私の独り事 2003年
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今日から、“私の独り言”を始めよう。言いたいこと、思ったこと、人と会ったこと、話したことなど書いてみよう。市政については時々辛口になるかもしれないけど、ごめんなさい。私の事だけでなく、家族のこと、御友達の事なども知って貰おうと思います。

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5月 私の独り事
5月29日(木)
5400カウント
今日も朝から買い物に出かけた。食べ物を中心に買った。余りにも安いのでどれもこれも買いたかったが、もっていかれないので買わなかった。ジムが喜んで食べるようなものを買った。子供は映画に行きたかったようだが、残念ながら連れて行けなかった。

午後、ジムがミネアポリスから帰ってきた。私は眠くて昼寝をしていた。その後、荷造りをした。今日の夜はメキシコレストランに食事に出かけた。食べ過ぎたように思う。最近は本当に食べすぎである。カロリーは日本にいるときの3倍はとっていると思う。

夜、ジャステンに電話をした。元気でいてほしいと思う。一つづつ彼も大人になっていく。頼もしい。頑張って英語に磨きをかけてほしい。“僕のために祈っていてね、僕は皆の事を祈っているからね。”といっていた。もちろん私たちはいつもジャステンのことを祈っている。弟も妹も忘れず、食事ごとにおにいちゃんのことを祈っている。とっても愛している。
5月28日(水) 今日、夜中にデトロイトまで戻ってきた。眠気覚ましにラジオを聴いたら、トロントでまたSARSの患者が出たとかで大騒ぎをしている。デトロイトも9人の患者がでて、2人死んでいるのだそうだ。怖いです。

今日はジムがミネアポリスに出張した。私は、子供2人つれて買い物にいった。夕方、子供とおじいちゃんは映画を見に行った。ピグレットが出てくるものらしい。アメリカで自分のHPを見た。不思議な感じがする。
5月27日(火) 今日は、朝からバロック クリーク高校に行き、お願いするべきものをした。飯能高校にはきっと成績証明書などが来週届くはずだ。その後、デルタ カレッジに行き、ジャステンの情報を集めた。よい情報はあまりなかった。仕方ないので、今度はサグノ バレー 州立大学に行って、英語の特別プログラムを調べた。

ジャステンはこの大学にサマーコース、6月30日から通う事にした。8月15日まではジョンの所にいる。後1ヶ月で運転免許を取れる予定なので、かれはその後車を買って夏は通う事にする。8月末からは寮生活をするがそれも彼にはよい経験だろう。仕事のことを考えたら、私が行ったシカゴにやるのがよいのかもしれないけれど、本人は不安のようなので、ジョンの所から車で2,30分の大学に行く事にした。1年で英語のコースをマスターすれば、そのまま州立大学で勉強する事になる。それはそれでよいかもしれない。でも、来年は日本に戻ってくるように言って帰ってきた。

それを決めたので、夜ご飯を食べてから、デトロイトに帰ってきた。ジャステンもここに来たそうだったが、野球の練習があるので来なかった。今回少しお金を用意したが、結局彼の教育費は足りなかった。日本から送金しなければならない。子供はお金がかかりますね。でも、できる限りのことをしてあげたいと思っています。私たちは立派な家具もないし、お金のかかった自動車も持っていない。家も高い家を買ったわけでない。教育は見えない。でも、見えるものにより、見えないものが大切なのではないかといつも思っている。だから、子供の教育費だけは払いたいと思う。ジャステン、勉強頑張ってね。お小遣いはないから、少しバイトで稼いでね。勉強に差し支えない程度に。
5月26日(月) 昨日、午後から男性ジム、ジャステン、ジェレマイアは友達とゴルフにいった。たった9ラウンドをジャステンは72、ジム、ジェレマイアは100以上もたたき、3時間もかかった。どこが楽しいのだろうか。私とジャッキーは、彼女の体が弱っていたので、ゴルフには行かず待っていた。その代わり散歩に行った。何しろ1万坪もあるのだから、30分の散歩だって敷地内でできるというわけなのだ。

今日は、午前中からカヌーをしに出かけた。2時間ほどのところにいった。ミシガン州のM18という州道を言ったのだが、景色が本当に美しかった。アーミッシュの人の牧場があったり、鹿やりすが飛び出してきたり、木々の若葉がようやく出はじめていたりとミシガンの田舎はうつくしい。時々冬のモータースキーやクロスカントリーのためのロードがあったり、サイクリングロードがあったりで、市議会議員としてはそういうものにとても興味を持った。

カヌーはジャステンと一緒に川を下った。下り始めて30分もしないうちに、ジャステンがカヌーをひっくり返してしまい、ずぶぬれになってしまった。それだけでなく、あれもこれも。デジカメは壊れたかもしれない。

帰りはおいしい魚を食べて帰ってきた。帰り道にぐうぐう寝た。

夜、ジャステンの今後について話し合った。結論はまだだ。
5月25日(日) 今日は、日曜学校や礼拝に行くために早く起きて準備した。といっても、日本でも同じ事。日曜学校にいって少ししてから、娘の具合が悪くなって連れて帰ってきた。あまりここが楽しくて興奮して疲れきってしまっている。活動をセーブさせるのは難しい。子供にとって正しい事をすることは、この際は楽しい事をやめさせる事でもあり、心を強くしなければならない。年をとるごとに、子供に甘くなってよくない。
5月24日(土) 今日は眠くて起きられなかった。というのも、昨夜眠れなかったという事である。ジャステンはここに、アメリカに残りたいといっている。そう言うだろうと分かっていてもやはりさびしい思いはじわっと私の胸に沸いてきて、とうとうこの子供も私から離れていってしまったと思うのだ。頭ではこれでよいと分かっているのだが、心にぽっかり穴が開いたようである。私も親にしてきたことで、こうあるべきなのだと分かるし、子供が独立しようとするのを応援しても、つぶしてはいけないと分かっていても、本当の所、寂しさは隠せない。

今朝、起きてみると3時まで悲しくて仕方なかったのがうそのように心に決心ができていた。彼の人生を彼が決めて生きていくように言ってきた。18歳になったら家から出て行くように育てていた。思っているようにジャステンは育った。神様に感謝すればよいだけだ。彼の人生には挫折をする余裕もある。やり直しも出きる。今は本当にやりたいことを好きなだけさせるだけだ。親は心から応援するだけだ。何しろ、ジャステンを愛しているのだから。頑張れジャステン。逃げるなよ、人生から。でも、回り道しても、道を変えてもまだまだ許される年だよ。

今日は、本当に何もせずにゆっくりしていた。子供たちは午後から乗馬していた。ジョンの敷地(1万坪)の中を馬で散策していた。私は馬に乗りたいと思わないのだが、子供たちは乗馬が大好きだ。ジャッキーはトロットで馬に乗っていた。「お尻が痛いよう」といいながら 2,3時間乗っているのだから、本当にすきなのだ。

今日はカレーを作って、春雨サラダも作って食べた。野菜が食べたくて仕方なくなったので、私が作った。おいしかった、久しぶりの日本の味は。今日は、雨が降ってとても緑がきれいだ。
5月23日(金) 今日は朝からとてもゆっくりしていた。というのも、時差ぼけのため早くおきているからである。朝買い物に行った後、2時半にジャステンを高校の野球場に送っていった。その後3時半から野球の試合を見に行った。残念ながら彼は出なかった。6時からパーティーする予定だったから、残念ながら彼は第2試合に出るはずだったが、出ずに帰ってきた。最後に監督はDHで彼を出してくれたが、3振だった。残念。

6時からのパーティーは7,8時ごろから人が着始めた。なぜなら、彼の友達は野球の試合にいて、来ることができなかったのだ。まあ、全部で20人ぐらいの友達が来て、わいわい1時間ぐらいいた。皆よい子らしい。たくさん食べて帰った。教会からも人が来た。大人は大人で楽しんだ。招待しただけの人が来なくて、このパーティーを企画したマーシャは残念そうだったが、本当のことを言って私のような日本人にとってパーティーを開く事を考えるだけでも疲れちゃうというところ。

ジャステンはよくホストをしていて、驚いた。彼は思った以上に忍耐力がある。私は自分がしたくもないパーティーのホステスをしろといわれても、No Thank youというところだ。時々アメリカ人は親切なのかお世話なのか分からなくなる。文化の違いというところだろう。
5月22日(木)
5300カウント
今日は、朝デトロイトの郊外、ワイエンドット市をでてミッドランドにある弟のジョンの家にやってきた。まだ時差に苦しんでいて、車に乗っている2時間の間ずうっと眠っていた。車が少なくてスムーズに動いた。

ジョンの家に着たら、ジャステン(長男)は警察で運転免許の試験を受けに行くところだった。恐ろしい事に彼は日本語バージョンのテストに受かってしまった。という事は、彼は後1ヶ月もすると運転免許を取り、車を運転するという事になるのだ。母としては今度は彼の車の交通事故を心配しなければならないという訳だ。あ〜〜〜。

夜、8時からバロック クリーク ハイスクールの卒業式だった。7時半ごろついたらもうバンドが演奏していた。一人一人バンドで活躍した卒業生が紹介され、卒業演奏をしていた。室内競技場(ジム)が式場で、1000人近くが集まっていた。卒業生がたった100人ぐらいだったから、大勢の家族や友達が着ていたということである。我が家でも、グランマ、グランパ、いとこ、おばさん2人、おじさん1人、弟、妹、もちろん親2人の9人が出席したのだ。式の前からもう盛り上がっていた。驚いた事には、あまり人々がドレスアップしていなかった。アメリカは、あまりにもカジュアルになってつまらない。

8時過ぎ、威風堂々が演奏され、卒業生が入場して来た。息子が入ってきたの時、胸がいっぱいになった。親として初めての経験で晴れがましい思いと、ほっとした思いと複雑な思いであった。私たちは階段のかなり上の席から見ていたのだが、ジャステンが入場したとき、前の席の在校生らしい生徒がジャステンと大声を出したので驚いた。たった1年しかこの高校にいなかった割に友達が多いようで嬉しかった。

式は首席と次席の女子生徒が演説をした後に、1曲ヒーローという歌を女子生徒が歌い、その後は卒業証書授与があった。校長先生が名前を呼び、先生の誰かが直接卒業証書を渡す。ジャステンの時は胸がいっぱいになった。一家でこの式に来て本当によかったと思った。これが終わるとスライドショーがあって、いろいろなスライドが移された。ジャステンも何べんか出てきた。また、彼のスライドが映されると在校生がジャステンと叫んだ。野球部の生徒かなあと思った。彼が友達に愛されていて嬉しかった。スライドショーの後は、卒業生が家族のところに行ってありがとうというシーンがあった。涙が止まらなかった。ジャステンも多くの家族が来ていて嬉しかったようだった。

私たちは10時過ぎにかえってきたのだが、ジャステンはコムニティーセンターでパーティーがあって帰ってきたのはなんと朝、4時半だったようである。いったい何をしていたのか。
5月21日(水) 今日は、朝アメリカに来た。日本の狭山市を11時に出て、飛行場に午後2時半、4時に成田を出発した。珍しく40分も早く、21日午後2時にはついた。1日まったく得をした感じ。明日の息子の卒業式には間に合う。よかった。ジムの実家には卒業式の招待状がきていた。ジャステンが大人になった写真が入っていた。子供の始めての高校卒業だ。感慨深い。明日が楽しみだ。

ところで、驚くのは卒業式がなんと夜8時から行われる事だ。日本では何でも朝9時からと決まっている。週日の夜、誰でも来れるようにというのは考えさせられる日程ではないか。教員の都合で式の時間を決めるのではなく、保護者に合わせると言うのは意味あるではないか。

私が修士号を得たコンコーディア大学の卒業式は、学校がミッションスクールだったので、キリスト教の式だった。だから、まったく礼拝のようだった。今度は公立高校の卒業式なのでどんななのだろう。興味しんしん。

ジムの両親は元気でよかった。お父さんは今日ペースメーカーのチェックをしたらしい。心臓もペースメーカーも順調らしい。あまり太ってもいず、健康に見える。お母さんはいつになっても変わらない。考えてみれば、彼女はまだ68歳なのだから若いのだ。家もきちんと片付いていたし、屋根もしっかり葺き替えて合ったし、まだまだこの人たちはしっかり夫婦で生きていけるようだ。よかった。
5月20日(火) 今日は、臨時議会だった。なんだか、本当に様変わりしてしまった。すべてが粛々と進んで行き、珍しく7時前には帰宅できた。私は、前から言っていたように無所属で議会生活を送ろうと思っている。ところで、私は高橋ブラクソン久美子として議会活動するつもりでいます。でも、今日のところは高橋久美子でした。

今日決まった委員の中で、私は建設委員、議会便り委員をすることになった。建設委員は1期の始め2年間勤めた事があるので、古巣に戻ったという感じである。議長経験者が9人中4人、現在の副議長が1人、前建設委員長が一人、こんな中で委員長には奥富喜康さん。副委員長に私がなった。本当のことを言って、私を推薦しないでねとお願いしていたのだ。しかし、奥富さんが委員長になられて、議長、副議長経験者、委員長経験者以外では、6期の広森さんと私しか建設に残らない。とすれば、私がいやだといっても、他に誰がなるというのだろう。広森さんに副委員長をお願いしますなんて言うのは、申し訳ないし・・・。本当は任にあらずだし、私は自由に発言する立場でいたかったのだが、そんなことを言うと我侭だという雰囲気で、困りました。

議会便り委員になることは、私が望んだ事です。やはり、議会の情報公開は積極的にするべきだし、読みやすく、またIT化に対応しなければならないと思っています。議会便りをPDF化するか、テキストを作るか考慮の余地があると思います。でも、1年のうちに何とか議会便りをホームページに載せるようにしたいものです。

なんというか議会もこの臨時では空気が変わったように思います。やわらかくなったというのでしょうか。上がるべき人が上がったので、(われながら変な表現だ)遺恨が残ったりしなかったということかなあ。でも中では私としてはどうしてなの?という感じのところもありました。

とにかく狭山市駅西口の再開発事業の進展が私には気にかかるところです。建設委員としてできる限り、事業着手に向けて応援していきたいと思っています。皆さんのいっそうの応援をよろしくお願いします。

業務連絡(役所の方に):今日、ある先輩から、職員に威張っているように見られないようにと、アドバイスがありました。その気はないけど、そう見えたらごめんなさい。時々、へそが曲がりますが、怖がらないでください。
5月19日(月) 今日は朝雨が降っていた。本当は電車で新座市に視察に行くつもりだったが、急遽車で行く事にした。雨でとても渋滞していそうに思い、狭山から圏央道、関越道をとおり、国道254で新座の役所まで行った。ところが、なんと1時間もかからなかった。申し訳ないと思ったが、議会事務局に行く前に、早かったので障害者就労支援センターで少しお話を伺った。

新座市の就労センターは本当にお金をかけず、手間隙かけてよい実績を作り出している。私は庁舎外に委託によって就労センターを作る事を思っていたが、やはり庁内に作ったほうが、安上がりで且つ結果がよいという結論に達した。狭山市も早く検討会を立ち上げて、新座方式でセンターを作る事を勧めてもらいたい。

今日の視察の本当の目的は性同一性障害の方に留意して男女を記載しない申請書を作ったというそれを伺いに行った。もう87も申請書から男女の記載をなくしたそうだ。それと印鑑証明からも。印鑑証明に関しては、総務省に聞いたが問題ないとの事であったそうだ。条例改正が必要だが、狭山市も行えばよい。3ヶ月というスパンの中でそれを行った実行力のある新座市に脱帽だ。偉い!!!

帰りには志木駅の前のウーマンズプラザを見てきた。もったいない。立地のよい割りに人があまりいなかった。女性センターは本当に必要なのだろうかと思った。私は公民館のあるコーナーに女性関係の資料を集め、ひとつカウンセリングルームを設け、カウンセリングや法律相談をすればよいような気がしてならない。単独館としての女性センターは無駄に思うが如何だろうか。あの千代田区だって女性センターは複合館の中に図書館に隣り合っていて、あんなに小さかった。それでも十分だと思った。西口の再開発にはこれが必要だろうが、大きなスペースである必要はない。
5月18日(日) 今日は朝お弁当を作って、地産霊園に行き、墓地礼拝に出席した。3時半からは消防団の結団式に駆けつけた。

お墓に行くようになって、もう16年が経つ。早いものだ。お墓を作ったら、毎年毎年お墓に入る骨が増えている。お金を献金した私たちの入る余地があるのかと心配だ。という事は、天国で待っていてくれる人も多くなっているのだから、その分、天国への喜びが増えるというものかもしれない。でも、まだまだ天国にいきたいとは思っていないのだけど。

消防団は、もっと若い人が入ってほしいと願う。今年は3人入った。でも、退団する人もいるから人数は変わらない。いつかわが子も消防団で頑張ってほしいと願っているが、アメリカから帰ってくるのか分からない。ちょっとさびしいですね。私はこの町に根を張って孫やひ孫と過ごしたいなんて夢を見るが、夢だけに終わってしまうかもしれない。夢見るころを過ぎてもというジャズがあったが、いくつになっても夢はある。ただ、本当はそれが実現する事を願っているが、たいてい自分の力の及ばないことを夢見る事が多い気がする。

私は、子供たちには自分の人生を自分が決定して、間違っていようが挫折しようが、、成功しようが楽しんですごしてほしいというのが本音です。だから、「お母さんアメリカで一緒に住もうよ」といわれれば、アメリカに行くかもしれない。そんな気もします。

ただ、私も自分の人生を豊かに生きようと決意していますから、まだまだ狭山の地で市議会議員としてがんばろうと思っています。(・・)V ピース!!
5月17日(土) 私は本当に弱い人間です。人の痛みと付き合えない。母親の痛みが自分の痛みのようで、今日も一日中変です。怖くて、実家に電話もできません。痛みが弱っているといいけど。お医者さんに電話してみるつもりでいます。19日が診察日だそうですから。

今日は地域福祉計画の勉強会に行ってきた。日本丸の進む道が本当にはっきりしてきている。すなわち、成熟型市民社会。市民がお互いに手を取り合って生きていくような社会。でも、自治会によって縛られるような、昔の形をとろうとしているわけでない。市民の市民によるコミュニティーの形成。

言葉にしてしまうと簡単だが、そのためには人の育成から始めなければならない壮大な構造改革なのだ。でも、どのくらいの市町村でそれがこなせられるであろうか。いや成熟型市民社会の模型を想像できるのだろうか。それが思い浮かばないようでは、街づくりはできないと思う。

pcバイキングが閉店するそうでセールをしていた。私はプリンターを27000円で買い、ソフトやツールも買い込んできた。HPにもっともっと写真が入るかもしれませんよ。これからは。お楽しみに。
5月16日(金) 今、私は痛んでいる。本当に痛い。それは私の胸だ。母が失明したのは、もう公にしている。角膜移植もうまく行ったかのように見えたのに、友達が言ったように、たった2,3年しか持たなかった。あれほど、奇跡だと喜んだのに。今、母は目が痛くて泣いている。痛み止めがないのだろうか。目が見えないのなら、まだしも、痛いのはかわいそうだ。モルヒネの液状の目につけるようなものはないのか。あ〜〜、母の痛みを覚えると私も痛い。痛い。どうにかできないのだろうか。母の痛みは、本当に私の痛みだ。痛いとなぜこんな怒りたくなるんだろう。どうして母は我慢し続けなければならないのだろう。理不尽な母の人生に哀れみではなく、彼女とともに怒りたくなる。

今日は西中の総会だった。私たち特殊学級の保護者は不思議な立場なのだ。PTA会費を払っていても、ほとんど無視される存在である。学校も不思議なところだ。私たちの子供は確かに障害を持っている。それを事実として受け入れている。はっきり言って受け入れざるを得ない。でも、多くの健常者の人は私たちがそれを隠したいと思っているようだ。私たち親は、障害を持っている子供を、そのまま障害を持っているので少し特別なケアがいる子供として受け入れてほしいと願う。

交流という考えがある。私の子供は週4時間母学級というクラスで授業をうけている。私は、授業についていけなくても、いくつかの授業を健常児とともに受けさせたい。でも、なかなか学校はどうぞといわない。どうしてだろう。健常児の邪魔になるから?だから、あっちに行っていてと弾き出したいのだろうか。そうだとしたら、まさに集団いじめの精神構造ね。特殊学級の教員が変な遠慮をして、交流に出したがらない。なぜ?迷惑をかけるから?障害があることが前提の特殊学級の子供なのに、それが悪い事のようにいわないでほしい。

障害を持っている人が普通の生活をするために、弛みなく努力をしようとするチャンスをください。受け入れてもらうためには、障害者が多少の迷惑を受け入れてもらいながら、出て行かざるを得ない。なぜ、学校はそれを邪魔しようとするの?少なくともトライさせて。交流授業にださせて。

私の子供は障害が軽い。だから、障害年金がもらえるわけでもない。国からの保護もほとんどない。では、彼女はどうやって生きていけばよいの?福祉施設にだって重症でもなかなか入れない。まして、軽度の子供は居場所をどう確保していけばよいのだろう。特殊学級というまるで健常者から隔離された場所、こういうことを保護というのだろうか。人の迷惑にならないように、引っ込んでいる場所。人の目が冷たいから、隠れている場所。そんなところが特殊学級なのだろうか。

私はそんなために特殊学級を選んで入れたのではない。もっと学力をつけさせ、もっと社会に適応させるために入れたのだ。勉強だって、はじめは国語2時間、算数1時間、理科社会1時間だった。あと作業が6時間、総合4時間音楽、生活2時間、体育は5時間。作業は園芸、工芸、ETC.どこが職業訓練といえるものなのか。勉強させるという考えがなかったとしか思えなかった。

勉強ができないので、もっと本人にあった勉強をさせるために特殊学級に入れた。それなのに、できないので、勉強させない。それじゃあ、学校に行かなくてもよい。基本的な学力を向上させるといっていながら、それは全員という事ではないのか。ただ健常者のための校長の言葉か。置いてきぼりにされ、作業に明け暮れる特殊の子供たち。難しいことをさせるなんて、可愛そうだ?!変な同情してもらっても、将来のために何の助けにならない。

私はアメリカで特殊教育を学んだ。国語でも算数でもどうやったら覚えられるかという指導方法を考えたものだ。学会でもこんなやり方をした、あんなやり方で成果が上がったと事例報告をしていた。できないから、教えるのだ。できないから、出きるやり方を考えて、教えるのだ。教える努力をし続けてほしいし、教員に意欲を持ってもらいたい。できない子供をさばかないでほしい。
5月15日(木) 今日は、朝からまた自宅で仕事をしていた。事務所に行くとどうも仕事にならないからである。午後、事務所でミーティングを開いた。今後のスケジュールを決めた。議会レポート、ネットニュース、HP、それに視察。いろんなことがある。それをきちんとスケジュールに入れていく。早々、議会報告会もするつもりで、このたびは寄せ植えと言うことである。若い人に喜んでもらえるようなものになればよいのだけれど。今後4年を、新たな気持ちで頑張ります。

夕方にまた議会事務局に行って用事を済ませた。明日も忙しい。

さて、思うことは、青少年のこと。彷徨っている彼らを私たち大人は何ができるか。本当に情けないが、早く立ち直ってほしいと願う。親も癒されるときが来るとよいのだけれど。

事務所を広瀬に持ってきたいと思っています。よい場所がないでしょうか。安く借りられないでしょうか。よいところがありましたならば、お教えください。
5月14日(水)
5200カウント
今日は、朝は自宅で仕事をしていた。資料が足りないので事務所に行った。事務員さんが一生懸命働いていた。私はお邪魔をしながら、資料を探したり、さまざまなことを事務員さんと話したりした。

議会のいろいろなことが決まっていくようだ。委員会の案が今日ファックスで送られてきた。自分の好きなところに入れるわけではない。まあ、できれば総務委員会をと思ってはいたが、さてどうなるか。今年は来年の国体に向けて、大変な準備が必要だろう。文教厚生委員会は大変そうである。特別委員会もまだ白紙の状態だそうだ。私は、議会としては基地問題特別委員会を設置すべきだとおもっているし、市街地整備特別委員会も西口の再開発事業が今後進んでいく限り必要だと思っている。

議長、副議長、委員長、副委員長ポストの争いやいかに。監査委員、農業委員、今度は本当に熾烈な争いが出てくる事と思う。さてさて、どうなりますか。無所属議員はその点まったく暢気です。
5月13日(火) 今日は、朝中学校へ行って、図書ボランティアをしてきた。本が好きで好きでしょうがないほどだ。小学校1年生から、図書室に入り浸っていた。今日は中学校の図書室に久しぶりで入っていると、直江津中学校時代の私を思い出した。私は休み時間になると、図書室の美術関係の大きな本を持ち出しては絵を見ていた。あれが好きだ、これが好きだと思いながらいろいろ見た。後年、アメリカで多くの美術館に行った。シカゴ、ニューヨーク、ボストン。美術本の中で見た作品を目の当たりにした時の興奮は忘れられない。いつかヨーロッパに行って美術館回りがしたいなあ。きっと、感激すると思う。

午後は郵便局に行ったり、銀行に行ったり、小学校の公開授業を見に行ったりした。子供に忘れ物を届けたり、親は中々忙しい。今日は稲庭うどんと散らし寿司を夕食にした。サラダを山ほど作ったのに子供はあまり手を出さなかった。私が夕食を作っているだけでも、子供はなんだか安心している様子だ。お母さんはいくつになっても子供の必需品。とっても嬉しい。いつまでも、必要とされたいと思う。
5月12日(月) 今日は、朝仕事に明け暮れた。午後は、選挙の収支報告をしに選挙管理委員会に行った。まあ、これでよいという事か。多くの方の無償の活動に支えられて選挙ができたなあという感慨がある。お金にすると20万円以上になるようだ。本当に感謝しなければならない。無償活動もお金に換算し見ると、私が出したお金が約30万、寄付などが42万円ほどになる。他にこんな素敵な選挙ができた候補者はいたのかしら。もちろん選挙には準備が必要なのでそれを入れればこんなものではないかもしれないが。

その後、午後は性同一性障害の勉強をした。膨大な資料を集めた。読むのは大変だが、ほとんど知識はある。第1回目の一般質問のテーマでもある。

その後、ある議員と懇談した。狭山市の将来を見据えて政策提言をしていきましょうという一致点を見つけた。私はすべてに反対という立場をとらない是々非々派だから、協調できるところは相手を認めるという事である。しかし、私の言葉をどのくらいの議員が理解してくれるのかを考えるときに、傲慢かもしれないが暗澹としてしまう。そんな状況でも、政治の中での捨石となってもよいから、ひとつでもよい提言をしていきたいと思う。その時は理解が難しくても私の言う事はきっと正しいと思いながら聞いていてもらえればよいと思う。狭山市の役人さんもきっとそういう事が分かってくれてきていると思う。肩に力を入れず、淡々と仕事をして行こうと思う。
5月11日(日) 今日は朝礼拝に行った。先週は野沢福音教会に行ったので、当選してから初めての教会での礼拝だった。

私は教会の代表としてでもなく、クリスチャンの代表としてでもなく市議会議員をしているが、だからと言ってクリスチャンを辞めたわけではないのだから、教会の仲間から祝福と祈りにはいつも感謝している。

青春の真っ只中にある青年についてなやんでいる。まっとうな生活に戻すにはどうしたらよいのだろう。額に汗して働く事を喜び、自分をそのまま受け入れられるようになるにはどうしたらよいのだろう。困ったものだ。親に対する恨みつらみが鬱積している。実際この親はどうなっているのだろうと思うことはある。でも、本当の問題は、本人にある。自分がわからないで、生きる目的を失っているのだ。教会に来ている子供なのにどうしてこうなのかという気持ちがある。彼らには、教会だけが彼らを受け入れてくれるのを知っているのだ。本当に彼らを捨てきる事はできない。どうしたらよいか、悩んでいる。
5月10日(土) 今日は朝ふれあい広場、昼、1時から国際交流協会の総会、2時からはハンドベルコンサートを忙しかった。毎日が夢のように過ぎていきます。今日はふれあい広場で夫と散歩を楽しみました。五月晴れでそよ風の中をあれこれ見ながら時間をすごしましたが、その2時間が楽しくて嬉しくてたまりません。夫をまだ愛していられて嬉しいと思います。

昨日は、午前中、報告書を書き、午後はふれあい広場のテント張り、その後運転免許状の更新に警察に行き、帰ってきてすぐに、すすむ会の懇親会。なんだか本当に楽しく盛り上がって、2次会にまで行きました。最近は公職選挙法の収賄とか供応とか言うのがよく聞こえます。私は本当はボランティアさんに少しでも何か楽しい思いをしてもらうために差し入れをしたかったのですが、結局会費どおりの会をしました。皆会費のほかに持ち込んでくれたので、食べ物も余るほどでした。なんか申し訳ない気がします。でも、公職選挙法をきちんと守りたいと思って今までやってきました。今後もこの思いだけはきっちりしておきたいと思います。

選挙を魚にあれこれ政治の話をするのもよい事です。今の話題はどうしても市長のこと。辞職勧告決議案が出たらどうしようかと悩んでいます。わたしは進退はやはり自分で決めるものだと思っています。他の議員がそれを出すべきだというのは理解できるのですけど、あまり身分に関して議会で言うのは私の考えにそぐわないところがあります。

市長の入院が4週間も伸び、また、6月議会はお休みという事になります。これでは狭山市は停滞に次ぐ停滞という事も考えられます。市長は早く進退を決めるべきです。代理者の助役は市民の付託を受けた市政執行者ではないのです。長期間の代理では何のための市長かという事になります。
5月7日(水) 今日は、朝狭山市駅東口で街頭演説をした。市長の病状について、市政の停滞を招かないように、代理者をすぐにも置くことなど、述べた。こんな軟弱な市長で狭山市はどうなっていくのか、本当に不安だ。巷では、次の市長選挙の話が出始めたそうだ。毎年、選挙に明け暮れていては、狭山市は先細りだ。

午後、埼玉教組の狭山支部の総会に行ってきた。挨拶で、戦争のことが大きく取り上げられていた。私も息子の話をした。戦争をアメリカがしていると思っているかもしれないが、私の場合、もっと身近である。先生たちの内何人かは息子を直接教えた教員だ。戦争が長引いて、もしかして徴兵がアメリカで実施されたら、あなたの教え子である私の息子だって、兵役につかなければならないという事もおきると話した。

戦争はおろかなアメリカの起こした遠い話ではなく、あなたの教え子が戦争に行くことにもなる可能性だってあるのだと私はのべた。先生方は本当に真剣に話を聞いてくれた。どこかの誰かの話ではないのだ。ブラックソン家の場合、息子だけでなく甥や姪までを確実に巻き込んでいく。

戦争は侵略されて反撃しなければならない状態以外は絶対に反対だ。本当に戦争は反対だ。
5月6日(火)
5100カウント
今日は、朝早く起きて狭山市駅西口に行き、臨時議会について報告をした。本当は翌日にお礼の挨拶をしたかったのだが、公職選挙法違反という事でしなかった。党の方は党の活動という事で、自動車で挨拶をしていた。無所属は本当にハンディがある。

議会によって帰ってきた。庁舎でもいろいろな話をしたりした。“2期になれば、微妙に役人の風向きも変わるよ”と友達議員は言うが、今のところあまり変わらない。今までだって、本音で付き合ってきたのだから、早々変わりようもないという事でしょうか。

でも、やはり当選できてよかったと思う。まだまだ遣り残しの仕事がある。市長が早く退院して、仕事に復帰してほしい。主のいない役所なんて、気の抜けたサイダーのようだ。がんがん、目標に向かって、市民のために市政運営をしてほしいものだ。

午後は、ふれあい広場の設置部の仕事。テントの位置を固定した。はじめは手間取ったけれど、うまく行った。皆と仕事をするのは嬉しい。こういう付き合いは大好きです。年は違っても、仲間なんだと思えるのが素敵です。ちなみに今日の参加者は大学生から70歳以上まで。私は若い方でしたよ。(ちょっとうれしいかな)
5月5日(月) 今日は、朝から別荘で、娘とさつきを植えたり、イチジクや柿の木を植えたり、周りの木の選定をしたりした。夫はベランダに防腐剤を息子と一緒に塗った。日差しが強い中がんばったので、昼食後皆へたばって昼寝をした。別荘には3日間いたが、3日目になってやっと気持ちが緩んだという思いだ。

それでも、寝てもさめても議会の事というのは何だが、夢でも選挙や議会の事が出てくるのは、本当に辟易してしまう。もっと自由になりたいなあという気がしてしまう。帰りの車の中でも、昔なら音楽を聞いて帰ってくるところだが、今日はNHKラジオの"日本の産業再生を考える"という超まじめな番組をしっかり聴きながら帰ってきた。

今後日本はどうすべきか、埼玉県は何を目指していくのか、狭山市はその中でどのように歩めばよいのか、私の考えるところはこういう風なのだ。自立というのが今後キーワードとなって、かなり内向きに世の中が動きそうだ。地域の自給自足のような考えが出てくるだろう。それはある面では地域産業の活性化をもたらすであろうが、その活性される産業は看護・介護関係の産業、リサイクル関係の産業か。しかし、内向きの状態を見越しながら、外に十分発信し続けないといけない。また、情報がなくなれば、陸の孤島になりかねないのだから、アンテナを高くするべきである。私は、今後も日本の行政の先端を行くような質問や議会活動に勤めようと思う。
5月4日(日) 今日は、日曜日なので野沢福音教会に礼拝に行った。久しぶりに行ったのだが、まるで母教会ような感じである。みんなに本当によくしてもらえて嬉しい。時々、メールをもらったりしているので、8ヶ月ぶりという感じがしない。文明の利器だね、コンピューターは。

午後、食事を教会でいただいてから、私たち夫婦はカインズホームに園芸用品を買いに行った。なんと3時間近く買い物をした。久しぶりに散在したのだが、こんな風に買い物をするのは久しぶりだ。私はガーデンフェンス、つつじとイチジク、柿の木を買った。それに堆肥も。夫は坂の手すりを作ると言って木を買っていた。

夜帰ってきて、バーベキューでハンバーガーとチキンを焼いて食べた。かなり上手に火をおこせた。おいしくできてよかった。その後、買ってきた花火を子供と一緒に楽しんだ。星が美しい夜だった。

今9時半、子供にお皿洗いをさせてから、眠ることにする。ふとすると議会のことを考えている。とりとめもなく、議会での一般質問についてや、今後のテーマをどうしようかと考えてしまう。あまり楽しいとは言えない議会生活だが、私の天職だと人が言う限りにおいては、少しはわたしにもよいところがあるのだろう。それを磨いていくこととしよう。弱い人、小さい人、少数派の見方でいよう。
5月3日(土) 今日は、朝、取出町主催の歩け歩け大会に夫と子供が参加するので連れて行った。10キロ近く歩く。私は疲労がたまっていて、歩かなかった。家に戻り、少し眠った。午後、取出町の人と懇親会をしたのち、本を買い込んで帰ってきた。本当はゆっくり読書するつもりだったたけれど、またも疲れて眠った。

夜、布施温泉に行った。帰ってきて、ビールを一口飲んだらまた眠気が襲ってきている。いったい何時間眠ればよいのだろう。体の芯まで疲れきったという思いがする。それほど、選挙は本人にとっても過酷な時である。

別荘は自然との闘いだ。今年は毛虫が大量に発生している。蜂はぶんぶん飛び回り始めた。蜂は怖いよ。また、ベランダの防水がはげかけているので塗り返さなければならない。雑草との戦いの火蓋も切られている。

けれども、私たちはこの別荘を心のよりどころ、疲れを癒す場所として愛している。唐松の葉は困ったものだが、今芽吹きかけた唐松を見ていると、やさしい思いに満たされる。雪やなきの白い花が風に揺れているのもなんとなくゆっくりな気分にさせてくれる。いままだ山桜がさいていて、窓から見える淡いピンクが美しい。「お母さん、ほうほけきょと鶯が鳴いているよ」と娘が教えてくれた。風の音のほか、何の声も聞こえない。時に声をかけてくれる他の別荘の人も懐かしくうれしい。念に何日かしかこれないのが本当に残念だ。今年は、夏、ゆっくりここで仕事がしたいと思う。

遊びにおいでください。
5月2日(金) 今日は朝から事務所探しをした。笹井から広瀬に事務所を移したいと思っている。よいところをご存知のい方はどうか教えてください。今とても広いところを3万円でお借りしている。これ以上のところは無理だと思っているが、もう広瀬の住人になって3年もたつのだから、やはり広瀬に根を張りたい思いがある。

午後、娘の保護者会に行ってきた。特殊学級のことは本当に理解しがたい。お勉強ができないから、しっかりお勉強させてほしいという親の思いがあるのだが、なんと算数は週に一回しか教えない。国語は2回だ。後6時間の作業、2時間の技術家庭、2時間の総合。お勉強させないことに何の疑問も持たない教師。この特殊学級は本当に特殊だ。お勉強を覚えるのがゆっくりの子供に時間を取って教えるのが特殊学級であろう。それなのに、ゆっくりな子供は、できない子供と思い間違いして、教えないでは本当に何のための教育か思う。

私にこの娘が授かったのは、本当にこういう障害のある子のためにあらゆる場面でがんばってすみやすい社会にする努力をするという神様からのご命令なのかもしれない。

それにしても、このごろやっと娘のことを話せるようになった。あまり公にして彼女を傷つけるのではと思っていた。私の思いも複雑で整理がつかない一面もある。これからは、この思いを整理しながら、彼女や彼女のような子供と親のためにもできることをしていこうと思う。

別荘に夜遅く来た。
5月1日(木) 今日は、朝からいろいろ検討することがあり、結論を出した。結局、前に考えたとおりになった。これでよし。

午後は1年生の保護者会。知っている人が多くてうれしい。夜は、近所ののぞみ教会の献堂式にこられた韓国人さんの歓迎祝賀会に出席。8時半ごろにはもう疲れて眠くて仕方なかった。疲労がようやく出てきたのか、眠くつらい。早く眠ることにする。

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