私の独り言 2011年 

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心のままに思っていることを書いていこう。嬉しいことに喜び、悲しい事に嘆き、怒る事も忘れまい。一生懸命生きようと思う。

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すぐにはお返事できないかも知れないけれど、全部に目を、通します。

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kumiko@takahashi.comです。たくさんのメール待っています
8月 私の独り言2011 
 31日(水) 今日は本会議。その後で、ヒアリングあり。倒れるような気持ちで帰ってきて一般質問の原稿を書いていた。 
 30日(火) 今日は午前中は市民部、午後は総務部。時々総合政策部がきたり、なんだか訳が分からないほどだ。ヒアリングらしきものは、今回あまり時間をとらなかった。言いたいことは分かってくれるだろうと思うが・・・ 
 29日(月) 今日は午前中は教育委員会学校教育部、午後は生涯学習部の勉強会。終わってから、またヒアリング。もう、頭に何も入らない。
28日(日) 今日は礼拝をお休み。なんだか、外に行くと原稿がかけないようで、閉じこもって原稿を書いていた。それでも、時々いやになって、本を読んだ。こんなときくだらない本がどんどん読める。心に何かが残っているかと言うと、何にも残っていない。は~~~。

黒須保育所の報告書を書き上げた。それから、一般質問の原稿を書き始めた。なんだか、コンピューターの前に座りきり。夜は夜で、ありもので済ませた。本当のことを言って、煮詰まっている。
 27日(土)  今日は、朝から疲れて寝込んでいた。1週間、朝から夜中近くまで、視察やら勉強に明け暮れていた。体が動かなくなって、ぼおっと本を読んだが、本当の意味で呼んでいたわけでない。頭がなかなか回らないから。

しかし、午後になって、一般質問の原稿を考え始めた。

夜は、ご飯を食べに大島食堂へ出かけた。夫が運転してくれたので、なんだか悪くてビールも飲まずに帰ってきた。その後、夫と映画を見ることに。私は人が死ぬようなものはいやだから、結局「ウサギドロップ」を見た。松山ケンイチって有名らしいが私は始めて映画を見た。ノルウェーの森で主演もしたらしいが、それは見に行かなかった。まあ、男性が女の子を育てるって話。こんな話が映画になるのか。女性が一人で子育てしていても、それだけでは映画になんかなりゃしないのにさ。内容ははっきり言ってつまらなかった。男女共同参画社会への啓蒙書みたいな門ですかね。保育所の探し方、親の付き合い方みたいな・・・
 26日(金) 午前中は、福祉部。午後は商工課、農業推進課勉強会。とにかく終わらないわねえ。
 25日(木) 午前中は、家事。今日からお手伝いさんが来ない、月末だから。

午後は歳入の勉強会。私はもう13年目の決算の勉強をしている。予算も入れれば25回もお金のチェックだ。予算をしているから、どんな事業がなされたのかは分かっているはずなのだが、老人力がついてきて「物忘れ」する。この「物忘れ」は時にはとてもすばらしい力であるが、時には惨め。だから同じような勉強会がいつも新鮮である。いいのか、悪いのかね。

歳入に関してH22年度はまあまあである。財政面では悪くない。積み上げ分も28億ほどあり、結局100億ほどの基金残高がある。近隣の状況、特に入間市などとは比べ物にならないほどの財政力。それでも、財政課長は手を抜かず、気を引き締めている。財政課長になると、みんな同じような性格になるらしい。すなわち、ケチ。仲川市長はケチのDNAを持っていると豪語しているから、まあ、似た者が集まる感じかなあ。でも、あまりの浪費よりも、少し堅実なほうが私の好みなので、よいとしよう。

それにしても財務省は金がない、増税だと言うが、あれは単に体質の問題であって、何兆円もお金があっても、金はない、来年はきっともっと少ないはず、なんていつも悲観的だろうな。もう、この世界にいると、お金が余って仕方がないなんて景気のよい話は、景気がよくてもしないことが身に染みた。そうでしょ、財政課長!!
 24日(水) 今日は福島県いわき市へ被災地フィールドワークに出かけた。朝5時半におきて、6時半ごろ狭山市をでて、8時の列車に乗り込み、いわき市へ。その後、5台のバスに分乗して、視察した。視察に関しては、報告書にまとめたので、それをアップしたい。

福島県いわき市視察を参考にしてください。読みようによっては、申し訳ないような表現もあるかもしれませんが、何しろ心が痛んで、それでいて放射能の怖さと言うのが実感できて、言葉や思いが少し乱れています。住民の方々は本当に大変だと思いながら帰ってきました。福島のお酒を友達と列車の中で痛飲して、帰りは少し酔ってしまいました。何も出来ない無力さに、本当に気持ちがふさがりました。
 23日(火) 今日は第9回全国地方議会交流会2日目。TPP部会に出席。TPPを導入すると日本は本当に関税自主権を失い、アメリカの言いなりになる。それでいいのか。内国人待遇というのが曲者で、日本が日本の産業のための保護政策が取れなくなる。それをして、アメリカなどに告訴されれば日本は負けると言う。ばかばかしくて話にもならない。議会そのもの以上に、条約がものを言うことになる。こんな条約を結ぶのはマゾ以外にいない。なぜ、自分の主権を手放すようなことをするのか。

農業だけの問題じゃない。これは、24項目の完全自由化を目指している。関税もない障壁もない貿易、国交なのである。アメリカの主導でアメリカルールを受け入れますと言う宣言でもある。日本の農業がつぶれるだけじゃない。日本の産業空洞化もますます進み、その上、金融の自由化で日本人の貯蓄がアメリカに密がされる。アメリカン生命保険は合法的に日本人の金をアメリカの保険会社が持っていったと言うことである。簡保もアメリカはほしいのだろうし、円高でアメリカドルを40兆円も買って、アメリカにお金を貢いでいる。もう、腹が煮えくり返る。

午後は全大会に出て帰ってきた。基調講演は福島県漁業協同組合連合会の会長さのお話。涙が出た。以下、MIXIに書いたものを貼り付ける。

今日は勉強会。

福島県の漁業協同組合連合会の会長さんのお話を聞いた。
1時間ほどの講演だった。

その中での話し。
福島のある港の話だった。
3月11日2時46分に地震が起きた。
昔からの言い伝えで船さえあれば、後で家族が守れると、
猟師たちは地震後勇んで船を沖にだした。
そして1日たって港に戻ってきた。

そこで見たものは、自分が守るべき、子供が妻が親がいなくなった瓦礫の町だった。
本当に守るべきものを捨てて、沖にでた男たちの慟哭・・・
何のために船を持ち出したのか・・・

昨日の胸の痛んだ報告のひとつは、
浪江町の13日の避難。
原子炉の爆発後6000人が逃げた。
3日間水とおにぎりでひたすら爆発が静まるのを待った。
後でspeediで、一番放射能が高いところだと知った。
文科省は知っていて、福島県はそれを受けたが、
避難民に教えることがなかった・・・
子供も幼児も妊娠中の女性もいた。
逃げたのに、その場所が最悪の場所だとは、
においもしない色もない放射能。
なぜなぜ、知っているのにおしえてくれなかったのだ。

理由は、文科省が発表していないものを、福島県が言っていいのかと黙っていたそうだ。。

もう、何を大切に何の誰のために行政があるのかわかっていない。
劣化したガバナンス。硬直しきった役人。

 22日(月) 午前中全員協議会。午後は急いで日暮里のホテルへ。第9回全国地方議員交流会へ。第1日は前福島県知事の佐藤栄佐久さんの講演。その後、福島県農協、福島県議員、沖縄嘉手納騒音訴訟原告団、全国医師会のかたがたの報告があった。福島県の状況は目を覆うばかり。沖縄の状況もどうにか出来たらいいと思うだけ。全国医師会の言うTPPが全面的に日本が批准したら、日本派アメリカのような格差社会になってしまい、国民皆保険制度は崩壊するだろう。本当に、アメリカみたいな白人優位社会はいやだわ。

こういう会に来ると市川房枝記念会で学んだ人たちに会う。結局、同じ方向を向いているからだと思う。

どれもこれもとても中身が濃かった。名詞交換会は失礼して帰ってきたが、やはり8時過ぎに狭山市に着いた。 
 21日(日) 今日は午前中はいのちの樹教会で礼拝。鯉渕牧師が来て説教を行った。この教会の2番目の牧師で(現在は4番目) 私は彼から先例を受けたのだ。よい説教。それと楽しい愛餐会。たくさんおいしいものをいただいた。

午後はその足でサピオに行き、トレーニング。太り始めて体が重い。

夜はゆっくりした。根堀の灯篭に行くのを忘れてしまった。去年行った時は美しかったのに。。。
 20日(土) 今日は、午前中家事。午後は決算書を読んだ。

夜は珍しく夫とともに入間の湯へ。あかすりもした。のんびりといいたいが、ぼおっとお風呂に浸かっていると、通告した一般質問のことが頭に浮かんで仕事を考えてしまう。24時間365日市議会議員をしておりますよ。
 19日(金) 今日は午前中に一般質問の通告をした。6番目だそうだ。早々、この前の市街地の課税面積が増えたというのは、間違いであったというのがわかった。計算ミスがあったようである。我ながら天晴れだと思うが、毎年どこかのミスを私が訂正しているように思う。私のような節穴の目に見つけられるミスは大きなミスなのだろうから、小さなミスがたくさん決算書や行政報告書に書いてあるのかもしれない。しっかり読んでチェックしなければならない。がんばろう。

それにしてもですね。執行部さん。私に毎年指摘されてから直すというのはいかがなものでしょうかね。少しは恥ずかしいでしょう。それもたいていは総務部・税金関係。単純なミスだろうからあまり怒らないけれど、こんなことが続くと市民への課税で間違いを続けているんじゃないかと不安に思うんですから、しっかりしてくださいよ。見ていますか、職員。そもそも、総務部長が見つけてもよいようなことだった。何しろ、行政報告書の2ページですからね、今回のミスは。部長もしっかりしてくださいよ。

素朴な疑問は大切だと思った。専門家は数字を見るとそのまま信じてしまうんだろうなあ。その点、素朴に矛盾を感じるとそっちのほうが正しかったりする。アンテナを高くしておこう。いや、知識があると、なんとなく変なところが感じられるようになるのかなあ。

いろいろなところを回って帰ってきた。通告を終わったが、「今回は少ないですね」などといわれている。まあ、そうかな。

夜は、狭山環境ネットの役員会に顔を出し、その後で国際交流協会のワージントン部会に出席。忙しすぎて、もう他の会合に顔を出せない。帰宅は10時半。
 18日(木)  今日は朝10時から入間市立クロス保育所の視察。結論を抽象的にだが報告書にかいた。コピーする。

お互いが後ろ向きだったり、率直に物を言える体制を作り上げなければ、単に指定管理者制度を導入しても、よい保育にはならない。これをどうにかせねば、子どもたちのために指定管理者制度を導入してはならない。

古い市立保育園。委託から始まり、今は指定管理者だが23年も同じところが行っていた。私は長年の指定管理では結局責任の所在がわかりにくくなるように思う。あまりころころ指定管理者が変わるのは皆いけないことのように言うが、やはりきちんとプレゼンテーションをして、よりよい指定管理者を選ぶシステムを堅持するべきであると思った。それと意思の疎通。モニターするほうが保育者でなく事務官だと意思の疎通がうまく行かない。この点をしっかり認識しておくべきだと思う。考えるところがたくさんある入間市の指定管理制度だった。

午後、感じたことをそのまま報告書にまとめて、提出のために役所に行った。さて、来週は忙しすぎるので、この日から一般質問の通告ができるので、そのために原稿を書いた。書き上げたら5時を過ぎていたので、出せなかった。

一般質問の内容は、保育所、とくに祇園保育所の問題を真正面から捉えようと思う。いくつか勉強会や視察もして、自分の考えもまとまったところではあるので、整理してみる。指定管理制度についても、今回久しぶりに質問する。制度の改正もあってよいと思うからだ。多様な指定管理者を選ぶにあたり、同一の選定制度でいいのか、また契約内容がどうなっているのかもきちんと調べなければならない。

するべきことはたくさんあるが、実際放射能に関してもう一度しようかとも思ったが、私だけでなく他の人にもしてもらわなければならないし、又、するだろうと思い、今回はしないことにする。
17日(水) 今日も午前中は家事に明け暮れた。午前中に上の息子が長野に行った。したの息子をピックアップしてから、直江津に祖父母に会いにいったのだ。お茶を渡したが、そのほかにお土産を買っていくようだ。

私は午後から役所に行き、決算書を受け取りに行った。行政報告書の2ページを見たら、市街地の税収面積が増えていて、理解できなかった。それで、資産税課に行ってたずねたが、回答不能というので宿題にして帰ってきた。

ところで、今までは議案書も決算者も持ってきてくれたりもしたが、だんだん議会事務局はサービスを変えてしまった。手紙をファックスにした。ファックスをメールで流すということもしてみたが、読みにくいので私はファックスにしている。2人の職員を半日かけて決算書類を議員に配布するよりも、22人の議員に受け取りに来させるほうがよいというが、時間のことを考えれば、なんと無駄な事とも思う。議員は報酬をもらっていはいるが2足のわらじをはいている人もいる。今後そういう人も多くなるかもしれないけれど、議会事務局のサービス低下で無理になることもあるだろうなあ。なんだかなあ。昔は議員が威張っているのかと思ったときもあったが、フルタイムの議員だけでないし、昔は役職を多く抱えたので、議会事務局がサービスをよくしなければ議員は忙しすぎたのだろう。そう思う。私はあまり肩書きはないけれど、忙しい。

議会に行ったついでに、役所のあちこちによって決算の勉強会のスケジュールを立てた。久しぶりに役所に行ったせいもあり、なんとなく旧友に会うような思いだった。(それは私がそう思っただけかもしれない。)

夜、家に寄らずに直接ビラティスへ。運動が本当につらくなってしまう。急いで帰って、遅い食事。
16日(火) 今日はスケジュールをあけておいてよかった。何しろ、洗濯物がたくさんあった。お手伝いさんも今週は夏休みだから、10キロの洗濯機を何べんも回し、4日分の洗濯をした。シーツや夏がけも持ってきたから、そのお洗濯も大変。

息子たちは珍しく休みを取って家にいた。そのためにご飯も作ってやらねばならなくて、なんだか家事だけで一日が終わってしまった。佐久からたくさん野菜を買ってきたので、いろんな料理を作ったのだけれど、食べるのは私と夫・・・

何しろ昨日まで涼しいところにいたので、暑くて暑くておかしくなりそうである。夜に夫や息子とカード遊びをした。その後、末の息子は長野に帰った。少し高速代をカンパした。足りないところは国道を使うそうだ。学生は時間がたくさんあるなあ。
15日(月) 今日はのんびりと別荘生活。午前中はひたすら本を読んだ。とても涼しくて扇風機もいらない。帰りたくないねえといいながらも、お昼過ぎるともう帰る用意を始めた。お掃除をしないと次にくる時が大変で、娘と二人でクイックルワイパーを2階も一階もかけた。何しろ広いから大変。でも、家具がないから楽といえば楽。家具はダイニングテーブルとカウチしかないのだから。

その後、ありんこ退治。家をきっと食べているんじゃないかと思う。黒い蟻だが、家の土台のほうへ行くのだ。私たちは昨日農協であり退治の薬を買ってきたので、夫がスプレイをした。もう、かわいらしい道具ではなく、まるで農具のようなものを使い始めた。自然との闘いはとても大変なのである。

ひどく汗をかいたので、久しぶりに穂のかの湯へ行った。日のあるうちにお風呂に浸っていると、幸福感にあふれてしまう。350円の公衆お風呂でこんなにうれしい思いをするなんて、庶民はなんてささやかな生き物だろう。

夕方家を出て、スーパーでお弁当を買って、教会の庭へ。そこで花火を見た。9時半まで続いて、立派な花火だった。涼しく湿気のない佐久を10時過ぎ、いやいやながら出発した。帰ってきて狭山の自宅へ着いたが、ムシムシ暑くてたまらない。本当に夏は信州のほうがいいなあ。
14日(日) 今日は昨晩眠られなかったのにもかかわらず、8時には目が覚め、4時間も寝ていない。朝から疲れていてどうすると思うが、体がだるい。午前中に礼拝。野沢福音教会において。終戦記念日を明日に控えて、日本キリスト教会の戦時中の行いに関しての反省について。侵略戦争に加担した教会の反省はなんと50年かかったということ。それでも、反省していない長老もいるという。

政治と宗教は切っても切れないなあ。宗教は政治に翻弄されている。それは昔も今も。だからこそ、日本のキリスト者は政治に斜の構えのひとが多い。それはある意味逃避だと思うけれど。

午後はお昼を杏子亭で食べた後、JA浅間に行き、取立て野菜をどっさり買い込んできた。安いし新鮮というのがよい。これからはもっと行くことにしよう。ありの駆除剤も買ってきた。

帰ってきて4時ごろからひどい雷雨になった。停電になり、雨脚は線のように見える。2時間ほどバケツをさかさまにするような降り方だった。夏山の通り雨は怖いなあ。狭山に電話をしたら、暑いそうで雨なども降っていないそうだ。夫は、ベランダで本を読みながら、雨が降るのを眺めていた。私は、コンピューターの電源を落したらすることがなくなり、やっと眠くなって1時間ほど昼ね。

今、どこかで花火の音が聞こえるというので、夫と娘は車で出かけた。私は電気が帰ってきたので、この2週間の日記を書いている。
13日(土) 今日は珍しく観光に行った。いつもは雑草刈りばかりで、別荘に来ても観光などに出かけたことがなかった。それではいけないと、今回は八千穂高原に行き、あちこち散策した。5時近くまで歩いたので、疲れ果てた。遠くで雷鳴が聞こえ、怖くなったので、買えることにした。

帰りに松原湖に出て、リエックスの星空の湯につかり、汗を流して帰ってきた。途中で本屋に行き、「のだめ」の25巻を買って帰ってきた。どうしても本屋に行くと何かしら買いたくなる。「ノダメ」の新刊はブックオフにはおいてないので、仕方なく新しい本を買ったということ。夜中、コーヒーを飲みすぎたのか眠れなくなり、2時半ごろ起き上がって、新刊の「ノダメ」を読んでしまった。楽しかった。
12日(金) 今日は朝から夏休みのための準備。夫の休みが今日からだから、午後には別荘に出発の予定である。途中で夫の車のバッテリーが上がったとかで、急遽助けに行ったりと、壊れたコンピューターを直すために上新電機に行ったり、忙しかった。結局家を出たのはなんと4時過ぎていた。今回は娘も同行。

佐久に着いたら、寒かった。埼玉は朝からエアコンをつけたいのを我慢していたのに、別荘はまるで別天地。なんと朝夕は22度だそうだ。着くなりもう帰りたくないと3人で言い合った。
11日(木) 今日は朝から報告書を書こうと思ったが、何しろコンピュターが故障中。古いコンピューターを起動させて頑張ってみたが、勝手がうまく行かない。。それに、本当に疲れてしまっている。昼寝なんかしてしまった。

夜は珍しく、サピオへ。足腰が弱っているというか、視察で駅の階段の上り下りが苦痛になってきている。鍛えなければならない。
10日(水) 今日は北区の滝の川西保育所に指定管理者と病後児保育について視察をさせていただいた。ここも課長さんまで来ていただき、親切だった。狭山市も視察の議員が来る際には丁重に対応してほしい。学ぶ点は、指定管理者はサービスの向上にはとてもよいということだった。指定管理料は大幅に下げるというわけには行かないが、人事費などをトータルに考えれば少しは割安かもしれない。何しろ駅の近くだから、夜9時までの延長保育をしているというのには、驚きました。需要があるのね。

31園中8園が指定管理者で、まだまだ続けるそうである。複合施設の中にある保育所は難しい部分もあるというはなしもあった。100万円までの修理を支店管理者に任せるように指定管理料を設定してあるようで、空調などは指定管理者が入れ替えたので、時間的に速く入れ替えることができたとか。狭山市は50万円までなので、その点いろんな違いが出てくるようだ。

病後児保育に関しては、病児保育のほうが需要があるということで、新設を考えているようであった。1日2000円という保育料又昼食代500円では骨折の子どもなどは2,3週間になるかもしれないから、大変な出費だ。その上、通常の保育料金も払うとしたら、2重取りといわれるのもむりないかなあ。考えるところ大だった。

医師会とのことは、うまく行ったという。様々な利権が医師会と市の間にあって、持ちつ持たれつ大変なのである。狭山市もうまく行くといいなあ。問題は、山ほどあるが、それは報告書に書くことにする。

そういえば、この保育所は埼京線の板橋駅の近くにあった。近くに飲み屋さんが多いようなところで、都会の保育所は大変だと思った。もうひとつ、駅前に新撰組の近藤サンのお墓があった。立派なお墓だった。首を落されたんだなあと思った。勝海舟が山梨で死場を作ってあげたのに、八王子で飲んでいて戦争に間に合わず、遁走してきたんじゃなかったかな。そして、偽名で殺されたのではなかったか。幕末のテロはどれもこれも凄惨を極める。どっちにしても、よい気持ちを持たずに墓参した。

今回も人身事故。最近自殺が多くないか?日本の何かが狂ってきていないか。帰りが遅くなった。7時過ぎ、ピラティス。久しぶりの運動。若い人についていくのも大変になってきた。帰りにヤオコーによって、買い物。
9日(火) 今日は県庁に友達と3人でグループホームの設立について伺いに出かけた。懇切丁寧に説明してくれて感謝した。11時にでかけ、昼食を県庁でして、1時半からの約束だったが、NPOについても伺ったので、なんと役所を出たのが5時をすぎ、帰ってきたら7時近かった。一日仕事だった。説明は聞いたものの、私自身は設立を本格化するためにまだまだ覚悟が決まっていない。

息子が信州から戻ってきた。
8日(月) 今日は休み。もう、体がストライキを起こしていたが、膨大なめーるやMIXI、ツイッターのチェックに4時ごろまでかかった。そのご、夕方視察の打ち合わせに役所に行った。水曜日に北区に視察に行く。その後買い物して帰ってきた。

夜コンピューターを使おうとしたら、なんとコンピューターが立ち上がらない。4時ごろまで私はメールのチェックやら、ツイッターなどをしていたのに、そのときはなんともなかった。それなのに、いったいどうしたわけだ。情けないが、仕方なく仕事を放棄。ビールを飲んだ。私はコンピューターなしに生きていられない。旅行も重い荷物を抱えていくのは、大半はコンピューターを入れているからなのだ。
7日(日) 今日は、昼から渋谷で友達の娘さんの結婚披露宴(実は結婚の際にしなかったから、1周年記念)。生まれて初めて、渋谷の円山町に足を踏み入れた。いやはや、東電OL殺人事件の現場の近くかと思うと昼日中だがあまりいい気持ちはしなかった。連れ込み宿のようなところがあり、よい意味で社会勉強になった。こんなときでもなければ、渋谷の円山町に足を踏み入れることはありえないし、道玄坂の一本は行ったところに、こんな場末のところがあったとは夢にも思わなかった。

2次会のカラオケも付き合い、最後に尾崎のクロスタワーに行き、写真を撮った。帰りの電車は池袋線は落雷のために停電し運休。新宿線は人身事故でおくれていた。まあ、日曜日なのにラッシュアワーのような状態で狭山市に帰ってきた。七夕の最後の状況を見ようとしたが、すごい夕立で人が帰ってしまったとかで、9時前なのに閑散としていた。

この1週間忙しかったなあ。
6日(土) おきたら息子が頭が痛いという。彼は偏頭痛もあるし、時にバッファリンすら効かない。本当は彼は私を佐久駅で新幹線に乗せ、一人で帰るという手はずだったが、仕方がない私が運転して長野まで送り、長野から私は新幹線で大宮へ。2時半ごろの電車に乗ったら、狭山市に5時過ぎに着いた。まあ、早いこと。

なぜ、6日に狭山市に戻ってきたかというと、七夕祭りがあるせいである。まあ、暑い中すごい人の数。いつも以上の人出に感じた。あちこちで知っている人にあい、楽しかった。あんまり人出が多いので、帰りの歩道橋・自由通路の安全がとても心配だった。陣頭指揮を執っている商工課長・次長の山崎さんがとても痩せてしまい少し心配した。責任感が強い人だから、顔つきもりりしかった。一週間前に小野沢さんが逝ってしまったので、心の負担も大きかっただろうと思う。だって、この2人は長いこと一緒に商工課で仕事をした中であるもの。は~~。やはり、つらいときは忙しいことはいいことかもしれない。

夫とも出会い、夜店も一緒にのぞき、花火も一緒に見て帰ってきた。関東3大七夕のひとつだそうだ。長岡の花火を見てきた私にはたった20分の花火は貧弱にみえたなあ。もっとゆっくり打ち上げてもいいから、1時間か1時間半ぐらい花火を打ち上げてほしい。長岡のように有料座席を作ってもいいかもしれないと思う。少し収入を得れば、後何発か上げられるでしょ。何しろ、3大七夕というのであれば、ちょっとはお金をかけてもいいじゃない?そして、入間川の祭りって言わず、狭山市のお祭りというか、フェスティバルにすればいい。だって、狭山市には市全体のイベントがほとんどない。市の一体感を市制50年たっても感じられないときが往々にしてある。

花火の市からの補助金は、安全の確保に多く使われるようになった昨今減ってしまっているらしい。ざんねんだわ。本当に。
5日(金) 直江津から長野へ。まあ、忙しくすごしている。午後からは信州大学工学部の後援会の総会に出席。その後の懇親会で就職のこと、卒研のことなどを聞いた。5時半ごろ息子のアパートへ。息子は7時半からバイトの家庭教師があるとかで、夕食を一緒に食べた後に、私は長野市のメインストリートを歩いた。善光寺の近くに前いのちの樹教会の牧師がいる教会があるというので探しながら出かけたのだが、分からず結局電話をした。途中で、携帯の電源がなくなって、途方にくれたが、公衆電話を見つけて電話連絡できた。

迎えに来ていただいて、その教会へ。いろいろな話を30分ぐらいして帰ってきた。9時を過ぎていたので、タクシーで。

少ししたら、息子が帰ってきて、息子の車で佐久の別荘に来た。1時間ほどで、ついた。長野も暑かったが、佐久はとても涼しくてすごしやすい。別荘で一泊。
4日(木) 朝、食事をいただいてのち、従兄弟のところに電話をした。100歳になる叔母さんが長岡にいるということだったので、会おうと思ったのだ。100歳だから、もうこれでお別れかもしれないので、会う予定はなかったが、会うことにした。幸い、友達の家から車で5分のところだったので、送ってもらった。

叔母さんはぼけることなく、いろいろ話をした。従兄弟だってもう80歳近い。この従兄弟と叔母さんが茨城の水戸から長岡に疎開していたのに長岡の空襲で焼け出され、叔父さんは水戸の空襲で死んでしまい、長崎に行った人たちである。6人姉妹のうち、1人美津子ちゃんだけを養女にだして、長岡に結局引き上げてきたのだが、その美津子ちゃんは白血病で40歳台で死んだ。残りの5人中2人は癌と貧血病にかかっている。おばさんは母子家庭で苦労に苦労を重ねたのだ。いまだかって、本当の意味で居場所がない。ただ、死んだ叔父さんの恩給や自分の年金があるので、100歳になってもお金に苦労していないのが、幸いである。

叔母さんに会ってタクシーで長岡駅へ。ちょうど特急電車があったので、直江津に。毎日、電車で移動している。父が駅に迎えに来ていた。上越市も年々変わっている。区画整理事業の終わった直江津駅周辺の変化は目を見張る。母も元気そうでなりより。実は甥の子どもが生まれたので祝儀をと思っていたが、まだ父母が赤ちゃんを見ていないので出していないというので、私も出しそびれた。

本当は病院に赤ちゃんを見に行きたいといっていたのだけれど、なんと赤ん坊は3000グラムを突破し、おっぱいも吸えるようになったとかで、今日退院した。そして、お嫁さんの実家に行ったので、赤ちゃんに会えずじまい。残念だわね。見たかった。写真を見たらとても可愛くてよかった。

夕方、父と買い物へ。ジェレマイアに米を買ってやろうとしたら、父がお金を払ってくれて、ついでに宅配してもらうために箱にいろいろ買ってつめて、送った。ありがとうお父さん。父もぼけていないし、母も頑固なままだし。直江津は商売していて大変だろうが、頑張ってほしいとただただ願っている。
3日(水) 朝10時過ぎの新幹線で長岡に行った。幼馴染が迎えに来てくれて、中島までタクシーで。中島というのは私が中学1年生まで住んでいた場所である。街を歩いたら、なじみの名前が表札にあって、長岡の下町は代わりがない。従兄弟も住んでいて、叔父さんと叔母さんの仏壇にお茶を供えた。私はクリスチャンなのでおまいりはしない。しかし、仏壇の前で写真を見ていたら、なんだか叔父さんや叔母さんが亡くなったなんて信じられない気持ちのほうが大きい。50年前に気持ちがタイムスリップしたような感じだったのだ。

従兄弟に案内されて、昔の公園に行った。ジャングルジムが昔と同じところにあり、ブランコもそのままだった。「箱型ブランコが無くなったね」なんて話をした。昔、お菓子を買ったお店がなくなっていたし、小さなころから一人で行かされた赤十字病院が移転してなかった。道を隔てるとまるでよその町のような気がしたのに、今歩くとほんの狭いところだった。でも、そこだけ50年前の思い出の土地で懐かしかった。昔に戻りたいようなセンチメンタルな思いだった。特に幼馴染と友達のことを話しながら歩いたこともその1因。

お昼ごろ、今度は又別な幼馴染と会うことになり、昔ながらの喫茶店(洋食も出す)で延々3時間近くしゃべりこんでしまった。皆で昔の話をしていると、自分では忘れたこともあって、思い出すととても懐かしかった。皆ふけた。皆還暦を越してしまった。長岡の町の真ん中に住んでいた私たち。駅から歩いて15分。今は20万人どころでない大都市だ。驚くなかれ、寺泊(海)まで長岡市だそうだ。長岡なんていうと山古志村ばかり有名になってしまっているが、あんな山の中に私たち町の子は行ったことすらないのである。とにかく、狭山市よりも都会だわよ、町の規模としてはね。しかし、駅前の洗練さは狭山市が最近開発しただけにカッコ良いかもしれないが。

友達のお姉さんの車でお姉さん宅へ。また、またおしゃべり。だってそのお姉さんだって、幼友達なのである。5時半ごろ車で信濃川の土手まで送ってもらった。最近は有料席で見るのだそうで、その有料席も2時間も並ばなければ買えないということであった。本当にびっくりするような時代の変遷だ。昔は家の2階からみえて、桃やらスイカやらをたべたり、お祭りだから田舎からお客さんが来て、お刺身を取ったりと土手なんかに行かなかったと思う。何しろ、私は長岡の下町育ちですから。(長岡は戊辰戦争で丸焼けになり、空襲で焦土と化し、実際はどこが昔の武家屋敷かなんてわからない。かろうじて、寺町だの渡町だの、殿町や大手町などという町名が残っているが、それだけのこと。勿論大手町のこの付近にお城があったといわれているところはある。)

長岡の花火は進化したのだと思う。3尺玉が小さく見えた。すなわち、超大スターマインの超振りがすごかった。5箇所からいっせいに打ち上げられるのだ。尺玉が5個つながっるともう迫力満点。それに、休む暇なく打ち上げられるというのもすごかった。どれもこれもスポンサーが着いていて、長岡高校還暦を祝してとか、長岡商業高校の40歳になる年度の同窓会などというのがあった。まあ、商業主義的になっていて、大型のものは40社が協賛とか、JTBなどの旅行会社が協賛しているものもあった。日本3大花火ともなると、すごいわね。

私と友達は枝豆を片手にビールを飲みながら、東日本震災の慰霊と勿論長岡空襲の慰霊の気持ちを忘れずに、(はじめに黙祷があった。)最後まで楽しんだ。帰りは歩いて帰ってきたが、あそこらに私たちが行った保育所があり、友達もいたなあなどとしゃべりながら帰ってきた。日ごろ訓練はしているが、早歩きで40分も歩いたら、ちょっと足がつってしまった。夜中、またまた喋り捲り、3時半就寝。
2日(火) 今日は叔母のところでゆっくりした。弟が妻と私に会いにきてくれた。お昼をはさんで3時間もあれやこれや親戚の噂話やら近況やら。甥も姪も元気そうだが、下の子どもたちも中学生になったそうで、将来が楽しみだ。

3時過ぎから、新潟のブックオフ回り。古町にあったブックオフがなくなったと叔父さんに言ったら、コンピューターで新潟市にあるブックオフを調べ、連れて行ってくれたというわけ。親切でしょう。私はブックオフが大好きだから、うれしかった。

夕食は新潟のものでいっぱい。私は丸ナスの蒸かしたのを冷やして食べるのが大好き。また、体に悪いと分かっているのだが、新潟の枝豆は世界で一番おいしいのではないかと思う。ご飯がまたおいしいでしょ。鮭を焼いてくれて、ぶりの刺身もあり、なすの漬物もおいしく、叔母さんのお料理は何べんも言うが、下手な料理屋のものよりもずっとおいしい。

楽しいことをしていると、1日があっという間に過ぎた。珍しくデパートにも行かなかった。
1日(月) 今日は朝10時から市川房枝記念会の政策運営委員会が開かれた。次の講座を決めた。女性による基調講演を望むのだが、どうしてこうも人材が少ないのだろうか。困ったものである。3案ほど考えた。なんと昼をはさんで5時ごろまで。

私は5時過ぎに急いで東京駅へ。新幹線で新潟へ。なんと2時間ほどで新潟に着いた。叔母が喜んで待っていてくれた。88歳になるが、ちっともぼけていないし、あちこち痛いといいながらも、夜中まで話し込んでしまった。新潟も暑い。
 7月 私の独り言2011 
31日(日)   今日は朝礼拝。買い物をして帰ってから、いくつか電話をかけた。小野沢さんのことで、私は8月1日の通夜のために、切符をキャンセルしようかと思ったのだが、新潟で待っている人たちがすでに私のために用意をしていてくれるので、旅をキャンセルできなかった。それで、最後のお別れをできるかと思ったが、かなわなかった。心がとても空しくて、悲しいという言葉では表現できない。こんな時は、忙しくしているに限る。

明日からいないから、買い込んだものでいろいろ作って冷蔵庫に入れた。通夜じゃないけれど、夜にビールを飲んだ。酔ったら、本当に悲しくなっていろいろ思い出してしまった。
30日(土)   今日は、朝から忙しく家事に励んだ。午後からはJTBに行き8月1日から新潟へ行くので周遊券を買った。その後、お土産のお茶やお菓子を買った。夏の水菓子は、わざわざ駅に行って、和菓子を買った。狭山市駅西口に開店してくれたのに、お客が来ないで閉められては困る。日ごろは、かに屋さんで買うのだが今回は駅に出店してくれた和菓子やで買った。これも駅前の繁盛のためには仕方がない。残念である地元のお菓子屋が駅前になくなってしまったのは。

夕方帰ってきて、食事をした後にFAXを見て、大変動揺した。だって商工課の小野沢さんがなくなったという知らせだったからである。先週だって役所で挨拶した。彼は若者のための就労支援を頑張ってくれていて、ニートの問題や労働相談のことなど積極的に行ってくれていた。この何年間かは、私がしている青少年問題に果敢に取り組んでいてくれただけに、私は彼を信頼し、少しでも青年の就労支援が進んでいた事に同志のような気持ちすらあった。

議会事務局のFAXは紋切り型だから、なぜなくなったのか分からず本当に動揺した。土曜日で夜分、泣くに泣けずにつらかった。
29日(金)  今日は9時半過ぎに電波工業株式会社の環境対策の見学会があるというので、私も参加した。電波工業は一度も視察した事が無かったので、とても興味深い見学会だった。少しのレクチャーと工場見学。とてもきれいで、これが工場化と思うようなところである。ごみの分別がしっかりしてあり、ゴミゼロミッションを実践し、リサイクル率99.9%とは驚く。節電もされていて、所々にLEDが使われていたし、小さなソーラー発電もあり、電力を使いすぎるのをやめるために、3台も発電機を用意し、また3台も購入予定だそうだ。とにかく、人口水晶や其の製品については世界のツイヅイを許さないほどの会社だそうで、儲かっているんですね。きちんとしてた。

お昼過ぎに戻ってきて、ほっとした。其れから、遅い昼食を取った。なんだか、本当にいそがしくて・・・

夜になって久しぶりにサピオへ。汗をかくと気持ちがいいわ。

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