私の独り言 2004年
こんなに硬い内容の独り言を聞いていただいて感謝しています。ありがとう。
バックナンバーもご覧ください。(2001年8月から現在まで)

心のままに思っていることを書いていこう。嬉しいことに喜び、悲しい事に嘆き、怒る事も忘れまい。一生懸命生きようと思う。

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11月 私の独り事
29日(日)
36300カウント
今日は12月議会初日。何しろ議案数が52もあるので説明を聞いているだけでも大変である。指定管理者関係だって20議案あり、それが微妙に使用料アップと関連していたりするし、指定管理者制度の初めての導入だから、どこをどう審査すべきかどこがつぼかよく分からない。市民の使いよさやサービス向上の点などをよくよく調べてみようと思っている。

地方自治について調べていて、勝海舟(何しろ凝っていますからね)が地方自治のことを氷川清語で述べているが、その部分を読んで我意を得たり。すなわち、海舟が言うには「地方自治などということは、珍しい名目のようだけれど、徳川の地方政治は、実に自治の実をあげたものだョ。名主と言ひ、5人組といひ、自身番といひ、皆自治制度ではないかノー」と言うくだり。そうだよなあ、藩から年貢は取り立てた、人は借りたが、後は藩の自由だったもの。そして、住民は自分の事は自分達で決めて行っていたものね。

氷川清話の一番最後の文もすばらしいなあと思う。「・・・。当てにならない後世の歴史が、狂といはうが、賊といはうが、そんなことは構ふものか。ようするに、処世の秘訣は誠の一字だ。」海舟は剣の達人だし、禅にも打ち込んだし、蘭学は勉強しつくして話もできたし読めもしたし、もしかして英語だって読んだり書いたりできたし話たりできたようだし、それでいて偉ぶらないのだ。外交だって、内政だって、戦争だって、勝っても負けても同じ、精神をしっかり持って誠意を込めて対応する。処世の秘訣は誠の一字を生涯貫き通したなんて、海舟は素敵な人だなあと思う。

ただし、もてすぎて(英雄色を好むと言う言葉はだいきらいだが。)女性がたくさんいて、4人の女性に何人もの子供を産ませたのは、嫌だなあ。だが、その子供達のうち、倅が肺病で若くして死に、後は娘達がいたが、彼の晩年はどこか寂しいものだったと思う。婿にした徳川の末の息子も芸者と心中したと言う事だが、海舟は自分の死後については淡々としたもので、何かを残そうとしたのではないようだ。大好きな西郷隆盛の銅像を上野に立てたのに、自分の事なんか構いもしないで歴史の中に埋めようとした。人間学って言葉も、精神の感激って言葉も、海舟の考えも平和主義も、アジアとの協調政治もすべてうなずける。読めば読むほど自分がまろやかに、軽やかになるように思える。何でかなあ。
26日(土)
36100カウント
自分がどの方向に向かって走っていけばよいか、少し分からなくなっていた。目の前の交通整理だけ、議案の審査と一般質問だけを見ていたが、議員の仕事はもっと先も見ながら政治を進めるべきだと思う。私は是々非々の立場を貫けるように無所属でいる。一番、無責任になろうとしたらなれるかもしれない。常に反対も、常に賛成も思うがままだ。でも、市議会議員という職を与えられた今、狭山市と狭山市に住む市民が幸せに繁栄してほしいと願って気持ちがますます強くなっている。それを視点に私は動けばよいのだ。出来れば、少し長期的な視点を持って。

今西口の再開発に反対の人たちがいる。多くの権利者や利用者は早く西口が整備されればよいと思っている。私もそれを願ってやまない。反対派は実は反対のための反対をしているのだ。反対派が言うような駅前広場だけができるものか。地権者は自分の仕事ができないから土地を売るなんて事はしないといっていて、駅広や道路だけなら協力しないと多くの人が言っているのだ。反対派はできないことをあたかも正論のように市民に流布し、嘘を平然と言っている。駅広ができてもできなくてもどうでもよいから、そんな嘘もへいきで言えるのだ。私が言っているように、本当に駅を使う市民の安全を考えればできる限り早急に可能な手段を使い駅前整備をするべきなのだ。口先だけの、駅広だけという現実性のない文言に踊らされてはいけない。(地権者の人のごく一部の人はこの際開発に反対の方もいると思う。しかし、その方々の中に反対派運動がどのように彼らを利用しているかを本当の意味で理解されていないのではないかと危惧している。)

それにやはり駅広の面整備だって必要だ。あの田舎のままがよいと言う人もいるだろう。徹底して田舎がよいと言う人もいる。でも、私はその考えに組しない。魅力のない街に誰が来るのだろう。あの今の駅前が魅力に富むと思う人がいるとしても、多くの人は違った意見だろう。少しはしゃれたカフェもほしいだろう。本屋だってできればほしいし、こぎれいな飲み屋だって近くにあってもよい。今中央公民館での催し物の後にどこで食事ができる?どこでお茶ができる?図書館だって狭いから何の催し物も、全集だのの開架もできない。もっと、市民に魅力のある中心地にしなければ。

そういう意味でも、反対のために反対している人たちに好きなように狭山市をされてはたまらないと思っている。はっきり言って反対派の人には実際は駅前がどうなったって構わないという人も多いのだ。真面目に駅前や狭山市を考えている人間には呆れてものも言えない連中も多いのだ。じっさいのところ。
25日(金) 私は最近国がどういう風に流れていくのかを考えている。それは日本国政府の行く末と言うだけでなく日本国がどのように進んでいくかと言う事を考えている。地方分権一括法が可決してもう6年以上、2000年には法律の施行を見ているのだ。と言う事は、本筋として国と地方公共団体とは対等になった。私も市川さんの勉強会で、ある講師は今までの国からの通知を焼いてもよいという話までしていた。法政大学の松下教授の勉強会ではこの分権法・自治法改正はとても大きい意味があり、その意味合いをもっとよく理解すべきである旨の話があった。

3年前の分権の勉強会では自治基本条例の勉強の前で兼子先生は自治の成り立ちを説明し、部落(今の町村か)と藩との関係、藩と幕府との関係を説明し、今後の流れがこの関係がある意味分権を意味しているのかもしれないという示唆を与えてくれていた。それを考える時、幕府は地方の藩主を集め、藩主に藩を治める権利を与え、年貢も幕府に納めさせたが、それ以上に藩の行政権は藩主が実質上行使していた。上杉鷹山が米沢藩の改革をした話は今でも有名な話であるけれど、藩の年貢高、土木作業そのほかは藩主が家老などと決めていたことであった。幕府とは無関係であった。また、部落の普請などは部落が自らの力で人足仕事などをしたりしていたのだ。協力しない物は村八分にされた。

ところが、明治政府を始めるに当たり、ドイツ式中央集権制がしかれ、また無血革命ゆえに地方の明治政府に対する忠誠が分からない中で中央政権に忠実に動く地方の形成が目された。県令がおかれ、それは中央からの人物で新潟県の政治を見ても始めての県令は薩摩人か土佐人のように記憶している。県も始めは藩を中心に総括されていたが今のような県の単位に収れんされたのは分かっている。そして、その中央集権制度は今も尚色濃く残っているが、分権法はそれを実際上排除し対等の関係にすると言う明治維新並みの改革が今行われている。アメリカ合衆国のような連邦政府と州政府のような感じになるのだろう。

そこで大きな摩擦が起こっているのである。国は郵便からも手を抜く、公共交通機関からも実際上手を抜いた。国は権限の委譲又は移譲を進めている。こちらに能力があるかどうかではなく、そのために備えなければならない。といって、何も萎縮する必要もびくびくする必要もないだろう。地方は堂々と移譲された権限を喜んで使えばよいのだ。昔藩が持っていた権限の半分だって返ってくるのではないのだから、「もっと権限を返せ」という気概を持っても良いと思う。勿論、直接市民に対する責任は大きくなる。それを背負えない地域からは人はいなくなる。過疎地ができたのはなぜだか考えてみよう。住みにくい街や土地からは人はいなくなって移ってしまう。もうそれは始まっていて、地方では中核的な市でなければ成り立っていない。

そんなことを考えると、狭山市が合併しなかった事が重ね重ねもったいないように思える。30万人の中核市として自治をするぐらいがちょうど昔の藩の大きさぐらいであり、かつ今後の責任を負える能力を持つ街だった。今それを行っても仕方がないが、先々それを考える必要を市民の方は理解してくださるだろう。でも、その時、どのくらいの市民が狭山市に住んでいるかが問題だが。

その時まで、とりあえず狭山市は市民にいかに狭山市は素晴らしいかをアピールし続けなければならない。事実素晴らしい市なのだから、誇りをもってアピールできる。さて、もし今後の合併を一切考慮に入れないとするならば、狭山市が単独で市を運営するのだと言うならば、狭山市は中心部をしっかり構築するべきだろう。西口に積極的に取り組むのは、今後の狭山市のグランドデザインを考えるのに重要だと思う。その考えの開陳は今はできない。今後ゆっくりしていこう。
24日(木)
36000カウント
祝 Sさまゲット
珍しく、キリバンのお知らせが来た。4年でやっと36000カウント。多いのか少ないのかよく分からないけれど、こんな拙い文章を読んでいただいて感謝です。最近は思う事が多い日が続いています。今日は、午前中議会クラブの勉強会だった。午後、昼ごはんを食べてすぐに病院に行き、薬を貰い、その足で図書館で本を借り、役所に行った。

役所では最近ニュースにでる手抜き工事マンションについてちょっとたずねた。狭山市には姉葉設計事務所関係のビルはないそうだ。十分に調べて危険マンション等がないことを確認してほしいものである。その後、議会事務局に行き、資料を貰い、西口関係の部署によって帰ってきた。

メールをいただいた。その返事の一部をここに転載したい。

私は、今勝海舟に凝っています。小泉さんの圧勝で改革機運が高まり、日本が大 きく変わろうとしています。少子高齢化と言う言葉が実感できる世の中となり、政治もそのニーズに対応しなければなりません。日本は人口増加策をとるよりも、史上初めての人口減少を肯定して進むようで、そうであれば狭山市もそれに対 応せざるを得ないでしょう。ですから、今は本当に激動の時期です。

勝海舟を読みながら、市民は狭山市がどうあったら幸せなんだろうかという問い と市民が楽しく喜んで生活できる狭山市にすることを視点に正道を進みたいと思っています。どうせ、多くの人に理解してもらえないから寂しくはあるけれ ど、一人でも言い続ける事に、きっと私の狭山市議会、狭山市での存在意味があるのでしょう。

それに、私は市役所でがんばっている人を支えたいと思っています。役人も頑 張っています。仲川ゆきなりさんは彼なりに頑張 ろうとしている。仲川さんは今さらに頑張れといわれるのは辛いと思うので、「少なくとも頑張っているのを私は知っているよ、市長として大変だけど精一杯 しているのは認めているよ」といってあげたいと思っています。そんな風な支え 方もあると思っています。

役所は1300人もいるのですから、様々な利害で動き、派閥もあり、魑魅魍魎 が住んでいるのではないかと思う時もあります。でも、そんなことは組織がある ところにはどこにもある。そこで、自分の道を市民のお役に立つことと見極めて しっかりと自分の仕事をすることに精力を傾ければよいのではないだろうかと 思っています。また、同じ事を言いますが、そんな組織の中でも自分の道を精一杯歩いている人を評価したいと思っています。多くはないけれど、素晴らしい役人もいるんですよ。それが嬉しい。

長くなりました。時々、自分の生き様が情けなくなりますけど、精一杯、誠実に と思って生きています。これからもご指導お願いします。

ブラクソン
23日(水) 今日は朝からターキーを焼いて、いつもの通りパンプキンパイとアップルパイを焼き、モルディドサラダ、マッシュポテト、ヤムを作り、オリーブ、ピクルスを添えて食べた。本当は木曜日がアメリカの収穫感謝祭だけれど日本にあわせて今日した。一家5人がそろってディナーを食べるのは久しぶりだった。それに、今日は忙しすぎて人を呼ばなかったのでとてもゆっくりした気持ちだった。

夕方4時半ごろ川越に行き、イラク人による絵画展を見、相沢さんに会って高遠さんの講演会の打ち合わせをした。その後、信濃町の慶応病院に母に会いに行き、母をお風呂に入れたりおしゃべりをしたりして、帰宅したら10時半だった。慶応病院の看護のひどさは、遠藤周作さんが慶応病院を避けたほどで、納得できる。目が見えず、田舎から出て付き添いのいない人にどうやってお風呂に入れって言うのでしょう。清拭もしてくれない。母は1週間もお風呂に入れず、私が言って私が付き添ってようやく入浴できた。毎日お風呂に入っていた人なのに可哀相に。看護婦は薬を配るだけの人のようで、患者との接点がまるでない。今は完全看護と言う事で付き添いさんを雇う事もできないし、介護保険を使えばきっと出て行ってくださいということになるのだろう。40日も入院するらしいのに、こんな調子では、母はどうなってしまうのだろう。

私が清拭の話を看護婦にしたら、「明日からはぬれタオルを上げましょう」とのこと。背中をふけないだろうにと思うが、ふいてあげましょうとは決して言わない。慶応病院の看護婦、御偉くて開いた口もふさがりません。
22日(火) 今日は朝からヒアリング。福祉部(サピオ、児童館、国民健康保険課)、総合政策課、生活環境課、緑公園課、商工課、教育委員会社会体育課、高齢者介護課、と会った。帰ってきたのは6時半過ぎだった。9時からピーナッツサンドを2枚食べコーヒーを飲みながらこれほどの勉強会をこなすと、頭は飽和状態になった。

今日は特に指定管理者についての話をしてもらったのだが、やはり問題は施設管理公社がいかに他の企業と競争できる体質に脱皮するかが一番だろう。これは、総合政策課だって言われるまでもなく分かっているが、公社を株式会社にして体質をもっと民間会社にするには(要するに民営化である)痛みを伴うし、小泉さんとは違い仲川市長には民営化を断行する勇気があるかどうか。私は2年前に議会で3公社解体の提言はしているが、本気で考えているんだろうか。

「指定管理者になっても何にも変わりませんよ」と社会体育課はぬけぬけといった。少し指定管理業者を導入する意味の認識がおかしいんじゃないかと思う。「自主事業なんかしてもらわなくても私達がやっているからいいんです。」ただただ管理をしてもらえばよいそうである。体育課は経費は落とすが、サービスは変わらない(と思っている)らしい。しかし、利用料金制でないから自主事業でもしなければ収入が入りようがないので、結局サービスは落ちるんではないか。経費節減というが、その内部努力だって小さい施設ではしようがないほどなのだ。普通、収入が減れば、どこかを落とさなければならないけど、それはきっと節電や節水ではできないほどだから、清掃やらの手抜きが始まるんだろうなあ。これはサービス低下って言うのだけど。

なぜ、指定管理者にすると行政コストが下がるかと言えば、管理者に自主事業の自由を与え、その分少し行政コストを下げるわけである。管理者は下げた行政コストよりもっと利用料金収入が上がれば儲かると言う仕組み。その自主事業をさせない、してもらわないでよいのだと断定する社会体育課の姿勢に何もいえなくなって、帰ってきた。今回は「針にらくだ」と言わなかった。本当は心の中では思ったけれど・・・・指定管理者を置くのは、今までの委託とは違うんだよ。きっと言っても分からないよね。(-_-)/~~~ピシー!ピシー!
21日(月)
35900カウント
今日は、朝急いで全員協議会に出かけた。たくさんの報告がなされたが気がかりな事は広瀬小学校の窓のガラスが割られたことで、水富小学校にまで波及している事。絶対捕まえるべきである。どんな事があっても、公共物を破損する事は悪い。悪い事をほっておくと、もっと悪い事が起きるものである。小さいうちにしっかり対処しておかなければ。

議会だより委員会を正式に辞任した。私は議長に辞任届けを提出しておいたが、預かりと言う処置になっていたようで、今日議会だより編集委員会の正副委員長が話を聞きに来たので、辞任について私の考えを説明して理解していただいた。私は議案の取捨選択をする事ができないし、情報を少なくすることには反対であり、今後その方向で進める議会だより編集では協力できないことを話した。前提が承服できない時に、それに伴う作業に参加するのは私の良心が許さない。吉池委員長は今まであなたはその方針を了承してきたのではないかとおっしゃるのだが、私は一度もそれを承服したつもりはない。少なくとも、実務的に12月議会から議案の取捨選択による編集をすると言う事が決まった時点で、私ははっきりと編集委員会から降りる事を決めた。

実際作業に取り掛かりながらおお組を決めたらどうかという話もあったが、私にはそれは順序が違うとしか考えられない。おお組をしっかり決めた上に、試作に取り掛かるべきだと思う。やり方に不満があり、決定事項に不満があるのであなたはやめるのかと言う“我まま”ではないかと言うような意見を委員長に言われたが、私はどのような批判も甘んじて受けようと思う。ただ、私の良心に従い、私には議案質疑に軽重をつける責任は負えないということであり、委員会として大勢がそうしたいと言うのであったとしても、自説は曲げる事ができない。

今までも、大局において私は自分を曲げることなく発言して行動してきたつもりである。この辞任に対しても決して軽々しく行ったつもりはない。議会だよりに残り自分の意見だけでも守っては如何かという発言もあったが、それができるのは一時的なことである。制度を変えれば、制度は作った人の意思を超えて動き出すものである。それが見えるだけに、今行おうとしていることへの危惧を感じるのだ。はっきり言って、今後の議会だより編集は私の手に負えない、少なくとも自分の良心に従えなくなると思うのだ。責任のもてない事は私には出来ない。

午後には市街地整備促進特別委員会の傍聴を行った。1時から始まり、3時半ぐらいまで傍聴していたが、どうして前向きな質疑にならないのかと思う。反対派の意見や質疑なのだが、私にはもっと勉強してから発言したらどうかと思う点も多かった。今回は途中でさじを投げて帰ってきてしまった。

さて、議長から倫理条例に関しての独り言の中で、ある人から苦情のような事があったと言う話があった。特定の人の名前を出したわけでないし、極めて注意し、心して書いている。人権を侵害したとは思っていない。ある法人の方から自分の雇った方のことかという問い合わせがあったし、その方にお会いしもした。だからと言って、その方から抗議を受けたとも思ってはいない。その方は、「雇ったご本人が素晴らしい方だから雇った」とおっしゃられたから、私は「そうですか」と言って帰ってきた。私は特定の個人の資質のことを言及した事もないし、このホームページの中で特別悪い事をしたとも書いてもいない。

しかし、たとえ悪い事はしていなくとも、たとえ小さく取るに足らないことでも、世間様(こんな言葉を私が使うなんて・・・)は様々なことを言うものである。勝海舟ではないが、「毀誉は他人の主張、我に寄らず、・・・・」と言う事である。私が議会だより委員会の委員を止めたことを人はとやかく言うだろうが仕方がないのと同じである。その我に寄らない毀誉を気にすると言う事はどういうことなのかを考えずにはいられない。私は自分の委員としての進退について、何を言われても揺るがない。もし私が揺らぐとしたら、それは私の決心した進退に自らの確信がないからである。人にとやかく言われた事でびくびくするような、腹が据わらないことをしてはいけないのではないかと思う。海舟のように「我に関せずに存候」と毅然といえる生きかたをしたいと思う。
20日(日) 今日は午前中は礼拝。説教を聴きながら、様々な事を考えた。今日もアブラハムのところを学んだが、クリスチャンがユダヤ(イスラエル)を支持するのは、旧約聖書のこのところによるのだ。それで、アブラハムの神による特別の配慮は別として、その頃には多くの民がいたわけで、神様の祝福は他の民になかったのか、イスラエルだけが特別なのかなどと思いをめぐらした。
アメリカのイスラエルへの特別な扱いは政教分離がしっかりできないキリスト教政権で常にイスラエルよりになる事も信条上ありうるのだろう。神はアブラハムに「あなたをのろう者を私はのろう」とおっしゃられたのが、その子孫のイスラエルに対して腰が引ける理由なのである。

しかし、私はクリスチャンであるが、キリスト教徒はイスラエルに特別に配慮するのが信仰的だとは思っていない。政治的な意味でなく、信仰上真のイスラエルは割礼の問題ではなく(パウロが言っているが)1つの神を信じるか否かと言う点、イエスを神の子と信じるこの点でイスラエルかどうかと言えるのではないかと思う。だからこそ、パウロは割礼をするかどうかしているかどうかが問題ではない事を強調している。勿論、男女、奴隷か自由人かということも問題外であることが言われている。だから、信仰的にもイスラエルには配慮、モスレムは無視と言う態度には正しいものを感じない。祝福はイスラエルの専売特許とは思えない。すべての基準の上にあるのは、イエス様のおっしゃられたように「愛」なのだ。その視点で社会を見てみたいと私は思う。
19日(土) 今日は、朝から忙しかった。8時半にはバザーの支度に行った。そんなに支度があるわけでなかったので、吹奏楽部の演奏やエイサー部の太鼓を聴き、少し展示も見た。買い物をしたかったが、バザーが始まるのでできなかった。親父の会では恒例の焼き鳥をしていたが、夫は7時過ぎから焼き鳥の串刺しに出かけていた。

2時ごろ帰ってきて、慶応病院に行く準備をした。ちょうど夫は聖望学園中学校の臨時保護者会(夫は10時過ぎにこちらの中学校の保護者会に出席)から帰ってきた。そこで、夫婦そろって母のお見舞いに出かけた。母は病院に入院していて可哀相だ。でも、仕方ないのかなあ。何で、ああも看護婦に遠慮をするのか理解できない。「痛いのなら、そういいなさい」と言うが、きっと我慢しているのだろう。しょうがないねえ。全く。夜10時近く帰宅した。

今、勝部真長さんによる「勝海舟」を読んでいる。下巻に入っているが、勝海舟は素敵な人だなあと思う。晩年、彼の家にいたホイットニー家では彼をクリスチャンではないかと言っていたそうだが、名誉を求めぬ平和主義者で偏見のない平等主義者であったそうだ。特別に徳川家には忠信を誓っていたが、かといって日本としての視点は決して失うことなく、そのためにこそ無血革命を善しとしたのだろう。アジアについても、隣国として尊敬の念を決して忘れる事はなかったと言う。

その、勝海舟を大嫌いだったのが、福沢諭吉だそうである。この本での福沢諭吉は不愉快この上ない人物で、彼の望みは日本一の金持ちになることであったそうだ。自分は幕末は攘夷論者の刺殺から逃げまくり、明治の代となれば、勝海舟が伯爵とされたことを妬み、幕臣として無血で城を引き渡すとは何事か、官爵をすて、身を隠せなどと勝手なことをのたまい、そんなことを書いた「痩せ我慢の説」について、海舟に勝手に感想を催促したそうだ。しかし、海舟に「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張、我に寄らず、我に関せずと存候」などと一刀にてばっさりと切り捨てられた。本当、福沢諭吉って馬鹿なんだなあとおもってしまった。

「勝海舟」の中で、あまりにも海舟を否定的に論断した福沢諭吉の不甲斐なさブリと、えらぶりたがりと守銭奴ぶりが書いてあって興味深いが、現在の小泉さんの慶応人脈の人と顔を見比べてみると、自らの蓄財のために公の金を盗んだと言う福沢の顔と、何とか平蔵なんていう下品そうな顔がダブって見えるのはどうしてだろうか。あんな、2枚舌の福沢諭吉をお師匠さんに祭り上げている大学なんて高が知れていて、商人のための学校だとつくづく感じる。

はっきり言って、明治維新を単に幕府と薩長の権力争いという平板な捉え方しかできない福沢諭吉。その上、明治も20年も経ってから、徹底抗戦しなかったと海舟を非難するのだが、長岡藩だって会津藩だって徹底抗戦したのよ。それで、どうなったか分かっているのかしら。長岡にはお城の石すら残っていない。米百表で分かるとおり、どのくらい長岡の人間が苦労したか。自分はノコノコ江戸で逃げ回っていたのに、よく言うよ。全く。長岡の出の私としては、自分勝手で、感傷的感情的で無責任な発言をする福沢諭吉には怒りを感じる。要するに、歴史の中心にいなかったものが海舟を使い恨み辛みを言っているのだ。

福沢諭吉の「脱亜入欧論」も笑わすんじゃないよと言う感じだ。小泉の韓国や中国をないがしろにし、無神経な外交しかできないのは正に福沢諭吉伝来のものだと言う事がよく分かる。海舟の歴史を重んじ、隣国を大切にする思想と大違いだ。福沢諭吉を知ると、必然的に小泉政権のそこの浅さがよく理解できると言うのも興味深い事である。小泉政権が長くなれば、戦争の道へ進み、政治は利害関係と力関係と言う平板な論理で押し切られ、万民の幸福、万民の安心安全は2の次、3の次と落とされていくと思う。情けない事。

その諭吉の慶応病院に今母が入院しているなんて何たる皮肉なことだ。
18日(金)
35800カウント
今日は朝10時前に役所に行き、財政課長、職員課長、障害者福祉課長らとヒアリング。1時過ぎまで話し込み、お昼御飯を食べる暇なく、仕方なしにケーキセットを食べ、中学校のバザーの準備に出かけた。

去年と違い、寄付がとても多くて値段付けも大変だった。安くつけたり、100円均一にしたり、頑張ってすべてを片付けた。えら〜〜いね。明日、たくさん売れるといいけど。
17日(木)
35700カウント
今日はとにかく忙しかった。午前中、「教育長のさわやかトーク」というので、入間川小学校に出かけた。野村先生の時と比べ、今の門倉教育長の時はどのように違うのだろうと思い、出かけた。教室に入ってみると、何しろ入間川小学校だもの、知っている人が多くて、なんとなく仲間内って感じだった。他校の人も来ていたが、私は3人も育て上げ、まだ中学校に子供もいるという世代なので、ボランティアや役員での知り合いであったりした。

話は少し堅かったかなあとおもう。進行もあまりにも硬く、てざっくばらんに話をした野村さんの時と大違い。参加者からもそんな意見がでて、「そうよねえ」なんて相槌をうった。お母さんからの質問で、いままでの言葉で言えば特殊教育、いまの言葉で言えば支援教育について、いくつか出ていた。重点としての「鍛える」という言葉があまりにもきついという側面があり、お母さんがたから、かえって特殊教育・支援教育へどのように教育委員会が関わるか不安が出ているのは仕方ないだろう。この前、エレベーターについて私の独り言を書いて以来、思いがけない人々からのメールが届き、共感を持ってくださったのがよく分かった。

コーディネーターについては、教育長はお金がないからといっていたが、私としてはそれはある意味逃げの姿勢かなあと思う。もし、お金が足らないなら親の負担を増やす事だって可能だ。本を読ませたいだの、学校図書館の話もしていたけれど、またしてもお金がないという話になったりした。バザーで稼いでもよいのではないか、学校でお金を得る方法をなぜ考えてはいけないのだろう。アメリカでは子供達がチョコレートを売ったり、クッキーを売ったりして学校の基金をためて、何かをするという事がある。日本だって、してもかまわないだろう。特にPTAバザーは今何の目的でしているか分からなくなったところもある。私は、たとえば“週2回放課後に司書を呼ぶための賃金50万円を作ろう”などという目標を持ってバザーをするのがよいと思う。学校でファンドレージングをするのは、悪い事ではないと思う。

午後、パステルとサピオにより、2時からパステル改善会議。その間、父から電話があり、母が慶応病院に入院したとのことであった。だから、会議が終わったのち、急ぎ帰宅して、母のために入院の支度をして、信濃町の慶応病院に直行した。父は母にパジャマとスリッパなどをそろえて、8時前に上越に帰ったとのことだった。私は、7時に息子に駅まで送らせ、特急に乗って高田馬場まで行ったのだが、乗換えがよく、8時過ぎには慶応病院に着いた。今回の入院は市川でなくて、近い信濃町で良かったと思った。湯のみ、洗面器、下着など、こまごまとしたものを持っていったが、喜ばれて良かったと思う。

10時前に病院をでた。家に着いたのは11時半。疲れたけれど、入院した母の顔を見れてよかった。明日は忙しいけれど、明後日の午後、バザーの後に頑張って会いに行こうと思う。
16日(水) 今日は朝夫を会社に送り、その足で役所に行った。一般質問の通告。結局、1.障害者のノーマライゼーションのようなこと。すなわち学校のバリアフリー、障害者自立支援法、就労支援センターについて、2.職員の倫理保持、3.緑の保全とダイオキシンについて質問しようと思う。植物園は質疑の中でしたい。

事務連絡:私は昔はチェックの久美子と言われていた。けれど、最近はチェックする鋭さが消え始めている。わずらわしいと思う気がして、まあいいかと目こぼしする事が多くなったのだ。その私の目にもいくつか間違いがあるのが見える。どうか、ふし穴のような私の目なのだから、そこに引っかかるような杜撰なことをしないでほしい。人のことをいうのは、自分が抜けているから言いにくい。それでも、指摘するこちらの恐れ多さを知ってください。お願いします。

ところで、今日は議事録にサインしてきた。一応、隅から隅まで読んで、誤字誤植はなかったと思う。しかし、自分の議会での発言を読むと恥ずかしい。もっと、わかり易く言えないのだろうか。反省反省。12月議会は、自己嫌悪にならないような一般質問ができるだろうか。

午後遅く、新しくできた精神障害者施設の理事長さんと会談し、施設を見せていただいた。素晴らしい施設。有効に使い、少しでも精神障害者が社会復帰する手がかりになったり、心を休めたりできるような施設であってほしいと願っている。

風邪がはやっている。喘息とばかり思っていたが、私のように咳が止まらない風邪をひいていて、それも咳が長引いている人が少なからずいる事が分かった。しつこい風邪で嫌になる。皆さんもご自愛を。
15日(火)
35600カウント
昨日、あまりにも薬が効き過ぎて辛かったので、1種類飲むのをやめて寝た。そしたら、今日の方が少し楽になった。咳も少し少なくなったようにも思う。昨夜から、石油ストーブを使い始めた。寒くなった。

今日は、娘の養護学校の願書を提出してきた。2,3人しか合格しないところに、私の娘は19人目だったから10倍近くの倍率である。合格したら、娘は自転車とバスで通学する事になるが、体力が続くだろうか。どの親もそうだけれど、子供の生活範囲を広げてあげたいと思う一方、心配もする。そうそう、今日は紀宮さまのご結婚だった。きっと皇后陛下はとてもとても複雑な思いだろう。私の場合、少なくとも学校に出しても、娘は毎日帰ってくるのだから、あれこれ考えるのはやめよう。なるようにしかならないのだから。

午後は報告書を書いたり、明日の一般質問の要旨を考えたりしていた。質問は1.教育でのバリアフリー、2.職員倫理条例、3.植物園かくぬぎ山のダイオキシンについて。4つ質問をして、1.は教育長、2.は市長、3.は建設部長、4.は環境部長に答えてもらうのもよいかもしれない。

鳥インフルエンザ対策として、動物園も、もう一度取り上げたいが、先回質問しているのでこれはただただ心配するだけだ。今年、ヨーロッパで白鳥にも雁にもインフルエンザを検出したと言う報道があった。今までは南からの鳥をマークしたり、カラス対策をしていればよかったが、今後は北からの渡り鳥も注意が必要だ。動物園はオープンすぎて、感染しなければよいけど。今夜、NHKで旭山動物園の話がプロジェクトXであった。その中で、翼を切らないで飛ぶように大きなネットを張った檻を作った話があった。これは私が9月議会でした話である。動物園の池に羽を切って飼っているフラミンゴのために、鴨やオシドリ達のために、また、それらの鳥をインフルエンザから守るためにも、大きな大きなネットを張った檻がほしい。
14日(月)
35500カウント
今日は薬が効き過ぎて、手は震えたり、横になりたくて仕方なかった。夕方、やっと銀行にいく事ができた。その後、職員倫理条例を調べたりするために役所に行った。職員と会談。時代は変わる。人は見方によって、様々に見える。それは、相手の問題ではなくて、受容者の私が役所を少し分かってきたことによるかもしれない。どの立場になろうとも、どんな風に扱われようと、腐ることなく働く事が必要だと思う。役所の仕事は基本的には他人のお役に立つこと、人へのご奉仕なのだから、やりがいがあると言うものではないか。喜ばれる姿を想像しながら仕事をしようと思う。イマジネーションや感性を磨けば、人生は幸せだ。どんな立場に立とうが、どんな逆境にいようが、ネ。

帰宅途中ヤオコーに寄ったら、弁当が半額だった。半額大好きな私は、じっと考えた挙句、498円の半額の250円で鯖の味噌煮定食は作れないと言う結論を得て、買った。お買い得を買うとなんか勝ったような思いになるから不思議で。4個あった弁当を買い占めた。しめしめ。とても幸せな気持ちで帰ってきた。この気持ちは、主婦でないと分からない高揚感かもしれない。ウフ(*^。^*)

幸せな気持ちになれたのも、薬が切れてきて楽になったのも一因かもしれない。薬が強すぎる。
13日(日) 今日は朝礼拝。「逃げるな」「とどまれ」という説教。問題から逃げるな。複雑な人間関係から逃げるな。神はそこに共におられる。と言う事だった。

礼拝のこととは直接関係ないかもしれないが、教会で思うのは言葉がきれいであるということだ。「だ」「である」は勿論使わないし、「です。ですね。」。この前までは年配の方々は「でございます。ございますものね」と言う調子だった。私のような雑な者でもそういう方々に対しては、少し改まった物言いをしたものだった。

思い出せば、亡くなった長井さんに「久美子さん、お時間おありになる?お茶をしに家にいらっしゃいません?」なんて、選挙前に呼ばれて、「ありがとうございます。伺わせていただきます。」と遠慮もせず伺い、「選挙も頑張ってくださいね。」なんて激励されたっけ・・・まるでお公家さんのような物言いの方だったけど、あの方はあの方風に精一杯げきれいしてくださったんだろうなあ。今の教会は昔のような優雅さは少なくなっているけれど、それでもいまなお本当に優しい。

午後図書館に行き、勝海舟の様々な本を借りて帰ってきた。勝海舟の研究書を偶然図書館で見つけ、読み始めたらやめられない。いつもの癖で、図書館にあるめぼしい勝海舟についての本を読破するつもりである。それと、憲法関係のブックレットを借りてきた。また、公務員倫理法のことを資料室からいくつかコピーした。

勝海舟は下級旗本。坂本竜馬、福沢諭吉、西郷隆盛もすべて地方下役の侍。四民平等を思う気持ちは、一緒だったんだろう。それにしても、福沢諭吉の慶応に長岡の人間が多く進んだという歴史と、今の小泉さんが長岡藩の米百表の話をしたのとのつながりがわかって面白かった。福沢は江戸引渡し派に組しなかったようで、慶応に長岡、会津藩出の官と戦った者を多く受け入れたようである。福沢は優秀でかいりん丸、勝海舟が艦長だった船に乗った人物だが、海舟と違い地方の下級武士だったゆえ、幕府に入り幕閣での活躍は夢のまた夢だった。三河からの、下級であろうとも旗本のお殿様と地方武士の格の違いが厳然としていた。福沢は勝が嫌いで、どうも江戸引渡し反対派に同調していたらしい。

さて、慶応がどうしても官に対して反対の気分があり、長岡藩や会津藩の人間が集まりがちだという気質があるらしいのは、福沢諭吉の思いがそうだったらしい事が大きいが、小泉さんが官製神社、「靖国神社」にもうでているのを福沢諭吉はどう思うだろう。勿論、長岡藩士、会津藩士は反官だったわけで「靖国神社」になんか入れられもしていない。慶応出の首相がいままでいたかどうか私には定かではないが、何もわざわざ「靖国」に出かけなくてよいのに。いや彼は変人だし、勉強もしなかったので「靖国神社」がどういう神社かも理解していずに詣で始めたと言うから、福沢諭吉のことや慶応なんかの歴史もあまり知らないのかもしれない。諭吉さんは草葉の陰で嘆いていなさるに違いない。とにかく明治維新は遠い歴史のことではあるが・・・

ところで、勝海舟の父方の祖父が新潟県の柏崎在の人で米山検校であったと言う事。勝海舟に新潟の血が流れていたかと思うと近親感が湧こうというものではないか。私は写真を見て、勝海舟が優しい顔立ちだったのに驚いた。外人みたいだ。彼がワシントンを好きな平和主義者だったこと、封建制の家柄格式ばかりにこだわるよりも豊かな才能を用いる市民平等がよいと考えた事などを思うとき、近代的な日本を創造する一役を大いに担ったとするのは100年以上たった今では定説となっていると言ってよいだろう。それにしても海舟は徳川家に遠慮して官の役には就かなかったが、そんな潔い事も庶民の勝海舟の思いを高める事になったのだろう。それと海舟の自由な気分というのがなんとも好きだなあ。枠をはめない自由さ。それは、外国を自分の目で見た視野の広さにもあるのだろう。子供に外国を見させなければと思う。
12日(土) 今日は午前中6校合同PTA研修会に出かけた。増田太郎という人のコンサート。コンサートは素敵だったが、少し儀式めきすぎかな。もっとリラックスして聞きたかった。挨拶がやたら多すぎた。

増田さんは視覚障害者で目が見えない。その人の観点からの歌が多かったし、お話もそのこと。家は母が視覚障害者だから、母のことを思いながら聴いた。中途で視力を失ったこの方がとても前向きで好感がもてた。多くの人から支えられ、親からも支えられて前に進んでいると言う話で、私も息子や娘の人生を支えていたいと思うし、自分で前を向いて生きる子供になってほしいと思った。

喘息がひどくてコンサートを聴いていても時々咳き込んだ。隣に座ったSさんが優しく背中をなでさすってくれた。楽になると同時にとても嬉しかった。彼女はきっと辛い時期を今過ごしているだろうに、なんて優しいんだろうと思う。いつも明るく振舞っているがきっときっと大変なストレスだろう。何もしてあげられない。一度、話を聞こう。

午後は横になっていた。強い薬のせいでふらふらする。娘は友達のうちにお泊りに行った。夫と息子は映画を見に行った。長男はバイト。家族一人一人が忙しいが、幸せである。
11日(金)
35400カウント
きょうのことを淡々と書くと・・・10時半ごろまで事務所で仕事。報告書を1部完成。市民会館へ合唱の音楽祭へ。娘が中学校の3年の代表のクラスにいるので。西中はこの前以上の出来だったが、少し元気が足りなかったようだ.あがっていたかな。入間中の3年生は素晴らしかった。それに比べて狭山台中の合唱はまるで小学生の歌。態度も顰蹙物。他の学校は一生懸命うたっていて、気持ちが良かったのに。

その後、役所に行き、事務局により報告書を出し、昼食後教育委員会に行き、社会体育課でプロバスケットボールの試合のポスターとスペシャルオリンピックスのボランティア募集のポスターを置いてきて、公民館にお願いした。その後、学校総務課に行き、この前の「馬鹿」発言を陳謝し、学校教育課に行き、またポスターを学校にも貼っていただくようにお願いした。

その足で、環境部に行き、ダイオキシンの事を聞き、憂慮し、図書館によって本を返した後、帰宅した。帰宅した途端、ある団体から電話があり、2日前の私の独り言についてお話をしたいということなので、時間のある日に合うことにした。ホッとする間もなく、娘を連れて、萩山まで病院に行った。いつもの通り、1時間も待った後にお医者さんと面談。

帰ってきたのは8時ごろ。何も考える事もできず、次々にすることをこなした。喘息があるので、階段を上ると息が切れて苦しい。でも、生きている実感がする。

ところで、「馬鹿」と言ったのを陳謝したのは、大人に向かって言うのはやはり反省すべきことだと思うので、私が出向いて謝った。思っても人前で言ってはいけない言葉はある。本当は思うことだって、時には傲慢なんだろうけど。語彙が少ないのは、恥ずかしい。彼はにこやかに陳謝を受け入れてくれたので、よかった。思うところは多々ありここに書くことはできないが、謝ってよかったと思っている。
10日(木) 今日は、朝から病院に行く日だった。のどのポリープが小さくなっていて、驚いた。「こういう風に無くなることもあるのですよ」とお医者さんが言ってくれたけれど。この頃、喘息がひどくて1ヶ月も治らないし、痰が絡んで苦しいので、内科の先生に診てもらった。主治医だった水富診療所の大先生がなくなって、ずうっと見ていていただいた先生がいなくなったので、どこの病院に行こうかと悩んでもうそろそろ1ヶ月も経つ。だから、今回病院に行ったついでに、耳鼻科の先生にお願いしようと思ったけれど、内科の先生に診てもらうように言われて見ていただくことにした。

治療は根気の要るようで、死にたくなかったらきちんとする事を約束させられた。今日、病院でお年寄りの方々を多く見た。私は体が堅固というのではないので、なんとなく死期を身近に感じながら生活していた。でも、今日お年寄りの白い髪の方がよろよろと歩いているのを見て、突然、私はあの年になっても働いていたいという思いがむくむくわいてきた。あれ、神様がまたサジェスチョンを与えてくださったなと思う一瞬だった。それで、喘息にもまともに向き合う事にする。大変なんですよ、これをコントロールするのは。

今回、病院を出るとき、本当かと請求書をみて目を見張った。もう一度計算を確かめてもらったが、正確だそうだ。なんと、15800円の請求だった。私は、ATMに行って、お金を下ろさなければ払えなかった。なんだか、医療費がドンドン上がるような気がする。その上、今日は検査器具を3000円でかったから、18800円の医療費の出費だった。3割になってから、本当に医療費が負担に思えてならない。
9日(水)
35300カウント
止めてください、危ないことは。
(クリックしてください。)私は平成14年9月ごろこの文を書いた。くぬぎ山の土壌に多量のダイオキシンがあることをほぼ確信していたからであった。その時、町田市長は子供達をくぬぎ山で遊ばせようとしていた。民間の焼却炉を2機取り崩したが、私はそのやり方にも危険性を感じ、この文を狭山市環境部に送っていた。しかし、私の意見を無視して町田市長は焼却炉を取り崩し、NPOに子供達をくぬぎ山に入れて遊ぶことを容認した。私は、その秋の保育園展で、ある保育園がくぬぎ山の枯れ葉の中で幼児が遊ばせている写真を見て、スタッフとともに非常に危惧した。環境部長には、子供をくぬぎ山で遊ばせるのは危険だと申し入れていたのにと思ったからである。

そして、今日、狭山市環境部長からくぬぎ山地区における土壌中のダイオキシン類について、東洋大学工学部助教授杉浦公昭氏の指摘により、県が調査した結果が報告された。それによれば、平成17年8月10日に調査した土壌8試料のうち2試料でダイオキシンが基準を超過し、14試料中6試料で鉛が基準を超過している事が明らかになった。それも土壌のダイオキシンは1700pg(1000pgが基準)、鉛は最高540mg/kg(基準は150mg/kg)と大幅に超えている。やっぱり、私が言ったとおりだった。どうして、こういう結果が出たのか知りたいものだが、調査地が廃棄物処理事業所敷地近傍ということで、もしかしてこの前土地購入する前に汚染土を捨てたのではないかと疑ってしまう。

今後の対応についてあれこれ書いてあった。私はまず、少なくともあと10年はこの地点を立ち入り禁止にするべきではないかと思う。NPOが里山保全と称し、子供達をこの森に入れて活動させているが、私には危険この上ないように感じる。3pgでもダイオキシンを吸い込んだり、舐めたりしたら何かが起こるといわれているほど、ダイオキシンは毒性がつよいのだ。うちの子供へのお誘いがあった時も、申し訳なかったが、ここで遊ばせるのは怖すぎて私は自分の子供をこの活動に参加させられなかった。

ダイオキシンは水溶性でないので、かなり土中にとどまると言われている。汚染土壌の撤去は当たり前だが、その作業にも細心の注意が必要だある。私はこんな事ではないかと思い、色々言うのだが、狭山市はちっとも私の言う事を聞かない。「それ見たことか」といってみても本当に空しい。とにかく汚染地区を明らかにして、立ち入り禁止場所だけははっきりさせ、市民の健康の安全を確保するべきだと私は強く思う。
8日(火)
35200カウント
今日は午前中はあれこれ忙しくて、電話したり、雑用に追われていた。午後は、お茶を伯母に送ったり、郵便局でお金を支払ったり、年賀状を買ったり(これは返信用。私は公職選挙法によって、年賀状は送れない。)して役所に行った。

午後遅くなってからは、パステル改善会議をした。この前の視察見学を参考に、このようにしたらどうかという1案を作った。次に2案を作り、後で話し合いをすることになる。具体的な話やら総論やらをまとめた。3時間も会議をしていると話があちこちに飛んでいくが、それも私には大切な情報となっている。真剣に話をしているが、お金も関わる事なので身が引き締まる。

一般質問の勉強やら資料集めやらをしているが、天下りに対する禁止条例を作ることを私は勧めたいなあと思う。もしかして、議会で提案したい。今年、ある定年退職した職員が彼の職員時代に関わったところに就職した。不正があったとは言わない。ただ、その組織のために在職中の彼は努力してあげたんだなあと関係者は思ってしまう。そんなことはないとは思いたいが、再就職を考えていたのでその組織によくしたのではないかと思われているのだ。

また、国や新潟市の官製談合事件の時にも出てきたが、退職した上司が役所に仕事関係で来たら無視し切れなかったという話だった。昨日まで上司だった人に攣れなくできる人は少ないのだ。その結果、元上司が就職した組織と役所がなんとなく癒着始めるというのが、官製談合の始まりだった。就職先はそれを利用するために退職職員を雇ったわけだ。だから、官製談合やら役所からの特別扱いを受ける事ができなくなった時、新潟市では天下りを民間が受け付けなくなったそうだ。要するに天下りの職員を雇ってもメリットがなくなったからということである。

勿論、民間が元市職員を雇うメリットは役所対策だけでなく、彼らの持っているノウハウを組織で使いたいという事もあるだろう。だから、一概に役所と関係のあった組織に就職しないようにとは言いにくいかもしれない。でも、この度のようなことを放置していれば、いつか役所がそしりを受けることを起こしはしないかと私は恐れている。勿論、天下り防止を徹底するためには、国から天下りをさせないノウハウを学ばなければならないが、国がしていることは分権時代市も同じように注意してすべき事ではないかと思う。こんなことを言えるのは、身内に公務員がひとりもいなく、しがらみが全然ない私だからこそかもしれない。はっきりすべき事だと私は思っている。
7日(月)
35100カウント
今日は朝から報告書を書き始めたらやめられなくなって(書き終えたというのではないが)、いくべきところするべき事をいくつもしなかった。でも、午後になり、招待されていた「現代国際巨匠絵画展」に出かけてきた。はつらつ作業所(日高市の日本標準統合物流センターの中にある知的障害者の小規模作業所、NPOが経営している)が社会福祉法人化を目指してチャリティー企画として行ったものであった。残念ながら、私の手に余るものが多かった。まず、金額的に、そして 素敵な絵を掛ける場所がないのが残念である。でも、本物の絵画を見る事ができたのは幸せだった。私も油絵の道具をもう一度出して、書きたくなった。具象はむりでも、思ったように書きたい。

所長さんからはつらつ作業所を見せていただいた。ちょうど3時のお休みになり、作業員は休んでしまった。そして、話を聞き終わった3時15分には誰が何も言わなくてもしっかり作業に取り掛かっていた。所長さんがおっしゃるには年間何人でも社会就労へ出しているという事であった。作業代だって、始めの5000円から12000円と上がったそうで、2.4倍の手当増はすごいと言ってきた。上を見れば限がない。もっとほしい時には、社会就労だ。それに、今日見た作業所でも一般就労ができる能力があるのではないかと一見される人もいた。(勿論、実際がどうかはよく付き合わなければ分からないと知っているが。)

狭山市の就労支援センターは難産だ。ちっとも進まない。少なくとも、作業所所長会議を開き、作業所を卒業できる人を社会就労させなければ。狭山養護学校には1年生がいままでの倍以上の38人いる。来年も30人以上だと言われている。この人たちの将来の身の振り方を考えなければならない。追い風として、団塊の世代の退職が迫ってきている。労働者が確保できない状況も出てきていて、障害者だって決して労働力として見捨てて置けないと思う。そして、いっぱしの労働者に障害者がなれるならば、本人だって家族だって社会だって幸せだ。福祉は大切。でも、福祉のお世話だけで自分で稼がない人にはしたくない。障害者だって支援してもらうだけでなく、支援する側に立てるのだ。十分てだてがあれば。

日曜日の説教でないけど、「働かざるもの食うべからず」という聖書のみことばは健常者だけのためでない。誰にも普遍の真理なのだろう。少なくとも、働こうとする障害者には仕事を与えるべきだ。そういう社会にしたい。
6日(日) 今日は朝また佐久市の野沢福音教会で礼拝を守った。時計が10分遅れていると夫にせかされ出かけたが、外は寒くてウインドブレーカーなしには出れない。

今日は第一主日なので聖餐式があった。私は初めて聖餐を受けた時のことを思い出した。もう25年も前になるが、アメリカ、イリノイ州、シカゴの郊外の教会だった。私は、イエス様を信じてもよいかなあという思いはあったのだが、洗礼を受ける決心はなかった。でも、誰でも聖餐を受けたい人はいらっしゃいという招きに私はふわっと立っていただいてしまった。日本の教会ではありえないのだが、(日本は信者だけを招き、修道者を聖餐にまねかない)そのアーリントンハイツの教会はオープンコミュニオンといって、だれでもイエス様を受け入れる人に聖餐を与えた。で、結局そのふわっと立ったのが契機でクリスチャンの歩みを始めたようにも思う。

まあ、教会は洗礼を受ける前、カトリックから始まって、もう35年も行っているのだから、習慣になったといえばそれまでだが、サボろうとも思わないし、行かないとどうも落ち着かない。今日はかの有名な「働く意志のないものは、食うべからず」と言うところの前が説教だった。プロテスタントは真面目だし、勤勉でなくてはいけませんという話。働ける人は自分で働いて御飯を食べるのですという事。才能があるのに、土に埋めておくのは罪だというたとえも語られた。聞きながら、最近はニートの事が取りざたされているし、元気な退職者や働きたくても仕事のないリストラされた人たちも多いので、そんなことを思いながら説教を聴いた。それから、私はもっと働かなければならないし、もっと謙虚にならなければと思った。したい事はたくさんあるが、どれにも手をつけていない。市議会議員をしているだけで、精一杯なのである。これは言い訳かなあ。

午後、お弁当を買い、また紅葉を見にドライブした。先週ひとりで行った道をドライブしたが、まるで仙人がいるかのような山奥。目の前の景色にひたすら「きれいだねえ」と言うだけだ。今日も、シンとした思いが募った。帰り道、鹿がいた。

別荘に帰り、寒くなって水が凍るので冬支度をした。5時過ぎようやく出発。渋滞のため、8時半過ぎに狭山に着いた。着いた途端、息子達が使った食器が流しに山盛りになっていたのには、げんなり。最近の口癖だが、全くもう・・・・
5日(土) 今日は夫とともに別荘にストーブとボイラーの修理の状態を見に行く日としていた。ところが娘のお花の練習が11月は無くなったとかで、結局3人で出かけることになった。1時半に別荘で修理してくれた人たちと待ち合わせなので、11時前に出かけた。紅葉の時期なので、高速は込んでいた。

直っていたはずのストーブがうまくいかなかった。ボイラーの方はまあまあで、お風呂もたけたし、熱いお湯も出てよかった。それで設備やさんを呼んでまたやり直し、結局4時半ごろまであれこれ設備をいじっていて、夕食は蕎麦を食べに出かけた。あまりおいしくなくて、がっかりした。手打ちなのに、どうしてあんなにモッチリしているんだろう。前に食べた時は、おいしかったのにね。ザルの冷たい方がおいしいのかなあ。口がこえるとまずいものが分かってしまう。

夜は、この前夫が取った合唱祭のときのビデオを見たり、読書をしたりした。窓の外は1週間で様変わりした。唐松の葉も栗の木の葉も黄色く色好いた。ほうの木の葉はもうすっかり落ちていた。あんなに黄金色していた田んぼもすっかり刈られてしまい、今は茶色になってしまっていた。狭山では実感できない深まり行く秋を感じた。
4日(金)
35000カウント
今日は朝からがたがたと家の中を片付け、10時からスタッフミーティングをした。スタッフにあれやこれや話をした。編集委員を辞めた理由を説明したら、スタッフの一人は編集者なので、マガジンのような編集をするのは大変な作業だし、恣意的になる可能性も大だし、情報量をカットするより読みやすいレイアウトや文字の変化や枠組みや見出しなどをつける方がよいのではないかと私と同様な考えを言っていた。まあ、何年間も私の議会レポートやネットニュースの編集に携わってきた人たちだから、なぜ私が辞任したかをよく理解してくれた。

その上、教育委員会とのことも良く分かってくれて、「福祉公社に勤めていた人がどうして久美子さんの言う意味を理解できなかったのかねえ」とため息をついていた。「馬鹿だね」という代わりに他の言葉はなかったのかといわれたのだが、「私にはとっさに他の言葉が出てこなかった」と言ったら、スタッフもこういう時の台詞に困ったようであった。とんまでも、間抜けでもないし、無理解、無神経、分からんチン、どれもイマイチ。聖書には針にらくだってたとえがあった。

来年、前半までのスケジュールを一応決めた。選挙対策があるが、それは来年度に入ってからということにした。

久しぶりにカルフールに買い物に行った。結局1万円を軽く突破して買い物をした。こんな便利なところがなくなっては困る。でも、お客さんが決して多くないので心配である。また、イオンの系列になったようで、昔ほど輸入品に面白みが無くなってしまった。特に思うのは衣料品と靴。フランスで作られたものでなくてもフランスのカットで作ったものがあったので、見るのも楽しかったのに、段々ありふれた日本の安物が増えてきた。つまらない。
3日(木) 今日は朝ゆっくりできて幸せだった。午後からいろんな民族の会のコンサートがあるので、美容院に行きカットをしてもらった。珍しくドレスアップをしてコンサートへ。楽しんで夕方遅く帰ってきた。ウィニャイというラテンのフォルクローネを聴き、踊った。体育系コンサートと私達は呼んでいる。楽しかった。
2日(水)
34900カウント
今日は、朝おにぎりをたくさん作った。息子に(骨折で箸がつかえないので)、夫とむすめに(合唱祭で食べる時間がすくないので)。私のは新潟式で御飯2杯分ぐらいの大きいおにぎり。でも、私のは新潟改良型で三角むすび。私の母が作ってくれた握りは丸型で、海苔1枚ぶんを巻くほどの大きさであった。

とにかく、息子を送り、娘を送り出し、私と夫(今日は年休を取った)は2人で、川越市立養護学校へ願書を取りに行った。夫は初めて行くので、ちょうど教務主任の先生が他の人を案内していたのでそれにくっついて学内を見せていただいた。小さいけど、前向きな学校に思えた。

帰ってきてすぐ市民会館へ中学校の合唱祭に行き、2年生の合唱の後半から聞いた。去年に比べれば格段に上手になっていて驚いた。つなぎゆくものが、伝統がこの中学校に根ついていて、よさが浸透していく感じだ。それに、この学校は大きな学校だから、生徒が本気で歌おうとしたときには合唱もダイナミックだ。また、この学校の生徒は本気でうたう事をちっとも“ダサい”だの“ウザイ”だのといわない。きっと去年も言ったかもしれないが、私達中年の伯母さんや伯父さんとも同じような価値観で中学生と音楽や合唱を理解しあえるのはとても嬉しいことだ。

今年もおおぞら学級のパーフォーマンスがあった。担任、今年は主任の熊切先生の趣味がとてもよくて、心が洗われるようなのだ。今年は「上を向いて歩こう」をうたい、手話をつけ、ベルで演奏した。娘は始めの言葉を読んだ。皆成長していて、嬉しかった。昔のことを覚えているが、今のやり方はあんまり練習だけに明け暮れさせることなく、でもメッセージが伝わるよいやり方だなあと、感心している。熊切先生ありがとうございました。

続いての3年生の合唱はどのクラスも甲乙付けがたかった。うまかった。最後に娘のクラスが最優秀賞をもらった時には、夫婦で喜んで拍手した。娘は泣いていた。11日の狭山市の合唱祭に、是非聴きに行こうと思う。ところで、昨年の校長の当間先生が見に来ていた。校長先生も7年ぐらい1つの学校にいられたら良いのにね。娘は当間先生が大好きで、来ていたのに会えなくて残念そうだった。私は当間先生がきっと聴きに来るだろうと思っていた。よい合唱祭できっと当間先生も嬉しかっただろうと思う。(関根先生が出勤されていた。お会いできて嬉しかった。また、太られたようでよかった。)
1日(火) 今日は朝から入間市の黒須小学校にエレベーターの視察に行った。去る9月13日に筋ジストロフィーを発病した息子を持つ方が黒須小学校に18540万円を掛けてエレベーターを寄贈したのだ。その記事を読んでいて、非常に感動した。感動したのは、そのお父さんの行為と、そのお父さんの好意をきちんと汲んで文部科学省や防衛庁と折衝しエレベーターをいただいた入間市の姿勢にであった。

自分の子供のため、ひいては今後の障害を持つ子供のために借金してまで寄付をしようとする家族の気持ちは尊い。しかし、役所は尊い気持ちを時には法をたてに、時にはお金の面で、色々な理屈で無にしてしまうこともあるのである。エレベーターを貰うといっても決して目録を貰ってありがとうということにはならないのだ。寄付に伴う下働きがあるのを嫌がりもせず、市がするべきことを民間の寄付に頼ってという批判にも耐えて、6ヶ月の短い時間に施行し完成し使用を開始したのは、驚きに値すると私は思う。今日、入間市教育委員会の教育総務課の方がいらっして説明していただいたが、心からの賛意を述べた。異論はあるのは分かるが、今回の事は素晴らしいなあと思う。

ところで、私は夕方入間川小学校(狭山市で唯一エレベーターがある学校)を視察した後、教育委員会に今日の視察のこと、12月議会で学校のバリアフリーの事などの一般質問をすることを話しに行った。主幹が話を聞いてくれた。課長がいなかったからであった。その後、課長がやってきたので、わたしが中学校にエレベーターをつけることなどの話をしていると言い始めたら、彼は「鍛えるためにそんなのいらないですよ」という。私は、「筋ジストロフィーや肢体不自由児のための話をしているんだよ」といったが、彼は「鍛えるためにはエレベーターいらない」という。私は、この人とは話をしても無駄だなと思った。そして、一言、「馬鹿だね、あなたは」といって、話をやめて帰ってきた。

筋ジスの子供を私は教員時代に見ている。鍛えられる子供ではないのだ。嫌でも、筋力が落ち、まず、躓き始め、階段が上れなくなり、歩けなくなり、這ってずることすらできなくなるのだ。こんな子供をどう鍛えるのか。努力が足りないから歩けなくなってしまったというのか。肢体不自由児だって、鍛えて直るのだったら鍛えている。直すために何べんも手術した子もいる。足が不自由なのは、怠けて鍛えていないから不自由なのではないのだ。好きで不自由でないのだ。好きで病気になるのではないのだ。そんなことも分からない人が教育委員会にいる。

彼は私が帰宅するや否や電話を掛けてきた。「僕はあなたに馬鹿だといわれて落ち込んでおります。」という。私は、なぜ私が彼を馬鹿だといったのかを説明しようとした。けれど、彼は私が彼を馬鹿だと言って、彼と話をやめたことを非難し、電話でその話をしたいといった。馬鹿だといわれて落ち込ませた私はいけない人かもしれない。そして、私が「馬鹿と言って悪かった」といえば彼の溜飲が下がったのだろう。しかし、私は電話があった時、彼が「高橋さんに馬鹿だといわれて、何で言われたか後で分かりました。」とでも言うか、「お話の腰を折って、冗談を言いまして、申し訳ありませんでした」とでも言うかと思ったのだ。彼は自分を馬鹿だとは思ってはいないから、プライドを傷付けられて腹が立ち、そのことを私に言ってきたのだった。この人に、障害児や障害者の子供を持つ親の気持ちはきっと一生分かってもらえないんだなあと思う。

今日視察した入間市の教育委員会の対応と「鍛えるためにエレベーターなんて要りませんよ」という狭山市教育委員会の一部幹部の発言を比べると、あまりの“心”の違いに驚く。バリアフリーの理想はなんだったんだろう。狭山市教育委員会はインクルージョンを進めるのではなかったのか。障害者についてどのように考えているのか。糾して見たい。

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