(ドイツスタディーツアーについてフェミニスト議員連盟の機関紙AFERへの原稿)

麻生財務大臣のナチスに学べという発言を聞き、国際感覚、人道感覚のなさ、民主主義への否定に呆然とした。
ドイツが未だにナチスに戻さないために努力をしているのを見て、なんと言う違いかと思う。
日本を逆戻りさせてはならない。全体主義や軍国主義の国にはしてはならない

ドイツスタディツアーで学んだもの:戻りたくないドイツ、戻したい日本

埼玉県狭山市議会議員 高橋ブラクソン久美子

 私は7月8日から17日まで市川房枝政治と女性センター主催のドイツスタディツアーに参加した。目的はドイツ・ベルリンのクオータ制度や女性政策についてと、脱原発関連について学ぶことだった。しかし、それ以上に、私が初めてドイツを訪問して強烈に感じたことは、ドイツと日本の歴史への対峙の仕方の違いであった。

 ベルリンでは、今年ナチスが全権委任法を国会で通し、すべての権力を握った1933年から80年目であり、その節目にもう一度ナチスが行ったことを振り返るという作業が大々的に行われていた。街角やバス停でナチスの犯罪者やナチスに拉致され殺害された人々の写真が説明つきでいたるところにあった。

@  P1070020-1.jpg AP1070431-1.jpg

P1070428-1.jpg写真を見てみれば分かるように、黒い×印でナチスの行った事をダメなのだと、はっきり拒絶している。

左の写真は女性の学者は、ユダヤ人だったというだけで、1943年6月に強制収容所で銃殺された。

殺す理由はユダヤ人というだけでよかった。なんという理不尽な事。アーリア人以外抹殺を図り、捕らえたポーランド人やジプシー、東欧の人々も働かせるだけ働かし、その後殺した。

 

 

 

 

 

 

 

このような記念碑があちこちに立っているだけではなかった。T4作戦も開始されて80年という事で、こちらの記念碑はつい最近献花したばかりだった。

P1070051-1.jpg P1070050-1.jpg

T4作戦が作られた場所は今のベルリン管弦楽団ホールの地下にあった。ティーアガルテン4番地にあったので、T4作戦という。この作戦では、1933年には遺伝病根絶法が作られ、精神、知的などの障がい者の断種が行われ始めた。その後は安楽死として、20万人ものドイツ人の障がい者、高齢者、病弱者や同性愛者が大量に殺された。大量に殺すためにディーゼルエンジンの廃ガスを使った。これを開発した役人はアウシュビッツなどでのユダヤ人のガスによる大殺戮にも関与した。責任者の一人の写真が掲載されていた。

 P1070390-1.jpgP1070063-1.jpg

P1070062-1.jpgP1070068-1.jpg

残されているベルリンの壁に行った。建物はなかったが、戦前ゲシュタボの施設があったという場所で、地下の拷問部屋の一部が残され、また、その前にはオープンの展示場があるのだが、今回は1933年のナチスの権力掌握の実態の一部が写真で見られた。1933年に全権委任法を通すために、暗殺を繰り返して反対派を粛清し殺した。その人たちの写真が何枚も掲示されていた。ユダヤ人の店のボイコットや「ハイルヒットラー」と子ども達に言わせなかった校長が町でさらし者になっている写真もあった。見ていて怒りがこみ上げてきた。それと、これほど人間が残酷になれるかと非常に悲しくなった。

写真で見られるように、ナチスに熱狂しているドイツ人達をみれば、ヒットラーやその周りが残虐な事をしていて、国民は知らなかったと言い訳はできない。これらの残虐な行為を繰り返してはならないと、ドイツ国民が心しているのだと理解できた。強い反省と後悔の上に立たなければ、冷静に事実を事実として展示できないだろう。

2枚写真を載せる。ここはグリューネヴァルト駅、ここからアウシュビッツや他の収容所に貨物列車にのせて1941年から45年までユダヤ人を187回送った。現在も使われている駅である。

P1070169-1.jpg P1070163-1.jpg

 

最後になった。私達日本人は歴史、それも戦前の歴史にこれほど真摯に向き合っているだろうか。何を否定し、何を大切にしていかなければならないかを歴史から学んでいるだろうか。ドイツ人は、胸が苦しくなるような展示を街角に張って、忘れてはならない、二度と繰り返してはならないと80年経っても国民に喚起している。絶対あのころには戻さないという強い意志を感じる。しかし、日本はあやふやだ。我々だってドイツに習い、軍国主義には絶対反対、全体主義を排除すると今でも声高に叫び続けるべきではないか。そう思ったドイツツアーだった。