうが、すぐにとは行かない。

夜は息子が嫁さんを連れてなべを作りにきてくれた。薄味の鍋をという希望通りにおいしいのを作ってくれた。退院パーティーね。

病院に一言感謝を述べたい。まともに寝る事が出来ないほどの痛さの中、看病してくれた。オムツなどは動けないから仕方がないと着けて貰ったけれど、点滴をしたせい、また我慢したせいで尿の量が多くて我ながら驚いた。そのせいか尿管を入れられた時には嫌だなあと思ったけれど、仕方がないと諦めた。何日間入れたのだろう、痛みと薬でぼおっとしていたので分からないうちに外されたけれど。きっと、車椅子に乗れるようになった時だろう。

オムツをするという事は仕方がないと思ったけれど、寝たきりになり自分で動けない衝撃はどうい言っていいかわからなかった。自立が私のモットウなのに、人に頼りきりになるのは悔しい事だった。看護婦さんは嫌な顔をしないでトイレに何度も連れて行ってくれたけれど、呼ぶごとに申し訳ないと思ったし、情けない思いだった。動けなければ、人の言いなりだ。それも嫌だった。

患者にはいろいろな人がいるという事も学んだ。意地悪な神経質な人がいた。後で聞いて驚いたが、その人が部屋から多くの人を追い出したそうだ。私もあれこれ言われ、閉口した。それでリハビリの先生が部屋を変えるアレンジをしてくれた。ただ、痛いので痛いと言ったし、痛いのを震えながら我慢しているのが分かるのは、隣のベッドにいる人としては嫌だっただろうと思う。そういう意味では嫌味を言われても私は我慢できたが、ベッドの位置が聞き足を使える状況にならなかったので、部屋を変更した。

下着がない患者もいた。洗ってもらうのが嫌だったのかなあ。気兼ねだったのか、私がいる間は下着を着なかった。下着がない人もいた。何日も身内やお見舞いの人がが来ない患者もいた。うちの夫が毎日来てくれて、私が彼に甘える事が出来たので、申し訳なく思った。一人で誰の支援もなく入院している人がいるのだ。歩ければ洗濯も患者がした。お金さえあれば売店で買い物も出来るが、動けなくては看護婦などに頼まなければならない。遠慮でしょっちゅう物を頼めない。看護婦はとても忙しいから。

機械浴というのに、2回ほど入った。私は介護保険が導入されるので平成10年から勉強会に行っていて機械浴があるのは知っていたが、自分が機械浴に入るとは思わなかった。お風呂に入っているときは浮力があるので、痛まず洗ってもらえる。快適だと思った。

普通のお風呂に入るのは大変だった。すぐ退院するつもりで、普通のお風呂に介助をつけてもらって入ったのだが、其の後に痛みが来て、長湯は出来ない事を知った。筋肉が膨張して神経を刺激するのかなあ。それに湯船に入るための動作が難しい。退院間際に家風呂の入り方をリハビリの先生に教わった。
 18日(土)   入院(椎間板ヘルニア)  外泊が許可され、午前中に帰宅。その途中、 ヤオコーで買い物。夫が何も食べ物がないといったから、ヨーグルトや野菜を買い込んだ。まあ、30分もすると疲れて、帰ってきて寝込んだ。昼食のために、さば寿司と大好きなオハギを買い込んで食べようとした。さば寿司はしょっぱ過ぎて食べられなかった。病院食の塩抜きご飯に慣れていたせいだ。

休んで3時ごろからシャワーチェアーを買いに行ったが、手ごろのものがなくて大型店舗5店も回ってようやく見つけた。福祉用品店がどこにあるか分からなかったし、土曜日はお休みだろう、そして大型店舗のほうが安いだろうと思った。買ってみたが、安物買いの銭失いの感もあり。すわり心地が今一。
 買い物の途中から足がついていけなくなって、車椅子で買い物をした。人はよけてくれないし、通路は狭い。車椅子を用意してあるのであれば、もっと売り場を考えてほしいと思った。これは乗ってみないと分からない感想だ。

夕食は私は立っていられないほど疲れたので、外食も考えたが、昼のさば寿司がしょっぱくて食べられなかったのを思い出して、ジム(夫)にうどんを作ってもらった。買ったお惣菜も外食もダメとなると、細々と自分達で食事を作らねばならない。
 私が外泊する時に医者も看護婦も、惣菜を売っているから自分で作れなくても大丈夫と言ったが、そんな簡単な事ではなかった。味の事は、健康で入院した事がな李人には、1ヶ月も病院食を食べ続けた人の味覚は分からないのだ。惣菜を取ることすら、無理だなと思った。病院食見たいのもあるかもしれないが。
 17日(金)   入院(椎間板ヘルニア)   
 16日(木)   入院(椎間板ヘルニア)  
 15日(水)    入院(椎間板ヘルニア)  
 14日(火)    入院(椎間板ヘルニア)

入院雑感:
 入院も長くなってくると、いろいろな看護師や看護助手がいるという事が分かる。まず、驚いたことは、どうも私が看護助手にシャンプーを頼んだのを、ほかの看護助手が良く思わなかったという事らしいのだが、患者にその事を当たるような事に遭遇した。晩と朝のお絞りが届かなかった。「歩ける人は自分で顔を洗ってください。」という事らしかったが、私が歩けるようになって、3日目。足の麻痺が直らないから、一人で歩く時は杖を付いてください状態。 
 看護助手同士の諍いの報復を患者に向かってするというのは如何なものか。それに、私は昨晩は体に蕁麻疹がでて、よく眠られなかったから朝は消耗しきっていた。こういう患者の様子は分からなかったという。それは、患者への関心が低い事。看護助手として知らないからそれでいいという事にもならないだろう。患者の状態は一進一退の事が多いのだ。この看護助手の資質を問いたいとおもった。

(所で、どうして夜になると足は痛くなり、蕁麻疹が出たりするんだろう。日中は状態がいいのに・・・)

もうひとつ。私は歩行器を使えば、病院内を動ける事になった。それで、売店に看護師に連れて行ってもらった。その帰りだ。患者はお客様だという話が出た。順天堂大学では○○様などと患者を呼ぶ。ここでは○○さんだが。それはいろいろあってよいし、私はさん付けで十分であるけれど。その話の中、私は看護師の言葉に嘆息と、怒りも感じた。

彼女は
「患者も謙虚になって、看護師に可愛がってもらわなきゃね」といったのだ。まるで、年取ったお姑さんにお嫁さんに感謝して可愛がってもらうように振舞えというように。
私は、反論しなかった。どうせ、この看護師に何を言っても分からないのだ。

 はっきりって、看護師に無料で奉仕していただいているならば、私はありがとうを連発し、お願いするごとに済まないと思うだろう。(私はありがとうも言うし、頼みごとをするときにはすまないわねとは言うけどね)
 しかし、彼女等、看護師も看護助手も仕事をしているのだ。実際、彼女達の給料は患者の支払いと保険者からの給付金からだ。本当に患者はお得意様なのだ。私一人にしても、20万円以上の支払いをし、保健者は40万円以上を支払うのだ。決して安い金額ではない。その中で、病院も競争している。医療が良いだけでは病院を選ばない。看護サービスが患者のためではなく看護側の理由でなされているような病院なんかに入院しない。

私は大威張りしていようなどと思わないが、施しを受けて看病してもらっているわけでない。仕事であれば、きちんと仕事してもらいたい。謙虚に患者に喜ばれるような仕事を病院に求めたい。

 私は18日に外泊し、19日に退院するつもりでいる。医者が外泊して試して、退院できると思えば、19日に退院してもよいと言ったからである。看護師が来てどうせならば18日に退院したらどうかという。看護師って医者よりも偉いんだろうか、この病院では。どんな権威があって、看護婦が退院の示唆が出来るのか。昔の看護婦に会ったような嫌な気がした。市議会議員なんて面倒な人はさっさと退院してもらいたいんだろうなあとは思うけど。

 先のお絞りの時のこと、こちらも手が足らないので・・・と言った。それならば、手を増やさなければならない。患者へのサービスを突然悪くする理由に人手不足をいい、気ままなサービス低下を我慢しない患者を、我ままだというのだというならば、壁に貼った患者様中心のサービスという張り紙の意味は何だというのだ。

 ほとんどの患者は良い子、可愛がられるように振舞っている。思っている事の半分も言わないだろう。大抵の事は我慢出来る事だからだ。今更、退院して他の病院に行くなんて大変だしというわけで、看護婦に迷惑をかけないようにしている。その事を看護師はどのくらい知っているのだろうか。私が看護助手にお絞りの件を言ったのだって、この部屋のほかの人は思っていても言えなかったからだ。

 大勢の看護師や助手がいる。先の看護助手や看護婦のような人は少数派だ。でも、一握りのそういう人たちが病院の評判を落とす。私がこんな所でこういう風に書くしね。私は、どこの病院に入院しているかを公表するつもりはないけど、こう書くのは残念で仕方がない。
 13日(月)    入院(椎間板ヘルニア)  
 12日(日)    入院(椎間板ヘルニア)  歩き始めた。足を引きずってしまう。

入院雑感:
 今日は食事について。私は常食IIという分類の食事をいただいている。1400キロカロリー。これはかなり低いカロリーで青年にはお腹がすく量だろう。でも、歩けない私にはちょうどよい。それに、魚が中心だから私には嬉しい限りだ。あまりお八つもほしくない。時々お茶をいただいている。水気がないと、お通じに悪いから。
 ここの料理のバリエーションはすごい。美味しい。同じ魚でもいろんな調理法で調理している。どうしても、昔の食事と比較してしまうが、なんという進歩。ご飯も温かく、お味噌汁も温かい。ただちょっと飽きてきているけれど。(どうして家の食事には飽きないんだろう???)
 食事の時間も、朝7時半、11時半、5時半と、就寝が9時過ぎなのでちょうど良い。それに起床は6時半だし・・・患者中心の医療がここにもやってきている。
 11日(土)    入院(椎間板ヘルニア)  

入院雑感:
 この一週間は手術しようかどうか迷った。確かに痛みは少なくなり、痛み止めで痛みをコントロールできているようだ。昨日初めて夜も痛み止めを飲まずに眠れた。勿論、朝晩の痛み止めは飲み続けているが。それで手術せずに リハビリに励む事にした。
 今は杖を使えば歩けるようになっている。もう少しで、両足で補助なしで歩く事が出来るだろう。歩く訓練は一進一退で、練習しすぎると足の元、御尻の坐骨神経痛がでる。そうすると足まで痛みが走る。新たな訓練する事は嬉しくて励みすぎるのだ。それで、痛みが出ると気持ちがぐうっと沈む。
 ところで、今時は患者中心の看護・介護が主流のようだ。昔、入院した時とは大違い。昔の看護婦は怖かった。今の看護師はコミュニケーションの仕方を変えたようで、何を頼んでも嫌な顔をされた事がない。ご立派だなあと思っている。

 今回の事で自分が本当に高齢になった時の事を考えた。毎日、夫が来て、用を足してくれるが、夫がいなかったらどうなっただろう。また、冬休みを使って学生の息子が助けれくれたが、いなかったらどうなっただろう。洗濯物は入院していても毎日出る。体が不自由になった時、一人だったらどうなるんだろう。その頃は、息子達が何とかしてくれるのだろうか。実際、何とか出来るかと心配である。
 家に帰ってからの心配もしている。階段の登り降り、手すりなしで出来るだろうか。全然考えていなかった障がい者対策を考えなければならない。廊下に手すりなんかつけたくないなあ。今は絶対いらないようにリハビリをしているが、いつかは必要になるんだろう。
 今回は早めの高齢者体験だった。今まで何回も入院しているが、今回ほど長くかつ絶望的に思ったことはなかった。いろいろ考えたが、結局なるようにしかならない。神様に痛みをとってほしいこと、早く歩けるようになって元気に退院できるように祈っている。
 
  10日(金)   入院(椎間板ヘルニア)   
 9日(木)   入院(椎間板ヘルニア)   
 8日(水)   入院(椎間板ヘルニア)   
7日(火)   入院(椎間板ヘルニア)   
 6日(月)  入院(椎間板ヘルニア)   ネットニュース作成を始めるが、体力が続かず・・・・
 5日(日)  入院(椎間板ヘルニア)   
4日(土)   入院(椎間板ヘルニア)   
3日(金)   入院(椎間板ヘルニア)   
2日(木)   入院(椎間板ヘルニア)  
1日(水)  入院(椎間板ヘルニア) 
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
現在入院中で、ネットニュースなど遅れていて申しわけありません。退院した後に、お送りいたします。